石の枕
ゆるせない 曽野綾子の新作「悲しくて明るい場所」は、優しさと辛口の心のエッセイ。
第一章で、ご自分の父親について語っている。
私の記憶にある父は、少し自分の気に入らないことがあると、すぐに母をいじめていた。些細なことも少しも許さなかった。今日は何時までに帰ります、と言ったことが三十分遅れても、取れていたボタンを一つ母がつけ忘れても、伯父が会社の仕事上のことで父と約束したことが果たされなくても父はすべて母に文句を言った。
それは、しばしば夜半過ぎまで続いた。私は眠れなかった。当時私たちが住んでいたような家は、つまり、木と紙でできていた家である。夫婦ゲンカの声は、当然隣の家にも筒抜けであろう。まだ幼稚園だった私は、既にそのことを恥じていた。
父はそれでも自分の心が納まらなくなると、暴力も振るった。母を殴り、母の着物を裂いた。眼の前の食卓にあるものすべてをひっくり返した。
父がいる限り、家は休まる所ではなかった。母が殴られる時、私は泣きながら止めに入り、私もひどく殴られた。私の顔はそのためはれ上がったり青アザになったりしたので……。
私の友人が後年、私に「あなたのうち、地獄だと思った」というぐらいのひどい家だった。
改めて言っておきたいのだが、父は決して不道徳な人ではなかった。盗んだり、義理を欠いたりすることもなかった。酒飲みでもなく、賭博もせず、女癖さえも悪くはなかった。それどころか、律儀で機嫌のいい時は、実に気さくにさえ見える人であった。
ただ父は人を許すということだけができなかった。だから私は聖書の中で、パウロが愛の定義の最初のものとして「愛は寛容なもの」と切り出す言葉を読むと、今でも心が震える。
キリスト教はゆるしの宗教である。十字架の中心はゆるしである。私たちのゆるしの背後には、尊い犠牲がある。だから、主に在って寛容であれ。
一九九二年十月二十五日
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