第二章 救いの道−その完成について
実は、神による救いは、神の偉大な愛を知っただけでは、自分のものにはならないのです。
愛に感動すると、愛してくださるお方の考えや求めに反応したくなるのが当然の動きであります。
神さまは、前項のように、制限なしの愛なるお方であられますが、救いの道については、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない」(マタイ福音書七章一三節)とおっしゃるのです。
「狭い門」については、ルカ福音書一八章一八節から二七節を読むとよく分かります。
また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか。」イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである、
『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え』」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからである。イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」とありますが、らくだが針の穴を通ることなんてできるはずがありませんね。
そのとおりです。高慢な人間が救われることはありえない、不可能です、といっているわけであります。
もうひとつの解釈は、当時、エルサレムに入るためには、大門でなく、「針の穴」とよばれている狭い門があって、らくだで旅をしてきた人々は、らくだから荷物を全部おろして、ハイハイするように謙遜にくぐるのでなければ、中に入ることはむずかしい、ということを表しているようです。
いずれにしても、救いの世界に入るには、むずかしい。しかし、結論は「人にはできない事も、神にはできる」であります。
らくだから荷物をおろしてというのは、とても深い意味があります。天国に入るためには、人間の背負って来た「罪」をおろして、謙遜にならないと入れませんよ、と言う訳です。
人間は努力して何かをやり、重荷をかつぐことによって、人格がつくられるという世界があります。クリスチャンになることは、このような努力を否定して、怠け者になることではありません。クリスチャンになってからの方が、人間的に努力することも、神の力によって出来るのです。そのような世界を逃げてはいけません。
しかし、かつぎつづけると人間を駄目にするものもあります。それが「罪」です。これは、負い続けると人間をメチャメチャに破壊します。これから逃げられる人は、ひとりもいません。
聖書は「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ロマ書六章二三節)とあります。
罪をもったままでは、永遠の滅び、地獄行きだというのです。聖書は白黒ハッキリつけるところがあります。それは人類にとってありがたいことでもあります。
罪をおろすなら、キリストが引き受けてくださるというのです。
これを「悔い改め」といいます。罪を感じたら、おわびすることが当たり前です。時々、罪の分からない人がいますが、「神のみ言葉ひとつでも実践しようとしたら、すぐ自分が罪人であることが分かります」と三浦綾子さんが語っています。
罪について知りたい人は、聖書にいっぱい書いてあります。
罪とは、神を信じないことであります。愛をもって接してくださるお方を、疑って、信じ受け入れなければ、それは恐ろしい罪です。
人間は、神に背を向けて、恐ろしい罪を犯し続けてきました。知らないとはいえ、恥ずかしい、ゆるされがたい罪の世界であります。
自己中心も罪です。わがままも罪です。愛を裏切ることも罪です。結婚した相手以外と性的関係を持つことも、不倫も浮気も、罪です。親不孝も罪です。万引きも、キセルも罪です。勿論、カンニングも罪です。偶像礼拝も罪です。榎本保郎師は「今日のキリスト教の大きな問題は、罪のもだえがないこと。自分の罪に対するもだえがないから、ゆるされた喜びもない。罪に対する知識はあっても、意識がない。ああ、そうですか位の罪人だという」と語っておられました。
さて、私は、あなたの罪を指摘し、せめるために書いているのではありません。あなたが罪を自覚され、謙遜に「ごめんなさい」と悔い改めされることを心から願っての発言です。
私は十三才の時に、この悔い改めというのをやりました。自分の罪が分かり、苦しんで、涙を流して、ひとつひとつの罪を告白して、ゆるしていただきました。あの日のことを、きのうのことのように想い起こすことができます。罪をゆるしていただいた喜びは、今も興奮して語り出したいぐらいすばらしいものでした。それは、何と五十代になった今日でも消えません。それどころか、罪人であることが増々分かり、それと同時に、ゆるされる恵みの世界も深められて来ました。
「オレは、救われたんだー!!」
「私は、ゆるされているんだ」
と日本中に叫んで廻りたい思いです。
この感動をもって牧師になりました。
この喜びを伝えるためには、何でもします、と神さまにお約束して四十年余も過ぎました。
私は本当に幸せです。
私は失敗だらけの、いいかげんな、ハンパ人間でありますが、イエスさまの愛をいっぱい受けて生きて来た人生のすばらしさを証言します。
やがて、私も死にます。その日を待っています。少しも恐ろしくも、不安もありません。それより、その日が楽しみです。この地上で体をはって、命をかけて歩み続け、「そこまで」と声をかけていただいて、天国へと連れていってくださるとは、ありがたくて、ありがたくて、泣けて来ます。
今も、この原稿を書きながら、感謝でいっぱいです。興奮して、胸を熱くしております。
クリスチャンになることは、狭い門から入らなければならないのですが、少しもむずかしいことではありません。神さまが助けてくださいますから、誰にでもできます。
素直になって、次の祈りの言葉を、声に出して、読んでください。
愛する神さま。あなたのご愛を感謝します。私は罪人です。私の罪をゆるしてください。イエスさまは、私の罪のために、十字架にかかって、死んでくださったことを、信じます。
私は、今、イエスさまを、私の罪からの救い主として、人生の主として、心の中心にお迎えします。信じます。愛します。従います。
イエスさまのお名前によって、お祈り致します。アーメン
あなたは、この祈りの言葉を声を出して読まれましたか。もし、黙読されただけでしたら、もう一度もどって、声に出して祈ってください。心からお願いします。
聖書には、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、
人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ロマ書一〇章九節、一〇節)とありますから、あなたが、この祈りを真心込めて、声に出して祈られたのでしたら、今救われました。
おめでとうございます。あなたは救われました。永遠の命をいただきましたから、もういつ死んでも、天国行きです。死を恐ろしく考えたり、不安がることも不要です。その命をもって、主と人とに仕えてください。
罪ゆるされただけではなくて、神の子とされましたので、感謝して、感謝して、毎日をお過ごしくださるように、神さまの豊かな祝福をお祈り致します。アーメン。
calvarychapel@japan.email.ne.jp