Yamato Calvary Chapel 私たちは聖書を重んじる福音的プロテスタント教会です。「明るく、元気で、のびのびと」をモットーとしています。
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第三章「救いの道-その成長について」

救いの恵みにあずかりましたら、一日も早く洗礼(バプテスマ)を受けて、正式にクリスチャンになってください。
この項は、クリスチャンになる人の心得のようなものを記します。

クリスチャンの理想像

第一は、信仰を途中でやめない。天国にまでもち続けることが大切です。目的地がハッキリしたのに、途中下車する位淋しいことはありません。(このことは、この本の最後の項で扱います。)
第二は、強いクリスチャンになる、ということです。「強い」とは「我(が)」が強いということではありません。少しの試練では挫けない。サタンの誘惑に負けないクリスチャンのことをいいます。
第三は、奉仕するクリスチャンになる、ということです。これはクリスチャンに与えられた特権であります。「与えることは、受けることよりも幸いである」とイエスさまが言われていますように、自分に委ねられたエネルギーのすべてをもって主と人とに仕えるのです。
この三つは、クリスチャンの理想像として、祈りの目標としてほしいのです。しかし、この三つのどれを優先させるかといったら、文句なしに、第一のことです。
この地上で、ノーベル平和賞をいただくような人間としての最高の栄誉を受けたとしても、また、どんな迫害に耐えたとしても、信仰を最後までもち続けなければ、すべての栄光は失われます。私たちは、永遠の命をいただき、永遠の世界を生かされているのです。何が起こっても、どんなにひどいことをされても、はいつくばってでも、天国に入れていただかなければいけません。もしそうでなければ、あとは永遠の滅びが待っているだけです。お願いです。間違っても、イエスさまから目を離さないでください。天国に行くまで、信仰を失わないように励んでまいりましょう。

信仰生活の七つの原則

クリスチャンが理想の姿に向かうためには、すべきこと、ルールがあります。これらは、イエスさまからの求めですから、喜んで従って行きましょう。
第一は、「聖書を読む」ことです。
聖書は、誤りのない神の言葉です。心のごはんといってよいでしょう。ごはんを食べないで生きている人はひとりもいません。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ福音書四章四節)
聖書は、生きる力を与えてくださる霊的な糧だけではなく、生の規範でもあります。生きることはどういう意味があるのか、人間とはどこから来て、どこへ行くのか、人間とはどういう存在なのか。人間として知るべきすべての知識が記されています。ですから、バイブルは、永遠のベストセラーといわれているのでしょう。
どんなに忙しくても、聖書を開いて、一行でも読まれたら大きな祝福です。できるだけ多くを読まれた方がよいのです。分からなくてもどんどん先に進んでください。次回読んだときに明らかにされるでしょう。
よい注解書を手元に置いておかれることをお勧めします。どうしても早く知りたければ、牧師や伝道師に質問のお手紙をください。
少くとも、知的満足を得ることには時間がかかるでしょうが、生きるために必要な糧は必ず与えられます。心へりくだって、祈りをもって読んでください。新しい世界が開かれます。ホントです。

第二は「祈る」ことです。
祈りは力です。祈りは奇跡を起こします。
聖書が心のごはんであるなら、祈りは「呼吸」のようなものです。ごはんを食べなくて、呼吸をしなければ、人間は確実に死にます。弱ります。ですから、この世には、力のないクリスチャン、活々として輝いていないクリスチャンが大勢いるのです。
聖書を読むことと祈ることを再開しただけでも大きな力となります。

どのように祈ったらよいのでしょう。順番を記してみましょう。
まず「呼びかけ」です。「愛する神さま」でもよいのです。私は、「天のお父さま」と祈り始めることが好きです。
次は「感謝」をささげることです。夜、眠る前でしたら、一日の感謝を数えて祈ることはよいことです。そして、現実のマイナスと思えることも感謝して休むことです。それは神さまへの信頼を表わす姿勢でもあります。ロマ書八章二八節には「万事を益にする」とありますから、そう信じて神さまにお委ねすることです。
朝起きたときでしたら、昨夜の眠りを、朝元気で目覚めたことを感謝して祈るのです。
次は「悔い改め」が大切です。
ヨハネ第一の手紙一章九節にあるように、気づいたときは、朝でも、夜でも、いつでも「イエスさま、ごめんなさい」と幼子のような気持ちで悔い改めるとよいのです。いつも自分を主のゆるしの中におくことは大切です。
特に洗礼を受ける前は、なるべく具体的にひとつひとつ主のみ前にもち出すかのように、罪を告白して、ゆるしていただいてください。
もう忘れていることもあるでしょう。良いと思って行ったことが、相手をひどく傷つけていることもあるでしょう。それらのすべても、主の十字架のゆるしの中に置いていただくことが大切です。
もし弁償できることなら、その人のところに行って弁償べきでしょう。ことばや思いの罪の問題は、その人に言わない方がよい場合もありますので、牧師と相談してください。
次は「願いごと」です。
どんなことでも、心にわいてくる思いを祈ったらよいのです。主のみ心でないことは、祈りの中で教えてくださいます。
次は「とりなし」です。
まず、牧師のために必ず祈ってください。とりなしとは、他者のことを自分のことのように祈ることです。家族の救い、友の救い、教会の成長、日本人一千万救霊、リバイバルのため。祈りのカードやノートをつくられて祈り始めはいつで、祈りが答えられたのはいつと記されたら、祈りの励みにもなります。
最後は、「イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン」です。「アーメン」とは、「本当です。真実です。同意します。」の意味があります。 ですから、他者の祈りに対しても、自分の祈りの最後にも、ハッキリと「アーメン」というべきであります。

ついでに参考までに、私の朝と夜の祈りを記しておきます。勿論、牧師として長い時間かけて祈るときは、別の方法ですが、最も簡単な祈りを紹介します。
朝起きてから、
「天のお父さま、おはようございます。私は今日も、心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私の神さまを愛します。また、自分を愛するように隣り人を愛します。人にはできないことも、神にはできると信じます。私を強くしてくださる方によって、何ごとでもすることができます。ハレルヤ!主よ、感謝します。アーメン」。
恥ずかしいほど短い祈りですが、とても大きな力になります。勿論、折あるたびに、「聖霊さま、おはようございます」とか、「聖霊さま、ご一緒してください」と祈っています。

夜の簡単な祈りは、
「天のお父さま、おやすみなさい。み子イエスさま、おやすみなさい。聖霊さま、おやすみなさい。今日一日中、本当にお世話になりました。ありがとうございした」と祈って「ハレルヤ、主よ、感謝します」を十回くりかえして祈り、寝てしまいます。

これら二つの短い祈りを忘れたことはありません。しかし、心がけていることは、より長く主と交わる祈りをすることです。必要に応じて、徹夜したり、断食したり、時間をかけて祈り込みます。それがまた、非常に大きな恵みとなります。
祈りの本は沢山ありますので、是非読んでください。祈りを自分のものにしないことは、宝物を失ったようなものです。聖霊に満たされるためにも、油注ぎを受け続けるためにも、祈りが重要なポイントになります。

第三は「日曜礼拝を必死で守る」ことです。昔から「聖日厳守」といわれて来ました。多くのクリスチャンは、命がけで礼拝を守って来ました。礼拝を守るために、仕事や趣味を変えてしまった人はいくらでもいます。このことをいいかげんにしたために、信仰を失い、とりかえしのつかない危険な道を歩んでいる人も多くいます。
「日曜礼拝」「聖日礼拝」より「主日礼拝」と表現したほうがベターです。日曜日は、主の日です。私たちの思いで勝手にふるまったりしません。主の栄光のために、主に喜ばれる一日を過ごしましょう。
モーセの十戒によれば、週に一度の礼拝をさぼることは、殺人罪やかんいん罪やドロ棒や偶像礼拝の罪と同じことだと言っているように思えます。
主日礼拝を守ること、祈祷会を守ることはクリスチャンの生命線です。
勿論、病気のときは、家で主のゆるしをいただいて静かにしているべきでしょうが、旅行中でも、前もって教会の住所を調べておいて、主日礼拝を守りましょう。
今は車の時代ですから、少々の病気でしたら(人にうつさないもの)、またケガでしたら、タクシーを使うか、友人の車に乗せていただいて、礼拝を守る努力をすべきであります。
礼拝は神さまとの公のデートの時間ですから、遅刻をしないように努力しましょう。諸々の事情で遅れるのはやむを得ません。帰宅してしまうよりは、遅刻してでも礼拝に出席した方がよいです。
遅刻しないためには、前夜、主とのデートの準備をすることです。必ずお風呂に入って清潔にし、礼拝に着て行く服装を備えておきます。
十分に睡眠をとり、渋滞を予想して、少し早めに家を出ます。
シュバイツァーは、少年時代、両親の真剣な礼拝に対する姿勢を通して「敬虔」を学んだといわれています。子どもに残してあげる最大の遺産は「神を畏れ、敬う」ことで、それを身をもって示すことが大切です。たとい赤ちゃんでも、霊的空気の中で育てることは最高の祝福です。
日曜の朝は、ファミリーレストランで朝食をしてから礼拝に出席するというステキなサイクルをもったご家族もおられます。
私も礼拝と祈祷会を忠実に守らせていただいたことで、身にあまる祝福にあずかりました。ホントです。

第四は、「交わり」です。
自分の弱さを謙遜に認めて、信仰の友との交わりを通して、自分を強め、信仰を守ることは大切なことです。
それでは、信仰が成長したら交わりはいらなくなるのでしょうか。いいえ、そうではありません。クリスチャンの生き方の中心は「他者のための生」「他者のために生きる」というところにあります。強くなればなるほど、他者の弱さのために、自らの何かをもって、励まし助けてさしあげることが選び出された者の使命です。
受けるだけでは、赤ちゃん信仰です。大人の信仰は「与える」喜びを知っていることです。
具体的には、教会生活の中で、各年令別の信徒会に加わってくださると幸いです。そこで信仰の友、祈りの友を発見するでしょう。
本気で祈ってくれる友を持つことは、どんな親戚や旧友よりも意味があります。いざとなったときや人生の危機に、本当に親身になって、祈ってくれます。
あなたも、友のために、断食したり、徹夜して、祈りをもって応える聖徒に成長するでしょう。

第五は「献金」についてです。
多くのクリスチャンは、マラキ書三章のみ言葉に従って、収入の十分の一を献げてきました。これを「什一献金」といいます。
もしそうするなら、神さまは天の窓を開いてあふれるばかりの祝福を与えてくださるとおっしゃるのです。私は少年時代から、これを実践して来て、大いなる祝福にあずかりました。ホントです。
しかし、この方法は強制ではありません。喜んですることができないときは、しなくても結構です。一生できなかった、とは悲しいことですので、「什一献金」ができるように必死で祈ってください。必ずできるようになります。
月定献金袋に金額を記入して、聖壇前の箱に納めてください。牧師は、マルコ福音書一〇章二九節と三〇節に基づいて、百倍の祝福にあずかれるように切に祈ります。
この他にも、誕生日の月にする献金。洗礼記念月にする献金、結婚記念の献金、就職感謝献金、入学感謝献金、卒業感謝献金、召天記念献金、出産感謝献金等があります。
韓国のクリスチャンは、何か願いごとをするときは、必ず「信仰の種」を植える意味の「祈りの答えを先取りした感謝献金」をする習慣をもっています。種をまかなければ、芽も出ないし、花も咲かないし、結実もないという信仰からくる大胆な献金方法です。
いずれにせよ、何の強制力もありません。もし導かれましたら、大胆になさってください。不思議な恵みの世界が開かれるでしょう。
牧師はいつも「おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまで量をよくして」くださるように、信徒たちの経済の祝福をお祈りしています。

第六は「伝道」についてです。
日本のクリスチャンの欠点のひとつは、伝道しないということです。整えられてから伝道しないと人をつまづかせるから、とか言って、整えられることに心をくばっているうちに、いつの間にか伝道への情熱を失ってしまいました。これは指導した教会の責任でもありますので反省しています。
伝道は、救われてからすぐ始めてよいのです。質問されて答えられなかったら、私はまだ素人、かけだしです、教会に行けば分かります、とでも答えておいてください。
伝道しようとしたら、必ず聖霊さまが知恵と勇気を与えてくださいます。そして、失敗をくりかえしながら整えられて行きます。
私はこの真理を最近になって知りました。リバイバルに備えて、すばらしい発見だと思っています。 伝道の喜びは、伝道した者だけが味わえます。大胆にイエスさまを紹介してください。聖書を解説することはむずかしくても、礼拝テープやビデオを渡すことはできます。トラクトや伝道新聞を買って配っている人は随分多くおられます。
家族や友人のために、三浦綾子さんの書籍や星野富弘さんのもの等、初心者でもよく分かるものをプレゼントすることもよいアイディアです。
病気の方々の訪問も大切です。必ずしも声を出して祈らなくても、カードをおいてくるだけでも意味があります。大きな声で祈ったり、長時間の訪問は非常識ですが、知恵を用いて訪問することは、主の喜ばれることです。

第七は「聖礼典」についてです。
プロテスタント教会が公に認めている礼典は二つあります。
一つは「洗礼式」(バプテスマ)で、生涯に一回の大切なクリスチャンになるための入門式です。
何故洗礼式を行うのか。それには二つの理由があります。ひとつは、イエスさまがお手本を示されたこと(マタイ福音書三章)。イエスさまは罪人でもないのに、後日、私たちが決して反抗しないように自ら「受けさせてもらいたい」とおっしゃって洗礼をお受けになられました。
もうひとつは、イエスさまの語られたお言葉によるのです。マルコ福音書一六章一六節に「信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」とあります。信じただけでも天国に行けるはずですが、イエスさまのお言葉に従って洗礼式を大切にします。
人生でどちらを選んでよいか迷ったとき、このふたつの考え方は私たちを正しい道に導いてくださいます。
すなわち、イエスさまならどうなさったであろう(どうなさるであろう)。イエスさまならどのようにおっしゃるだろう(おっしゃっただろう)、ということを考えてみることであります。 洗礼式には大きく分けて二つの方法があります。ひとつは「浸礼」といわれるもの。すなわち、体全体を水の中に浸すこと。もうひとつは「滴礼」といわれる方法です。これも、水を頭に注ぐことを通して、水が頭まできていますという考え方です。
ロマ書六章では、水の中に人間が浸ることによって、古い自分が死に、水からあがることによって、新しい命に生きることを象徴しているといわれます。
ですから、洗礼式のときに、全浸礼であれ、滴礼であれ、古い自分(自己中心の自分、罪人としての自分)が死んで、新しい自分(神中心の自分、神の子としての自分)になったという信仰における自覚が必要です。
洗礼式は入学式です。卒業式は天国までありません。いつまでも謙遜に道を求める「求道者」でありたいものです。
英語の世界では、新生した人を「ボーン・アゲン」クリスチャンといいます。新しい命をもって、キリストによって魂が生まれ変わったからです。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(第二コリント五章一七節)

聖礼典のもうひとつは「聖餐式」です。
このことも前述の二つの理由から行うのです。イエスさまが行われたから。イエスさまが行え、とおっしゃったから、です。
イエスさまは、十字架にかかられる前夜、弟子たちと最後の食事会をされました。
パンを裂いて、「これはわたしのからだです」とおっしゃって弟子たちに渡されました。弟子たちの中には、裏切り者のユダも、疑い深いトマスも、怒りっぽい雷の子と呼ばれる者もおりました。しかし、イエスさまの愛は徹底した愛でありました。十字架上では、文字通り、肉を裂いて愛を示されました。
また、ブドウ酒をカップに注いで弟子たちに「これはわたしの血である」とおっしゃって渡されました。十字架上では、文字通り、釘打ちされて血だらけになって救いを成就してくださいました。
第一コリント一一章二三節から三一節までを読むとビックリする位、厳粛にさせられます。月に一回の聖餐式であっても、襟を正して聖餐の恵みにあずかってほしいのです。
私たちの教会は、タバコやお酒を飲む習慣がありません。ですから聖餐式のときも、子どもたちのために、元アルコールで苦しんだ人たちのために、ブドウジュースを特別に用意して用いることをしています。
説教であれば、時には聴き取れなかったり、よく理解できないときもあるでしょう。しかし、聖餐は、いつも確実に十字架の福音を受け取ることができるのです。
不思議なことに、聖餐式のとき、よくいやしの奇跡が起こされます。きっと十字架の傷ついたイエスさまを仰ぐからでありましょう。
「その打たれた傷によって、いやされたり」(イザヤ書五三章五節)

これら七つの信仰生活の原則は、私たちの信仰の成長のために欠かすことのできない大切なものです。これを実践できるのは、この地上におけるクリスチャンの恵みの特権でもあります。

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