このページでは1999年12月5日〜2000年4月30日までの石の枕が掲載されています。これより以前の石の枕をご覧になりたい方は、こちらへ。
「私はこの場所に繁栄を与えると、主は言われる」
(旧約聖書 ハガイ書2章9節)
私たちがサンフランシスコの教会を辞任して、座間教会に任命されたのは1970年4月の事でした.あれから30年が過ぎました.
70年代に増改築し、80年代に座間市天台にカルバリーチャペルを建て、90年代に森チャペルが与えられました.まことに不思議なことに、10年ごとに大きな恵みを受けてきました.
1990年の「石の枕」で、「この様子だと、2,000年には考えられないほどの奇跡の大チャペルが与えられるであろう」と記しているが、それが見事に現実となりました.
そして、主の御言葉に従順するなら、2010年には、大リバイバルの真中で、いまは想像できないほどの恵があふれる群に成長しているだろうとお声を聴いている.
宇多田ヒカルの一番新しいCDに、Wait and see(リスク)というものが有ります.その中に「変えられないようなものを受け入れるような力、そして、受け入れないものを変える力をちょうだいよ」と言う歌詞が有ります.
このことは、非常に内容の深い思考が含まれていて、きっとニーバーの引用だと考えられます。正式には、「おお神よ、変え得ないことに対しては、これを安らかな心をもって受け容れることをえしめたまえ。変えるべきことに対しては勇気をもってこれを変えることを得しめたまえ。しかし、そのいずれであるかを見分ける知恵を与えたまえ」となります。
新約聖書の「山上の説教」の冒頭に「心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」とあるが、本当に謙遜な人は、このような祈りをささげるであろう。
皆々様のご協力で、このような美しい礼拝堂を与えられて、心から感謝したい。全てのものは主のもの!
2000年4月30日
夏目漱石は「虞美人草」の中で、「驚くうちは幸せだ」と言っているが、心底、いわば魂の中で「驚き」を失った時に、人は生ける屍となります.
イエス様は、私たちを生かす為に、繰り返し「驚き」を与えていてくださいます.驚きや恐れおののきは分析するべきものではなくて、経験するべきものです.
先日「入堂式礼拝」で興奮の極みを味わったばかりですのに、もう来週は「献堂式礼拝」です.大声で
「私たちはこの礼拝堂を主に献げます!!」
と宣言する場面があります.何か素敵なプログラムを考えています.ご期待ください.またお祈りください.
設計士の方々、三菱建設株式会社の方々や下請け企業の方々、大和市長、大和市議会議員さん、国会議員さんの方々をご招待しておられます.これらの方々やご家族の皆様に礼拝の恵みが届きますようにお祈りください.
祝賀パーティーは工事関係者の方々がシャローム館で食事をされます.一般霊は医者は、全員に紅白のおにぎり弁当がプレゼントされますので、森チャペルでお食べになってください.今回はお客さまが中心となります.
私たちの大騒ぎ祝賀会は、5月28日の礼拝後、第1駐車場で恒例の昼食愛餐会を持って感謝を分かち合う時を持ちます。男性方にも、食事を作って頂きます.お楽しみにお待ちください.
その日には、なんと、世界が注目しているフィリップ=ナンシー師が礼拝の説教者として来られます.この著名なお客様をも歓迎するパーティになります。
さて今週から「神奈川中央交通バス」を貸切り、大和駅からのピストン送迎となります.バンザイ! ハレルヤ! 勿論無料です.これからも「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしないこと」がなされます.
2000年4月23日
中世のドイツで恐ろしい実験をした王様がいました。その実験とは、「もし生まれたての赤ん坊に刺激を与えないで、隔離して育てたらどうなるか」だれも一言も掛けないで数人の赤ん坊で実験してみたが、結局全部死んでしまったそうである.
教会では洗礼を受けたばかりのクリスチャンを「新生(児)した人」といいます.
現代人の好みは「匿名性」といって、自分の名前を明らかにしない傾向があります.であるから、教会が大きくなると人々の陰に隠れてメッセージを聞き、自分の名前を知らせないで、ひとりで来て、ひとりで帰るという方が増えています.現代人の特徴と言ってしまえばそれまででありますが、本当は健康な姿では有りません.下手をすると前述の恐ろしい実験の結果の様になってしまいます.
教会に来られたら、神の国の豊かさを味わって欲しいです.兄弟姉妹という関係は、ある時は煩わしかったり、面倒な事も有るでしょうが、神の国の豊かさは、それを乗り越えたところに有ります.
礼拝の前後に声を掛け合ってください.シャローム館に行って、誰かとコーヒーを飲んでお喋りをして下さい.一杯のコーヒーから何かが生まれるかも知れません.
毎週土曜日の12時から泉チャペルの清掃が行われています.祈祷会の前後も、教会と大和駅・座間駅の間をを結ぶ送迎車の中でも、トイレさえも、あなたの坐した席の隣りの方とでも、是非交わりを始めて下さい.
各年齢別の信徒会も楽しいですよ.ひとりでお喋りを独占する人、無口の人、食べる専門の人、料理上手な人、聞き上手の人、いろいろな方と触れ、その信仰の有様を知ることによって、あなたの人生も整えられてゆきます。「互いに愛し、互いに仕え合いなさい」。これは、主の命令です。
2000年4月16日
先週の日曜日、4月2日は、歴史に残る「興奮の爆発の日」になりました.
いつもより15分早いスタート。SONY製の新しいプロジェクターによって左右の壁に写しだされる数字に合わせてカウントダウン.現代的な画像に驚きの歓声が起こる.会堂が暗くなり、宮田四郎兄にスポットライトが当てられ、ホルンのファンファーレ.
牧師夫妻と三畑義雄長老、小山英子伝道師、K姉によるテープカット。
「主イエスの御名により入場します。」
「感謝しつつ主の門に、賛美しつつ大庭に、入れ、入れ」
2000年4月9日
「見よ、全てが新しくなりました。」(Uコリント5の17)
「そのなすところ皆栄える」(詩篇1の3)
「私は栄光をこの家に満たす」(ハガイ書2の7)
2000年4月2日
「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、主の大庭に入れ、入れ」
と、詩篇100篇4節を歌いつつ行進しながら入場します。10時ごろからテープカットのシーンを何度も撮影するので、21世紀を担う若者は、誰でも牧師の隣りに立ってください。2000年3月26日
2000年3月12日
2000年3月5日
2000年2月27日
1378,1922,2660,2747,5760
暗号文でも、電話番号でも、当たりくじの番号でもない。これは今年の年号です。
これらの数字は、今年を紀元2000年と呼ばない国や宗教が用いている年号で、イスラムの「ヒジュラ暦」では今年は1378年。次はインドの「シャカ暦」次は日本で敗戦まで使われていた「皇紀」、次は古代バビロニアの「ナボナサール暦」、次は「ユダヤ暦」。このような紀元法は世界で50を越えるそうですが、今日もっとも広く用いられているのが「西暦」で、今年が2000年となります。
日本でも、いつの間にか平成がどこかにいってしまって平静を保つのがむずかしいぐらい西暦が流行してうれしくなってしまいます。
西暦は、キリストの誕生の年を元年とし、その年を中心にして紀元前(BC)と紀元後(AD・主の年に)に分け、歴史の中心はキリストであります。どの宗教団体の人も使わざるを得ないほどの流行であります。少年時代に、キリスト教が迫害?されたことを思うとビックリです。
さて、私たちキリスト者が、このAD2000年を宣教のチャンスにしなければ申し訳ないと思っています。私たちは、意図したわけではありませんのに、AD2000年記念に、大会堂完成と東京開拓伝道がなされます。
「伝道はむずかしくありません。今は恵みの時救いの日だからであります」
と宣言されたのはボンケ先生でありますが、本気で祈って挑戦したら今年中に不思議がたくさん起ります。
まず名前をあげて祈り続けましょう。大和も、東京も、日本中がうらやむほどのプログラムを用意しています。大胆にお誘いしましょう。大和も東京も、ビックリの連続を期待してよいのです。本当に必ず不思議が起ります。熱い祈りをささげましょう。魂の救いが最高の働きです。
2000年2月20日
先生の打つ手は全て成功しますね、なんてほめられることがありますが、そうでもありません。今回の「聖書読ませ作戦」は、頓挫。ボクは頓才と思ったことはないが、今度ばかりは先がよめぬ鈍才であった。み言葉の分かち合いはやめましたが(宿題をやって来なかった人は、親指まげて手を挙げれば決してあてない、なんてところは立派な気くばり牧師であったのだが)、宿題は毎週出します。1日5分でも、半章でも聖書を読むことは必ず霊的力になります。ホント。
1年に新約聖書を1回位読むことは常識です。赤鉛筆をもって、心に感じたところに線を引きながら読みましょう。今回よく理解できなくても、次回判読できます。それが「真理の御霊」のお働きです。神のみ言葉を大切にするものは、不思議な祝福を受けます。ホントです。
世界中のお母さんが苦労していることは、自分の子どもが健康に成長してくれることでしょう。そのために、手を変え、品を変えて、料理をし、バランスよく育つことを期待します。それと同じ思いが牧師のそれです。
皆様が、旧約(薬)と新約(薬)を正しくいただくなら、読む者の役得を受けるでしょう。貪欲は聖霊の実ではありませんが、聖書朗読に関してはよいことです。どん尻でも、どん底でも、鈍行にのったような読み方でも、チリもつもれば、ヤマトなるです。ドンドン読んで励まし合ってください。(以上の文の中に、とん又はどんが、9回出て来ます)。
2000年2月6日
ビックリ発見を紹介します。カレブ会の松野兄が教えてくれました。
「石の枕」で22年──500名礼拝のうらおもて、という本があります。その1990年11月11日分に次のようにあります。
1990年11月4日、日曜礼拝後の総会で、大和市に新会堂を建設することが、決定された。(すなわち座間市にある教会が、隣接とはいえ大和市に引越しをするとはすごい決断であった。)現在のカルバリーチャペル(当時小田急線座間駅の近くにあった天台の教会のこと)に移ったのが、1980年。いつの間にか、ここで10年過したことになる。まだ山林であったが、土地を初めて買い、うれしくて、林の中に何度も足を運び、草の中にかくれて何度も祈った。
この10年間は、天に召されたいほどの苦しい体験もしたが丘の上の白いチャペルに、あふれるほどの人々が集まり多くの人々が救われ日本で一番恵まれた群になった。良き役員、良き信徒、良きスタッフに恵まれた私は、幸せな牧師である。そして1990年、なにか10年ごとに大きな祝福を得ているようだこの様子だと2000年には、考えられないほどの奇跡の大チャペルが与えられるであろう。そのためにも、ステップ・バイ・ステップである。麗しさの極みなる栄光に輝いた教会を夢みながら前進しましょう。現在使用している礼拝堂の完成は1992年であるから、この文章が書かれたときは、何の形もなかった。それなのに「この様子だと、2000年には、考えられないほどの奇跡の大チャペルが与えられるであろう」と預言している。
今目の前に赤い屋根の大礼拝堂を見るとこの分で進むとあと10年後には超ビックリするような主のみ業を拝することになる。なんてことを書いてもアーメンと信仰の応えが聴えてくるような感じがする──そして10年後に、この文章を引用することになる。ウフフのフ。ハレルヤ!
2000年1月30日
「私は日本の産んだオー型伝道者、オーは大型ではなくて血液型のO型です」。これは私の自己紹介のジョークです。
よく血液型と性格についての関連性を語る人がいるが、これは日本独特の奇妙な風習と、世界は見ている。科学的な評価を経た研究報告では、ABO式の血液型と性格との関連を証拠づけるものは何ひとつみつかっていない。なのに、日本ではまるで科学的に検証された「定説でもあるかのような扱いで、「あの人まじめ過ぎるのよ、A型だから」と断じたりする。
大学生を対象にした調査では、隣人として避けたいタイプとしてB型やAB型という答えが多かった。何の科学的根拠も持たない血液型性格判断で、付き合いにくいやつと決めつけられる方はたまったものではない。これが就職や職場での人員配置にまで拡大したらどうなるのか。そろそろ呪縛を解きたいものである。
これらは、先週の日本経済新聞のコラム欄に載っていたものである。就職だけでなく、結婚関係にも血液型が大手をふるったら滑稽になる。もう21世紀を迎えているのである。新しい視点を必要としている。ちなみに、私はO型、妻はB型、OとBはうまくいかない。OBだから?ゴルフみたいですね。クリスチャンは、キリストの血によって、新生したのだから、全員I型(愛型)の新種人間である。だれともおつき合いできるおめでたいタイプである。第Uコリント5の17。
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」(第Tペテロ4の10)
とあるが、「さまざま」という原語は、多くの彩色のある、という意味でどの色とも合うということばだそうである。
何型であろうと、新潟、山形であろうと、神様とまず一致し、隣り人を愛する者でありたい。
2000年1月23日
私の次男が二十才を迎えた。1980年1月13日生れ。私にとっては、1978年に聖霊のバプテスマを受けて、これだ!これ以外にないと燃えに燃えていたので、聖霊充満を記念して「聖充」と命名した。
今でも同じ気持である。もし人が信仰をもち、主に従い、聖霊に充満されるなら全ての問題に解決を与える、と今でも少しも変わらず確信をもっている。ホント。という訳で、教会の全ての人々に「聖充」の名前をつけて、聖霊充満の人生を送ってほしいと願っているほどである。
私たちは、サンフランシスコの教会を辞して帰国したのが1970年であるから、今年は私たちにとっても三十周年という記念すべき年となる。
1つの群に30年間もお仕えできたことは、驚くべき神の恵みである。私たちも皆様にお仕えしてきたつもりであるが、主に従うように牧師に従い、忠実に仕えてくださった聖徒たちに心から御礼を申し述べたい。
先週の日曜夕方「執事会新年会」がなされ、共に夕食を頂きながら交わり、祈りのときをもった。楽しくもあり、懐しい話題に花が咲いた。
1982年のこと、私が牧会上最も辛いときのことである。月曜の夜に急用があって教会を訪ねると、役員室にあかりがついていた。ノックをして中に入ると、ずらっと役員さんがそろっていた。当時、教会内にゴタゴタがあって、人間不信になっていたこともあろうが、牧師に内緒で役員が集まるとは何ごとか、大声はあげなかったが、自分の顔色が変わったことは憶えている。
「先生がおひとりで苦労しておられることに申し訳なくて、せめて先生のお休みの日に、役員が集まって心を合せて祈り、先生を支えよう」ということなのです、と説明があった。
ホット胸をなでおろしただけでなく、感無量であった。ひとり礼拝堂に行ってオイオイ泣いた。この祈り会は今日まで続けられている。感謝。
2000年1月16日
創立以来縦書きの週報でしたが、Y2Kで、気持を新たに横書きにしてみました。新しい世代をとらえるための努力です。私にもなじまず、少々違和感ありですが、新しい挑戦です。皆さんガマンしてください。新会堂の絵がなかなかできず、専門のデザイナーさんに依頼できず、バタバタと製作してしまいました。少々恥しい作品ですが、4月から、色を変えたり、少し改造できますので、お知恵をくだされば幸いです。
宿題作戦はいかがですか。この教会に来たら聖書は必ず読ませられる。聖書を読むのを楽しみに日々過ごす、そんなクリスチャンであってほしい。それが牧師の願いです。学生時代にもどり、毎日聖書をコツコツ読む。恵みの宿題を感謝して受けとめてください。チリもつもればヤマトなる。
最近いただいた短歌を紹介します。
創世記読み始めたる妻の声
二千年は今始まりぬ 二千年始まり告ぐる声を聞き
我は聖書を読み始めたり
不思議なことに、聖書を読み始めると主の油注ぎが起ります。同じように祈りを続けると不思議な油注ぎがあります。土曜日の準備祈祷会の1時間は、とりなしの祈りのときですが、主の臨在を深く感じる時でもあります。チョウ先生は、1時間位祈った後に深い主の臨在をおぼえると言われましたが、教会は祈りの家ですから、ひざまづいて「主よ!」と叫び始めたら、すぐにその体験を得られます。今年も「うたいつつ歩まん。祈りつつ歩まん。ハレルヤ」で前進しましょう。
元旦礼拝の前夜は準備祈祷会はありませんでしたが、ひとりで会堂内をグルグル廻りながら賛美し、手をたたいて主を崇め、大声で祈っておりましたら、ものすごい主の栄光につつまれました。ビックリしました。元旦礼拝は驚くような恵みにあふれましたね。お休みされた兄姉は、必ずテープか、ビデオで恵みを受けてください。
2000年1月9日
明けましておめでとうございます。今年も「ハレルヤ!主よ感謝します!」と心から主を賛美して一年をスタートします。
主のみ心は、私たちがこの地上でも幸福に生きることであります。み言葉にもそうあります。「愛する者よ。あなたの魂がいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、私は祈っている」。
アウグスチヌス著「神の国」によれば、幸福については、288の学説があると言っています。哲学者のヘーゲルなどは、人間は決して幸福になれないのだと悲観的であります。
不幸な人の特徴を3つあげますと
1.自己愛が欠けている人。これは自己中心的なエゴイズムではありません。自分を愛せない人には、本当に他者を愛することができず、したがって幸福になれないということです。
2.相手をあるがままに受け入れない人。いつも相手に、ああやってほしいとか、あれではだめだとか、不満ばかりならべていたら、結局自分が不幸になります。
3.人生の各段階に応じて成長していない人。青春時代や中年期、第3の人生など、それぞれのライフスタイルによって生き方が違ってきます。若い時には、何かを「持つ」ことが、人生の大きな目標になりますが、中年期からは、いかに「ある」かを考えて生きるほうが大切だと思います。
私は今年58才になります。信仰生活は44年。キリスト教界を50年間見て来ました。私は今非常にすばらしい悟りを得ています。これは真理の御霊なる聖霊様が教えてくださいました。何をしたら幸せになるか、何をしたら幸せを失うか、そのあたりがよく分かるようになりました。何か牧師としては、これからが充実するように思えてなりません。どうぞ私のためにお祈りください。今年もご一緒できますことを心から感謝しています。明るく、元気で、のびのびと!
2000年1月1日
メリークリスマス! この教会のイブ礼拝は、デートコースに入っているとかで、毎年数多くのカップルが来られる。また、クリスマスは当然に教会のミサ(礼拝のこと)に出席することを考え、ご家族で出席される教育的な方々もおられる。勿論、ひとりの人も大歓迎である。動機はどうでもよい。1年に1度でも来てくださる方々を心からウェルカムしたい。
私は牧師を40年近くもしているクセに、礼拝に来られたら必ず1回は笑っていただくという執念をもっている。そのための苦労は笑ってしまうほどである。ですからクリスマス礼拝は厳粛さを要求されるから苦手である。葬式も笑わせるわけにいかないので不得手である。
1年に52回ほどの日曜礼拝に命を掛けている牧師として、1番苦手のクリスマスにだけしか来てくださらない方々のことを思うと心が痛む。それでこのシーズンをクルシミマスともいう。フランスの偉大な数学者パスカルは31才でクリスチャンになった。その回心の感動を紙片に書き留め、それを胴衣の裏に縫い込んで、生涯肌身離さず持ち歩いたという。それを紹介する。
夜10時半より零時半まで 火(聖霊の火)アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や学者の神ではない。絶対的確実性と理性を超える喜び、平和。イエス=キリストの神。・・・神以外のこの世のすべてのものを忘れる ・・・この世は御身を知らず、われは御身を知る。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。
クリスマスの聖書的テーマは「すべての民に与えられる大きな喜び」である。落語もジョー句も小さな喜び。本当の喜びは、生きる力を与えてくれる。1999回目のお誕生日を心から祝おう
1999年12月12日