2006年8月30日祈祷会メッセージ

第11章 神の親友になる
      “Becoming Best Friends with God”

「まだ私たちが神の敵であったとき、神の御子が死んで下さったことによって、神は私たちとの友情を回復させて下さいました。ですから、その命によって私達は確かに永遠の裁きから救われるのです。」 ローマ人への手紙 5:10 (NLT)

 今日はリック・ウオレン先生の「人生を導く五つの目的」の、第11章「神の親友になる」これがテーマでございます。英語を見ますと“Becoming Best Friends with God”と書いてありますね。
 本を私なりに纏めてみました。どちらかと言いますと、アウトラインだけ用いさせていただいて、本を通してメッセージをさせていただきたいと思っております。私が思い、気付かされる事は、大川先生はいつもご自分が本当に感動して語って下さる。それが私どもに本当に感動として伝わるのですけれども、メッセージというのは、自分が本当に感動してないものは伝えられないわけですね。自分が本当に恵まれて感動したものを伝えたいわけです。そうゆうわけで、今日メッセージをお聞きになっても、そんな事どこにも書いてないではないかと思っている方は怒らないで欲しいと思います。
ここに1・2・3と三つありますが、これはバランスよくつけたものです。

@神はあなたの親友になりたいと思っている。− 神の心 ⇒ 神はどんなお方なの? Who is God?
A神と私の隔たりを取り除いた主の十字架。 − 神の行動⇒ 神は何をされたの? What did he do?
B神の親友になるための秘訣。 − 私の心 ⇒ 私はどう答えたらいいの? What will I do?
                       
この三つでメッセージさせていただきたいと思います。

 先ず最初に今日の聖言でございます。
ローマ人への手紙、5章10節(NLT New Living Translation)これは比較的新しい、多分数年前か、5 年位前に訳された英語の翻訳ですが、皆さんとご一緒させていただきたいと思います。

「まだ私たちが神の敵であったとき、神の御子が死んで下さったことによって、神は私たちとの友情を回復させて下さいました。ですから、その命によって私たちは確かに永遠の裁きから救われるのです。」アーメン。
 とても素敵な訳だと思いました。特に私が良いなあと思ったのは、神は私たちとの友情を回復させて下さいました。友という言葉と、回復という言葉です。いい言葉ですね。


1・神はあなたの親友になりたいと思っている。

 まず、回復からまいります。 
聖書のメッセージは、私は二つあると思っているのです。一つは神様の愛。そして、もう一つが神様による救い。
 この救いというのが、回復であります。人としての回復。私の回復。そして、神様との関係の回復。これを救いと言いますね。
 気になる床屋さんがこの近くにあって、道路を走っていますとその床屋さんの看板が出ていまして、“人間回復”と書いてあるんですね。あれ、皆さんもご存知の方もおられるかと思いますが、わたくしは一度入ってみたいなあと思っているのですけれど、髪をいじってもらっていると少しは回復になるかと思いますが、本当に私たちがしなければならないのは、私たちを探っていただいて、神さまに取り扱っていただかなければ回復の道はないと思うのであります。
 リック・ウオレン先生はこんなふうに言っておられます。
「神と私たちの理想的な関係はエデンの園に見ることができる。神と人との間には愛以外の何物もなかった。」と。
 皆さん、これ凄いと思いません? 想像しただけで、何かちょっと想像し得ない感じです。神と私との間には愛以外の何物もなかったと言うのです。いや、これが本来の私たちの人間の姿なんだなぁと思わされるんですね。ところが、人間は罪を犯してこの関係を破壊してしまうわけです。それにも拘わらず、私たちの神様は、勿論、破壊して私たちに罪が入ってきて私たちは変わってしまったのですけれど、私たちが変わっても変わらない神様なのです。私への、あなたへの思い、私がどんなに罪深くなって、どんなに神様を離れても、神を呪ったとしても、神様のあなたへの愛は変わらないということ。これをしっかりと覚えていただきたいと思うのであります。そればかりか、神様は失ってしまったあなたを探し、取り戻し、壊れた関係をもう一度昔を思い、というか何にも罪が無い時に、私たちが持つことの出来た関係を夢みながら、神様は私たちに回復を与えて下さる神なのであるということなのであります。
 ここでちょっと質問ですが、皆さん聖書を読んでおられますか。聖書はみんなで何章ありますか。ご存知ですか。1189章あるのです。全部で。これはね、良い訳(イイヤク)聖書と覚えるんですね。これを1日1章読むと3年3ケ月。うるう年があると3年3ヶ月3日で読むことが出来ます。ですから3年3ケ月と3日で聖書を完読してないと言うことは、1日1章も読まなかったということですね。そうすると一生読まないで終わってしまうような感じですから、是非読んでいただきたいと思います。さあ、これだけ沢山のチャプターがあるのですけれど、「罪」の無い章と言うのは聖書に何章あるかご存知でしようか?「罪」の無い章。そうです。4章あるんですね。どこにございますか? 創世記の1章2章と、黙示録の21章と22章。最初の2章と最後の2章。その間の1185章は全部人間の罪で満ち溢れております。

・エデンの園
 この創世記の2章にエデンの園が出てきます。人が罪を犯す前の、アダムとエヴァの罪を犯す前の人間の姿が1章2章に出てきます。この2章で園の真ん中にあった命の木というのが、罪を犯したために失われるわけですが、これを毎日毎日食べていたわけですよ。アダムとエヴァは。永遠に生きる者だったのですよ。ですけれど、罪を犯したためにエデンの園を追われて、この命の木から食べることが出来なくなった。私たちは永遠に生きる者ではなくなったわけです。この同じ命の木が、何と、黙示録の22章に再び出て来るのです。1185チャプターも出てこなかったのですが、最後の2章に出て来るのです、また。即ち、神は、主は再び回復して下さるというメッセージです。

 聖書にも3本の木が出てまいります。ゴルゴダの上で3本の十字架が立っておりましたが、この聖書に出て来る3本の木と言うのは、創世記に出てくるこの命の木です。そしてまた、黙示録に出て来る命の木です。最初と最後。そしてその真ん中にイエス・キリストの十字架の木があるのです。その十字架の木にイエス・キリストはあなたの罪を負って十字架にかかり、もう一度神への道を回復して下さったのであります。
 エデンの園のエデンという言葉はですね皆さん、実は、楽しみ、喜びとか、豊かさとか美しいという意味の言葉なのです。そのエデンの園、ほかでもない、私たちの内に、私たちの人生の中に、神は回復して下さる神なのです。宗教のことを英語でReligionと言います。Re という言葉はよく使われますね。リニューアルとかリバイバル。これは再びという意味です。Religion はラテン語で、繋ぐ、結ぶという意味です。即ち、神と人が再び結ばれること、これを宗教と言うのです。

 皆さん子供の頃、私も経験ありますが靴紐が結べなくてですね、困ったことがよくありました。そんなときに、父や母がいつも結んでくれました。同様に私たちも神様との関係を自分達独自では修復する(結ぶ)ことが出来ないのです。何度も何度も罪を犯し、神様が結んでくださっても罪を犯して切ってしまい、何度切っても神様はまた結び、切って結び、切って結び、1本の紐が切られて結ばれ、切られて結ばれ、だんだん、だんだん、だんだん、その1本の紐が短くなっていく。私たちは罪を犯し失敗を繰り返しながら、悔い改めて神の許しをいただいて、来る日も来る日も来る日もいただいて、そして私たちは神に近い者とされて行くのであります。神の恵みであります。
 聖書の最初の言葉は皆さんご存知ですね。「光あれ」創世記の1章3節に書かれておりますが、じゃあ、人類が罪を犯した最初の神の言葉というのは何であったか。人類にかけられた言葉は何であったか。創世記の3章9節。ここに主なる神は人に呼びかけて言われた。罪を犯した人類に最初に神がかけられた言葉です。「あなたはどこにいるのか」。英語では“Where are you?”。この言葉を読むたびに心が痛みます。

 Stevenが1年ぐらいカナダに行っていたわけですが、 彼にとってもはじめての経験でしたが、親である私にとってもはじめての経験でありました。どこかへ行った帰りにお店によって何かを買う時、デザートを買っても、何を買ってもいつも4つ買っちゃうんですね。もう子供は3人しか家にはいなくなってもですよ。どうしても4つ買っちゃうのですね。 子を失った親、その痛みと言うのを時々聞きます。想像に絶するものであります。
行方不明になって、我が子がどこにいるのかわからないその親の苦しみと言うのは、本当に苦しいものでありましょう。子供を失った人たちは、よく、部屋を片づけることが出来ない、 あきらめることが出来ない。 そして夜もドアに鍵をかけることが出来ないそうです。もしかしたら帰って来るかもしれない、今晩。そしてお母さんが食卓を飾る時も、常にその失った子供の分までお皿を出してしまうという。

 そこにあなたがいない神の痛み。 “Where are you?” あなたはどこへ行ってしまったのか。神はあなたをずうっと捜し、痛み続けておられる神であることを知って下さい。あなたはどこへ行ってしまったのか。

 先ほど大川先生が言われましたように、昨日、今日と永井さんの葬儀が行われました。そして明日、明後日は中村姉の葬儀が行われます。天国でまた会えるとはいえ、お別れをしなければならないということは辛い事です。もし皆さんも愛する大切な人を失った経験があればこの神の心のあなたへの痛みが分かります。

 エデンの園から何千年、ルカの15章というところで、イエス様はこの例え話をされました。1匹の羊、1枚の銀貨、一人の息子、すべて失った一つ。そこに捜し、見つけるまで捜し続ける神の姿が生々しく書かれています。
 ルカの15章ほど神様の切なる思いが表れているチャプターはほかには無いと、そのように思うのです。放蕩息子の話がされますが、その放蕩息子、誰が見つけましたか。息子が父を見つけたのではなくて、父が息子を見つけて、父が走っていったのです。あなたがどれほど罪と欲で汚れてきたなくなり、どれほど、神を呪い、神から離れ、神に背を向けたとしても、愛する者の目には見えるのです。たとえあなたが見えなくても、わからなくても、神の目にはあなたは高価で貴い。まだ遠かったのに、汚かったのに、あなたに向かって全力で走り、あなたをそのまま抱きしめられる神。これが私の信じる神です。真の愛は距離を超越するのです。

 少し前、大川先生が祈祷会だったと思いますが、ご紹介して下さったマックス・ルケイドという人の「心の重荷に別れを告げて」という本がでましたですね。詩篇の23編。ダビデは少年の時羊飼いでありましたけれど、23編について書かれているものですね。
この本の中で私が1番感動したところは・・・皆さん知りたいですか。この箇所ですよ。お読みしますね。聞いて下さい。
 神の被造物の中で羊ほど何も出来ない動物はない。羊はおバカさんだ。あなたは羊のトレーナーにあったことがあるかい? 羊が芸をするのを見たことがあるかい? 羊が転がったりジャンプしたりするのを売り物にしたサーカスを見に行ったことがあるかい? 羊はそれに無防備だ。牙も爪もない。あなたに噛みつくことも出来ないし、あなたより速く走ることも出来ない。それだけじゃない。羊は汚い。猫は自分で顔を洗える。犬も自分で毛づくろいする。小鳥だって水浴びする。だけど羊は汚れても汚れたままでいる。ダビデはどうしてもっとましな物を考えられなかったのだろうか。勿論できたはずだ。なのにどうして彼は羊以外のものを選ばなかったのだろう。例えば、主は私の王様、私は主の大使ですとか、大使が語れば誰もが足を止める。だけど彼の羊が姿を現しても誰が気づくだろうか。誰が目を止めるだろうか。でも、これこそが、ダビデが言いたかったことだ。そう、そんな羊に注意を払う人がいる。羊飼いだ。
 誰が見てなくても、認めてくれなくても、このお方が、あなたを見つめてくれるならば、このお方が、私を見つめていて下さるならば、私の人生はそれで充分です。

 今日の説教のタイトルは、ちょっとMy best friend としてみたのですが、これはですね、大賀ホールで終わりの時に配られました、レーナ・マリヤさんのトラクトのタイトルからとらせて頂いたのです。彼女は生まれながらに両腕がなく、片足が半分の長さ。しかし彼女が歌う「1羽の雀にさえ」という賛美は実に多くの人びとの心を打っているのであります。このトラクトの中に彼女がこう言う風に書いているのです。聞いてください。
「わたくしは自分が障害者だと思ったり、ハンデキャップに対して腹立たしく感じたり、悩んだことはありません。神様は特別な計画があって、私をこのように造られたのだと思います。神様は全能ですから私の手や足を作り替えることもできる筈です。でも、そうされず、私に障害を残して置かれるのは、人間にとって一番大切なのは、体の健康よりも魂の健康であることを明らかにするためだと思います。神様は私に手の代わりに心に豊かさを与え、自分自身を愛するようにしていて下さっているからです。1羽の雀さえ神のみ前には忘れられてはいません、と聖書の中でイエス様は教えてくれました。まして、私たちが生きていくのに必要な生活の糧や、心の糧や、健康を神様は備えられないはずがありません。たとえ、苦しい試練に出会っても、神様はそれを素晴らしいものへと変えて下さることを私は知っています。だから、今日という1日を生きていくことが嬉しくてならないのです」。”
 皆さん、ここにも見えるではないですか。神が回復して下さった麗しいエデンの園が。神が回復されたその魅力と輝き。たとえ愚かな羊でも、小さな雀であっても、これほどにまで、神の前に人は美しく、強く、輝いて生きることが出来るものなのです。そうです。エデンの園は伝説でも理想でもありません。あなたの、その心の中に神が作られる最高の場所なのです。レーナ・マリヤさんに重なるのでもう一つだけ。
 この放蕩息子のところですが、お兄さんがあのストーリーの最後に出てきますね。どうして出てくるのか、お兄さんは怒ってしまうわけですけれど、皆さんに心にとめて欲しいことはこういうことです。
 今あなたが持っているものは、あなたが失ったものよりも遥かに大切だ。失ったものばかり、持っていないものばかりに目を止めるがゆえに、今持っているものに気付いていないかもしれない。その素晴らしいものを失わないで欲しい。そうです。あなたにもあなたを愛する神が、このお方がおられることを忘れないで。このお方の愛と許しはあなたのものであることを忘れないで。アダムとエヴァは自分の持っていないものを得ようとして、自分の持っているものさえも失ってしまったのです。皆さんも、レーナ・マリヤさんの賛美を聞いたら満ちたりること、感謝することを大切にしてほしいと願います。

・神の友。
 プリント見ていただきますと、神の友とあります。
神の友と呼ばれた人が聖書に三人出てまいります。さあ誰でしょう。

○最初の人物は、ヤコブ2章23節に書かれているアブラハムです。
「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

○二人目がモーセです。出エジプト記33章11節です。
「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」
顔と顔を合わせて親友と話すように語られる神。これが祈りなのです。

○さて、もう一人は誰でしょう。これは本には出てこないのですが、見つけました。
ローマ人への手紙5章10・11節。 リビング・バイブルで読ませていただきます。
「私たちが神様の敵であった時に、神の一人息子の死によって、神様のもとに連れ戻されたくらいですから、 私たちが神様の友となり、 神様がわたしたちの内に生きておられる今、どんなに素晴らしい祝福が備えられていることでしょう。今や私たちは、神様との驚くべき新しい関係を心から喜んでいます。それはただ、主イエス・キリストが私たちの罪のために死んで成し遂げて下さったこと、すなわち、私たちを神様の友として下さったことのおかげなのです」。
 そうです。3人目の神の友とは、私たちのことです。あなたのことです。神は私たちを友と呼んで下さる。いいえ、この神が私たちのbest friend なのであります。

・神のみ心にかなった者。

 これも聖書からとられておりますが、それは一体誰なのか。
使徒の働き13章の22節です。
「それから神は、サウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼についてあかしをして、『わたしはエッサイの子ダビデを見つけた。彼はわたしの心にかなった人で、わたしの思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』」。と言われた。

 私たちが神を証するということは分かるのですが、神が私たちをあかしして下さるって。皆さん、あかしと言うのは、この間、大川先生から“あかしという言葉は、これは殉教という言葉だ”とそのように教えられました。即ち、神は命をかけて、これば我が子だ、この息子、この娘は、我が子であって、本当に素晴らしい、素晴らしい、高価なものだ、と神が命をかけてあかしして下さるというのですね。ここを英語で見ましたら、こういうふうに書いてありました。“I have found David the son of Jesse, a man after My own heart, who will do all My will”ここに a man after My own heart と書いてありますが,この after と言うのはご存知のように、後にという意味ですね。 「〜を追って」とか、[〜に追いて」とか、「〜に従って」とか、「〜を求めて」 という意味の言葉です。 “A man after God’s heart” 神様の心を追って、求めて、それの後に。皆さん、英語で「お先にどうぞ」という時には ”after you!“ というんです。あなたの後に行きますというのですね。After you 。間違っても絶対、after me て言わないように気をつけてくださいね。俺の後について来いということになっちゃいますからですね。
 羊が羊飼いに、俺についてこいって言ってどうなるのですか。羊は羊飼いを100%信頼します。信頼するということは、理解するということとは違うのです。納得するということとは違うんです。信頼するという。それだけではない。人生には難しい問題が山ほどあります。試練があります。それも after him です。皆さん after me ではない。私がするから神様ちょっと助けて下さい、と祈るのではないのです。
 例えば、人が、人間が卵を21日間抱えていても、ひよこは孵りません。腐るだけです。しかし、親鳥が抱えればちゃんとひよこが生まれて来る。”私は2年も3年もこの問題を抱きしめて耐えて頑張っています“と言っても、たとえあなたが5年10年抱き抱えていても同じです。抱きかかえることが大切なのではない。また、どう抱きかかえるかを知ることが大切なのでもない。誰が、抱きかかえているかが問題なのです。
 人生の困難と試練、ゴリアテに勝ったダビデの強さというのは、人が、人の強さが何であるかということを私たちに明確に伝えてくれているのです。神に明け渡す、委ねる、ついていく。A man after God’s heart 。素晴らしいことです。ここに人の力が、栄光があります。われらの神は、あなたが必死に抱えてきた問題を問題ごと、あなたごと抱きかかえて下さる最高の友。魂の羊飼いです。

「われ山に向かいて目をあぐ、わが助けは何処より来たるか、私の助けは天と地を造られた主から来る。」
 問題のど真ん中でこそ、力強く神をほめたたえ感謝し賛美できる。これこそクリスチャンの、いいえ、人の醍醐味、魅力であります。

2・神と私の隔たりを取り除いた主の十字架。

 リック・ウオレン先生は言われました。
“キリストが十字架上で私たちの罪の代価をその命で支払われたとき、神と私たちとの隔たりの象徴であった神殿の幕が、上から下まで真二つに裂けたのです。それは、人が再び神に直接近づけるようになったことを示すものだ。” 神殿の幕屋には神の至聖所と、人の世界をあらわす聖所の二つがあって、その間を神殿の幕が仕切っていたのであります。1年に1度、大祭司はここをくぐって動物の血を持って入り、民の罪のあがないをする。それ以外は誰も入ることのできない世界でありました。実は、人がこのエデンの園を追い出されたときに神様は特別なことをなさいました。この命の罪をもった人が命の木からまた、永遠に生きることができることがないために彼らを追い出し、創世記の3章24節では、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」と書いてあります。 ケルビム。これは契約の箱の上にも翼を広げているふたりのケルビム、あれは模型の写真ですが、至聖所の中にあったこのケルビム。このケルビムが、実は、入ることのできないエデンの園の命の道を塞いでいたわけです。そして実は、この神殿の至聖所のところの幕、入ることのできない幕にもこのケルビムの刺繍が模様がされていたのです。イエス・キリストが十字架にかかられたときに、命を、血潮を、ささげたときに、あの神殿の幕が上から下に二つに裂けたとマタイの27章に書かれています。すなわち、人が入ることのできなかった命への,永遠の命への世界、神との素晴らしい交わりの世界が再びイエス・キリストの十字架によって、その血潮によって開かれたことを象徴しているのであります。ですから、ヘブル書のなかでイエス・キリストは私たちの大祭師としてご自身の命で、ご自身の血でこの罪のあがないをして下さったのだと書いてあるのです。そのようなわけで、イエスさまは

ヨハネの14章6節、
「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰も父のもとに行くことが出来ません。」と言われたのです。

ヘブル人への手紙10章19節では、
「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることが出来、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる。」
主イエス様はご自身の肉体でその道を開いて下さったのです。
 
3・神の友情を深める秘訣。―私の心

 わたしたちは、では、これにどう応えたらいいのですか?
リック・ウオレン先生が六つあげているのですが、今日はそのうちの二つを見ることにします。

 @神との不断(普段)。(Through constant conversation )
  カッコの中は私が加えたのですが、普段の会話を通して。

 リック・ウオレン先生はこう言われました。
 1週間に1 度教会に通っても神様とは親しくなれません。これは分かりますね。わたしたちは祈祷会に来ているから2度来ているんだー、ってそういうのは威張れないと思うんですが、また、毎日デボーションを持っているだけでも親しくなれないって。エッ?!。
毎日デボーションしていても駄目なの?となりますね。

神との不断の祈り。
 祈りとか礼拝と言うのは、わたしたちはどうしても何か特別なことだけを考えてしまう。でも先生はですね、わたしたちのするすべてのことが祈りとなり得るんだ、と。
 祈りとか、デボーションとか、礼拝等とか、特別なことだけではなく、わたしたちのするすべてのことの中に友なる神様、イエス様をお招きするんだ。すなわち、神様との交わりは皆さんのスケジュール帳のアポイントメント、予約のようなものではないって言っておられるんですね。
 リック・ウオレン先生が、プラザー・ローレンスという人の「神の臨済を実践する」という本を引用しておられます。
 彼は17世紀、無名の料理人だったそうですが、彼は食べる時も、風呂に入る時も、仕事をする時も、そこに、彼は普段の仕事の中にイエス様をお迎えし、神を賛美し、礼拝し、祈りに変えていったというのです。そして、この普段の生活のなかで神様を礼拝することは決して難しいことではない。特別な、特別な霊的な修養会に出かけて行く必要もないんですよ、と言っておられるのですね。
 私が教えられたことは、礼拝と言うのは出席するものではない。欠席しなさいということではないですよ勿論。それは継続する不断の、普段の、そして、不断の心の attitude 状態、姿勢のことを言うんだ。リック・ウオレン先生はこれを“礼拝ライフスタイル”と呼んでおられました。
 もう一つ、もし、わたしたちの心のうちに神が住んでおられるとしたら、皆さん考えてみて下さい。この地上で、ここより神に近い場所はどこにもありません。神の臨在を探し歩く必要もないと、言うことです。
 神との友情を深める秘訣の二つ目は次です。

 A継続的に黙想することを通して。(Through continual meditation )
 
 リック・ウオレン先生は、こう言われます。
1日中神様のみ言葉を思い巡らすこと。
 聖書には、神はみ言葉を通してサムエルにご自身を顕されたとある。 聖書を学ぶために丸1日を費やすことは出来ないが、あなたが読んで暗記した聖句等を思いだしたり、心の中で繰り返しながら1日をとおし、神のみ言葉を思いめぐらすのです。これが、デボーションは朝が一番いいと言われる理由の一つですね。この聖日に教えられたばかりでございます。素敵なみ言葉でしたねー。

 哀歌3章22節。ごいっしょに読みましょう。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」

 これはね”Great is thy faithfulness”というとても有名な英語の賛美歌があるのですが、morning by morning new mercies I see、いただくみ言葉は、私にとりましても、とっても大切なものです。
 神学校時代の恩師であります奥山実先生に卒業して10年ぐらいしてから突然お会いしたのですが、「先生、覚えておられないでしょうね」、と言いましたらですね、「覚えてるよー柴田君。君はね、僕のクラスから出た(先生は宣教学を教えて下さいっていたのですよ)最初の宣教師だから絶対忘れないよ」と言って下さって、嬉しかったなぁ。まぁ、奥山先生という方はですね、非常に単純で頑固な先生なんですよ。それは神様のみ言葉に対してですよ。
朝、いただいたみ言葉で先生は物事をお決めになると聞いていましたが、99年の世界宣教会議議長というとんでもないこの大役の依頼もですね、何と、自分ができるとか出来ないとか、ご自分の都合ではなくて、その日の朝のみ言葉で、即、決めたって。
あー、やっぱり奥山先生だと思いました。

 今から5年ほど前、バンクーバーで私は牧会しておりました。この大和の支教会です。シアトルのカンファレンスに大川先生ご夫妻が日本から来られて共に参加しました。集会の後、岡村先生とごいっしょに先生にお話があるからとお部屋に呼ばれました。そこで、「日本に来て岡村先生と一緒にチャーチ・スクールを始めて欲しい。」、ということでした。
驚いたというよりも、愕然としました。教会のこと、子供の将来のこと。4人ともカナダ生まれ。日本語は殆ど全然ダメ。今はその割合には良く日本語をしゃべっていますが。
カナダ宣教に骨を埋める覚悟で宣教師として渡り、もう日本国籍もない。また、いつか帰ろうと思っていたインディアン宣教に対する夢も、もしかしたら諦めなければならないかもしれない。一瞬、今までの歩み、これからの歩み、ありとあらゆることが走馬灯のように頭の中を巡って不安になりました。しかし、そんなことも知らなかったその日の朝、私はデボーションでこの言葉を読んでいたのです。この言葉が心に響きました。

 エレミア書18節6節。
 主は仰せられる、「イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」

 部屋に帰り独り主の前にひざまずいて祈っていると、何と不思議に、不安が平安に、恐れが感謝に変えられていったのです。主はすでに知っておられたのです。すでに私を支えるように用意して下さっていたのであります。この声が主のお言葉だとすぐわかったのは、このところです。
「この陶器師がしたように、わたしもあなたにできないのだろうか。」

二十歳で献身して主に従ったときも
イザヤ書6章8節。
「私は誰を遣わそう。誰が我々のために行ってくれるのだろう。」と主の声を聞いたので、言いました。「私がここにおります。私を遣わして下さい。」

 私はその召しに相応しくないことも、その召しに応えることが出来ない者であるということもよーく知っていました。神様も知っていた筈です。しかし、それでも主は「誰がわたしのために行ってくれるだろうか。」、と懇願しておられる。責めることも、強いることもなく、主が優しく声を、こんな私にも声をおかけ下さった。
 私の人生とは、ただ、圧倒的な神の愛と恵みに押し出されたものにすぎません。このお方以外、私には何も誇るものはありません。
 家を勘当され一人で出て行った神学校。そのクワイヤーで恩師天田先生の作られた賛美。「キリストの愛われに迫れり」を何度も何度も歌いました。
 ♪罪深き我が身に変わり キリストは十字架につき 命さえ惜しまず捨てて 贖いを成し遂げ給えり キリストの愛われに迫れば わが命君に捧げて ひたすらに 主のために生く。♪

 若き頃、中野先生が勘当され、いつも祈祷室で泣きながら祈っておられた、ということを大川先生からうかがいました。
 僕も思い出します。私も献身し勘当されて神学校に行きました。帰る家も、お金も、愛する父も母も、家族もみな失いました。朝5時前にみんなを起こしちゃいけないから、畳1畳ぐらいしかなかったあの神学校の祈祷室で、布団をかぶって、頭からかぶって、泣きながら祈りました。いつも、もう一人の級友がやっぱり朝早く暗い中で祈っていました。今、岡山で牧会をしておられる時松先生です。彼も主に従い勘当されていた兄弟でした。
 しかし、主の恵みは尽きることなく、そのいつくしみはとこしえまで。
 
そんな涙の祈りをご覧になり心をいためられた主は、信じられないようなことをして下さいました。
 ある日私を勘当した父が頭を下げて、「許してほしい。そして、お前のその手で私に洗礼を授けてほしい。」、と。神のみ言葉にかけて祈り続けた17年間は、あの朝のあの祈りは、無駄ではなかったのです。1998年12月6日、バンクーバー、カナダ。私は祈るたびに涙で濡らしたこの手で、神の前で頭を垂れる私の父と母に洗礼を授けました。それだけではない。若い時には想像することも出来なかった、恵みを神様は与えて下さいました。私の父と母の横には、明日カナダに帰る当時9歳の長男のStevenが、あどけない可愛い顔をして立っていたのです。わたしは父と母と息子とに、最高の妻と子供たちと、愛する教会の皆さんに見守られる中で洗礼を授けたのです。
 だから、エレミアではない、この私が今晩言いたい。
「主に感謝せよ。主は恵み深くそのいつくしみはとこしえまで。それは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」と。アーメン。 お祈りいたしましょう。

 愛する天のお父様。あなたのご愛に、あなたの恵みに、いつくしみに圧倒されます。何故に主あなたはこんな愚かな、こんなどうでもいいような罪深いものをここまで愛し、恵みに恵みを与えて下さるのでしょうか。主よ、あなたに感謝します。あなたの恵みは深く、そのいつくしみはとこしえまでも絶えることがありません。いま、み前に頭を垂れる兄弟姉妹たちには、みな弱さがあります。みな人には言えない自分があります。みんな大きな問題を抱えて頑張って、頑張って苦労しています。でも、主よ、そんな私をご覧になって、今晩、どうぞ私がこの問題を抱えて歩くではない。主イエス様、あなたが私と私の家族、私の問題も弱さもすべて抱きかかえて歩んで下さいますように心からお願いします。わたしたちはあなた奇跡を信じます。愛の奇跡を信じます。救いの奇跡を信じます。何者も、何者も、あなたのこの祝福の約束を破ることは出来ないと信じます。聖霊様わたしたちを助け、わたしたちを立ち上がらせて下さい。そして、あなたをとこしえまでもほめたたえ、あなたに仕える者となりますように、主イエス様のお名前で心から感謝してお祈りいたします。