石の枕
キリシタン 先日、米沢教会の献堂式の折、近くに「米沢藩のキリシタン刑場跡」があるというので見に行った。ここは米沢市の管理下にあり、北山原(ほくさんぱら)という地名である。
一六二九年一月十三日のこと。上杉定勝の甘糟右ェ門一族など五十七人が処刑された。
話によると、最初は数人のキリシタンが引きまわされていて、町中の人々が見ていて、中には屋根にのぼって見物する者がいたほどであった。ところがキリシタンの中に、今や殺されようとしているのに、たった三才の少年が平安の顔で、まるで天使のように人々の目にうつった。
見物人の中にキリシタンが隠れていて、その少年の姿を見て、「私もクリスチャンです」と自ら告白し、その列の中に次々に加わって行き、とうとう五十七人になったという。
歴史書によると、当時、キリストの福音は、日本人の心を捕らえ、野火のごとく全国へと広がったという。記録によると、およそ、八十万人、人口の八パーセントあまりが信仰をもった。
戦国大名は、島津貴久、大友宗麟、大内義長、小西行長、織田有楽斎、明智光秀、前田宗利、蒲生氏郷、細川興光、京極高知、北畠信雄、津軽信牧、高山右近など、三十数名が数えられる。
信長が宣教師を歓待し、安土城に神学校を作らせたことは有名であるが、秀吉ですら、「女癖について、バテレンらが責めないなら、クリスチャンになってもよいと思うが」との発言を残しているほどである。
一方、民衆の間でも、大村では六万人、高槻では二万人以上が信仰を持つ大リバイバルが起こる。
後日残酷な弾圧が始まる。腕や足は切り落とされ、熱湯・硫黄ぜめ・レイプ等々。しかし、信仰を捨てなかった。三十万人位が殺されたという。
日本にリバイバルを。我らの祈りである。終末には「大収穫の時」が来る。此の時代に生かされている使命を自覚し、主を仰ごう。
一九九五年十月一日
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