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「息子の病いのいやし - 小学校卒業の感謝 -」 |
Iさん |
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今日は息子が無事に小学校を卒業したことを主に感謝しつつ証しさせて頂きます。
息子は生まれた時に口蓋裂と診断されました。「500人に1人の割合で起きる障害だが、心配しないように。」と言われましたので、我々夫婦も安心していたのですが、自分でミルクを飲むことができないために鼻から管をいれて飲ませる形を取らざるをえず、2週間ほど保育器に入っていました。家内にとってはかなりショックだったかと思います。
退院をして自宅に戻った後に気づいたのは、眼球が動かないことでした。若干たれ目で細い目をしていたため最初のうちは気がつかなかったのですが、私たちがそばを通り過ぎても目で追わないことに気づきました。自宅近くの市民病院に生後3〜4ヶ月ほどの時に病院に連れていきました。その時に眼科のドクターより、「この子は将来見えるようにならないかもしれない。」と聞かされた時は、もう目の前が真っ暗になる思いだったのを、昨日のように覚えています。ちょうどその時は父が亡くなった直後だったこともあり、我々夫婦にとっては暗いトンネルの中を歩かされている思いでした。
ところが、ある時に、車に乗せると周囲の景色の移り変わりを目で楽しんでいるように見えたので、夫婦で「きっとあの子は見えるようになるはず。」だと信じて毎日を送っていました。
生後6ヶ月の検診で、「子供はたくましいから心配しなくて大丈夫。『わが子はきっと成長する』とご両親は信じて育てて下さい。」と別のドクターから諭され、ほっとしておりました。
何とか成長し、幼稚園に通う年齢になったため、近くの園に通わせたのですが、口蓋裂のため中耳炎になりやすく、すぐに体調を壊し、本当によく休みましたし、また行ったとしても友達の輪の中に入ることもできず、先生のご厄介になりました。
その状態は小学校へ入学してからも変わらず、特に小学校入学前に、オーストラリアへ家族で旅行した際に、帰りの飛行機の中でてんかんの発作にかかり、それ以来、少しでも無理がたたると発作が出るという繰り返しでした。そういうわけで、小学校1年〜4年生くらいまでは満足に登校できませんでした。また登校しても人が沢山いる所ではすぐに頭痛になり、早退せざるをえなかったりしました。「こんな状態でこの子の将来はどうなるのだろう?」と父親として心配をしました。しかし、通級の先生から「この子が学校に行けないのは、本人が行くことを心から望んでいないからであり、今この時点で強制して行かせても逆効果です。必ずいつかこの子が学校へ行きたいと思う時が来るから、それまでこの子を信じて待っていてあげて下さい。」と言われました。そういう価値観は当時の自分の中になかったため、受け入れるのに時間がかかりましたが、今振り返るとそのことがひとつのターニングポイントであったように思います。
当時、私達は第1礼拝に通っていたのですが、「この子のために、是非大川先生に按手して祈っていただこう。」と思いたち(3年生の5〜6月頃だったでしょうか?)、礼拝の後、教会学校から急いで息子を連れて来て、特別に祈っていただきました。最初のうちは時々、と思っていたのですが、大川先生が「何度でもお祈りしますよ。」と言って下さり、そのお言葉に甘えて、毎週お祈りしていただきました。それが今日まで続き、ほぼ3年間毎週祈って頂きました。
そのうちに、今まで無理をするとすぐにてんかんの発作がでていたのが全く出なくなり、また何より体が大きくなり(今では家族の中であと少しで私の背を抜かす程までに成長しました)、昨年の運動会では徒競走で今まで最下位しかとったことのない子供でしたが、なんと1位という快挙を見せてくれました。学校の方もほぼ休みなく通えるようになり、3年生までは通知表には何も書かれていない白紙の部分が多かったのですが、4〜6年と上がる度に少しずつ勉強にもついていけるようになり、学校が楽しいとまで言うようになりました。もちろん、まだ目や耳の障害は残っておりますが、ここまでこられるとは思っていませんでした。そして先週19日に無事に卒業式を向かえることができました。
ここまで支えて下さった教会の方々のお祈り、特に教会学校の先生方には心より感謝しております。そして何より、毎週お祈り下さった大川先生の按手のお祈りには感謝の言葉もございません。本当に有難うございました。主にすべての栄光をお返しいたします。
(2007年4月 祈祷会での証)
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