2006年9月20日祈祷会メッセージ

第13章 神に喜ばれる礼拝

 礼拝という言葉には二通りの意味があると思います。
一つは日曜日などの主日礼拝、聖日に礼拝を捧げるということ。そして、もう一つは個人的な礼拝の時間と言いましょうか、個人的な神様との交わり、神様を崇めるディボーショナルな意味での礼拝を捧げる時間。この両方を足して礼拝という一つの言葉を使っているということを初めにお伝えしておきます。

 今回の学びの中心聖句と言ってもいいと思いますが、マルコの福音書の12章30節のみ言葉(New International Version、という聖書の訳でありますが)を皆さんとご一緒にお読みいたしましょう。

 「心と、思いと、知性と、力の限りを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」
 アーメン。(マルコ12:30 NIV)

口語訳聖書には、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ。」という言葉でありますが、原文のギリシャ語を見てみますと、このように訳されております。
「あなたの心の全体をもって、 あなたの魂の全体をもって、 あなたの知力の全体をもって、あなたの力の全体をもってあなたの神である主を愛しなさい」。

リック・ウオレン先生は言われます。
神はあなたのすべてを求めておられます。神はいい加減な献身や、あいまいな従順や、残り物の時間やお金には興味を持たれません。神はあなたの人生の切れ端ではなく、あなたの100%の献身を求めておられるのです。
 非常に鋭いと言いましょうか、厳格なと言いましょうか、そのような表現だと思いますが、今晩はこの世界に挑戦をしたいのであります。
 神様はわたしたちの人生の一部分ではなくて、心と、思いと、そして知恵と力、そのすべてを求めておられる。ですから、今晩はこの四つの側面から、神に喜ばれる礼拝ということについて学んでまいりたいと思います。

<神に喜ばれる礼拝の四つの側面>

1:神は、私たちの礼拝が正しくなされることを喜ばれる
 ・礼拝には正しい捧げ方があり、また間違った捧げた方もあります。
 ・聖言の真理に基づいた礼拝、聖書に記されている通りの礼拝をする。

 リック・ウオレン先生は、礼拝には正しい捧げ方もあれば、間違った捧げた方もあると言っておられます。そして私たちは自分勝手な見解に基づいて礼拝を捧げてはならない。つまりどういうことかと言いますと、聖言の真理に基づいた礼拝、聖書に記されているとおりの神を礼拝すると、ヨハネの福音書4章23節(NIV)によりますと、
「真の礼拝者は霊とまこととによって父を礼拝します。彼らこそ父が求めておられる礼拝者です。」
 ここに使われている「まこととによって」というこの言葉、これが聖書に記されている通りの神を礼拝するという意味でありますが、しかし、もう一つの側面、まことだけではなく、霊によって神を礼拝するというのは、一体どういうことかと言いますと、次、2番目です。 神に喜ばれる礼拝の姿、

2:神は、私たちの礼拝が本物であることを喜ばれる。
       (あなたが本気であるかどうかが問われる)
 ・情熱的であると同時に、教理的。心も頭も動員する
 
 本物であるという表現は興味深いなと思いますが、リック・ウオレン先生は、神様は、私たちの言葉が私たちの言葉以上に私たちの内側、私たちの心の態度に注目をしておられるとこの本の中で言っておられます。
 マルコの福音書12章に書かれてある、心と、思いを尽くして、と書かれている言葉は、純粋な気持ちで心から礼拝を捧げるという意味だそうです。純粋な気持ちで心から礼拝を捧げる。そして、純粋であるということは、それは本気だということです。あなたが本気であるかどうかが問われている。ただ、純粋であるがゆえに、まあ、極端に走ってしまうと言いましょうか、誠実であっても必ずしも正しいとは限らないということもあり得ます。多くの若者たちが、純粋であるがゆえに間違った宗教に入ったり、 教えによって振り回されることがありましょう。ですから、神に喜ばれる礼拝と言うのは、情熱的であると同時に、教理的でもあるという礼拝。私たちの感情、心が込められた真心からの、本気の、本物の礼拝であると同時に、なお且つ、私たちを正しい聖書への理解へと向ける、そのような礼拝が、この本物の礼拝と言いましょうか、心と、思いを尽くした礼拝だという風にリック・ウオレン先生はそのように説明しておられます。私たちは心も頭も動員する必要があるのですと。

 昨日、成長セミナーの中で大川先生がメッセージをしてくださり、本当に大きな恵みをいただきました。その中で、日本人のワサビ文化と、韓国人の唐辛子文化というのは、違うのですよ、と説明されました。しかし、違う、ということを理解しつつ、チョウ・ヨンギ先生から学んでいることを純粋に受け止めて、そしてこれを実行して行きましょうという、バランスの取れたメッセージをしてくださり大きな恵みでありました。

 先ほどもお読みいたしましたが、ヨハネの4章23節のメッセージバイブルがそこに書いてあります。



「父はこのような人々、すなわち礼拝において、神のみ前にありのままの自分を正直にさらけ出す人々を求めておられるのです。」(ヨハネ4:23 Msg)とこのように書いてあります。

 私たちが何かに本気になったり、そして、夢中になるとき、と言うのはありのままの自分というものが出てくると私は思います。そして、そのありのままの自分というものは、ある意味、本物の自分、本物の自分の気持ちが表われます。そして神様は、そのような心で礼拝をすることを喜ばれるというのであります。

 Ex:ゲイリー・トーマスの【聖なる小道】

 ゲイリー・トーマス氏の書かれた【聖なる小道】という本がありますが、この本の中には、様々な礼拝のスタイル、礼拝の方法、神様への愛を表わす表現方法があっていいのだ、というふうに書かれてあります。
 例えば、ある人物にとってはアウトドア野外活動を楽しむことを通して、神様へのこの創造主の神様を思い、そしてその神様に愛を表わす、その神様と交わりを持つ、すなわち、ディボーショナルな時間を持つことがあってもいいではないか。 また、ある人にとっては、歌うことかもしれない。ある方にとっては本を読むことかもしれませんし、ある方にとっては絵を描くことかもしれません。ある方にとっては踊りを踊ることかもしれない。さまざまな違った方法や、そして、それぞれの人物の個性を生かすことが神様の前に喜ばれる礼拝になると言うのであります。

 これは、わたくしが今年の夏に体験したお証しでありますが、ヤング・チャペル、中学生高校生たちと一緒にキャンプに行きました。その中で、実は一人体調を崩してしまった生徒が居たのですね。一人の女の子の生徒でありました。非常にみんなで心配をして、その生徒のためにお祈りをしたわけでありますが、なかなか体調がすぐれず礼拝の途中でも後ろの方でぐったりしている様子でありました。ある礼拝の中で、私がメッセージをする前に一つの歌を独唱しました。それは、その日の中心的なメッセージのテーマを伝えるそのような歌でありました。実は、この歌はスペイン語から日本語にわたくしが訳した歌でありました。そして、その礼拝の中で1番後ろの方でぐったりとした様子だったその生徒というのは、実は、お父さんとお母さんがスペイン語を話すスペイン語の世界のなかで育てられた子供でありました。ですから私は最初は日本語で、次に、もう一度スペイン語でその歌を歌いました。その生徒にこの賛美の中のメッセージが伝わる様にと願いつつ賛美させて頂きました。他の生徒たちは分からなかったかも知れません。しかし、そのスペイン語という独特のそして個性的な方法で賛美の中でメッセージの言葉が彼女の心に届いたのでありましょう。そのキャンプから帰りましてからその生徒は本当に変わりました。なによりも優先させてヤング・チャペルの礼拝を守るようになりました。そして、まだ未信者だったわけでありますが、自分から洗礼を受けて、そして、「クリスチャンになりたい」と私に伝えてくれました。主のみ名を崇めます。

 この本の中には、最も良い礼拝のスタイル。それはあなたが最も自然に神に対する愛を表現できるスタイルだ。神があなたにお与えになった背景と個性に基づく夫々のスタイルがあって良いのです。神は、あなたがあなた自身であることを願っておられます。神はあなたがあなた自身であることを願っておられます。

 私は自分がスペイン語圏の教会の中で、勉強させて頂いたこと、また、自分が幼い頃からサッカーが好きでいつか南米に行きたい!そのような思いを持っていたこと。自分が牧師の家庭に生まれたこと。貧しいそういう状況の中を通る経験をしたけれども、でも、そんな中で自分が生かされてきたこと、私が私であることを神様に感謝したいと、そのように思わされました。そして、その全てを以て神様にお棒するその礼拝を神様は喜んで下さるんだということに本当に感動を覚え主のみ名を崇めたのであります。
 サッカーの中田英寿選手は、「自分探しの旅」という言葉を使いましたが、私たちの毎週毎週の礼拝、神様との交わりと言うのは、まさに自分を発見することができる、そのような礼拝であります。 礼拝の中で私たちはありのままで主のみ前に跪くことを通して、神様はそれを喜んでくださり、そして、私たちは自分が生かされていることのその素晴らしさを感じることができるのです。私が私であることを喜んで下さる神様に出会うそれが真の礼拝なのです。ですから、本気になって、本物の礼拝を主にお捧げしてゆきたいと思います。それが第2番目のメッセージであります。次ぎ、3番目に神様に喜ばれる礼拝。

3:神は、私たちの礼拝が思慮深いものであることを喜ばれる。
 ・礼拝の中の言葉、表現方法、配慮の面に関して。

 知性を尽くして神を愛しなさいという言葉がありますが、そのことに関して、いくつかの提案をこの本の中では紹介がなされていました。
 しかし、その中の一つだけを紹介いたしますならば、それは、礼拝が信仰をもっていないような人たち、すなわち、未信者の方々にも理解できるものであるために、私たちは知性を尽くして、配慮をもってと言ってもいいかもしれませんが、思慮深い礼拝を神様にお捧げしていくべきだと言うことであります。

 コリント人への手紙、第1の手紙14章の16から17節(CEV)には、このように書いてあります。

「あなたがたが霊によって神を賛美しているとき、新来者があなたがたの礼拝のなかに入ってきたとしましょう。もし彼らがあなたがたのしていることを理解出来ないのであれば、彼らはどうしてアーメンと言って心を合わせることが出来るでしょうか。あなたがたは素晴らしい方法で神を礼拝しているかもしれませんが、それは他の人の益にはならないのです。」
コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンの英語訳であります。


 私たちの教会の中でも、未信者のおられるところでは決して異言では祈ったりはしないこと、また激しく手を挙げて賛美をしないようにしましょうという指導がなされているということは、それは、初代教会の時代からすでに続いている聖書的な礼拝の姿であったということができると思います。
 また、コリント人への手紙の第1の手紙の14章の最後には、すべてのことを秩序正しく行いなさいという言葉でまとめられております。
私たちが配慮をもって、そして、思慮深く礼拝をお捧げしていくということは、それは神様にとって本当に喜びであるということ。毎週日曜午前の礼拝が、スカイ・パーフェクトTVでそのまま流されているということや、また、宴会礼拝のなかで毎週工夫がなされ、そして、分かり易いメッセージが語られているということ。それは本当に私たちが大切にしていかなければならない、当たり前のように思ってはいけない。いつも大切にしていかなければならない、礼拝をお捧げするその一つの側面であると思いますし、なによりもそんな礼拝の姿を私たちの神様は喜んで下さるのであります
 最後に第4番目であります。神が喜ばれる礼拝。それは、

4:神は、私たちの礼拝が実際的てあることを喜ばれる。

 「あなたがたの体を神に喜ばれる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。これが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。」(ローマ人への手紙12:1 NIV)

 リック・ウオレン先生はこのように言われます。
なぜ神はあなたの体を求めておられるのでしょうか。それは、神は礼拝に関して実際的であられるのです。力を尽くして神を愛しなさいと主が命じられた時、主は礼拝には努力とエネルギーが必要であると言われたのです。礼拝はいつでも自分に都合のよい快適なものではなく、時には、それとはまったく意志による行為であり、自発的な犠牲を意味するものなのです、とそのように言われました。
 自発的な犠牲を意味するもの。例えば、賛美をしているときに、その日は自分の好みでない賛美と言いましょうか、賛美に気乗りがしない、気分が賛美をする気持ちになれないようなそういう時、そういう時でもその賛美の中に身を置き続けること。それは、神様の前に犠牲を払うと言いましょうか、神様への捧げものになるのだと言うのであります。また1週間の生活のなかで疲れがたまって、そして、様々な出来事のなかで、本当にそのまま寝ていたいと思うようなことがあるかもしれません。しかし、床を蹴るようにして礼拝を守ることを厳守すること、これも神様への力を尽くした礼拝になるという。また、決して自分にゆとりがあるわけではないにも関わらず、他者のために犠牲を払って何かを捧げる、または、手を差し伸べて助けをするということ。それら一つ一つのことは神様のみ前に貴い捧げもの、神様のみ前に喜ばれる礼拝になるのだと言うのであります。

 マザーテレサが1979年にノーベル平和賞を受賞する時に、このように言われたそうであります。

「神様を目で見ることは出来ません。ですから、ときには目に見えない神様に愛を現わすということが難しい時があります。しかし、私たちの隣りにいる存在は、私たちの傍らにいる人は、いつでも見ることが出来ます。ですから、もしも神様が私達の目に見えたら、これをして差し上げたいと思うことをその隣りの人に私達はするのです。」 と言われました。

 来月なされる10月7日8日のリーベ・クロスターというオペレッタは、まさにカトリックのシスターたちの修道院のなかでなされるそのような出来事をオペレッタにしたものであります。まあ、コメディーでありますので、ちょっと清らかな雰囲気とはかけ離れたところもあるのかもしれませんけれども、しかし、これも伝道の機会であります。伝道のチャンスであります。私たちは犠牲を払ってでも伝道するために、このチケットを買って誰かにプレゼントするということも神様の喜ばれる礼拝になるのではないかなと思わされます。

 ダビデは心の礼拝を捧げるためには犠牲を払う必要があるということを本当に知っていたのでありましょう。
サムエル記下の24章24節をご一緒にお読みいたしましょう。

「私は何の費用も払わずに、主なる神に対して生贄を捧げたくはありません。」
  (サムエル記下 24:24TEV)

 礼拝と言ってもいいかもしれません。同じサムエル記の下の6章の中には、契約の箱がイスラエルの国の中に運び込まれるという出来事記されてあります。その時にダビデは力の限りを尽くして踊ったと書いてあります。そして、この契約の箱が6歩進むたびにダビデは神様のみ前に生贄に捧げた牛をほふって、また、リビング・バイブルには、子羊を捧げて犠牲を払って主を礼拝したと書いてあります。私たちが毎日の生活のなかで6歩あゆむたびに、主よあなたをほめたたえます、あなたを賛美します。いつも神様のみ前に何かを捧げたい、 力の限りを尽くして主をほめたたえたい、 愛して生きたい。その様なことだと思います。ダビデは礼拝とは神様の前に犠牲を払うことだ、ということを確信していたのだと思います。

 この月曜日、瀬戸カルバリーチャペルの献堂式において開かれた聖書の個所があります。その個所の1番最後はこうでした。
歴代誌下の7章4節。「そして王と民は、みな主の前に犠牲を捧げた。」
 瀬戸の教会は勿論、この大和の教会からも大勢の方々の多くの犠牲と言いましょうか、捧げものを以てあの麗しい美しい会堂が建て上げられました。見事完成しました。 そして、捧げられましたのはお金だけではありません。涙と、祈り, なによりも、大川謙司先生、美奈子先生が、本当に心を尽くして、思いを尽くして、知恵を尽くして、力の限りを尽くしてお捧げになったあの新会堂。ちょうどご長女の心愛(ココア)ちゃんはマタイの福音

書の中に出てくる「心を尽くして神を愛する」というこの言葉から名前がとられていますが、もしかしたら、いいえきっと、ココアちゃんも何らかの犠牲を払って、そしてこの会堂は完成したのでありましょう。何よりも大川先生、道子先生にとってもどんなに大きな喜びであったでしょうか。
 大川先生は、この献堂式のなかで「永遠の人柱」というタイトルでメッセージをくださり大きな恵みをいただきました。そこには、工事関係者、未信者の方々もこられましたので先生が配慮をなさってさまざまな話題をお語りになられました。
 マタイによる福音書の16章を開いて、「私がこの岩の上に私の教会を建てよう」とイエス様が言われたこと、そして、使徒行伝の20章では「み子がその血をもってあがなわれた教会」と言うお話をなさいました。新改訳聖書には「み子がその血をもってかいとられた」。 A.T. ロバートという人は「神ご自身がご自分の血を流されてあがなわれた教会」。神様ご自身の尊い血という犠牲を払って買い取って下さった。それが教会なんだと言うのです。 沢山の捧げものが会堂のために、この教会のために捧げられたでありましょう。しかし、何よりも犠牲を払われた方は私たちの主イエス・キリスト、神様ご自身であるということ。そのあがないの犠牲のゆえに私たちは心を尽くし、思いを尽くし、知恵と力の限りを尽くして主をほめたたえ、主に礼拝をお捧げするのであります。

 犠牲を払う、または、捧げるということに関して私が大好きな一つのお話があります。
それは11世紀の聖者と言われたジェロームという人物が聖書の翻訳をしているときの出来事でありました。 聖書の翻訳と言うのは本当に多くの犠牲が払われなければ出来ません。誰にでもできるという働きではありません。大きな働きであると思いますが、彼がその働きをしているとき祈りを捧げていました。祈っているときにそこに主の幻、イエス様のお姿が現れて、そして、ジェロームの前にイエス様が立たれました。
 ジェロームは本当に感動と喜びと、驚きをもって、主の前に言いました。「主よ、私はあなたに何かを捧げたいのですが、何を捧げたら良いでしょうか?」 
 イエス様は言われました。「私はこの天におけるもの、地におけるもの、すべてのものを支配している。すべてのものは私のものだ。あなたは一体何を捧げようと言うのか。」
 「そうですね。私は今、聖書を翻訳していますから、この聖書が完成しましたら、それをあなたにお捧げします。」
 イエス様はこう言われたそうです。「そんなに、それほどまでに何かを捧げたいのであるならば、一つだけ、一つだけそれを私は貰おう。それは、あなたの罪とあなたの苦しみを私に捧げなさい」。

 ある人はこう言いました。私たちの絶望やため息、無気力や自暴自棄、そんな物さえも神様は捧げものとして受け止めて下さる。私たちはこれらが恥ずかしく醜いものに思える。しかし、これなしに神にお会いすることは出来ない。神は心の深いところで私たちにお会いになる。

 昨日、チョウ・ヨンギ先生がそのセミナーのなかで開口一番お話になったことは、牧会

とは、人々の絶望を希望に変えること。礼拝のなかで私たちがお捧げするもの、それは時には喜びや感謝だけではなく、絶望かもしれない。 いいえ、この世界は絶望に満ちている。しかし、礼拝の中で、私たちがお捧げするその礼拝の中で不思議な出来事が起こることなのだということであります。

 最後にもう一度み言葉をお読みいたします。マルコ12章30節。
「心と、思いと、知性と力の限りを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
このみ言葉が語られた背景は、イエス様が命令をされているようなそのような個所であります。 本来、 人間は誰かから命令をされると素直に言うことを聞けないと言いましょうか、外側ではいうことを聞くことができるかもしれない。しかし心の内側ではなかなか素直になれない。そういうわけにはいかない。それが現実でありましょう。しかし、こんな私たちのためにキリストご自身がまず誰よりも先に、心と、思いと、知性と力の限りを尽くして愛をあらわして下さった、それが十字架であります。それが私たちの救い主イエス様が私たちにあらわして下さったご愛であります。このお方が私たちを今日もこのみ言葉の中に、この愛に生きるように、私たちを招いておられます。ですから、心と、思いと、知恵と力の限りを尽くしてこの方を愛し、このお方にお従いし、そしてこのお方を礼拝してまいりましょう。
主はその礼拝を喜んで下さいます。

お祈りいたします。
 愛する、恵み深い天の神さま、あなたのご愛を感謝します。私たちは弱い者でありますが今晩もあなたに心を向け、あなたのみ前に精一杯の祈りをお捧げいたします。聖霊様、力とそしてお助けを与えてくださって、今晩の祈りを導いて下さい。
愛する尊いき主、イエス様のお名前によってお祈りいたします。

アーメン