石の枕
貧困なる過剰 「二者択一」を「ニシャタクワン」と読んだ中学生がいた。最後の「一」を英語で読んでしまったのである。
人生選択の連続である。朝起きるか寝ているか、両方をいっぺんに選ぶわけにはいかない。その結果はその人の責任となる。
選ぶという自由が与えられているが、その責任はその人に問われるというわけである。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ十五の十六)。ありがたいことばである。もったいないことばでもある。
クリスチャンになったころは、この真理がわからず、自分の力で神を選びとったように錯覚していたが、信仰の歩みの途中で、神の深いご計画の中で選び出されたのだ、ということに気づかせられて感激する。
そして、選びの目的は何であるかを悟ったときに、心を燃やして主にお仕えしたくなる。
最近読んだ本に西部邁著「貧困なる過剰」がある。文明論的視点から鋭く現代社会を分析するすぐれた評論集である。
その本のまえがきに「ビジィであること、つまり多忙であることは、それ自体としては大して意味を持たない。意味ある事柄について多忙であるとき、その人は魅力的で活力ある生活を送っていることになる」とあった。
クリスチャンとして何に多忙であるかが問われる。情報化の時代、やりたいこと、行きたい所、観たいもの、味わいたいものはいくらでもある。
しかし、あと十年、と区切りをつけて考えたら、何を選びとっていくのか。真剣に考えて実践しなければならない。それは、自分のまいたものを必ず刈り取るときが来るからである。
ほんとうに感謝なことに、新しい礼拝堂が完成しようとしている。喜びをもって選びとれる道が用意されていることは何とありがたいことか。
一九九二年三月一日
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