|
|
|
「聖書のみことばと祈りによって導かれた結婚」 |
50代男性 鷲沢さん |
|
31歳になって「来年の3月末までに生涯の伴侶を与えてください」と期限を切って半年ほど祈りました。しかし、現実には何ごとも起こらず、半ばあきらめかけていたとき、教会で妻と出会いました。
彼女が大学時代に東京でピアノを教えていた子供たちの母親(教会員)が声をかけ、祈りの期限ぎりぎりの3月最後の日曜日に、わざわざ山形から上京してきたのです。私は、「これは神様が祈りに答えて下さったに違いない」と思い、牧師先生の了解を得て 彼女に事情を打ち明けました。
彼女は、私の唐突な行動に当惑しつつも、当時 聖書を読み神様を求めていた時期であり、彼女がそのとき与えられていた「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3)という同じ聖書の箇所が私の手紙の中に書いてあったということがきっかけとなって、交際が始まりました。お互いに相手のことは詳しくは知りませんでしたが、信仰の先輩たちの勧めに従い、それぞれ聖書のみことばから結婚に対する確信をいただくことができました。
ところが、彼女の両親に結婚の申し込みに行くと、彼女は四人姉妹の長女で、家は江戸時代から続いた由緒ある味噌醤油醸造元。祖父はお寺の檀家総代、父親は家業を持ちながら神社の神主を務める家系でした。跡取りのこと、私がクリスチャンであることが問題となり、結婚は到底不可能と思えるような状況でした。
彼女の家族は大反対。私の家族も、相手方が反対したことに反発して大反対に回り、出口がない苦しい状況が続きました。8月頃には当事者であるふたりの関係もギクシャクするようになってしまい、しばらく冷却期間を置くことになりました。
結局、私に残されたのは、神様が私に個人的に語って下さった「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)という結婚のみことばだけでした。そのとき現実は彼女が私の助け手であるとは信じることができないような状況でしたが、「ふさわしい助け手を造ろう」と未来形で神様が語られたので、私にはまだ希望が残っていました。
ある牧師先生が「断食の祈りとは、食物を断つことではなく、日常の家事・雑事から離れ、祈りに集中できる時間を十分に取ることだ」とおっしゃったのを聞き、これを実践してみることにしました。自分に与えられた聖書のみことばを信じて祈ること以外に、ほかに道が無かったのです。
毎晩 会社から帰ると、買ってきた弁当で夕食を簡単に済ませ、祈り方はよくわかりませんでしたが、アパートの1室で神様に叫び、お願いをしました。涙がボロボロこぼれ、声も枯れました。 8月の終わり頃から3ヶ月ほど、ひたすら神様にすがって叫び求めました。教会のスタッフたちも、個人的に共に祈る時間を持ち、苦しくて倒れてしまいそうな私をよく支えて下さいました。
ついに祈りが聞かれる時が来ました。年末近くになって、不思議な形で結婚への道が開かれ、翌年6月に私たちの結婚が実現したのです。神様が私たちを憐れんで、奇跡を起こして下さったのだと信じます。
妻は結婚式の1週間前に洗礼を受けました。その後授かった娘と息子も、シンガポールに駐在中に洗礼を受け、日曜日には家族揃って楽しく教会に通うようになりました。
私は、世の中のことはすべて人間が造ったものと思い込んでいました。日本では学校でも会社でもこのような考えが支配的です。しかし、私が信じている、天地創造の神様は、見ることも触ることもできないお方ですが、隠れて働いておられます。神様は確かに生きて働いておられ、私たちの背後ですべてのことを支配し動かしておられます。このことにようやく気づきました。
「このような人は流れのほとりに植えられた木の 時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1:3)
人生にはさまざまな問題や困難があり、日々私たちの霊の戦いは続くでしょう。しかし、教会という流れのほとりにしっかりと植えられて、心に平安のある人生。そのような人生を、神様のあわれみによって歩ませていただこうと 今
思いを新たにしています。
以上
|
|
|
|
|
|