2006年8月10日祈祷会メッセージ

第10章 礼拝の本質

 今日はリック・ウオーレン先生の「5つの目的」シリーズの第10章ということで、このところからみていきたいと思います。わたしにとっての驚きは、順番でこの10章が開かれるわけでありますが、神様がいまこの教会に、一連の一つのメッセージを与えて下さっていると感じさせられていることであります。 方向付けをして下さっているかのような、 また、一つのシーズンにこの教会全体が、そして、教会員一人ひとりが導かれているような驚きを感じています。
 この日曜日のメッセージを皆さん覚えておられるでしょうか。大川先生を通して、このようなメッセージを頂きました。
 全き献身。完全な明け渡し。あますところなき聖別。完全なる聖潔。
献身も、ただの献身ではない。全き献身ですよ、というメッセージを頂きました。
 実は、きょうお開きする10章は、礼拝の本質というのがテーマでありますが、その礼拝の本質は降伏すること、“Surrender”明け渡すことなんだということを示している聖書箇所であります。
 神様は余程大きな事をこの教会にいま計画して、ご用意しておられるんだということを思わずにはおられません。

きょうは、第10章の「礼拝の本質」であります。
 「あなた自身を神に差し出しなさい。・・正しい目的に用いて頂くために、自分のすべてを神に明け渡しなさい。」(ローマ6の13)

 礼拝の本質、初めにみ言葉が書かれていますが、ご一緒にお読みいたしましょう。 はい!
「あなた自身を神に差し出しなさい。正しい目的に用いて頂くために、自分のすべてを神に明け渡しなさい」。もう一度お読みいたしましょう。 はい!「あなた自身を神に差し出しなさい。正しい目的に用いて頂くために、自分のすべてを神に明け渡しなさい」。
 私たちは、ローマ人への手紙の5章1節から5節まで、大川先生を通してメッセージをいただきました。神様との平和を頂くこと、そして、聖霊によって神様の愛が、私たちに注がれているという感動のメッセージでありました。その5章があってこの6章に移るわけでありますが、今度は、私たちが、あなた自身を神に差し出しなさい。自分のすべてを、ということが要求されているメッセージであります。 

◇礼拝の本質は、降伏にあります。

 降伏という言葉は、 あまり人に好まれない言葉であるかもしれません。 屈服するような、負けたというか、まあ、敗北感のイメージが強いわけであります。しかし、礼拝の本質は降伏にあるというのです。神様の愛に対する自然な応答、御前に平伏し降伏するのが礼拝であると聖書が教えているのです。神様が私達人類のために棒げきって下さったように、お命さえも捧げきって下さったように、ローマ人への手紙の5章の8節で言いますならば、「まだ、私たちが罪人であったときにキリストが私たちのために死んで下さった」。それに応答するように、6章では、あなた自身を、私自身を、神様にお捧げするそれが礼拝であるということであります。

・降伏の呼び名
 「降伏」の呼び名と言うのは沢山ある。カッコがそこに書かれているわけでありますが、そこには、このような言葉が埋められていきます。
 一番目は、「聖別」です。降伏の呼び名は聖別されるということ。そして、第二はキリストを自分の主とする。第三は自分の十字架を背負う。第四は、自分自身に死ぬこと。そして、第五は、聖霊様に自らを明け渡すというであります。

 「降伏」と一言で言いましても、色々な方法で、色々な言葉で、それは語られている内容であります。そして、一つ一つを取り上げていきますならば、それも、大きな大きなテーマを持っている訳でありまが、リック・ウォーレン先生は、しかしながら、重要なことは、降伏と言うのが、何と呼ばれているかではなく、それをいかに実行するかが重要なのであるということを、この本の中で語っているのであります。

 私はシアトルのシテイーチャーチに留学させて頂いた頃に車を買いました。家とその教会に距離があったためでありますが、はじめて車のオーナーになったと言いったら大げさでありますが、1979年型のカローラを買いました。その値段はなんと1ドルでありました。1ドルの車、130円ぐらいの車にですね、乗せさせて頂いたわけでありますが、その車が本当に、よく止まって大変でありました。車ですから、まあ、止まってくれていいわけでありますが、しかしですね、止まりますと動き出さないという大変な車でありました。信号で停まって、そして、エンジンが止まってしまうと本当に、いつもハラハラしておりました。大川先生がですね、ご自分がカーブに来るとそのチエーンが外れる自転車に乗っておられたというお話をされたことがありますが、私は、信号になるとエンジンが止まる車ということですね。特に、朝教会に早く行って、まあ、早天祈祷会のような時にです。私は山の上のような所に住んでいたのでありますが、森の真ん中で車が止まりますと、大変なことになります。朝早く、とにかく車を降りて、車が止まったということで、歩いて家を探しに行くわけであります。もちろん携帯電話とかは持っていませんから、電気がついている家を探して、朝の6時にその人の家を訪問するなんてあり得ないじゃありませんか。それでもですね、そのままにしているわけいきませんから、その家に行って「すみませんけれど、電話を貸して下さい。」と云って助けて頂くわけであります。その当時、家に日本人の留学生が行って撃たれたとか、そうような事件があったとか聞いていましたから、私も、恐る恐るその家に行って、助けて下さいというようなことをお願いしたわけであります。私は車のことに関してはあまり知識がなかったので、それを修理するということはできませんでした。車が止まる度にいろんな人に助けて頂いたのでありますが、それでも、車を運転するというか、動かすことは当たり前のように出来たわけであります。車そのものの目的というのは、人を運ぶことであって、運転するということは出来た。構造やその仕組みのすべてが分からなくても、私たちは車を運転することは出来ます。同じように、どれだけ降伏について色々な角度から学んで、考えて、そして、知識を持つことができたとしても、実際に、もし、降伏をしたことがないと言うことであれば、それは意味のないことです。
 礼拝は、名詞ではなく動詞であるということを聞いたことがあります。礼拝というのは「礼拝」という言葉ではなくて、それは動詞、行うこと、礼拝はすること、捧げることが礼拝なんだということ。10章の後半でリック・ウォーレン先生が、降伏する瞬間があるというメッセージを語っておられます。降伏する瞬間、その瞬間を私たちは経験したことがあるでしょうか。夏のキヤンプというのは、まさに、そのような時であります。降伏する瞬間、わたしの人生をイエスさまの前に差し出しますと言う、そういう時。いいえ、キャンプでなかったとしても、この朝も私たちに神様はそのような瞬間を、本当に神様に自分を明け渡す人を神様は求めておられるのだ、ということを思わずにはおられません。

・降伏することの意味。

 降伏することの意味、ということが書かれておりますが、少しこの本の中からお読みしたいと思います。
 神に降伏することの意味。神に降伏するということは、受け身的に断念することでも、文明論的になることでも、怠慢になるための言い訳でもありません。現場に甘んじることでもありません。(つまり、降伏したのですから、丸投げして、もう何もしなくていいと言うのではないということです。)全くその反対です。即ち、自分の人生を犠牲にすることであり、変えなければならないことを変えるために、 あえて苦しむことです。神はしばしば、(神に)降伏した人をご自分の戦いに召集されることがあります。降伏するとは臆病者になることでも、言いなりになることでもありません。また、合理的思考を捨て去るということでもありません。神は、ご自分でお造りになったあなたの知性をないがしろにはされません。ましてや、ロボットのように機械的に仕えてもらいたいと思っておられるわけでもありません。
 降伏するとは、あなたの個性を押し殺すことでもありません。神はあなたのユニークな人格をお用いになりたいと願っておられます。個性が失われるのではなく、それが開花していくのです、という風に書かれております。
 個性が失われるのではなくて、反対にそれぞれの個性が開花する。神様によってお捧げすると何か自由が奪われてしまうと言うのではなくて、本当の自分を見いだすことができて、そして、今度は本当の自分が開花する。開花させて頂くことができるという素晴らしい世界にいきることが出来るのです。そしてそのためには、同時に私たちが、そこに書かれているように、自分の人生をあえて犠牲にすることも厭わない。変えなければならないことを変えるために、あえて苦しみをも進んでするということであります。
 私たちの人生にとって変えられないことがあります。変えられないこと。ここで生まれたということ。こういう環境に置かれていること。変えられないことはそのまま私たちは平安な心を持って受け止めるということをこの教会では教えられているわけでありますが、しかしながら、変えられることがあるならば、変えるべきことを自分の中に発見したならば、そのためには自分自身を明け渡して、自分自身を降伏させて、たとえ苦しむことがあっても、それに挑戦することによって私たちが開花していくという世界。その世界を妨げるものがあると言うのが、次の内容であります。
  
・降伏を妨げるもの。
 
 第1番目:それは恐れであります。神様を信頼出来ないときに人は恐れを覚えます。
 神様は無慈悲な奴隷監督者のようなお方ではありません。弱い者いじめは為さらないお方であるにも拘わらず、私達は誤解し恐れてしまう。神様は私たちを愛して下さっているということを、この朝も私たちは心に留めて、神様に、このお方は信頼できるお方であるんだということを心にとどめなければ、降伏することは出来ないという内容であります。
 私が中学校1年生の時でありました。体育の授業で先生が「倉知、前に来て倒立してみろ」と言って、倒立を要求され「俺が抑えてられあげるから」ということで倒立したのでありますが、見事にその体育の先生はその手を退けてですね、私はそのままひっくり返って倒れて、みんなに笑われました。倒立ぐらいですから怪我することはありませんが、それでも、それから後、その先生に対して私は、頼れと言われても何か頼れない、と言うか、そういう思いをもったものであります。
 私たちのこの世の中では、信頼してごらんなさい、大丈夫だよ支えてあげるからと言われても、それが仮に悪意でなかったとしても、なかなか人間の世界では支え合うことが出来ない、そういう世界があると思います。信頼して寄りかかって倒立したのにひっくり返されてしまうという出来事、事件も私たちの中にあると思います。
 しかしながら、私たちのイエス様は、支えるて下さると言われたら、必ずお支えて下さる方。また、愛する、と言われたらとことんまで愛して下さる方。ご自身のお命を犠牲にしまで受け止めて下さる方であることを覚えるときに、私たちはこの方に全き信頼をすることができるのであります。

 第2番目:降伏を妨げるもの。それは、プライドであります。
 私たちの中にプライドがありますと、降伏出来ない。すべてを支配したいという願望が生活において多くのストレスになってしまうということであります。自分の限界を認める必要があるでしょう。 あなたがいつも取り仕切っていなければならない理由は無いという、強いメッセージであります。全部自分であれもこれも取り仕切って、自分の手の中に全てを治めていたいという思い、 心がありますが、 そうではなくて神様に全てをお委ねして歩む。神様の手の中に受け取って頂くということであります。

「自分自身を主に明け渡しなさい。そして忍耐強く神を待ち望みなさい。」
(詩編の37の7節 GWT) 
 
「自分自身を主に明け渡しなさい。そして忍耐強く神を待ち望みなさい。」とあります。
自分自身を主に明け渡す、そういう人生。最も素晴らしいお手本は、私たちの主イエス様でありましょう。イエス様の捧げられたゲッセマネの祈りを、今日は聖書の箇所を皆さんとお開きしたいと思います。聖書をお開き下さいますか。

お手本:イエス・キリストのゲッセマネの祈り。マルコによる福音書14章36節

 新約聖書、マルコによる福音書14章の36節をご一緒にお読みしたいと思います。
「アバ、父よ、あなたには、出来ないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのぞいてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさって下さい」
もう一度お読みいたします。
「アバ、父よ、あなたには、出来ないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさって下さい」。
 リック・ウオーレン先生の解説の中に、「天のお父様、もしあなたが痛みを取り除くことができれば」と祈ったのではない、ということが書かれていました。
 痛みのところに注目をし、その苦しみを取り除いて下さい、と言うのがイエス様の中心的な祈りではなくて、その後、たとえ、その苦しみが取り除かれることがなかったとしても、神様、あなたのみこころにお従いします。あなたのみこころにお従いします、と言うのがこの祈りの中心であったということです。つまり、苦しいこと、苦い杯を、ただ、嫌だ嫌だと言って、駄々をこねたのではない。勿論、人間イエス様も苦しいことがありました。それを取り除いて欲しいという願いもその内側にあったのでありましょう。しかしながらイエス様は、これが神様のみこころであるならば私は喜んでそれをいたします。苦しみでも、あえて、変えなければならないことのために挑戦しますというイエス様の決意。中途半端なお気持ちでイエス様は十字架に向かわれたのではない。ご自分の人生を犠牲にしてまで。
 キャンべル・モルガン先生の本の中に十字架のメッセージがありました。イエス様の死は、それは不合理の死であったと。イエス様が死ぬということは不合理であった。イエス様は殺されたのではない。イエス様は誰かによって殺された? 確かにその時ユダヤ人たちによって、あるいは、ローマ兵によってそのときは殺されたと解釈するかもしれません。しかし、ヨハネの10章の中で、イエス様は、「誰も私からいのちを奪うことは出来ない」のだと、イエス様御自身が「自らわたしは、いのちを捧げるんだ」という風に言って下さった。このイエス様が、私たちの明け渡すこの降伏の最大のモデルであります。そしてこのモデルであるイエス様は、弟子たちに、また、私たちにも同じように願っておられるのであります。
 ある時イエス様が弟子たちにこういわれました。ペテロとアンデレに向かって「沖にこぎ出して、網を下ろして漁をしてご覧なさい」そうおっしゃいました。ペテロとアンデレは、もう夜通し働いたんですから、夜通し働いて一匹も捕れなかったのですから漁をしても仕方がないでしょう。こんな昼間の海の中が見える時間に網をおろしたって、魚はかかりませんよということを、言いたかったのでありましょう。自らの自分の経験から、今までの実績から、今までの伝統から、そのやり方から見ても一言いいたかったのでありますが、しかしながら、お言葉ですから、夜通し捕れなかったのですが、お言葉ですから、イエス様あなたのお言葉ですから、網を下ろしてみましょう。これが本当に明け渡した姿であります。
 扉の向こうが見えて献身するのではない。ある程度、先が読めて決断するのではない。知性や合理的な考え方、効率的に考えたら昼間のその時間にこういうふうに考える、それを否定するわけではありませんが、私たちが主の前に立ったときに、無条件に降伏する。したくないことであっても、喜んでするというのが、この降伏の世界であります。その降伏することによって彼らは驚くべきこの大量の魚を得ることができた。

・降伏によって得る恵み。

降伏によって得る恵み、ということが書いてありますが
第1番目:それは、平安であります。平安を頂くことが出来ます。
 私たちの人生は私たちの責任ではない。主イエス様がその責任を背負って下さるという平安。

第2番目:それは解放されて、自由になるということであります。
神様の手の中で安心できるということ。自由を束縛されるというのではなくて、その手の中、安全地帯の中にいつもいることができる開放と自由。

第3番目:明け渡す中で、大漁のような人生における神様の力を体験することができるというメッセージであります。

◇降伏は最高の生き方です。

 降伏は最高の生き方です。いや、それは唯一の生き方と言うべきでしょうと、リック・ウオーレン先生は語って居られます。
 神さまはあなたを、神を礼拝するものとしてお造りになりました。もし、あなたが神を礼拝しないならば、何か他の神以外の対象(偶像)を作り出すことになるでしょう。

 パウロ「私には毎日が死の連続です」(Tコリント15の31)
 降伏する瞬間と、降伏の習慣のどちらも必要です。

 パウロ先生は第1コリント15章の31節で、「私には毎日が死の連続です」。死ぬことの連続ですと語りました。ここに書かれていますが、降伏する瞬間というのと、降伏する習慣のどちらも必要です、というメッセージであります。
 私たちが神様にお棒げする瞬間、しかしそれは一時的ではない。毎日が死の連続というように、降伏するという習慣をもつことが出来るのです。

「わたしに従おうとする人は誰でも、自分の願いをあきらめなければなりません。わたしに従うものは、日々自分の人生を喜んで明け渡さなければなりません」
(ルカ9の23 NCV)

 最後に、ルカの9章の23節がそこに書かれております。
「私に従おうとする人は誰でも、自分の願いをあきらめなければなりません(すごいメッセージです)。私に従うものは、日々自分の人生を喜んで明け渡さなければなりません」。
これが、主イエス様が私たちに要求しておられるメッセージであります。
 自分の願いをあきらめてでも主にお従いしたいものは、日々、自分の人生を喜んで降伏していく、 こんな素晴らしい世界に私たちは導き入れられたいと心から願っております。
 私はこのメッセージを自分の内側に受け止めながら、 降伏するということが、 まだまだ、出来ていない存在だなということを思わずにはおられません。しかし、これは毎日する事というふうに書かれてありますから、今日私が、昨日ではなくて今日、明日でなくて今日、 神様にお棒することのできる何かがあるのではないかなというふうに思いました。 それを見つけ出さなければならないということを感じています。それを神様の前に持っていきたい。私には変わらなくてはならない部分があるのだという自覚をしっかりと持ちたいと願っています。

 先ほどその降伏の意味というところに、変わらなければならないことを変えるために苦しむということが、書かれていたのでありますが、変わらなければならないこと、変わるべきことがもし発見出来ないとすれば、苦しむことも、降伏することも出来ないわけであります。私たちは変わるべき、ああ、この部分が変えられたいな、変えて頂きたいなーという部分に気付いているでしょうか。それに出会っているでしょうか。それをしっかりと持っているでしょうか、と私は自分の中に問いかけたのであります。

 日曜学校のキャンプで私は、「わたしについて来なさい」、というイエス様のメッセージを語らせていただきました。私について来なさい。すごいメッセージであります。ついて行く。
 スザンナ・ウエスレー、ジョン・ウエスレー先生のお母さんのスザンナ・ウエスレー先生のお証詞をいたしました。5歳のときにそのスザンナ・ウエスレー先生が、ある一つの決断をしたのだそうであります。5歳の決断と言うのは、もし、自分が1日の中で1時間、楽しいことをして遊んだならば、楽しい時間を過ごしたならば、それと同じだけの時間を神様にお棒する。すごい決断だと思います。
 5歳の女の子がそのために時間を神様にお棒し、お祈りとそしてみ言に自分を捧げていった。また、それを継続していった中に、神様の奇跡がなされていった。この女の子が大人になって牧師先生と結婚し、子供が19人生まれたということであります。大変な数のお子さんをお持ちであったわけでありますが、その中で9人のお子さんが亡くなられるという悲しい痛みの中を通過いたしました。それでも忙しい毎日であったと思いますが、このお母さんはその信念を貫き通し、私は毎日必ず2時間はお祈りするんだということを仰って、そして、それを実践したそうであります。子育ての大変な中であっても、エプロンを顔につけて祈るこの2時間だけは子供達もお母さんの邪魔をしないと言うか、そんな中で生まれてきたジョン・ウエスレイー先生が立ち上がり、そして、イギリス、アメリカを全世界を変えていった。
 ジョン・ウエスレー先生の言葉であります。それは、「世界が我が教区である」というメッセージ。ジョン・ウエスレー先生は世界にこの目を向けていた。この先生の目の中には燃えるような何かがあったわけであります。鋭い、しかも強い何にもたじろがない、動じない何かが、この先生の目の中にあったから、そのように全世界にホーリネスの潔めの働きが広げられて、今日のこの教会もその流れの一つにあるとするならば、この教会すらもそのジョン先生の目の中にあったのかということを思わされ、そして、そのお母さんのあの5歳の時の決断が、今日まで影響を与えるのかなあと思えるときに、わたしは大きな感動を覚えたのであります。

 大和に来た当時、大川先生のメッセージの凄さに私は高校生ながら何かすごいものを感じていました。 その頃、わたしの母がときどきこういうことを言っていました。それは、「大川先生の目を見てごらん」。 目を見たら分かるというようなことを言っていました。「あの目に輝いている純粋なイエス様への愛を見て、あなたもそこから学びなさい」ということを言っていました。ベニー・ヒン先生が日本に来た時に、あるいはまた、アナコンデイア先生が日本に来て、また、大和にも来て下さいましたが、その時にも、また、滝本先生や色々な先生がこられる時に、その目を区別するわけではありませんが、その目の輝きと言うか、 魂を愛するその情熱というものの中に、母親は何かを発見していたので、いつもそのように言っていました。ですから私もそのように、伝道者の目の輝きというものにあこがれるようになりました。私は今も、その輝きを私も頂きたい、欲しいと思っています。
 イエス様の目には何が映っていたのでありましょう。今から2000年前、イエスさまは、あの十字架で苦しまれた時に、今日の今の私すらも、その目の中に映っていたのかと、イエス様の目に私が映っていたから、この方は喜んで降伏し、あの十字架でご自身を捧げて下さったのかと思わされています。黙示録の中にそのイエス様の目は燃える炎のようであったという風に書かれておりますが、同じようなその輝きが、炎のような熱い視線が、私にも与えられることを心から願っております。

 以前、以前と言っても、大分以前であります。私が深夜番組のテレビを夜中、ボーっとしながらよく見ているときに、 番組が終わってテレビを消しました。 テレビを消しますと、この暗い、真っ黒になったそのブラウン管の向こう側に自分の顔が映っていました。自分の瞳が、そのテレビの中に自分の瞳が入りました。それを見て私は、あー、なんだ、テレビを見ていたようで自分自身を見ていたのかと、がっくりした記憶があります。自分自身にばかり気をとられて、周りを見ているようで、実は、そこに映っている自分を見ているということがあります。今日、もし、私たちの瞳には何が映っているでしょうかと問われたら、何と答えることができるでしょう。
 私たちの目には今日、何が、どんな出来事が、どんな心配してることが、どんな期待してることが、何が、私たちの目に映っているでしょうか。映っている、そのものこそ、この朝、神様が降伏しなさい。私にお捧げしなさいと言ってくださっているものではないでしょうか。

 「私について来なさい。」 日曜学校のメッセージの最後に、招きをさせていただきました。 「イエス様の後について行きたい人は、この講壇の前のところに出て来て下さい」とメッセージをしました。そうすると、一瞬、硬直したように、誰も動くことが出来ないようなそういう空気になりました。でも、本当にイエス様というお方の前に立って、「ついて来なさい」と声をかけられたら、人間そうなるんだろうなとそう思いました。聖霊様は、これで、これでいいんだよ、と私に語って下さったように思いましたので、「本当にイエス様について行きたい人が、ここに出て来て下さい」という風に招きをしました。しばらくの間、誰も出てこなかったのでありますが、一人の女の子が立ち上がって前の方に近づいてきました。私はその瞳に捕らえられました。その目を見てびっくりしました。その瞳には決意が込められていました。「私は行くわよ、私は行くわよ」と私に訴えるように、いいえ、イエス様にその決意が伝わったのでありましょう。これこそ、あの5歳のスザンナ・ウエスレー先生が持っていた瞳だったのであろうということを私はそれから1週間、毎日のようにその瞳を思い出しております。圧倒されます。私の目にそのようなイエス様に対する熱い瞳を持って従い仕えていく者でありたい、とそのように願わされております。

 礼拝の本質。それは降伏すること。降伏してイエス様にすべてをお捧げしてついていく者を神様はこの朝も探しておられます。 なぜ降伏するのでありましょう。もう一度、それは、主イエス様が私たちのために降伏して下さったからであります。その手に持っている全てのものを差し出すようにして、そして、手を広げて十字架の上で私たちのために、いのちを、ご自身を下さったのでありますから、私たちもこの方にならって、わたしたちの手に握っているものを、私たちの持っているもの、すべてをお捧げし、降伏して、この方にお従いしたいとそのように願います。アーメン。

一言、お祈りいたします。
愛する天の神様、み名をほめたたえます。礼拝の本質とは、降伏すること。信頼するに足るお方。ご自身さえもを捧げて下さった主イエス様に私たち自身をお委ねし、平安をいただき、自由をいただき、そして、喜びを持ってこの人生を歩んでいくことが出来ますように、イエス様この朝も私たちに瞳の輝きを与えて下さい。本当にまっすぐに、イエス様に従っていくことが出来ますように。この教会の私たち一人一人を導いて下さいますように切にお願いいたします。この時間を心から感謝し尊い主イエス様のお名前を通してお祈りいたします。アーメン。