石の枕
バカになりたい 「忠臣蔵」の大石内蔵助は昼行燈といわれ、ぼんやりした、可もなし不可もなしの家老だった。それが主君の仇討ちというテーマに向かい、五十人に近い家臣を結集することができた。大石のもとに集まってきた同志の多くは下級武士である。
どこといって取り柄のないような家老のもとに、先に何の希望もない仇討ちという天下の法度を破る大それたことのために、四十七人からの人間が集まったというのは、リーダーとしての大石に大きな魅力を感じていたからではないだろうか。
その魅力とは何だろう。
バカになれる。―昼行燈といわれた大石の魅力はそれだったに違いない。
バカになれる魅力、つまり大愚の魅力を身につけるのは、並大抵のことではない。その代表格といえば、西郷隆盛ではなかろうか。(弟に従道というだれかさんと同じ名前の人がいた)。
西郷は「うどさ」と呼ばれた。「うど」はうどの大木の「うど」のこと。「さ」は鹿児島弁で「さん」に当たる敬称である。
日常の態度を見ていると、うどの大木のようにあまり役に立ちそうもない感じを与える。だが、うどの大木と見捨ててしまうことができない何かがあるように思える。とぼけた味わいは、親しみ深く、またうどの大木でありながら、何となく頼り甲斐があるように見える。だから、「うどさ」と敬称をつけて呼ばずにいられない。西郷のそんな姿が「うどさ」の呼び名には込められているようである。
西郷は鋭い洞察力で幕末から明治への世の中の動向を見据えていた。だが、その鋭さはおくびにも感じさせなかった。何もわかっていないような茫洋とした態度で終始していた。
今の日本に必要な人物はバカになれるそれだ。
日本の精神界(霊的世界)にもそれが求められている。私はバカになりたい。キリストのために。
一九九二年七月五日
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