2006年11月9日祈祷会メッセージ
第18章 人生を共に経験する
◎[コロサイ人への手紙] 3:15
「あなたがたはそれぞれ、キリストの体の一部です。そして共に平和に暮らすために選ばれたのです。」
私たちクリスチャンが共に平和に暮らすために、イエス様は十字架にかかって下さったのです、ということがここに含まれていると思います。
皆さん、日本は平和なんでしょうか。
ある人は、日本は平和だからろくな事がないという人もいますし、ある人は、日本は平和ではない!もう戦場だ、とこういうふうに言われる人もおられます。どうしてかって言いますと、例えば戦争でいま争っておりますイラクの戦死者と、日本の自殺者の数は、ほぼ、同じです。大体平均して1日80数名の人たちが自殺をしているという。これが日本の現実であります。
そうすると軽々しく平和だ平和だ、と言って居られないということも言えるかと思います。
どうして平和でないのか。根本的には私たちの内側に、人間の内側に平安がないということであると思います。反対の言い方をするとすれば、人々の内側に、日本人の内側にといってよろしいと思いますが、不安が渦巻いている。だから、平和ではない。平安があるのに自殺しようかなぁー平安だから、とそういう人はいないと思います。やはり、不安と怖れと、そしてまた苦しみがあるからであるということができると思います。
新約聖書における平和と言うのはどういうものでしょうか。その源はイエス様の十字架にあると言ってよいと思います。
アダムとエヴァの堕落以来、神様と人間との間には罪というものが挟まって、罪を挟んで神様と人間は近寄ることが出来ない断絶状態にある。あるいは、敵対状態にある。このように言ってよろしいかと思います
それで、神様と人間との間には平和がなかったわけであります。和解がなされていなかったわけであります。神様は徹底的に罪を嫌われるお方でいらっしゃいます。そしてまた人間はこの罪から離れることが出来ない、こうした哀れな存在であります。ということになりますと、いつになっても平和が来ない。敵対関係、断絶関係が続いてきたと言ってよろしいと思います。
イエス様が人間のすべての罪を負って下さって、十字架におかかりになってくださり、私たちの身代りとなって、私たちの罪のために神様のバツをお受け下さった。これがイエス様の十字架であると言ってよろしいと思います。
神様と私たちの平和がそこに成り立ったわけであります。こういうふうに考えていただいてもよろしいのではないでしょうか。
イエス様は神が人となられたお方であり、神であられ、また、人であられるお方であります。その神の御子が「父よ」と、お父さんであられる神様に向かって「私が彼らに代わってあなたからバツを受けますから、どうぞ彼らをゆるしてやって下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と、このようにとりなして下さった。
そしてまた私たちに向かっては、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。今まであなたがたは罪のゆえに近づくことのできなかった神の国を私がもってきましたよ。ですから悔い改めて人生の方向を180度転換して、神の民となりなさい。神の国に入りなさい。」このようにイエス様は言って下さった。そして神様のみ手と、人間のみ手とを近づけてくださって、握手をして下さった。和解をさせて下さった。これがイエス様の十字架。このように考えることができると思います。
私たちの真の平和は、真の平安は、イエス様の十字架から来るとこのように言ってよろしいと思います。
この平和、平安がなかったら、本当に苦しいですね。
例えば重罪人が警察の近くに行ったら、わざわざその前を通るということは無いと思いますね。私はトムを連れて結構警察の前を通りますけれどもね。重罪人は警察の前を通らない。なぜなら、それは罪を犯しているからであります。罪を犯しているから、重罪人だから捕まるかもしれない。罰せられるかも知れない。そんな不安をもっていたら警察の前はなるべく避けて遠回りしていくに違いないと思います。
ところが、もしこの重罪人が無罪となっていたら、これはもう警察の前でもどこにでも平気で通ることができる。なぜなら罪が赦され無罪とされているからであります。
それと同じように、私たちはイエス様が十字架におかかり下さって、私たちの罪のすべてを負うて、私たちの身代りとなって罪を取り除いて下さった。そのおかげで信じる者は平安を頂くことができる。イエス様が与えて下さる平安を、神との平和を、私たちも頂くことができる。そしてこの平和を神様との平和だけではなくして、人との平和にもこれを広げていく、これがクリスチャンライフであると言ってよろしいかと思います。
ですから、このパウロが言っているこのコロサイ人への手紙「共に平和に暮らすために選ばれたのです」。これはそういう意味をもっていると考えてよろしいかと思います。
そしてまた、リック・ウオレン先生がこの章の最初にこの句を挙げられたのはそういう意味であるというふうに思われます。
そしてまた先生がもひとつ挙げられている言葉は、
◎[詩篇] 133:1
「神の民が共に一致して生きることは、なんと素晴らしく、なんと麗しいことでょう。」
同じヤウエイの神様は、信じる兄弟姉妹が一緒に一致して生きることは素晴らしく麗しいと、これは教会生活を賛美している詩篇と言ってよろしいかと思います。
つまり神様を中心としていろんな人達が一致して調和して生きるということであります。これが教会における教会員同士の交わりにも適用するということができると思います。
一致してということは、みんなが同じになるということではない、とわたくしは思います。みんなが同じようにならなければならないということは、これは独裁国家であります。
そして、一致してというのは、ハーモニー、調和してという意味が含まれていると思うわけであります。それぞれ個性を保ったまま一致する、調和する。これがここで言う一致ということであります。
私はディレクターをやっているときに、国語学者で、岩波の国語辞典なども編纂されている大野晋先生という有名な言語の専門家でありますけれども、このお方とお会いしたことがあります。この先生が「和」ということについて話して下さったのであります。「和」平和の和ですね。
「和」と言うのは、結局一つになることではない、みんなが同じになることではない。それぞれ個性を持ちながら一致することなのである。つまり、ハーモニーだと言うことを教えて下さいました。
まさに、聖書におけるこの一致ということも、そういう意味であろうかと思います。
イエス様の12弟子、この人たちの中にもいろんな人がいましたですね。
例えば熱心党のシモン。この人は大変な愛国者ですよね。そしてまた国粋主義者ですよ。ユダヤ最高!ってね。他なんかは、目じゃない。ローマ帝国なんか目じゃないという、こういう人ですよ。これが熱心党のシモンでありました。
ところがですね、もう一方の取税人マタイは、ローマ帝国の手先になって同胞ユダヤ人から税金を、特に不当な税金を巻きあげているというそういうな人物ですよ。これ、熱心党のシモンが見たら、もう、ブスッとやりたい様なそういう相手です。しかしその二人が、ほかにもいっぱい、いろんな人がいるわけですけれども、イエス様を中心にして一致して、調和して一緒に働いているのですよ。これが一致であるということができると思います。
また女性のお弟子さんの中に、例えばヘロデの家隷クーザの妻ヨハンナというのがいますね。これはとんでもないエリート官僚の奥さんですよ。それこそ財務省の主計局長婦人というような人ですよ。一方で、マグダラのマリアという人は、七つの悪霊にとりつかれてまともな社会生活も出来なかっただろうという。そういう人物が一緒にいるのですよ。普通だったら近寄ることも出来ないですね。それが一緒に洗濯をしたり食事を作ったり仲良くしていたということが聖書の中に書かれている事柄なのです。
このようにして、全然この世においては接触することも出来ないような、顔を合わせることも言葉を交わすことも出来ないような、あるいはまた、敵対関係にあってもおかしくないようなそういう人達が、イエス様を中心にして一致している。調和している。そして前進しているという姿をここに見ることができるわけであります。
これが教会における、また、教会員同士の、クリスチャン同士の交わりに適用されて行かなければならないということであると思います。
この交わりというのが今回のテーマであるのですけれど、英語ではFellowshipと呼んでおります。
☆「交わり」=Fellowship・・・人生を共に経験する(experiencing life together)
―――「交わりの人数が少ないほどよい」(small is better)
―――1番良いのは、1対1。しかし、クリスチャンの交わりは、最低「3人」。
―――◎【マタイによる福音書】18:20
「ふたりまたは3人が、私の名によって集まっているところには、私もその中にい
るのである」。
―――人が1対1でも、そこにイエス様がおられる!(2+1=3)
リック・ウオレン先生は「交わり」と言うのはFellowship、experiencing life together
一緒に、共に、人生を経験するという風に解釈をしておられるわけであります。
そしてこの交わりは、数が少ないほど良い。 Smaller is betterと書かれておりますけれど、人数が少ない方がより良いと言うのですね。
私が考えますに、そういうならば、もう、1番良いのは1対1。1対1が1番良い。
でも、クリスチャンの交わりは、1対1ということはあり得ないっていうのもまた、真実であろうと思います。なぜならば、イエス様が共にそこにいらっしゃるからです。
マタイによる福音書18章20節
「ふたりまたは3人が、私の名によって集まっているところには、私もその中にいるのである」。とイエス様は言われましたですね。
ふたりまたは3人が集まっているところには、私もその中におられると言うことですから、3人。最低3人。これはベストですね。 これが交わりのベストであると言ってよろしいと思います。
鴨居は小さい町であります。そしてまた小さい教会、横浜カルガリーチャペルがあるわけであります。そこで金曜日と水曜日に聖書を学ぶ会と祈祷会をやっているわけであります。
金曜日の方はまもなく400回になります。結構やりましたね。初めから出ておられる方もいらっしゃいますから、その方は私よりも詳しい(?)という、そういう方でありますけれど・・・。
時間は始め1時間は聖書を学んで、30分はティータイム。お菓子などが出まして、その後、証の時間、祈りの時間ともっていくわけでありますが、大体今20数名の人たちが集まってくださっております。
テーブルがありまして、ちょうど入る人数がそれ位なんですね。それ以上きたら会堂の方に行かなくてはならないのですが、その人数でやっているわけなんですね。そして一人一人お証の時間には希望者にお証をして頂くのです。お証しをして頂くとは素晴らしいことですね。お証をし慣れてきますと、自分の生活の中でどんな小さなことでもお証できる。つまり、感謝ができるということですね。
おあかしの習慣の中から1週間がついて来ると言ってもよろしいと思います。おあかしをして下さるのですね。その証で恵まれるんですよ。ですからわたくしは祈祷会ではメッセージはしない。必要がないのです。一人一人にお証しをして頂いて、そしてその方のためにお祈りをする。それに皆が和して下さる。そういう風にして一人一人続けていくわけであります。
実はこの間ある姉妹が「内装を新しくしましたので、どうぞ皆さんいらして下さい」と言われました。皆さんと言っても、そんなに入れないスペースなのですよ。ですから近所の人たちと一緒に家庭集会というものをもったわけです。
こういっちゃなんですけれど、狭いのでテーブルなどは置けないのです。ですから膝と膝を突き合わせる、とよく言いますけれど、本当にまぁ、隣の人とぶつかっているような、そんな状況下で6・7人の家庭集会をもったのですね。そうしましたらこれが恵まれましてですね。
教会では約20人で、20人なんて多くないですけれど、しかし20人でテーブルを挟んでいると、やっぱり違うんですよ。ちょっとよそ行きなんですよ。やっぱりよそ行きになっていく。そして本当の自分の内側、これはちょっと止めておこうかとか、こう言うと恰好悪いかとか、そういうことを色々と自然のうちに気にするんだと思います。
ところがこの時は、それが無くなったのです。膝と膝をつきあわせている感じですね。そして、ある姉妹などはこちらから聞きもしないのに亡くなられた御主人と結ばれた経緯などを話してくれたりなんかしてですねぇ。そうしますと結局その人の全体がわかって来る。その人の人生がわかって来る。そうすると交わりが深くなってくる。そして、何を話しても大丈夫。そういう、なんと言いましょうか、信頼感というものが生まれて来るということを体験しました。ですから、やはり人数は少ない方が良いと思いました。
そう言う意味で、リック・ウオレン先生はsmall is betterと言っておられるのだと思います。
原則としては1対1が理想的だなと私は思うのであります。
何かのグループに属するとかいうこともありますけれども、そういうグループの活動で、あるいはまた、その辺で食事を終わった後、帰るその時に出会った人との会話、そういうことも大事にしなければなりませんし、そういうところで出会った方々と信仰の友になるということも非常に大切なことであると思うわけであります。
私は座間教会にお伺いして、そのころは家庭に大きな問題、娘の問題を抱えておりました。夜の祈祷会が終わって暗い中でありますけれども、家の方に歩いて行きました。ちょうど座間駅の方に歩いていくわけですね。そうしましたら踏切のちょっと手前あたりで土屋美和子さんとご一緒になって歩いていますときに、美和子さんがこう言って下さったのですよ。「親に祈られている子供さんって、神様がしっかりとガードして下さるから、決して完全に取り去られるということは無いそうですね」って言って下さったのですよ。これは、もう私にとって一言ですけれど、本当にあぁそういうふうに考えることができるのか、そういうことがあるのかと、まぁ先輩クリスチャンの言葉に感動したことを覚えております。美和子さんはきっと忘れておられると思いますけれども。感謝します。本当にそれによってどんなに励まされたか、勇気付けられたか、そういう一言ひとことによってですね。何もちょっとお話ししますって、結ばれたいきさつから話はじめる必要はないと思うんですね。そういう一言の中で信仰の友が与えられていくということであろうと思います。
☆真の交わりにおいて。4つの事を体験できる。
心の交わりについて4つのことを体験できるとリック・ウオレン先生は言っておられます。
@人々は、「本物」(authenticity・信頼性)を経験する。
―――authenticityとは、「信頼性」のこと。真の交わりとは、互いの信頼に基づいた交
わりである。
―――信頼に基づいた交わりとは邪心の入らない、心と心の通い合う、腹を打ち割った交
流である。この交わりには「勇気」と「謙遜」が必要。
―――自分をさらけ出す「勇気」、自分を誇らない「謙遜」。
リック・ウオレン先生は、本物を体験すると言っておられるのですが、本物と言うのはauthenticityという言葉なのですね。尾山先生は、本物と訳しておられるのですが、本物というと、何が本物かよくわからないのでないですか。別に文句を言っているわけではないのですが・・・。これは信頼性という意味があるのですね。信頼性。信頼性を経験できる。こうすると分かりやすいではないですか。信頼性を経験できる。つまり真の交わりは信頼性がなければ出来ないでしょう?。
この人に何か話したら、次の人にですね、あのねこの人、あーなんですってなんて言ってしまったら、真の交わりは出来ませんね。やはり信頼できる。何を話しても大丈夫。そのような信頼性がなければならない。またそれを交わりの中で体験することができると。こういうことであろうと思います。
信頼に基づいた交わりは邪心がないと言いますか、あるいはまた、心と心の通い合う、そしてまた、腹を打ち割ったそういう交わりということが出来ます。そしてそこにはイエス様がおられるということを忘れないようにしていかなければならないと思いますね。
ですから単なる風評ではない、噂話ではないのであります。イエス様が証人として立っておられて、ふたりの会話をとりもってくださっている、とこのように考えるのが正しいと思います。
そして交わりのためには勇気が必要ですね。
どういう勇気かと言いますと、自分のことを、これも話してしまおう、これも話してしまおう。
びくびくしてこれを話してしまうとまずいんじゃないか?とか、色々しているとそんなに気をゆるした交わりは出来なくなりますね。勇気が必要です。自分の内側を恥ずかしいことだけれども、これを相手にお話しようするという「勇気」が必要であります。
そしてまた、「謙遜」。
おしゃべりもですね、一方的に人が9しゃべって、片方は、「ハア、ハア」と聞くだけではこれもですねぇー。ですから、これもやはり謙遜ということも必要なのではないでしょうか。
勇気と謙遜が必要であるということができるかと思います。
“虎穴に入らずんば虎児を得ず”という諺がありますけれど、それ流に言いますと、“虎穴に入らずんば友を得ず”、と言うこともできるんではないでしょうか。そして、“謙遜なければ友を得ず”、という風にも言えるのではないかと思います。
謙遜に聞くこと、そしてまた謙遜に話すこと。しかし勇気をもって本音と言いますか、本当のことを腹蔵なく話し合う。それが本当の交わりだ。そこにはイエス様が必ずいつもおられるということですね。これが本当の交わりであるということができるかと思います。
A人々は「相互依存」を経験する。
互いに助け合い励ましあう。そういう事を体験できる。一方的でない。共に、互いにということがここに強調されているのだと思います。
―――◎[コリント人への第Tの手紙] 12:26〜27
「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が喜ばれると、
ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりは
その肢体である。」
これは“一心同体”という言葉がありますが、もうそれに近いことであると思います。
この前、川口のリリヤというところに、スー・ヨンセという先生が来られました。この先生は、中国のビリーグラハムと言われているそうでありますけれども、大伝道師だそうでございます。この人がですね、本の中でこういうことを書いておられます。
中国のリバイバルの源と言いましょうか、発祥と言いますか、そういうことについて。共産党は、クリスチャンから集会場を奪い取るならキリスト教はスタれると思っていた。クリスチャンは隠れて集会を開くことを余儀なくされ、ほかの人の寝ている夜中の3時ごろに2、3人で集会を開くこともよくあった。何年もの間、群れを僕する牧師も、勉強する聖書も、礼拝で使う賛美歌もなかった。その小さな集会が祈りと、互いの激励と、聖餐式に終始することもよくあった。私たちの信仰を表す外面的なしるしは、政府によって完全に奪いとられた。しかし政府は、私たちの力がそのようなものの中にはないということを知らなかった。私たちの力の源は、私たちの心の中に生きておられる復活されたイエス・キリストにあった。そしてこれを取り去ることは誰も出来ない。こういうふうに書いてあります。
僕は感動したのですよ。どういうところに感動したかというと、夜中3時頃に起きてふたりまたは3人が真っ暗な中で寄り集まって、牧師も、聖書も、賛美歌もないというところで一緒に励ましあって激励して、そして、聖餐式を分け合うという。本当に素晴らしいことだと思ったのですよ。そしてここにイエス様が臨まれた。ここにもイエス様がおられたのですよ。そしてここから小さい火が燃えあがってきたのですよ。その火がばぁーっと全国に集まって、そしてあの大火事のようなリバイバルが今起こっている。
中国のリバイバルの秘密がここにある。2・3人夜中にですよ。この人たち、信頼しなければより集まれないんですよ。“あの人はクリスチャンだ”と言ったらですね、密告さ合わなければ公安に(拘束)これですから。信頼と励ましと、そしてまた、イエス様を呼び求める熱心さですね。これが素晴らしい交わりで、ここにリバイバルの源があったと私は知って感動したわけであります。
そしてまたこの人たちは、互いに励まし合い、また助け合って、信仰を守って来たと。2、3人の主にある交わりが夜に集まって中国のリバイバルが生まれた、と言うことができると思います。
B人々は、「同情」(思いやり)を経験する。
―――sympathy ◎[ローマ書] 12:15
「喜ぶものとともに喜び、泣く者と共に泣きなさい。」
sympathyという言葉は、悲しむ者と共に悲しむ、という内容でありますけれども、しかし日本語に訳す場合には「同情」などと訳されておりますね。
同情というとちょっと抵抗があるのですよね。何故かというと、同情言うと、なんとなく上に居て、困っている人に対してちょっと見下して同情してやるという、そういうニュアンスがどこかにあると思いません?。そんな感じがありますよね。そうではなくして、もうその人と同じ気持ちになってですね、同じように悲しむ、悲しみを分け合う、分かち合う、という内容であると思います。それがsympathyと言う風に言うことができると思います。
しかし、「あなた大変ですねぇー、本当にたいへんねぇー」、とそればっかり、ずーっと繰り返し言い続けてもあまり役に立たないないんじゃないかな。それも大切なことですけれども、しかしそこには励ましが必要になるのではないでしょうか。励ましもですね、「あなた大丈夫よ」とただ大丈夫、と言われても何で大丈夫なのかわからない。「ほら、ねぇ、主が、主がいらっしゃるから。主が助けて下さるから。」そういうふうにして励ますのが大切なのではないでしょうか。
そしてまた、自分自身が艱難を、試練を、苦しみを体験しているということもここで用いられるのではないでしょうか。どんなに苦しんでいる人がいても、「私もねぇ、同じように、いやそれ以上に、苦しみを体験したんですよ。しかしねえ、主はそのままにしておかれないですよ。解決を与えられて、そして祝福が与えられていますからね。あなたも必ずそうなりますよ。」と主にあって励ますことができるからであります。そのようにして、結構、試練あるいは自分が体験した艱難もまた用いられるということであると思います。
そしてまたそれが下であればあるほど結構、説得力がありますよね。ですから、その下の下にはイエス様の十字架の死がありますでしょう。黄泉に降られたイエス様がおられるでしょう。そして下の下には永遠の腕があるというみ言葉がありますけれども、そのようにして、下の下、それが用いられる。
そして上を仰げば神様が、父なる神様が引き上げて下さったイエス様が天におられて、神の右の座におられて私たちのためにとりなしをしてくださっておられる。
上を見れば素晴らしい。下を見ても絶対大丈夫。黄泉から引き上げて下さる御方がいらっしゃる。これは本当に素晴らしい励ましになるのではないかと思います。
そして今度は喜ぶものと共に喜ぶということですね。
これは難しい。悲しんでいる人と悲しみを共にするよりも、こっちの方が難しいって、聖書学者たちは口をそろえて言うのですね。
どうしてかというと、嫉妬心が沸くからだそうですよ。嫉妬心が沸くから人が繁栄したり成功したりしますと結構妬ましくなってしまって、「そぉーお」、みたいにがっかりしちゃったみたいになってですねぇ。そういうところがある、とこういうわけであります。
しかし私のところで一切の問題が解決したことがありました。
そのとき大川先生と道子先生が家に来て下さったのですよ。お花をもって来て下さったのですよ。恐縮しましたですね。こちらこそいつも祈っていただいてお礼にお伺いしなければいけないのに、ご夫妻が来て下さったのですね。
それで、“本当に申し訳ありません。”と言って恐縮しましたら、大川先生の言葉が凄いんですよ。“喜ぶ者と共に喜ぶことができるというのは、牧師の特権ですから。”と言われてニコッと。もう、ショック。もうショック。これは。家内なんか、「私たちも祈って来ましたからね、」ってこういう一言が出るかと思っていたらしいのですよ。・・私はそう思わなかったのですよ・・(笑い)、そしたら違う言葉が出て“喜ぶものと共に喜ぶ”という言葉が先生の口から発せられて、家内は本当にまた特別に衝撃を受けたということでございます。凄い先生だなぁということを実感したということであります。私はもう元々そう思っていましたけれどもね・・・。(笑い)
C人々は、「憐れみ」(mercy)を経験する。「赦し」は「過去」を手放すこと。
―――◎[ローマ書]6:14〜15
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちを赦ならば、あなたがたの天の父も、あな
たがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、
あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」
真の交わりにおいて、憐れみmercyという言葉が使われていますが、これは「恵み」と訳してもよろしいと思いますし、「慈悲」という風に訳してもよろしいかともおもいます。
主にあって赦し合う。そしてまた、自分は主から赦された、罪赦された者であるという自覚。そうした自覚をもって人と交わる。あるいはまた教会のクリスチャンと交わりをするということ。これは本当に素晴らしいことであると思います。これがクリスチャンの交わりの基本である、根底である、と言う風に言ってよろしいのではないかと思います。
三浦綾子さんの小説に、“愛の鬼才”という西村久蔵の歩んだ道という素晴らしい小説がありますけれども、西村久蔵という人は凄い憐れみの人と言いますか、愛の人であったようですね。
当時の堀田綾子さんですね。三浦さんになられる前の綾子さんですけれども、結核にかかって、札幌医大病院で長期療養中でありました。療養生活7年。まだ29歳の綾子さんでありましたけれども、死と隣りあわせ。治る見込みは殆どないかと思えるような療養生活を送っておられたわけであります。
綾子さんの幼なじみで、後に恋人となられてイエス・キリストを信じるようにと一生懸命すすめられた前川正という方がいらっしゃいましたですね。この方が、「イエス・キリストを信じなさい。綾子さんそんなではダメだよ」とこういう風に一生懸命すすめて下さったいた。でも綾子さんはあの戦争のショックで、あの軍国主義教育をしてしまった自分の過去をどうしても赦すことが出来ない。どうしようもない。希望がない。裏切られた。また自分もとんでもないことをしてしまった。そういう思いをもって絶望のどん底にいたわけであります。
そんなある日、西村久蔵さんが当時の綾子さんの病室を訪れます。
当時の綾子さんは何の収入もなかったものですから本当に貧しい。看護婦さんから、着替えをして下さい、と言われても着替えをもっていない。そういう哀れな綾子さんでありました。また、旭川から札幌に転院をして知り合いが一人もいない状況でございました。その綾子さんの前に西村さんがはじめて現れるのであります。それは、前川正さんからこの“綾子さんをよろしく”と頼まれて来たわけであります。
西村さんは勿論熱心なクリスチャンであったわけであります。
綾子さんの前にたった西村さんは、年の頃56、57歳。西郷隆盛に似たそういう恰幅の良い、写真にもそういう写真がありますけれども、このクリスチャンが立たれた。西村さんの着ている背広、私が着ている背広は結構いいんですけれども・・、西村さんの背広の袖口は破れていて、靴はというとボロ靴。その人がやってきました。
この方はクリスチャンとしても大変な人望のある方でありますし、又教育者であったこともあり、社長でもあるわけですから、結構、仲人さん役を頼まれたりしてました。しかし、まさか仲人をするときにボロ靴を履いていくわけにいかないから、その時には、自分のところの若い社員の靴を借りて仲人を務めるという、そういう人であったそうであります。
しかし、ボロ靴を履いていると人のためには靴を買ってプレゼントする。そして自分はボロ靴を履いている、という西村さんであったということでございます。典型的な仕える人、与える人であったということができると思います。
この西村さんは札幌の駅前に“洋製の西村”とうケーキ屋さんを開いており、また、製パン工場を経営している経営者なのです。ですからお金はあるのですけれど、こういう風にして人に与えてしまうという生き方をしていた人物でありました。
この西村さんが綾子さんの病状などを聞いて、深く頷いてこういうふうに言ったというのですね。
「これはわたくしの店で造ったお菓子です。シュークリームは生物ですからこちらを先に召し上がって下さい」と菓子折りを出しました。そうしましたら綾子さんはそれを受け取ろうとしない。そして、こう言われて返されたそうです。
「私は長い療養中の身です。長い病気ですのでいつも人様からお見舞いを貰うのを当たり前に思うようになりました。でも、人様からもらうことになれると人間が卑しくなります。どうぞ、お見舞いの品は御心配下さいませんようにお願いします」と言ってつき返したと言うのですね。あの人も凄いですね。私なんかですと、「ハアそうですか」と言って頂きますが・・。
すると西村さんは大きな声でワッハハと笑って”判りました。しかし、堀田さん、あなたは太陽の光を受ける時あっちからの角度でなければ駄目、こっちからの角度からでなければ駄目って、そんなしゃちほこばって生きているのですか?”というふうに言われたそうであります。
そして、綾子さんはこういうふうに文章に書かれております。「私はその笑顔と言葉に自分の愚かさをはっきりと知った。受けるということがどんなことか。私はそれまで知らなたったのだ。生まれてからその時までわたくしは父母兄弟をはじめ多くの人から数々の行為や親切を受けてきた。それはあたかも太陽の光をふんだんに受けるのに似ていた。だが、療養生活が長引くにつれ、わたくしは受ける一方の生活のなかで心が歪んでいたのである。私は太陽の光をおおらかに受けるべきであったのである。人の愛を受けるのに必要なのは素直な感謝な心であった。そのことを忘れて初対面の先生にお見舞いの品を非礼にも突き返したのである。こういう風に書いてられますね。
西村さんはその後、「堀田さん、あなたは札幌に甘えることのできる親戚や友人がいらっしゃいますか?」とこう聞かれた。「そうですか、では、今日から私を親戚だと思って何でもわがままを言って下さい。」こう言われたそうであります。
親元を離れて札幌に来て誰も頼るものはいない。その綾子さんにとって何と暖かく、そしてまた慰めに満ちた言葉であったろうかと、綾子さんはその当時を振り返っておられます。
それから1週間後に看護婦さんから伝言があります。
「西村さんという方からくれぐれもお大事にということでありました。」こういうふうにして電話をかけて来る。そして西村さんはその後3人部屋に移ると3人分のお土産を持ってくる。そして6人部屋に行くと6人分のお土産を持ってくる。そういうふうにして、また鍋物を持って来てくださる。こぼれないように持ってくると言うのですね。お正月には正月料理を持ってきてくださると言うのであります。
皆さん、結核は伝染病ですよ。空気伝染であります。当時は家族の者でさえも寄り着かない。そういうふうに言われていました。そして例えば自宅で療養する場合も離れの物置の中に入れられるという、そうゆう時代ですよ。それなのにこの西村さんは赤の他人であります。その方が時々来て見舞い、6人分のお見舞いも持ってきて下さる。出来ません!。これは出来ない。
西村さんのお宅は経営者の社長のお宅ですから大きなお宅であったそうでございますが、息子さんのYさんの証によりますと、Yさんは自分の部屋に一人で寝たことは滅多に無かったということです。何故かというと、知らない人でも誰であっても宿の無い人をみんなオヤジさんが連れて来て自宅に泊めてしまうからです。ですから、いつも誰か知らないオジサンが自分の部屋にいたという、そういう素晴らしい無条件の愛を提供する、そう言う人物であったそうでございます。
中には罪を犯してそこにやってくる人達もいて、お店のお手伝いなどさせるとお金を持って逃げちやう様な人もいたそうでございます。そうすると西村さんは「あぁ、渡してやった金が少し足りなかったかなぁ」って。言えませんねぇ、皆さん。そういうふうにして相手を思いやる西村さんであったそうでございます。
綾子さんは西村さんに会ったその年に洗礼を受けたのであります。
その時のことを綾子さんはこう書いてられます。小野村牧師のやせた手が私の頭に置かれるときわたくしは深い感動に涙が吹きこぼれた。銀の洗礼盤を持った西村先生の頬にも大粒の涙が伝わるのを見た。その席で西村先生は私のために祈って下さった。その祈りの言葉は嗚咽の中に幾度か途絶えた。
「この病床において、この姉妹を神のご用にお用い下さい」。 祈りの中のこの一言が今のわたくしの耳に残っている。病床においても用いられるという喜びがこの一言によって湧いてきたのでした。癒されるにしろ、癒されないにしろ、病床が働き場であるならば自分の生涯は充実したものになると私の心は奮い立ったのである。
西村先生の生き方に僅かでも触れた私は、キリスト者とは、すなわち、キリストの愛を伝える使命をもつものであると堅く信じるに至った。その真実さの延長線上に現在の小説を書く私の仕事もあることを思わずにはいられない。こういうふうに書いてられますね。
この西村さんも綾子さんを病床に訪問してから1年4カ月で天に召されていくのです。
綾子さんが小説家としてデビューする、あの朝日新聞の長編小説“氷点”ですね。この作品が入選する11年前のことでございました。
西村さんはギブスベットに寝かされ、そこで動くことのできない綾子さんしか知りませんでした。あんなに有名になるんだったらもっと親切にしていればよかった!そんな人ではなかった。もう、もしかするとこの病床の上でそのままかもしれない。そんな綾子さんのために愛をそそぎだされたのであります。
私は三浦文学を支える3本の柱があると思っております。
1本は、何といってもあの恋人であり、また幼なじみであったクリスチャンの、綾子さんを導いてクリスチャンにして下さった前川正さん。この方は結ばれることなく若くして召されて逝った方であります。
そしてご主人の三浦光世さんですね。そしてこの西村久蔵さんです。この3本柱があって三浦文学は成立したと私は見ているのであります。
私などにはとてもこんな立派なことは出来ません。しかし、西村久蔵さんといえども、ご自身がイエス様の十字架によって、イエス様によって赦された存在である、そういう自覚がなかったならばどんなに、元々親切な西村久蔵さんであっても、こんな愛は発揮出来なかったではないでしょうか。示すことが、与えることが出来なかったのではないでしょうか。
そういう意味では神様の憐れみを体験しているということが私たちの特権であります。そして私たちは赦された存在でありますから、だから人をゆるすことができる。そしてまた憐れみの心をもって接することができる。そしてこれが交わりの根底にならなければならない事柄であると思います。自分が許された存在であると思うときに感謝が湧いて来るではありませんか。感謝し、そして憐れみの心をもって人に接することができたらこんな素晴らしい交わりはほかには無いと思います。
最後にヨハネの第一の手紙4章の11節のみ言葉をお読みして終わりたいと思います。
「愛する者たちよ。神がこのようにわたくしたちを愛して下さったのであるから、わたし
たちも互いに愛しあうべきである。」
お祈りします。
恵み深い天の父なる神様。あなたの尊いみ名を心から崇め賛美いたします。私たちは生まれながら愛の無い者であります。愛の足りない者であります。そして愛と思いながらもそこにはいろんなエゴが入ってしまうような、そうした弱い者であります。しかしあなたは十字架上で真の愛を私たちに示してくださり、またそこで平和を作り出してくださって平和を私たちに下さいました。私たちはあなたの十字架によって赦された存在であります。私たちは決して人を裁くことなく、どうか主よ、ゆるす存在として、そしてまた、憐れみを分け合うそうした存在として、どうぞあなたが用いて下さいますように。信仰の友をもち、共に交わる素晴らしさを体験していく人生。どうぞ主よ、あなたが守ってくださり、また、そうした人生を私たちに送らされて下さるようにお願いします。
どうか大川先生ご夫妻をお守りくださって、無事に聖務を全うされて日本に帰ることが出来ますように導いて下さい。お願い申しあげます。
そして今日小さな者があなたの哀れみのうちにご用をさせていただきましたことを心から感謝申しあげます。どうかここに集われました一人一人の上にあなたの祝福があふれますようにお祈り申しあげます。感謝します。尊い主イエス様のみ名よってお祈りいたします。アーメン。