2006年10月18日祈祷会メッセージ
第16章 一番大切なこと
こんな童話の話があります。ある金持ちが死に臨んで大切にしてきた遺品を3人の息子達に分かち与えました。長男には、地の果てまで見える望遠鏡。次男には、一瞬のうちにして行きたいところに行けるカーペット。三男には、食べているあいだに願いをすれば何でもかなうというリンゴ1個。
ある日長男が望遠鏡でのぞいていると、遠い国の王女が明日死ぬかもしれないという重病にかかっていることが分かりました。すると、その横にいた次男が、三人で絨毯に乗って助けに行こうと言うことになりました。宮殿に到着すると、三男が早速リンゴをかじりながら“王女の病が癒されるように”と願いごとをしました。すると、直ちにその願い通り、約束通りに王女は癒されたのでありました。するとその国の王様は、この三人のうちの誰かを自分の娘の婿にしようと言います。すると、この三人の息子達もその気になって、俺が、俺がって、三人3様に言うわけであります。
そこで困ったことになった王様は、さて、三人のうちの誰にしよう。そして決めたのが三男でした。三男をなぜこの大切な娘の婿にしたか。それは、三男の場合は自分の願いが叶えられるためにはリンゴを食べてしまうので、食べちゃうとそのリンゴは無くなるわけじゃありませんか。しかし、長男や次男は、望遠鏡にしてもカーペットにしてもまだ残っているわけで、犠牲を払った三男に大切なこの娘を、王女を、嫁として与えよう。そういう話なんですけれども、王は三男と自分の娘、王女を結婚させて、自分の立場をも与えたという話です。
今日、話を進めていこうと思っているテーマは、「愛」であります。
愛ということを話して行くとき、やはり、愛は言葉だけではありませんで、そこには犠牲が伴うということです。
今日は第16章になりますけれど、「1番大切なこと」、をご一緒に学んでいきたいと思っております。
ずうーっと、シリーズで続いておりまして、第一の目的が終わり、第二の目的に入っているのであります。第二の目的にあたる、1番大切なこと。
第二の目的:あなたは神の家族となるために造られた。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝です。」 (ヨハネ15の5 CEV)
「キリストは私たちを一つの体に造られ・・お互いを結び合わされた。」
(ローマ12の5 GWT)
あなたは神の家族となるために造られた。
神の家族となるために造られた目的の中の、大切な二つ目のテーマであります。
第16章 「一番大切なこと」
「わたくしが何を言おうと、何を信じようと、そして何をしようと、愛がなければ私は破産者にすぎません。」 (第一コリント13の3b Msg)
「たといまた、わたくしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」
(口語訳コリント第一の手紙13章3節。)
「愛とは、神が私たちに命じられたように生きることです。あなたがたが初めから聞いているとおり、神の命令とは、愛に生きることに他なりません。」 (Uヨハネ6 NCV)
「父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。」アーメン。
(口語訳第二ヨハネ6節)
生きるとは愛することです。
今日の大切なテーマは、「生きるということは愛するということである」と言うことです。
私たち人間の性質からいって、この愛するということに対してはいつも戦いがあると思いませんでしょうか。わたくしたちに興味をもたれたり、あるいはまた、親しくしている人にならできることかもしれませんしかし、自分の好みでなかったり、見た目で嫌だなあーとか、関わりたくないなと思っている人に対しては、積極的に自分から愛を表していくことは難しいと思います。
神さまの願いは、私たちがすべての人を愛するようになることですが、リック・ウオレン先生は、その中でも神の家族に対しては、特に愛を表していくように、ということを強調しておられます。これは非常に大切な点だと思います。神の家族、すなわち、私たちここにおられる愛する兄弟姉妹の方々に、このキリストから受けた愛を流していくように、仕えていくようにということであります。
第一ペテロの2章17節には「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
神の民に対しては特別に愛を示しなさいと、パウロもこのことを強調し、誰かを助ける機会が訪れたときには、進んで助けてあげるべきです。とりわけ信者の家族に対しては、特別に配慮をすべきです、と教えています。
あまりこういうメッセージをわたくしは引用したことがありません。
神様はどうしてこの信者に対して特に愛と配慮をもって私たちが示すように、この隣に座っている方々に対して、イエスさまを知らない方以上に私たちは好意的な言葉、行動、態度を示すように言っておられるのでしょうか。
なぜ、私たちのこの神の家族、愛する兄弟姉妹が優先されるべきなのか。それは、
リック先生によると、神の家族に特に際だたせて頂きたいのは、愛という性質であるからだ。そういうふうに言っておられます。
神の民が愛し合うことを通して、私たちはキリストの弟子であることを知る、とヨハネによる福音書の13章35節にあります。
神の民が愛し合っていることを通して、そこにキリストが現されていく。世の中の人を愛して世の中の人にわたし達が仕えていくことも必要なのですけれども、私たち主に赦され、永遠の命をいただいている神の家族を先ず愛し、そして、仕えていくことを通してそこに神ご自身の臨在が、キリストが現わされていくということであります。
神の家族と申しましても、周りをご覧になるとお分かり頂けると思いますけれど、老いも若きも、また、生まれも育ちも全然違います。教会の中でも愛していく、その愛を実行に移していく、形にしていくということは難しいことだと思いますね。神の家族を愛し、そしてキリストの体なる教会を建て上げていくのに、自分の力では出来ないと思いますね。ですから、イエス様は十字架にかかり死んで下さって、私たちに聖霊を送って下さったと聖書には書いてあります。
聖霊による満たし、または聖霊によるバプテスマによって私たちは神の家族と積極的に関わり、仕えていくことができるのだということだと思いますね。
私は、聖霊のバプテスマというときに、勿論、異言という賜物も前回おすすめさせて頂いたときお証しいたしましたけれども、もう一つ大切な点が、聖霊のバプテスマは、キリストの体の一致のために必要だという風に思っております。聖霊のバプテスマは、キリストの体が愛によって建てあげられ、私たちが積極的にお互いを愛し合っていくときにどうしても必要なものであるとそう思っております。第一コリントの12章にはそういうふうに書いてあります。アーメンですか?
聖霊によるバプテスマというとき、個人の徳を高めると聖書には勿論書いてあります。しかし、個人の徳が高められなければ、私たちは人を祝福することも、また、人に仕えることも出来ないのです。しかし、聖霊が注がれたのを見ますと、あのペンテコステの日に120人の主にある仲間たちに先ず注がれたではありませんか。主を求めていた、主の約束にすがっていた彼らに注がれたのです。愛を実践していく上で一番大切だと言われるこの愛を、私たちが実際に実行に移していく中で大切なのは、聖霊を私たちが求め続けなければいけないということだと思います。
今日の本題に入っていきたいと思いますけれども、今日は、三つテーマがあります。
◇第1番目:愛に生きることこそ、人生の最も有意義な使い方である。
愛こそ最優先事項であり、最終目的であり、最終目標であり、最大の願いであるべきです。あなたの人生において、そこそこ重要なものではなく、最も大切なものです、とリック・ウオレン先生は言っておられます。そこそこ重要なものではなく、最も大切なものなのです。愛すること、それが最終目標であり、最終目的であり、最大の私たちの願いであるべきです。アーメン。
昔のコマーシャルに、冷蔵庫、電気がなければただの箱。皆さん知っていらっしゃいますかね。こういうコマーシャルがありました。
わたくしも結婚してはじめて10万円以上もする高級な冷蔵庫を、清水の舞台から飛び降りる決心で買いました。洗濯機も10万円くらいしました。でかい洗濯機ですよ。うちの家族は6人ですからね。洗濯も1日何回もしなければいけない。乾燥機まではちょっと手が届かなかったのですけれども、一応、乾燥機つきなのですが、あんまり電気乾燥機というのは乾燥できないですね。
どんな高級な冷蔵庫や、洗濯機、また、最新型の薄型の大きなテレビ、または、MDや今のポータブル、アイマックのような音楽システムであっても、電気がなければただの箱。それは勿論です。
要するに愛も、冷蔵庫の例えと同じように、信仰生活上、私たちは愛がなければただのクリスチャン、ただの人。これがないなら逆に言えばもっと悪いという風に世の中から見られるかも知れない。電気製品がコンセントにされいなければ、冷蔵庫だってそこにある大きな粗大ゴミですよ。どんなに立派なハイテクの洗濯機であろうとも、ただの置物です。愛がなければ、愛による動機がなければ第一コリント13章には、役に立たない、価値がない、むなしい、とパウロは厳しい言葉を言っております。
三つのポイントです。
@愛の無い人生は全く価値がない。
愛というのは、その言葉だけでは成り立ちませんね。その言葉だけでというより、神は愛なのですけれど、三位一体の神様が互いに愛による関係にある。愛という言葉は対象があってはじめて愛、愛する。愛だということができると思います。人生において最も大切なこと。それは、愛をもって結んでいく関係だと言えますね。何かを達成することでも、獲得することでもなく、最も大切なことは、今回のテーマによると人との関係であり、そして、私たちの縦との関係、神との関係であること。関係です。
A愛は絶えることがない。
愛に生きることこそ人生の最も有意義な使い方の第2は、愛は絶えることがないから。
永遠に残るものは、信仰と希望と愛。そしてその中で最も偉大なものは愛。第一コリントの13章13節にあります。
Bどのように愛したかが評価される。
神の家族を愛するということは、具体的に私たちがその愛する回りの方々の必要に応え、その必要に応じていくということです。
マタイの25章の40節(NRSV訳)
「はっきり言っておきます。私の家族の最も小さい一人にしたのは、私にしたのと同じことなのです。」
私が神学校時代から励まされているみ言葉は、ガラテヤ書の5章6節
「尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」
では具体的に愛と言うのはどういうことなのでしょうか。2番目であります。
◇第2番目:愛を示す最善の方法は、一緒に時間を過ごすことである。
@どれだけの時間を費やしたかが、あなたにとっての重要性と価値を表すことになるのです。
相手にとってもそうでしょう。私にとっても、どれだけその相手の人に私たちが時間を使うのか。それが愛していることへのバロメーターではないでしょうか。
夫婦関係でも、親子関係の中でも、どれだけの時間をとっていくのか。これは非常に重要だと思います。時間を注がなければいけないから、時間を取らなければいけないから相手をするのでは、これはおかしなことになってしまいます。妻や子供を愛しているがゆえに、喜んで自分はその時間を彼らのために割きたい。それが正しい動機であると思います。
米村英二という先生が熊本の教会の牧会をしておられます。この先生の書物の中にこういう文章がありました。
キリスト教が結婚を重んじる理由の一つは結婚の持つ社会的影響の大きさにあります。キルティーは正しい結婚観は正しい国家の基礎であると言いました。正しい結婚観の基礎は、正しい国家の国家観の基礎であると言いました。一つの国家、一つの時代がどの程度、神聖に扱うか。それによって次の時代が決定されます。
結婚が尊ばれる社会では道徳は向上し、その反対の場合には確実にモラルが低下するのです。結婚を重んじている国は祝福される。しかし、結婚が重んじられていない国、途上国でよく見られていますけれども、そのような国ではその状態が、その時代、またその次の時代へと明らかに下降していくのは当然であります。
私は結婚して今年で10年になりますが、結婚前に彼女とお付き合いをしていた頃の話であります。私は教会に仕えておりましたので忙しくしておりました。彼女も仕事をしていましたので、献身したいという思いがあったそうですけれども、なかなかお互い忙しくて時間をとることが出来ない。そこで何か良い手だては無いかということで、一つの案を考えつきました。交換日記をしよう。私は中学の時だってこんなこと、したことないですよね。恥ずかしくて、そんな事していられるかって。しかしねぇ、皆さん、これ良いですよ、交換日記って。グループ日記でもいいですね。やったらいいですよ。毎週の大川先生のメッセージ、祈祷会のメッセージ、そして自分が信仰書や、毎日ディボーションしていく中で恵まれたみ言葉や、光を頂いたことを、書くのですね。それをお互い、あまり日は決まっていなかったのですけれど、交換していくことを通してお互い忙しいんですけれども、その恵まれた点を分かち合っていくのです。そういう中で、あっ、彼女はそう思ってるんだとかですね、私はこう思ったということをお互いにキャッチし合うことですね。私は書きたいことを書いて送ったら早くくれよってね、自分は勝手なもので、相手がどう思っているかは別として、自分の言ったことに対して早く回答が欲しくてですね、自分の時は何日もかかって、辞書調べたりして書いたりしているんですけれど。本当に自分中心なもので。愛の関係があると、時間を共有したいと思いません?皆さん。その一緒の時間を過ごしたいと願うのは当然のことだと思いますね。
第一ヨハネの3章18節 (TEV)
「子供たちよ。私たちは単に言葉や口さきだけではなく、行動によって真実な愛を示さなければなりません。」
私たちがの愛の関係を結んでいく、人と愛の関係を結んでいくには、やはり時間とその時間を保っていくための努力が必ず必要になってくるのです。
リック・ウオレン先生は、愛を他の言葉で言い換えるならば、時間である。まさしく愛は動詞であると言われております。私たちが自分自身を相手にどれだけ時間をもっと相手に注いでいくことができるかどうか。愛を示すためにこの時間は、非常に大切な大切なものであると言えると思います。これは私たち人間の関係だけでなく、クリスチャンは特に、神様との関係が大切てあるという風に皆さんもお思いのことでしょう。
私は来年ICGの園長になることになっていまして、少し前に “ホーム・スクリーンの心”という書物を読みました。著者は、ホーム・スクラーの弁護士で、アメリカの弁護士会の主任弁護士をしておられる方で、訳者は尾山令二先生の息子さんの清二先生ですが、私は来年、園長に就任することになっていまして、チャーチスクールに子供さんが既に入ってらっしゃる親の皆さんや、入園される予定になっておられる生徒の親の方々に是非読んでいただきたい書物の一つとして、“ホーム・スクリーンの心”をお勧めしたいと思っているところです。
その中で子供と関わっていくときに大切な事は、何よりも増して、あなたと神様との関係だと書いてあるのです。自分の魂が絶えず潤おされていくことをまず第一としなさい。子供に向き合っていく、子供に何かを教えていく、子供との遊びの時間をもっていく、何かをするようにという、そういうことが大切なのではなくて、先ずあなたが、神様とともに向き合って、神様との時間を大事にもっていかないならば、そのホームスクーリング、または、あなたがしてる教会の奉仕も、仕事でもすべてが重荷になって来るであろう。
その項目に彼は非常に時間を割いていました。
私も分っていることではあったのですけれども、準備をするにあたってもう一度読み返して心に留めさせて頂きました。私もみ言葉の奉仕や、皆さんにカウンセリングをしたり、祈ったり、いろんな奉仕があります。しかし、わたくしにとって一番大切な奉仕は、神様に対して“神様を愛しています、イエス様を愛しています、あなたを大切に思っています”というその時間を、自分がとっていかなければいけないということを、もう一度思わされております。それは私だけではなくて、クリスチャンである皆さんもそうであると思います。アーメン。
Aその相手だけに注目すること。
愛とは一心不乱に相手を見つめる性質のものであるため、その瞬間には自分のことなど忘れてしまうのです。リック・ウオレン先生はこのように言っておられます。
神様に、また、私たちは本当に他者のことを思ってそこに愛を注いでいく時には自分のことなど忘れてますね。その人のために何ができるだろうか。何をしたらいいだろうか。何が最善だろうか。どんな言葉をかけたらいいだろうか。そう思う筈であります。
私は小学生時代に一つのアイドルグループの歌手のフアンでありました。
キャンディースという。皆さん御存知ですかね。知っている方はだいぶ、おじさん、おばさんで、私も来年は40歳ですから、その域に達していると思いますけれど・・・。
ピンク・レディとかですね。ちょっと少し前に再結成されて活動しておりましたけれど、その同じ時代にキャンディースというのがあったのですよ。これが大好きでしてね。小学校5年のときでしたけれども、ぼろいラジオにキャンディースの歌が流れて来ると、けなげにも、カセットテープの録音ボタンを押してその歌を、音が悪いのに録音をとるんですね。それを何回も聞き直したりして、純粋な思いでした。キャンディーズだけ。
私の小学校の時の卒業アルバム。
@将来なりたいもの:キャンディース。A生まれ変わるとしたら:キャンディース。Bあなたの最も大切なもの:キャンディース。三つの項目全部キャンディーです。
本当に笑ってしまいますね。それだけ私の目にかなっていましたよ。私は愛していました。まあ、そういうわけですから彼女たちが解散のコンサートをするといったとき私は5年生で6年に上がる時だったと思いますけれど、チケットも無いのに、彼女たちが来てコンサートをするその会場までわざわざバスに乗って行ったのですよ。山の上の実践倫理記念会館まで、(この実践倫理と言うのは金沢から始まったのですけれども)、バス停から山の上まで上がるのに、コンサートは夜ですから小学生の男の子がそこの会場に行くまでもけっこう危険なんですけれども、かなり時間をかけてもう必死でゆきました。行ったら入れると思っていたんですね、幼かったと思いますけれど。会場に行って受付で待っていましたら、何と、チケットをあげるから中に入りなさいという奇特な方がいましてね。2階席でしたが私は入れてもらってコンサート会場に入れたのです。今でもおぼえてます。
♪こっちを向いて〜〜。紙風船か何かが飛ぶんですね。それに感動してね、それについていかなければいけない。追っかけというのは色々な作戦をもっているんですよ。もう、私の心はその日は満たされておりました。キャンデイーズで。
何を言いたいかといいますと、愛すると言う事ですね。没頭するんですね。愛は盲目と言いますけれども、本当に人々を愛し、私たちが人々にその愛を表していく時に、自分のことなど考えていません。
阪神ファンの方には失礼かもしれませんけれども、今晩ここにいらっしゃるかもしれませんが、阪神ファンは最下位であっても優勝しても、いつもあの甲子園球場はいっぱいなのですよね。まあ、最近の野球事情が変わってきまして、地方にだいぶ散っておりますけれども、地方に行ってその地方の主催試合のチームの様子を見ると、結構、人が入っているのですね。その地域の球団、その球団を応援しようとその近所の方々は皆、負けていようとも、どれだけ、点数差があろうとも応援に来ようとしているその姿が見て取れます。仙台であっても、千葉であっても。北海道であっても。ほんとに見ることができると思いますよ。特に、阪神ファンは強烈です。どんな順位にあろうとも、フアンは詰めかけて応援しようとするのですね。まさに、そのような心理とは思えません?
愛はどのような状況、立場、状態、であっても、その人に自分の思いを、愛を注いでいくということであります。愛がなくても与えることは出来ます。しかし、与えることなく愛することが出来ません。犠牲を払うことなしに本物の愛とは言えませんね。最後の3番目。
◇第3番目:愛する時は、いつでも「いま」です。
その私たちが愛を現すときはいつも「いま」である。いつも「今日」である。今であるということであります。私たちが神を愛する時、そしてまた神の民であり、その回りの方々を愛する時は、いつも今なのである。アーメン。
信仰者の歩みはいつも過去でも未来でもなく、いつも今であるとわたくしは思っています。そして私は、いつも今がいちばん素晴らしいときだと思っております。皆さんもそうでしょうか。アーメン。
ジョエル・オースチンという人が今大きく世界で、またアメリカ国内で特に用いられておりますけれども、彼の本を最近読みました。彼の書物がPHPという一般の書物から出ておりますけれど、“かけがえのない瞬間を大切にする”という項目の話です。
数年前にお父様が亡くなられたわけですけれども、そのお父様が体調を悪くなさって、朝早くにこの今の牧師である息子のジョエルのもとに電話がかかってきます。お父さんは人工透析を少し前から受け始めているときであったので、体調がかなり弱っていたそうです。その朝早くに、父であるジョン・オースチンは電話をかけます。「息子よ、今すぐ来て欲しい。私の体調が良くないんだ。今日は透析のために病院に行く日になってるんだけれども、ちょっと今気持ちが悪くて、病院に連れて行って欲しいんだ」という電話があって彼は寝ていたと思うんですが、すぐに着替えて両親の家に向かいます。そして、車を飛ばしてこの愛するお父さんを病院に連れて行こうとドライブしておりますときに、この父を見ていて本当に感謝があふれてきたそうです。もう、抑えることが出来ないほどの父に対する感謝。人知を超えた大きなその自分に対する愛。お父さんが、父がどれほどこの家庭を、私を、愛して下さったか、ということをドライブ中ずーっと彼は横で感じていたようです。そして、病院に向かう途中で彼がこういうわけですね。「お父さん、お父さんのためだったら、何だって、いつだって、どんなことだってするよ。お父さんに楽になってもらって、お父さんをもっと僕が楽にさせてあげるからね。」抑えきれない思いから彼はそう告白しました。そして、病院につき、透析ですから4時間から5時間かかります。その透析を受けている間もこのパスター・ジョエルはお父さんのそばにずーっと寄り添って、その日も仕事があったようですけれども、彼は特別にその日には父のそばについているべきだ、という思いが与えられてお父さんと病院でしばらくその時間を過ごすわけです。そして、その日忙しいジョエルのスケジュールにも関わらずお父さんのそばにいることを決心して、仕事もキャンセルして父に付き添うのですね。そして、治療が終わって無事に家に送り届けて行こうとするときに、お父さんがこの息子に声をかけます。特別なハグをして「ジョエルよ。ありがとう。ほんとに頼もしい。君を息子にして本当に自分は良かった。僕にとって本当に最高の息子だよ。」その一言を言って最後に別れたということです。しかしこのお父さんはこの一言を最後に天に帰られたのであります。気分良くこの牧師である息子であるジョエルはお父さんを送った後、家に着いたのですけれども、その後、事態が急変してお父さんが天に召されるのです。
彼はこう言っています「お父さんが急に召されたことを通して、本当に悲しみに暮れたけれども、あの時、自分の気持ちに素直になって、あふれ出て来るその感情をお父さんに言って良かった。あの時お父さんに、ありがとう、と言えて良かった。」彼はそう告白しているのです。
私たちが愛する時はいつも「いま」です。いつも「いま」今です。明日や明後日ではありません。いつも「今」なのです。
私といっしょに受洗をした高沢敏さんが今年3月に召されました。彼とは受洗日が一緒だったので、非常に個人的にも、また、家族を通しても、受洗をしてからずーっとお付き合いが続いておりました。彼も突然召されました。
また私が本当に慕っていた井沢先生も、2年前に天に帰られました。また皆さんも突然そのような回りの親しい方々をなく亡くされている方々もいるでしょう。そのような方々に、どうでしょう。逝く前に一言、言って行ってくれればよかったじやない。そしてその一言が言えたらどんなに私たちは良かったと思うでしょうか。私の母もそうですが、ひとこと言って「天国に帰るねえ」ってそういうふうに言ってくれたら、最後の一言、感謝ぐらい言えたかもしれません。井沢先生もそう言ってくだされば、柿の種1袋ぐらい私もお金はないですけれども、差しあげることができたかもしれません。明日は私たちには分らない。しかし、確かなことは、今日この時に私たちは生かされ、今日私たちはこの回りの神の家族に愛を示すことができるということが、神さまによって今与えられているのです。
マルコの14章に非常に有名な話がでてきます。
マリヤはイエス様に対する愛のゆえに自分にできる最大の犠牲を、自分の花嫁道具である油のツボを割って注ぐわけですね。すると回りで違う声が飛び上がってきます。否定的な声が飛んできます。「こんなたくさんな油、この香油なら300デナリ以上もして多くの貧しい人々を助けることができるのに。どうしてそういうふうな無駄をするのか」。これは信仰の仲間が言ったのですね。イエス様の取り巻きが云いました。世の中の評価は、いつもそうです。イエス様のために何でこんな時間を割くのだ。イエス様のためなんか無駄ではないか。ある時は信じている人、イエス様を信仰している人もそう言うかもしれません。しかし、私たちは違います。イエス様のためにわたくし自身を、または私が最も大切にしているツボを割ることが、何よりもイエス様に対して私たちのできることではないでしょうか。イエス様が私たちにして下さったその救いの恵み、永遠の祝福、永遠の命は、どんなに私たちが努力をし、お金を積んでも代えがたいものであります。人間がどんな犠牲を払っても得られないものを、私たちは信じるだけで受けたのです。イエス様は神であることをお捨てになりました。天上での栄誉も、無限の富も、お捨てになり、自分の命を十字架にそそぎ出して下さいました。私たちを愛するゆえに最大の犠牲を払って下さったお方。究極の身代わりをして下さった方がイエス様であります。
無駄という言葉はその価値以上にそのものを与える。100円のものを300円で買う。300円のものを千円で買う。千円のものを1万円で買うことを無駄と言いますね。
しかしイエス様の犠牲に見合うだけの価値はこの世に果たしてあるでしょうか。イエス様のためにどんな大きな犠牲を払ったとしても、足りない事は無いと思います。多すぎることは決してありません。しかし誤解しないで頂きたいのは、私たちが肉の力で無理矢理に信仰生活は犠牲をささげなければいけない、そうということではないですよ。
私たちが、私たちのためにいのちをかけて下さった方。その方に対して愛を示していくときも、今日であり、今であると思いませんか。
マルコの14章7節で大切なことを言っています。
貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも彼らによい事をしてあげることができる。しかし、イエス様はいつまでもあなたがたと一緒にいることが出来ない。彼女は葬りのためにしてくれたのだ。
皆さん、するべきときにはタイミングが必要です。そのタイミングを逃してはなりません。今の時を逃してはならないということです。イエス様の葬りのために彼女はそのナイス・タイミングで、自分のお嫁入りの財産を割ってイエス様に注ぎました。その時は、今、だったのです。タイミングがずれていなかった。ああしとけばよかった、こうしておけばよかったと私たちはいつもそう思うものです。しかし、主を愛し、そして主が愛していらっしゃるこの愛する皆さんに対して愛を表すときは、今日も今であります。今であります。アーメン。
私はあなたがたといっしょにいるわけではない。
私たちがそのことを回りの人たちに対して理解しているならば、私たちは今日、私たちはよろこんでその回りの方々に愛を表していくのではないでしょうか。社会奉仕がいけないと言っているのではなくて、私たちがしなければいけない時に、することが必要である。
最後に一つの話をして終わりたいと思いますけれども、ユダヤ人の中の心温まる一つの話であります。愛は相手のために払らう犠牲によって量られる、ということであります。
ユダヤの小さな町にふたりの兄弟がいて、そのふたりは仲よく共同事業をしておりました。その仕事は一つの脱穀所を共有しておりまして、村人がその脱穀所に行きまして穀物を脱穀して、脱穀してもらった代わりに一部を報酬として渡すその穀物を貰って彼らは生計を立てていました。お兄さんには12人の子供がいて、弟は独身でした。
ある時弟は考えます。お兄さんは12人の子供がいて家族を養われなければいけない。大変だ。僕は独り者だから食べるものにも困らない。自分の穀物を兄さんの倉庫にもっていこう。こういった配慮があったので仕事を終わってお兄さんが家に帰った後に彼は自分のもっている穀物を兄さんの倉庫に入れるわけですね。そしてしばらくすると数日後、お兄さんはお兄さんで、今度は弟のことを考え、弟は家と違って後継ぎがいない。独り者だから多少の蓄えがあって将来に備えている方が良いだろうと思い、お兄さんもまた仕事が終わって夜な夜な弟の倉庫に入って自分の分け前である穀物を置いてきます。
お互いがそうこうやりとりをしているときに、ある夜ばったり、彼らが出会います。そのところでお互いにびっくりして、そこでお互いの気持ちを理解して抱きしめ合うのですね。それを見ていた神様がこういいます「ここに私の神殿を立てよう」。神殿とは、神様がおられる象徴を表します。
イエス様は二人または三人集まるところには私も真ん中にいる。そして私たちイエス・キリストを信じるものが互いに愛し合うならば、そこにキリストが現されている。
私たちが愛し合うときは、今であります。仕えあう時は、今であります。今日であります。この私たちが愛に立ってこの素晴らしい私たちに委ねられた大和の教会を、この群れをお互いに立て上げていくべくそのような謙虚な気持ちで今晩もご一緒にお祈りさせていただきたいと思います。
祈り
天のお父様、今晩の時間を有難うございます。あなたのみ名ををほめ称えます。今晩この場所にこのようにしてお勧めさせていただけるのも、哀れみであります。主がして下さったことであります。主にすべての栄光をお返しします。あなたにどれほどの犠牲を払おうとも、あなたに払いすぎることはありません。あなたのために、今晩、私たちにできることは何でありましょうか。そしてまた今晩この場所に来ている、そして私たちの群れに属する兄弟姉妹のためにできることは何でありましょうか。今晩もう一度祈りの中でこのみ言葉に応答し、愛は動詞である、愛は犠牲を払い行動を起こすものであるということを、もう一度祈りの中で覚えてこれを行動に移し実践できるものとさせて下さい。今晩のひとときを心から感謝し尊い主にすべての栄光をお返ししてイエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。