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「人生の180度の転換。備えたもう神。」 |
技術翻訳家、野田さん |
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私がイエス様に出会ってからどんなに人生が変えられたかをお証しさせていただきます。
私と妻とは小学校1年の同級生です。彼女は高校生の時に洗礼を受けた信仰上の大先輩ですが、私はクリスチャンの世界とはまったく縁のない家庭に育ちました。私は故郷である仙台の国立大学の工学部大学院で電子工学を専攻して、卒業後、武蔵野市にある電電公社の電気通信研究所に入りました。
結婚は就職後1年してからです。仙台市の広瀬河畔教会というプロテスタント教会で結婚式をあげました。私はキリスト教に対する抵抗こそありませんでしたが、理工系の頭でしかものを考えることができず、目に見えること、物理的に説明できることしか信じないという頭の硬い人間でした。また、宗教というのは弱い人が頼るものであって自分のように体も丈夫で、仕事も人並みにできる人間にとってはそんなものは必要がないと考えていました。受験にも就職試験にも、大切な結婚の申し込みにも失敗したことがなかった私だったので今思うとすごく傲慢な男だったのですね。
そんなわけで、妻がクリスチャンだから、時々なら教会に行ってもいいかなとは思っていましたが、自分がクリスチャンになるなどとはまったく考えてもいませんでした。結婚してJR中央線の武蔵境に新居を構え、さっそく牧師先生からいただいた紹介状をもって近くの教会に行ってみました。でも、もともと私は神様なんか必要ないと思っていたこと、妻も子供が生まれて忙しくなったことなどからすぐに行く気がなくなってしまいました。それ以来、大川先生の教会に導かれるまで22年間、家内も私も教会から足が遠のいてしまいました。神様はそんな私たちを忘れずに長い間、辛抱強く待っていてくださり、再び教会に導いてくださったのです。それが大川先生の牧会される座間教会、現在の大和カルバリーチャペルでした。
座間教会の存在を知ったのは末娘が通っていたピアノ教室でのお友達のご両親を通じてでした。その友人の家庭は正にクリスチャンファミリそのもので、熱心な教会員でありました。まず末娘が教会の日曜学校に誘われていくようになりました。
ある日、私は出勤前に「仕事で疲れているようなので、今日は車で行くのはやめて電車にしたら?ちょっと心配だわ。」という妻の言葉を無視して、眠い目をこすり、その日の会議での発言のことなど考えながら朝の住宅街を車を走らせていました。そのとき、横合いから飛び出してきた車の横腹に私の車をぶつけてしまったのです。というより、正確には私の不注意が原因でした。その交差点は住宅街の中にありましたが、私の方に一時停止の義務がある交差点だったのです。後から確かめたら街路樹の枝にさえぎられて少し見えにくかったものの注意していれば見落とすことのない一時停止の標識が確かにありました。相手の方は車の後部を飛ばされ、右肩の鎖骨を骨折していました。私はというと車の前部はかなり壊れましたが、体はまったくの無傷でした。
それが分かった瞬間に思ったことは「私は神様に守られたのだ。1秒違えば私の車に相手が突っ込んできて私の命がなかったかもしれない。神様感謝します。」ということでした。この事故の前にも、神様のみ業としか思えないような他の出来事がいくつか重なっていたものですから、これが神様を恐れ、主を信ずるように導かれた決定的な出来事になりました。幸いにも相手の方は難しいことを言わず、許してくれましたが怪我をさせてしまったことについて申し訳なく何度も謝罪しました。そして妻に言われたことは「そら見なさい。私の言ったことを守らなかったからよ。」ではなく、「きっと神様が教えてくれたのよ。祈りましょう。相手の方の怪我が1日も早く治るように。そして教会に行きましょう。」でした。
事故の話を聞いた友人夫妻が「私たちも祈ってるわよ。」と言ってくれました。その言葉はそれまで他人のために祈ることなどまったくなかった私にとって「ああ、クリスチャンって他人のために祈ってくれるんだ。自分もそんな人になりたい。」という思いを起こしてくれたのです。
その事故の次の日曜日に私達は教会に行きました。当時は座間教会といっていた、大川先生の牧会される教会でした。入るなり、私の教会に対して抱いていた先入観が変えられました。まず、初めての人に対する教会員の方々の気配りに驚きました。音楽の素晴らしさにも感動しました。そしてなによりも大川先生のメッセージに心を打たれました。涙があふれて来たのを覚えています。すべてが、私がそれまで教会に対して抱いていた「暗い、硬い、つまらない」というイメージを一変させるものでした。その日以来、日曜日の礼拝出席は私たちにとって欠かせないものとなりました。1989年の5月の出来事でした。
その後、私たち家族は、カナダはバンクーバーに移住するという機会が与えられました。バンクーバーでの大学の学びの後には、思いもかけず、翻訳者になる道が開かれ、現在は自宅をオフィスとした翻訳の仕事をしています。バンクーバーでの10年間のあいだには、開拓の教会での奉仕に加わるという恵みも経験することができました。私達は教会員の方々とスキー、キャンプ、釣り、ゴルフなどいろいろなことを楽しむことができました。しかし、その中心にあったのがイエス様でした。私達はこの教会生活がなかったら、楽しいだけの海外生活も実は空しいものだったろうと思っております。
このようにして帰国後も大和教会につながることができ、技術翻訳の仕事も順調であることは本当に感謝です。48歳を境に私の人生に180度の転換がありました。神様の存在を知らず、自分の力でなんでも解決できると思っていた自分と、16年前の交通事故をきっかけに発生したイエス様との出会い以後の自分、そして家族の上に生じたダイナミックな変化とを対比させてみれば、私の人生の上に神様の偉大な計画があったことを心から思わされています。「備えたもう神」は本当に私達の家族の上にいらしたのだと思っております。
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