2006年9月27日祈祷会メッセージ
第14章 神が遠く感じられる時
(When God Seems Distant)
「主はご自分の民から御顔を隠された。しかし私は主に信頼しこのお方に望みをかける」(イザヤ8:17 TEV)
私たちは思いもかけず神様がどっかに消えてしまう、お隠れになってしまわれる様な経験をしますが聖書の中にそれが記されてあります。
この文中にはないのでありますが、ご一緒にお読みしましょう。
「彼、我を殺すとも、我は彼により頼まん」。(ヨブ13:15 文語訳)
ヨブ記13章15節は、口語訳も新改訳も、どの訳文もとても難しいのですが、世界中どの訳文をとっても大変なのでありますが、私はこの文語訳聖書が一番いいような気がいたします。 神様が私を殺すようなことがたとえあったとしても、 私は神様により頼みます。 「そんなことをなさる神様なら私は嫌ですよ」とは言っておりませんで、この聖言というものはとても含蓄のある(非常に深い意味を持った)言葉であると思います。
◎<最も深いレベルの礼拝とは>逆境における礼拝・神が遠く感じられる時、痛みの中にあるにも拘わらず、神様を賛美すること。
わたしたちが学ばなければならないレベルであると思います。
使徒行伝16章でパウロとシラスが捕えられて牢獄に入れられたときに、真夜中、もしかすると血だらけか、泥だらけか、厳しい状況でありましたけれども、(「獄中からの賛美」書物を読んでおられない方ぜひ読んで下さい。素晴らしい本ですよ。)牢獄の中から賛美を捧げたときに奇跡が起こりました。皆様も同じことを経験するでしょう。
神様はどこに行っちゃったのだろう? 私は神様に忠実なのに、まともに献金もしているのに、礼拝も守っているのに、何故こんな事が起こるのかしらと思えるような時に、深いレベルの礼拝に導かれているということを知ってほしいという内容であります。
*神は別離のように思われる期間を用いて、信仰のテストをされ、友情を成長させて下さ
さいます。
〇魂の暗黒期・神の不在の訓練・心の冬・信仰のスランプ
Ex:フロイド・マッククラウド氏
神様がどっかに行っちゃった。行かれてしまった。離れてしまったようなその期間、その様な状況の中でのプロセスを通して主の働きが進められていくという。魂の暗黒期と表現する人もいらっしゃいます。ある人は神の不在の訓練などと有名な伝道者たちが語っておられますが、ある時は心の冬、ある人は信仰のスランプ。色々な表現法があるかと思います。遠藤周作は「神の沈黙」。神様、あなたは黙っていらっしゃいますね、というような経験。こういう真ん中で私たちは神様の恵みを経験します。
「荒野で主の恵みを得た!」一緒に云いましょう。荒野で主の恵みを得た!
フロイド・マククラウドさんというお方が、面白いことをおっしゃっておられますよ。
「ある朝、目が覚めると、あなたは自分の霊的な感覚がすべてなくなっていることに気づきます。あなたは祈りますが、何も起こりません。悪魔を叱りつけてみるものの、何も変わらないのです。(要するにわたしたちは「サタンよ退け!」と言っても、また、熱心にお祈りしても、なんの変化も見えない。) 霊的な訓練を積み重ね、友達にも祈ってもらいます。あちらにメールを、こちらにファクスを、電話をかけても、また、思いつくすべての罪を告白し、知っている罪も知らずに犯した罪も、ごめんなさいと懺悔をする、悔い改めをする。知人という知人には皆赦しを求めて謝罪します。私が悪かったら許して下さい。断食の祈りもやってみます。しかし何も起こりません。これ以上何をしたらいいんだろう。次第に、いつまでこの霊的な暗黒が続くのだろうかと不安になりはじめます。数日たちますか、数週間でありますか、数カ月でありますか、それともこんな状況が一生続くのだろうか。もしかすると祈りは神に届いていないのではないだろうか。多くの全くの絶望に陥ったあなたは、『自分は一体どうしてしまったのであろうか』と叫ぶような状況になることがあるでしょう。」と言う厳しい内容のことが書かれてありました。まるで全てがベールで隠されてしまったように、神様が見えなくなってしまっている。
信仰を持って間もないときには、神様は我が儘なお祈りも、または、自己中心的なお祈りも、よくこんな祈りが答えられるかと思えるようなお祈りも、次々に答えてくださって私達を励まして下さるということがあるかと思いますね。洗礼を受けて1年位といいましょうか、半年位といいましょうか、長く続いている人もいると思いますけれど、よく祈りが答えられた、沢山いらっしゃるでしょう。今まで一度もそういう祈りの答えられていない人は、これからですから期待しておいて下さいね。
でも、ある時にパッタリ何を祈っても、自分の悔い改めもして、神様の前に忠実にしても、何だかさっぱりうまくいかない、そういう伝道者は世界中にたくさんおりますよ。献身者もたくさんいらっしゃいます。
どうしたのだろうか? そのときにはじめて自立的なクリスチャン、一人前のクリスチャンになる訓練がなされている、ということを知るべきであろうというメッセージであります。
〇イザヤ59の1〜2、Tエペソ4の29〜30、Tテサロニケ5の19
イザヤ書の59章の1節・2節。ご一緒に朗読いたしましょう。
「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」アーメン。
こういう苦しみというものは、私たちにとって辛いことであります。
いま、59章の1節ですが、こういうことが起こり得るんですね。
58章の10節〜12節。
「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。(すごいね。)あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、(いいですね、クリスチャンの生き方ですね)、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる」。
13節「もし、安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、・・・」云々。
私たちがもう一度襟を正して、日曜日は日曜日としての生き方、ご奉仕はご奉仕としての生き方をするならば、あなたがたに新しいことがなされますという、そのみ言葉の次に出て来るのが、次の59章。一体何がこの現実をこうしているのであろうかということ。
今、読みました58章の12節に、人はあなたを『破れを繕う者』。ロバート・シュウラー先生が「わたくしはアメリカの破れを繕う者でありたいと願っています」と日本にこられたときにおっしゃっておられました。
私たちの日本の国は、10年前、15年前、20年前はこんなではありませんでした。今、破れて、破れて、破れてどうしていいか分からない状況の中におります。あなたの周りに破れを繕う者がいないということ、間に立ってとりなす者がいないということ、これはクリスチャン、今立ち上がるべき、やるべき内容であろうと思います。
イエス様でなければその破れ、イエス様でなければその穴を埋めることが出来ないと、そうお思いになりませんでしょうか。これは私たちに委ねられたチャンスであります。
エペソ書4章:29〜30節
「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」
30節は、ごいっしょに読みましょう。
「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」アーメン。
聖霊を悲しませてはいけない、というメッセージであります
Tテサロニケ5の19
「御霊を消してはならない。」
共通していますでしょう。それは著者が同じパウロ先生の心の中には、私は聖霊を悲しませてはいけない、聖霊を消してはいけない、ということを心に留めていたということが分かるでしょう。
お聞き下さい。大和カルバリーチャペルは不十分な教会です。日本で最も祝福されている教会ですけれど、私はプロの牧師ですからこの教会の欠点をよく知っています。この教会がどうすべきであるかも神様から示されておりますけれど、出来ないときは待たなければなりません。いいですか、出来ないときは待たなければなりません。いいですか、私たちはどんなに勉強して、私のように世界中まわって教会成長を勉強し、神学校で教会成長や、牧会学の教授をしていたとしても、神様はすべてのことに時を与えて下さいます。
神様の時よりも早く行くということは大変危険なことであります。教会は不十分な穴があいていることをわたくしは存じあげております。牧師が不十分であることを私自身がよく弁えております。しかし、「わが恵み汝に足れり」と今週勉強しました。
どうぞ皆さんこの群れを愛して下さい。転入会なさった人も、また、洗礼をお受けになった人も、この教会でお客さんが一人もいないように、この群れを愛して下さい。弱さがあっても、欠点があってもこの群れを愛して下さい。
「私はこの教会を愛します!」、ご一緒に言いましょう。「私はこの教会を愛します。」
お出掛け姉さんみたいにならないで下さい。勉強したければ、この教会はカルバリー聖書学院に大枚を投資して教授を日本中から招いています。非常に優秀な教授です。それを一般の信徒たちに開放しています。これは凄いことであります。この教会で満足できる状況を作ろうと努力していること知って下さい。どうぞ、聖霊様を悲しませないように。聖霊様を消さないように。どうぞ、ご注意なさって下さい。
*クリスチャンの間違い=神ご自身よりも感情的体験を求めている。
事実−信仰 ―― 感情
ビル・ブライト先生が四つの法則を発見なさったときに、こういう図を最後にお書きになられました。
私たちはイエス様を信ずると、感情が伴うという風に、喜びがあふれるという風に、表現します。
「あなた、救われても喜びが足りないわねえ」。 「洗礼式のときにニコニコしなかったわね」。「あなた、あの喜びは何処に行っちゃたの?」。まあ、色々あるかと思います。
私は13歳の11月6日にイエスを信じて、本当に生まれ変わりました。ですから、感情が爆発しました。教会の中で一番前に座って手を叩いているのは私だけでした。親父から怒られましたけれど。私は本当に人生が変わりました。喜びが溢れました。
でも、この絵と言うものはとても意味があります。事実につながる信仰、信仰につながる感情、チョット線が長いでしょう? 必ずしも感情が伴わなくても、神様が私たちを愛しておれるその事実を信じるということに意味があるというのが、ビル・ブライトのこの世界中に影響を与えた内容であります。
神を感じるということよりも、信頼するということの訓練が重要であるということでしょう。神様を喜ばせるのは感情ではなく、信仰だという、この時点をいつでも知りたいと思います。じゃ感情を否定するかというと、そうではありません。この教会はバランスをとるための十分な知恵と、神様からのお働きを感じているのであります。
*あなたが信仰において最も成長するとき=すべてを失ったとき。
・ヨブ記1の21・2の10・Tコリント13の7・詩篇119の68
Ex:安藤せい姉
Ex:伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」
あなたが信仰において最も成長するときは、すべてのものを失ったときですと言う、非常に厳しい内容が書かれております。
ヨブ記の1章というのは、すべてを失ったヨブの出来事が書かれています。
ヨブは1日ですべてを失いました。男の子が7人、女の子は3人その全部が死にました。参りますね。羊が7千頭、ラクダが3千頭。牛が5百くびき。ロバも竜巻のために、おお風のためにみんな失ってしまいました。
ヨブ記1章20節21節。ごいっしょに朗読いたしましょう。
このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭を剃り、地にひれ伏して拝し、そして言った、「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名は誉むできかな」。(凄いね)
主が与え、主が取られたのだから文句は無い。いや、主をほめたたえます。
22節にはすべてこのことにおいてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった、というねえ。
2章の10節には、凄いことが書いてあって奥さんが 「あんた、まだ神様を信じているの? 神を呪って死んじゃったらいいわよ」って。これは、世界最大悪妻の一人と言われる人物でありますが、しょうがない女ですよ。この人は。
2章10節、ごいっしょに読みましょう。
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」。すべてこのことにおいてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
まあ、これはスタートですからうまくいった、というところもありますけれども、ヨブ記は長いですね。最後まで読みこなすのが難しいほど大変ですね。でも、彼は本当に凄い経験をして私たちにこの経験を残して下さいました。
ここに第1コリントの13章7節と書いてありますけれど、なんであるかというと、愛は寛容にして慈悲ありの結論であります。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は永遠であるという箇所ですよね。ヨブはそうでしたね。神様を本当に信頼して、そして、期待してそれを乗り越えることが出来ましたね。
詩篇の119編の68節は、ごいっしょに読みましょう。
「あなたは善にして、善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」。アーメン。あなたは善にして、善をおこなわれるお方です。主よ! あなたは最善以下をなさらない神様です。
ここに、安藤せい姉、と書きましたけれど、私のお母さんのように私を15歳から祈り支えて下さった姉妹であります。
いつか証をなさったときに、「私は28年間、この詩篇119編の68節で守られてきました。つらい経験も、行き詰まった経験もありますけれど、私の主は、善にして善をなしたもう。最善以下をなさらない。これで私は耐えてきました。」
今日、私はそこに特殊なことを書きましたでしょう。何を書いたかといいますと、
伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」。
高木美智子さんがわたくしに自分の証を書いて届けて下さいました。全部は読めないんですけれど、これはどのぐらい岡村先生に届いているか分りませんけれど、これはアメリカ人に伝えるべき内容であるかと思います。
1941年太平洋戦争が始まりました。そして、1945年、昭和20年には日本中、大変でした。戦局が厳しくなり、父親一人が東京に残って、母と(その当時のお母さん35歳)姉、弟たちは山梨県甲府市の母の実家に疎開しました。私は学童疎開、集団疎開で新潟に行っておりました。(みんなこういうのが日本中当たり前でした。僕も伊豆の方に一人で行きました。)1カ月後に出産を控えて3月の10日に母は頼りの夫と家を失いました。東京に東京空襲と言ってものすごい爆弾を、空が真っ暗になるくらいにB29が飛んできて、民間人ですよ、戦争と関係のない者たちに物凄い大量の爆弾を落しました。その時の大きなショックと自分の夫を失ったことがわかった喪失感で、赤ちゃんを産む力、赤ちゃんはその時、お腹で9カ月であったのですけれど、出産する力、(僕は男だから分からないけれど)、かなり気力、体力がなければ出来ないのに栄養も失調だから、やせ衰えた母を姉はリヤカーに乗せて勇気づけながら産院に運んだそうです。
そして父の召天から1カ月後、4月10日、小さな5男の弟が生まれました。3カ月が過ぎ、戦況がいよいよ厳しくなり、再疎開先の甲府も焼夷弾の嵐に見舞われました。そのとき、幸い近くの田圃があり、母は5男を背負って家族みんなで布団をかぶって田圃に、家にいると焼かれちゃうから(若い人達もちょっとこういう現象を想像してみて下さい)、田圃に逃げて田圃の中に布団をかぶって隠れた。でも凄い火炎で布団が足りないことに気づいて、私の姉は周囲の反対を押し切って、(お姉さんですよ、女ですよ)、炎に包まれた家に引き返して、みんなに布団をかぶせたそうです。ところが、布団をかぶっても火がついたら大変だから、その時近くの刑務所から避難してきた囚人が、家族全員に布団の上から懸命に田圃の水をかけてくださり助かったそうです。また途中母の背中でぐったりと窒息しかかった5男を急いで背中から降ろし、蘇生させたりしたそうです。やがて空爆が止み、布団の覆いを外したところ、1メートル先に不発弾が落とされ大きな穴があったそうです。やがて助けて下さったその方は名前も告げずに刑務所に戻って行かれたそうです。(不思議ですねえ。天使のようですね。)着のみ着のまま、泥まみれの家族は、5男を焼け跡から拾った鉄甲に入れ、まだ暑い甲府の街を素足で(靴もみんな焼けちゃったから)素足でとぼとぼと、(乞食みたいなもんでしょう)、これが戦争中、トボトボと25キロほど離れた父の実家目指して歩きつづけたそうです。途中、富士川沿いの或る家で乞食のような被災者家族を気の毒に思い(ちょっと想像できるでしょう。着のみ着のまま泥まみれ、焼け跡から歩いてきたオンボロ、オンボロですよ。)、軒下でおにぎりと飲み物を用意して下さいました。(映画みたいだね。)母と姉はいつも私にその時のことを感謝して話してくれます。
戦況の雲行きがいよいよ怪しくなり、生き延びる望みもなくなり、母はどうせ死ぬなら家族一緒に死にたい(みんなそのように思いましたよ)と考えて。叔父に頼んで私を(美智子さんを)新潟から呼び寄せて自分の所に引き取りました。久しぶりで家族一緒の生活が父の実家のお蔵の2階で始まりました。母は生活のため衣類の行商をし、姉は家事いっさいを切り盛りしました。往復12キロの道を徒歩で通う高校生のわたくしに姉は毎夜、自分の夕食をきりつめ私のために残してくれました(この前なくなったお姉さんのことを思い起こして私に伝えようとしているのですね)。村では歓迎されざる疎開者でした。(もう、本当に疎開の人はいじめられたんですね)。 父親代わりを一身に努める家族思いの姉と、子供が不憫と言って身を粉にして働く母の愛と、何よりも主の豊かな守りと哀れみの中で家族全員病気もせず、村の人たちからは、 東京から引越ししてきた、 お父さんを失い、家を失ってそういう貧しさの中で生きるわたしたちを「お蔵の衆はご苦労なし」とそういう言葉で言われるほど、明るく、笑いの絶えない生活をしていました。
こういう中で、姉はこういいました、悩みや怒りが心にあり虚無的な生き方をしているわたくしに対して、「美智子ちゃん、どうして、神様がいないなんていうの? 私は生まれてから神様がいないなんて思ったことなど、一度もないのに」。またあるときは、「美智子ちゃん、あなたはわざわざ買ってまで苦労するのねえ。苦労しなくても神様から祝福される道があるのにもっと素直になればいいと思うわ」など幾度となく優しく言ってくれました。
その後、まだまだ続いて書かれてありきますが、本当にあの時代のことを思い起こして神様の守りと、こうやって避難民のように焼け出されたご家族が苦労している中で神様は最高に素晴らしいことをしてくれるのよ、と言ってくれたお姉さんのことを思い起こしているのですという。 伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」。今日皆さんにお伝えしたわけであります。
どんなことがあっても戦争なんかするものではありません。戦争に巻き込まれないためにクリスチャンの政治家も、そして、私たちクリスチャンも、もっとたくさんの人たちが生み出されることを私は期待します。
*神に見捨てられたと感じることがあっても、その感情に左右されずに神を信じ続ける時
にあなたは最も深いレベルで礼拝しているのです。
私たち日本は、戦後60年間、人を一人も殺していないという誇りがありますけれど、神様は私たちに今、厳しい状況のなかで神を本当の意味において賛美することを教えようとしておられると思います。
韓国では、たとえそうでなくても、殺されても、私は偶像礼拝をしませんというクリスチャンがたくさん起こされました。今のリバイバルはその人たちによってであります。
◎神があなたのためにすでになして下さったことを想い出す―信仰の宣言。
・詩篇103の2
神があなたのためにすでになして下さったことを思い出すこと。これが解決の道、乗り越える秘訣はこれです。いいですか? 神様が私のためにして下さった恵みを数える。数えてみよ、主の恵み。
詩篇103編の2節。
「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべての恵みを心にとめよ。」
新改訳聖書は、「主のよくして下さった事を何一つ忘れてはいけない。」
だから、恵みを数えることが必要であります。それと同時に、皆さん、信仰の宣言であります。
私の神様は良い神様です。ご一緒に云いましょう。 私の神様は良い神様です!
“God is so good”神様は私にとって良い神様です。 インマヌエルの神様。私といつでも一緒にいて下さいます。これは現実感情が伴わなくても、信仰の告白をし続けるということが重要だ、と言うこと。神は私のために計画をもっていらっしゃる。
こうやって良い神様を、恵みを数えるということと同時に、この世の中において私の上になされた最も素晴らしいことは、イエス様の十字架と復活であります。これをいつも告白する。
私のためにイエス様が十字架にかかって死んで、私は永遠のいのちを頂きました。私の五体がめちゃくちゃにされても、癌で蝕まれたとしても、貧乏人になって食べるものがなくなって飢え死にしようとしても、イエス様は私のために十字架にかかって死んで下さった、あなたにして下さった恵を忘れてはならない。そのお方は3日目に甦えられたお方です。
リック・ウオレン先生はなぜ神は身の毛もよだつような凶悪な虐待行為をお許しになられたのか。そのことを心にとどめて、人生における、神様なんか見えなくなっちゃった、神様なんかどこに行ったか分からなくなっちゃった、そういう思いのときにこそ、この信仰の宣言を通して乗り越えて行きなさいと勧めておられるのです。
私たちは聖霊様を頂いたことを告白できる事を本当に感謝しています。
この教会に聖霊様がいらっしゃいます。聖霊様を受けて、聖霊様に満たされ続けて行けることができることが許されています。
それだから、私たちはこの地上で何が起こったとしても、神様が見えなくなっちゃったとしても、私たちの信仰がためされ、もっと深い礼拝をささげるため、思うようにいかないことたくさんあるでしょう? どうして私の賜物が用いられないのか。 どうして私のことに気付いてくれないのか。どうしてわたくしはこういうふうに考えてお祈りしているのに、私の牧師はぼんくらなのか、どこを見ているのか、というようなことがあるかも知れませんけれど、すべてに時があります。神様が訓練していて下さいます。私たちはこういう信仰を養われて、備えられているときに、主は全世界あまねくみそなわし、自分に向かって心を全うする者のために、力をあらわし、その人をピックアップして下さいます。
この教会はそのことのために、これからはもっと祝福されます。この教会に属する、関係するすべての人は、この信仰、この本物の信仰を持ちましたならば、神様がとき来たりなば用いて下さいます。
姉妹(宮川姉)も、専門家の、これは声楽家の宿命的な病気であると言うことでありましたけれど、それでも感謝して賛美することが問われるわけでございましょう。
「どうして祈っているのにこんな事が自分に起こるのですか?」ということが沢山おこります。それは深いレベルで、深い次元で、私たちの信仰を引き上げて下さっているんだと言うことを、この年をとった牧師である私はよく理解できます。
私は今日まで死ぬほどの苦労、神様、私を殺して下さい。私を早く殺して下さい。私は早く死にたいです。 心臓発作で死にたいです。 私はこの苦しみに耐えることは出来ません。そういう事を何度も経験してきました。でも今、あれを耐えることを通して、本当の神様の礼拝を学ぶことが許されたことを神様に感謝しています。
これから新しい世界がきます。霊とまこととをもって神を礼拝する。私たちの人生に何が起こっても、主を礼拝して進んでいくんだ。この信仰をもって歩み続けていきたいと、そう思います。
私の神様は最高に素晴らしい神様。私はこの神様に愛されて、この神様に選んでいただいて、永遠の命をいただいて、そうして天国に行ける存在ですけれども、この地上に私たちは派遣されているという自覚の中で生きることができる。こんな幸せなことはありません。主を心から愛しお従いする者は大きな声でアーメンと云いましょう。アーメン。
お祈りします。
天のお父様、“数えてみよ、主の恵み”と先ほど賛美しました。幸せなことです。私たちの人生で、神様どこを向いているのですか? 私をもっと用いて下さい。神様、わたしの寂しさが分かりませんか? 色々と神様に問うこと、文句を言うこと、愚痴を言うことが私たちの人生に起こりますけれど、イエス様あなたは最高に素晴らしい神様です。また、われわれの先頭に立ち、また、しんがりに私たちの群を命がけでお守り下さる方です。何よりもイエス様の十字架と復活を感謝します。聖霊様を下さった事を感謝します。幸せいっぱいです。イエス様、恵まれて、感謝して、いつも主に顔を向けて輝いて、人生を歩ませて下さい。主イエスキリストのお名前によってお祈りします。
アーメン