2006年7月12日メッセージ

第8章あなたは神の喜びのために造られた

 私たちの存在を表現しました。あなたがすべてのものを創造されました。神様は創造主ですね。

「あなたがすべてのものを創造されました。それらのものが造られ、また、今存在しているのはあなたの喜びのためです。」黙示録4章11節(NLT: New Livingly Translation)

アメリカは、やたらめったら聖書の翻訳がありまして、このリック・ウオーレン先生はこの何十もある聖書の中から適切なものを選びこんで、それをメッセージの中に、書物の中に書きいれていることが一つの特色であります。

◇あなたは、神の喜びのために造られました。

「その愛のゆえに、神はイエス・キリストを通して、私たちを神の子供にしようとあらかじめ定めておられました。これこそ神の喜びであり、目的だったのです。」
 (エペソ1の15 TEV)(エペソ1の4〜6)
 
神様は私たちがこの地上にオギャーと生まれたとき、いや、お母さんのお腹の中に命が与えられたそのときから、ずーっと監視されておられて、そして生まれて来てからも、ずーっと一緒にいてくださって、”Watch”、見ていて下さって、そして私たちのためにその存在そのもの、あなたの誕生を微笑みながら暖かく見守っておられました。あなたの誕生を心待ちにしておられました。あなたが生まれて来たことを心から喜んでおられました。神はあなたを何か必要に迫られてお造りになったわけではありません。ちょっと軍隊が足りない、兵隊が足りないから、雑用のために、そんなものではありません。神はあなたをお造りになることを喜びとされたので、あなたを創造するという選択をされたのです。あなたは神のために、もっといえば、神の栄光のため、その目的のため、そして、その喜びのために存在しているということを知って下さいと言うことです。
あなたは神の子です。神が創造されたもので、あなた以上に神に喜びをもたらすことのできるものは他にないということを知って下さい。今ここにエペソ1章5節が引用されておりますが、エペソ1章4節から6節をみんなで開いて読んでみましょう。これはこの本の中にはないのでありますけれど、アメリカ人のメッセージをそのまま聴いているのでは芸がなさすぎるので、日本流に大川流に、このシチュエーションの中で、生活の場の中で、聖書を発見するということに挑戦しているわけであります。

 エペソの1章4節から6節。301ページ。これはもう本当に素晴らしい箇所であります。ご一緒しましょう。ハイ!
「み前にきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリスト・イエスにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授
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けるようにと、み旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜った栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。」アーメン。
 ちょっと腰が抜けるようなお言葉だと思います。4節に天地の造られる前から、キリスト・イエスにあってわたしたちをお選び下さっておられるんだというこのことは、わたしたちのこの頭脳ではわからない世界であると思います。

 先ほど写真で、映像で私の最初の、心愛(‘ここあ’という)、心を尽くして神を愛する、という孫の写真が出ましたけれど、今回、瀬戸カルバリーチャペルの入堂式を終えて私も戻って来なければなりませんので、戻って来るときに駅前まで送ってもらって、そして孫をもう一度抱っこしてお祈りして、バイバイするわけですけれども、この、ここあちゃんが別れ際に、私の名前を最近はグランパと呼ぶのがむずかしいらしくてですね、親と一緒にわたくしをDaddyと呼ぶのですけれどね、“Daddy〜!”って叫んでですね、おいおい泣きながら私の後を追いかけるかのごとくに別れを惜しんでいたんですよね。かわいいでしょう?。
2番目の、祝ちゃんはですねえ、私と日曜日に会いますとですね、「あ、Daddyだ!」と言ってですね、そこで転げ回るように、もう、身をどういうふうにしていいか分からなくて、ダンスを始めたりですね、その辺を転がったりするんですよ。どうしていいかわからないという、そういう仕草ですね。なんと可愛いんでしょうね。
この子どもの存在は、役に立つからとか、将来、老後の世話をしてくれるから、そういう事と全く関係なしに、存在そのものに意味があると、私が敢えて、恥ずかしくもなく孫の話をするのは意味があってのことであると言う事にお気づきのことだと思います。
お小遣いをこのグランパから貰えるから踊りを踊ったり転がったり、Daddyと叫んで、叫んだあとお小遣いを貰おうとしているわけでは全くない。まだ、そういう年齢とは関係のないまだ1歳や2歳ですからね、全く関係ないわけですよ。ただ、愛しあっているだけ、という風に言うことができるかとおもいます。しかしですね、これがまだ、1歳2歳だからでありますけれども、少し大きくなるとですね、「うちのおじいちゃんはお小遣いをチットモくれない」とか、「けち、じじー」とか言われたらですね、いつかそういう日が来るかなんていうことを考えたら、考えたくもないわけですね。おばあちゃんは何でも買ってくれるけれど、あのじいさんはケチだなんて言われたら、もうその関係というものは崩れてしまうわけですね

神様はわたしたちをお造りになられた時に、お選びくださいました時に、ちょっとは役に立つかなあ、何か賜物でもあげて役立たせようかなー、なんて言ったことではないんだということを知って欲しいのですよね。神様はわたしたちを子どもとして受け入れて下さって、役に立つとか役に立たないとか、賜物があるとか賜物がないとかそういう問題ではなくて“Just Loving!”ただ、わたしたちを愛していて下さるんだという。
マルコ福音書の第1章にイエスさまが洗礼をお受けになったときに、「これはわたしの愛する子」十字架にかかって、復活して、そして最後に見事にやり遂げた上で天のお父さ
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まは「これは私の愛する子、見事に仕事をやってのけてくれた。私の喜ぶ者です」という風におっしゃられたのではないのですよね。 洗礼をお受けになって、天から声が聞こえて、聖霊が注がれて、「これは私の愛する子、これは私の喜びである!」と。
愛する兄弟姉妹!これを知ってほしいんですよね。神様は、イエスさまだから、そう、おっしゃられたのではなくて、あなたに対して、私たち1人1人に対し、これは私の愛する子、これは私の愛する子、私はこの存在を喜ぶ。こいつは役に立たないからこんな子供を産むんじゃあなかった。 こいつは迷惑ばかりかけているからこんな存在は要らなかったとはおっしゃらないで、これは、この存在を私は喜ぶと仰って下さるのです。
私はね、賛美の中に身を置いて、♪あなたのみ前には 喜びが満ちあふれ〜 これをずっーと意識しているんですよ。喜びと言うものが、何かごろごろ転がっているかのようにね、あなたのみ前には喜びが満ちあふれ、というふうに考えていたんです。まーちょっとわからなかったのですけれど、今回、このメッセージを備えながら、これは私の愛する子。若くして天に召された方も、年齢が進んで天に召された方も、若いからいいとか、そんなことではないでしょうね。これは私の愛する存在であると仰られるのです。物理的な距離的な問題と言うのは本当は関係ないんですけれど、天に召されて行ったわたしたちの愛する仲間がいるでしょう? 赤ちゃんで召されて、いまだに涙を流してトラウマと言いましょうか、それが癒えない方々もいらっしゃると思いますが、天において、天のお父様の回りに、時々、写真とか絵でイエスさまの周りに子供達がうろうろとしているそういう絵を見ますよね。“うるさいから、ちょっと子供達をどかしください” と言うのを聞いて、「幼子を私のもとに連れてきなさい」、といってイエスさまが抱っこして下さるという絵をご覧になったことがあると思います。天に行きますと天のお父様の回りに、イエスさまの回りに、これは私の愛する子、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。あなたもやがて天にいらっしゃいましたら、こうやって、私の愛する子、これを私は喜ぶ。だから私はそれを見ていると、“♪あなたのみ前には 喜びが満ちあふれ〜 ”あの早く死んだ子、赤ちゃんで死んだ子、流産して亡くなった子、中絶で罪を犯した結果だけど、天に召された子供、それらは皆、“♪あなたの〜 ”年寄りで召された方も同じこと、これは私の愛する子、主の回りには、主の喜びが満ちあふれているんだ、というふうに書斎で思って、主のみ名を崇めました。なんと素晴らしいことでしょう。あなたのみ前には、主のみ前には喜びが満ちあふれている。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン!そのためにあなたの存在があるんだという。

◇神があなた(人間)にお与えになった素晴らしい賜物の一つは、喜びを味わう能力がある。それは、神の形に似せて造られた証拠。

 神があなたにお与えになった素晴らしい賜物の一つ、神が人間にお与えになった素晴らしい賜物の一つは、喜びを味わう力、能力が与えられているということである。現代的な表現を使えば、「喜び力」と言いましょうかね。「喜び力」。それは神の形に似せて造られた証拠である。神様の形に似せて人間が造られたのですけれども、神様は、人間人生を楽しむことを願っておられて、忍耐だけの人生であってはならないのですよね。
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私の父や母はただこの地上で歯を食いしばって、イエスさまのために忍耐するんだ、そういう信仰でしたけれど、この地上で楽しむことができるということを私達は理解して良いと思います。なぜなら、御霊の実は、愛、喜びって、2番目に出てくるからであります。聖霊様は神様と全く同じご性格、ご品性、そういうお方様でいらっしゃいますから、神様は私達を喜んでいて下さるんだ。私達が喜ぶことを待っていて下さるんだ。

・神様は感情を持っておられる。悲しみ、嫉妬、怒り、幸福感、喜び、満足感、同情、哀れみ、思いやり。神は愛され、喜ばれ、楽しまれ、嬉しがられ、エンジョイされ、しかも笑われるのです。

神は感情を持っておられます。人格と表現してもいいかと思いますよね。悲しむということ。 私達が背中を向けると悲しまれ、不従順だと悲しまれ、 嫉妬もされるというのです。他の方に心が向いたりすると嫉妬をする。聖書の中にも、そう表現がありますね。怒る、ということもありますよね。幸福感、喜び、満足感。神さまにそういう思いを持って頂けたら幸せですね。同情する。まー、神さまの側では分かっておられても、そんなに苦しまんでもいいだろうけど、やっぱり人間だから弱いんだなぁーと、同情する。なかなか病気から解放されなくて同情する、という面もあろうかと思いますね。哀れみが与えられるとかね、思いやりがあるという。女の子が一人で生活していて大変なお怪我をして、お具合を悪くして、大変だっただろうなあーと思いやってあげる。でも神様は「立ちあがりなさい」と仰って下さる。神はわたしたちを愛され、喜ばれ、わたしたちの存在を楽しまれ、嬉しがられ、エンジョイされ、しかも笑われる、お笑いになる。そういうお方なのです。

・神を喜ばせる行為は「礼拝」と呼ばれる。(詩篇147:11 CEV)

 「主は、主を礼拝しその愛に信頼する者たちを喜ばれる。」
主は、礼拝する者を喜ばれるって。新改約聖書は「主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」、と訳しております。

・礼拝にはダイヤモンドのようにいくつもの断面があります。(ヨハネ4の23)

聖書をあけましょう。イエスさまのお言葉です。非常に画期的な、歴史的なお言葉です。
礼拝の秘義を一人の罪深い女性にお教えなさったわけでしたね。
ヨハネ4章の23節、ご一緒しましょう。ハイ!
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真とをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。(アーメン。いいですね。)神は霊であるから、礼拝をする者も、霊と真実、まことをもって礼拝すべきである。」 神さまは礼拝する、そういう存在を求めておられますが、わたしたちは、この礼拝の中には多様性と言いましょうか、いろんな側面があるということを忘れない様にしましょうという、そういう内容なのですよ。
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文化人類学者によれば、どこの国の人も、共産圏の神を否定する国々の人達でも、何か対象を見つけて礼拝しようとする。そういう心、永遠を思う思いというふうに聖書は表現しています。私達は何と表現したら良いか判りませんが、とんでもない宗教、または良い表現ではありませんが野蛮人、 未開発のジャングルの中に暮らす人食い人種のような存在であっても、何かを礼拝しようとする心が人間の中に植え付けられているということを知って欲しいのです。
 礼拝は、食べることや、息をすることと同じように、自然な欲求なのです。私達人間は自分達の礼拝の対象を神様としないのであれば、何か代わりとなる礼拝の対象、仮にそれが自分自身であったとしても礼拝の対象を見つけようとするものです。
神がわたしたちの心の中にこのような願いを植え付けられた理由は、神が礼拝者を求めておられるからです。主イエス様は言われました。「父は礼拝者を求めておられます」と。
この教会に来ている皆さんが全て、神様を礼拝をするためにこのところに来ているという自覚を持って欲しいのです。真の神様を礼拝しておりませんでも、“恋人が私の命なんです”と仰って、恋人が礼拝の対象であったり、お金が礼拝の対象であったり、名誉が礼拝の対象であったり、人間というものは、何か、礼拝の対象を持つ。そういう心を持って、そこでは夫を5人も変えたとしても満足はいかない。本当の霊と真を持って礼拝する時が来るんですよ、と言うんですね。

その次、皆さんにはとても興味のあることだと思いますね。

・礼拝とは「音楽をはるかに超えたもの」(創世記4の21)
 そこに何が書いてあるかと言いますと、これちょっと興味があるでしょう?開けてみましょう。ここに何が書いてあるかと言いますと、創世記の4章21節
「その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。」というふうに書かれていますので、リック・ウオーレン先生は、音楽の前に礼拝をするということが既に考えられていたと言うんです。
さあ、ここからがですね、何といましょうか、バプテストの世界、バプテストのリーダーがバランスを取ってメッセージを語るのでありますが、ペンテコステ・カリスマが世界的に広げられてから、いろんな言葉が使われて賛美をすることを礼拝をするというふうに表現されてきました。この教会でもそういうお方がいらっしゃると思いますが、先ず、神様を礼拝しましょう、とこういうふうに言う。そうすると、説教は礼拝ではなくなってしまうのか。 ゆっくり賛美をする場合にはそれをワーシップという。 ワーシップ・ソング、ワーシップ(礼拝)という。プレイズというのはちょっと元気がよくてテンポが速いと言うか、そういうのをプレイズとか言って、その人によってずいぶんと理解が異なるんですけれども、この先生もいろんなことを仰っておられますが、本当は礼拝を音楽と同義語になっているという人達がいますけれども、そうではない。 「私達の教会では、最初に礼拝をし、それから説教があります」なんていうようなことを言う人達がおります。これは、ペンテコステ批判であって、それは、大きな誤解なのです。教会の礼拝プログラムのあらゆる部分が礼拝の中に含まれます。「ですから祈りも、聖書朗読も、賛美も、告白も、沈黙も、
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静思の時も、説教を聞く事も、ノートを執ることも、献金も礼拝の一部、聖餐式も、洗礼も、献身の表明も、あるいは他の礼拝者と挨拶を交わす時でさえ礼拝に含まれるのです。この事を意識して礼拝にご出席下さると宜しいかと思います」と言うのです。
あなたの好みでない音楽のジャンルもあるかもしれません。しかし、神はそれらのすべてを愛しておられます。もし、その音楽がみことばと聖霊と真実によって神に捧げられるのならば、それは礼拝になるのです。ちょっと微妙な表現ですけれども、アカペラでもオーケストラ付きでも。アメリカのカルバリーチャペルのように初期の時代にギター1本で大群衆を指導している姿を見て感動しました。ギター1本で何んと凄いんだろうと思いました。パイプオルガン、それも素晴らしいことでありますが、神は礼拝の多様性を愛され、それらのすべてのスタイルを楽しまれるお方であるということを知ってください。

・礼拝は神様に捧げられるもの。自分のためにあるのではない。(イザヤ29の13)
これは間違えではありませんが、マルコ7章の6節から9節までを書き込んでください。

マルコ福音書の7章6節から9節。これは開いてみましょう。
イエスは彼らに言われた、「イザヤはあなたがた偽善者について預言をしてこう書いている」 (これが今申し上げたイザヤ29章の13節なのです。旧約聖書をイエス様が引用された訳です)。それは適切な預言である。新共同訳聖書は、“見事な預言である”と表現したのですね。『この民は、口先では私を敬うが、(口先では神を賛美するが)その心は、私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、無意味に私を拝んでいる』あなたがたは、神の戒めを差し置いて、人間の言い伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めを捨てたものである」、とね。踏みにじったというふうに表現している聖書もあるくらいですね。

・礼拝は人生の一部ではなく、あなたの人生そのものである。
「絶えず神を礼拝しなさい」(TEV詩篇105篇4節)、詩篇34篇1節、Tコリント10章31節、コロサイ書3章23節

 私はイスラム教の教理が間違っているとは勿論思いますし、困ったものだなぁと思いますけど、1日5回どんなに忙しくても、飛行機の中にいても時間が来ますと、ある方向に向かってお尻を上げるかのごとくにひれ伏して礼拝をする。凄いことだと思いますね。私達も、もしそういう律法がありましたら、仕事中でもちょっとトイレとかに行って礼拝することになるでしょう。クリスチャンの人口が多くなるとトイレがいつも同じ時間に長い列が出来てしまうということになると思いますけれども、そうやって1日何度も神様を礼拝する時間を持つという。絶えず、いつも神を礼拝しなさい。

 詩篇34編1節。これは、聖書を開けましょうね。さあ、これもご一緒にお読みしましょう。 「わたくしは常に主をほめまつる。その賛美は私の口にたえない」素晴らしいですね。これは説明句が、詩篇34編に書いてありますね。ダビデがアビメレクの前で狂った
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様を装って、追われて出て行ったときの歌です。彼は、どんなときにも、あらゆるときにも、新改約聖書には、常に主をほめまつる、ほめ称える、賛美する、私の口にはいつも主に対する賛美があるというふうに訳しておりますのは、まさにそのことであります。

 第Tコリント10章31節をどうぞご覧ください。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」とパウロ先生のお言葉であります。

・「毎日ありきたりの生活を、すなわち寝ること、食べること、仕事に行くこと、その他の雑用に至るまですべての活動を、神のみ前に捧げものとして差し出しなさい」
(ロマ 12の1 MGB)

すごい訳ですねえ。すべてのことを神の栄光のためにするにはどうしたら良いか。その答えは、すべてのことを主イエス・キリストのためにすると言うのです。
大きな礼拝堂(カテドラル)の建設について、何十年たっても未だ完成しないような礼拝堂、カテドラルで仕事をしている人に、「あなた何やってるの?」「ニコヨンよ。バイト、アルバイト!」という人もいればですねえ、「あんた何やってるの?」「見りゃわかるだろ。レンガを積んでいるの」。「あんた何やってるんですか?」「これはねえ、光栄あることで、やがて大きな礼拝堂が建て上げられて、そして、ここで神様をほめたたえて礼拝する、その一部のお仕事しているんですよ」って答えたらいいですよね。

この度、瀬戸の入堂式に、やがて、献堂式もあるわけですけれども、100人分の食事を作るなんていうことは小さな教会ではまぁ無理なことですから、家内をはじめ何人かの姉妹たちが行って泊り込んで応援して下さったのですよね。素晴らしいことだと思いますね。送迎のご奉仕もそうだと思いますけれど、雑用がいっぱいあります。なつかしいですね。この会堂を建てるときもそうでしたね。引越しのときもそうでしたね。建物の前にわたしたちの労働も、そしてすべての出来事も、献堂式と言うのは建物だけではなくて、思いも、捧げものも、エネルギーも、汗も、すべてを主にお捧げするということがわたしたちに問われていることではないかと思います。

最後に素晴らしい書物を皆さんにご紹介したいと思います。
時々この“生ける水の川”は、とびきりすごい書物を出しなさいますね。わたしたちの人生を根本から変えるような。ペンテコステ・カリスマの流れを否定する教会は、気の毒なことに聖書が教えるかなりのパーセンテージが理解出来ないと思いますけれども、反対に、ペンテコステ・カリスマの人たちがこの世界がもし理解できたら驚くべきことであるとそう思いますね。
「あなたを変える賛美」。さんびがもたらす本当の神の祝福とはマイケル・ジョセフという方が書かれた本で(どうか本屋さんにたくさんこの本を置いていただきたいと思いますけれど)ジャック・ヘイフォード先生とか、ビリー・グラハム先生と御一緒に賛美の御
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奉仕をされているクリフ・バロウス(Cliff Barrows)とか、 チャールズ・コルソン(Charles Colson)がこれを高く評価しているのですけれど、その中の一部を御紹介致しますね。
“あなたを変える賛美“と言うのですよ。神様をほめ称える賛美は、自分の生き方を変えるように迫って来る。賛美をしていると迫って来る。その言葉が迫って来るということもありますが、賛美の中に住んでおられる主がわたしたちに迫って来るという。賛美はわたしたちの生き方を変える、それは事実です。もし、賛美が自然に前向きに湧きあがって来るものでありましたら、わたしたちはいつも賛美し、変わっていくでしょう。アップグレードというけれど、やっぱり主をほめ称える中で、そこに主の臨在があって、わたしたちは水を注ぐだけですけれども、主がわたしたちを養い下さるという世界。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる、これは主の霊の働きだというそういう世界。みんな知りたいですよね。でも、喜んで変わりたがる人はあまりいません。よくなると言われてもあまりピンとこないし、不愉快だし、不安を感じます。いくらよくなるという保証があったとしても変化や試練は避けようとしたりしています。「このままでいいの」。「クリスチャンで天国へ行ければいいの!」なんて開き直る人。「愛されていることは知っているけれど変わるのは不安だから」って言う人もいたりしますけれど、賛美し続けていると、きっと現状に満足出来なくなるでしょう。賛美することが習慣になると、(神様は五つの面、その一つだけですけれどね、今日お話しするのは。)わたしたちの態度や、やる気が出て来ると言いましょうか、人間関係、霊的な理解力や感性、願いにおいて働いてあなたを育ててくださいます。こういう世界は神学校でも誰も教えてくれなかった世界ですね。世界的にも今から30年ぐらい前は、こういう文章は世界の何処を見つけようとしても難しかったのですけれど、聖霊様が、本当に天の窓を開いて、賛美の霊を世界中に入れてくださって、わたしたちが今、その中に生きているということは本当に素晴らしいことだと思います。油注ぎということもそういうことでありますけれども、ベニー・ヒン先生が日本にいらっしゃいますが、私は何度アメリカに勉強をしに行っても、言葉が分からなくても、その賛美の空気の中に身を置くということが私の霊性にどんなに大きな力になったか。神戸に行けない方もいらっしゃるし、アメリカにいちいち行くわけにはいかないけれど、ぜひ、そういう神様をほめ称える賛美をいつもそばにおいておくということは素晴らしいことであることを、改めてお勧めしておきたいと思います。

賛美をしていると先ずその人の態度が変わる。今すごいことを言いますからね、注目して下さいね。他の人に苦々し思いや、怒りや、憤り、憎しみなどをいだいていれば、神様を賛美することは出来ません。人を許せないのに賛美しているとか、苦々しい思いを持っているのに独唱ができるとか聖歌隊に入れると言うのは、それは本当の賛美ではない。それは主のお取り扱いを頂いていない。特別賛美の問題だけではないですね。私たちが神を褒めたたえているという会衆賛美も同じことですね。否定的な思いと賛美とは、両立することは出来ません。たとえ感謝出来ないとしても、神への従順から賛美しなければならない時がありますが、これは素晴らしいと思いますね。私たちは賛美するような気分でない時にも、神様に従順するなら神を賛美しなさい。絶えず神を礼拝し、賛美しなさいということからであります。
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もう一度言いますね。ヨハネ14章の21節を私は繰り返し、そんな戒めは守れない、不可能と思えるような神様の教えであっても、心に留めておりますと、聖霊様が働いて、それがいつの間にかキリストがこのうちに現れて下さるという。これはこの教会が本当にすごいメッセージをこの3週間位まえからお伝えしているということを申し上げているわけでありますけれども、自画自賛の問題を申し上げているのではなく、こうやって開かれるということに対して、神様の前にその足から靴を脱ぐような神に対する恐れを覚えるものであります。神への従順から賛美しなければならない時がありますが、その否定的な思いが砕かれない限り、賛美を始めても長くは続きません。聖霊によってあなたの憎しみが神の愛に、怒りが神の思いやりに、また、苦しみが神の哀れみへと変えられなければ本当の意味での賛美は出来ません。私自身何度もそれを体験しました。どんなに暗く悲しい状況の中にあっても、主を賛美していると次第に心が主に向いていって、ちょっといやいやかもしれないけれど、神様に従順するから、まだそんな感情は出てないんだけれど、神様あなたをほめたたえます。主の、神の備えと神の祝福がいつの間にか分かってきます。そんなわけで失望や落胆に一番良いクスリは賛美であると、私は100%確信しております。賛美は大きな喪失を経験した人をも回復させます。私にとってどんな悲しみも最善の治療クスリ、治療薬は賛美でした。
いいですか、大きな損失、喪失、何かを失った場合に、神様はわたしたちがこの地上で愛着を強く持たないように、この地上にベッタリしないように、神様は時々テストをなさって、受け入れがたいような厳しい事実、現実を、私たちが体験することをお許しなさるんだということを、何度もこのところを勉強したわけであります。耐え難いような試練を経験するわけですが、いいですか、私の今日のこれは大きな悟りなのですよ。
この地上で、このリック・ウオーレン師は数週間前に、この地上に属っぽく、天国に対する準備の期間なのに、この地上が全てであるかのように思い込んで、この地上に密着して、愛着もって、ベッタリしないように、受け入れがたいような出来事を通して私達を天国民に相応しい存在に変えて下さる、ということを繰り返して言いましたが、今回、この賛美は、本当の意味に於いての賛美者にするために、わたしたちは耐えられないような、耐え難い、受けいれることが出来ないような事実の真ん中で、本当に主を賛美することが出来るかどうか、ということが問われますよ。これは、もー、本当にすごい霊と真をもって礼拝する本当の礼拝者を求めている。どうしても我々日本人は、御利益的な良いことがあれば感謝する賛美するみたいなことではなくて、100%受け入れがたいような出来事の中で、あなたは、神は神であるがゆえに本当に賛美をお捧げすることが出来ますか?ということが問われますよ。神がこの日本の国に大リバイバルを興しなさるのに、そのことを問われているのであろうという。

最近、家の火災で3人の孫を失った婦人がいました。彼女の息子の嫁もひどいやけどを負って彼女はもう何もかも失っちゃった。 朝になっても起きあがる目的が見つかりません。嫁のところに行きたいのにその力さえなかった。賢い友達がアドバイスをしてくれた。「イエス様に目を向けて賛美を始めたらどうかしら。そんな気になれないかもしれないけれど、でもねー。賛美してみて。」彼女は賛美を始めたそうです。ほかに何をしたらいいか分から
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なかったからです。何のことでイエスさまを褒めたたえたら良いのかはじめは分かりませんでしたが、この後がすごいんですよ。 
聖書を開いて、Back to The Bible、 聖書を開いて、ああ、ライ病の方が癒された。そのことのゆえに主を賛美します。ああ、ラザロさんが4日目に甦って復活した。そのことのゆえに賛美します。水の上をイエス様が歩かれた。そのことのゆえに主を賛美します。イエス様の十字架の血に、そのことのゆえに主を賛美します。今の現実には全然関係ないんですけれど、イエス様がそういうお方であるということを聖書の記事の中から見つけて、また、パウロはあの試練の中であんな苦労しながらも、伝道している姿のゆえに主のみ名を崇めます。私の申し上げていることがお判り下さいますか?何のことで主をほめたたえていることか分からないが、あー、主よこのような言葉のために主をほめたたえます、とやってるうちに、私の人生に今日もあなたは同じように働いて下さるんだ、ということのゆえに主をほめたたえます。 数日前に聖書で読んだことをわたしは思い起こしては、食器を洗いながら、掃除機を使いながら主を賛美していました。きっと、何時間もイエス様を賛美していたに違いありません。そしてそれは、数週間におよびました。そんなある朝、目が覚めて外を見たときに、なんと素晴らしい朝であろうと数ヶ月ぶりに思ったのです。あの火事以来、はじめてのことでした。私の干からびた心の中で、何かが弾けるようでした。その翌日、木に登ろうとして遊んでいる近所の子どもたちを見て、微笑んでいる自分に気付きました。この数ヶ月間で、それは、はじめての笑顔でした。その翌日には嫁のところに持っていくため、パイを焼きました。嫁のやけどは快方に向かい家に戻っていたのです。私が他の人のために何かをしたのは、あの火事以来それがはじめてでした。私はこう変えられてきました。
人生に失望し意気消沈したときは、主に賛美を始めてください。状況や自分の無力さよりも神とそのみ業に目を向けてください。賛美はあなたの心を引き上げてくださいます。1時間賛美して何も変わらないときは、もう1時間賛美してください。必要なら一度に数時間、 数週間続けてみてください。 に大きな喜びが生まれて来ると私は確信しています。

日本中に今ゴスペルブームが起こりました。インターネットでオープンすると田舎の町でも2、30人の人たちが月謝を払ってゴスペルを勉強しています。最近調べた内容であります。そのくらいゴスペルブーム。でもクリスチャンが起こらないのは、本当の意味において礼拝すること、賛美することが届かないからであると思います。これは霊の戦いであると思います。だから祈るわけです。私は神様が下さったこのゴスペルブームを、神を賛美するというこのことを日本中に広げるためには、どうしてもクリスチャンの空中の権をつかさどる彼奴との戦いに勝利しなければならないと思います。日本には必ずリバイバルが興ります、と私達はこうやって宣言します。
私は今日のこのメッセージの中にいくつも新しい世界を発見して興奮してお語りしました。主を礼拝し主を賛美しましょう。そして聖書のみ言葉どおりに主のみ業が進められていくことを、あなたの周辺に奇跡が起こることを、心からわたしたちの愛する主をほめたたえる、礼拝する、賛美する。主を愛する者は大きな声でアーメンと言いましょう。
アーメン!起ち上がりましょう。
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天のお父様。あなたによって開かれる素晴らしい世界のゆえに感謝します。こんな愚かな、本当に愚かな牧師にいつもみ言を広げてくださいます。イエス様もおっしゃいました。パリサイ人や学者たちに聖書の世界を開いたのではなくて、この幼児に、子どもたちにその喜びの世界を広げましたということでございました。私たちもこの教会でこの祈祷会で、ある人は無理をして頑張って祈祷会にこの時間を聖別して来ていらっしゃいますけれど、わたしたちはこのところでこのすごい世界を開いて頂いて、まるで世界のどの世界でも開かれたことのないような、まるで天の窓を開いて溢れるばかりの祝福を今わたしたちに下さっていることのゆえに感謝いたします。なお深い悟りの霊を与えて頂いて、恵みから恵み、信仰から信仰へと、初代の教会の人たちのように賛美と信仰と恵みに満ち、知恵と賛美に恵みに溢れる、そういう器とさせてくださいますように。この教会を末の世のこの時代にお用いくださいますように、伏してお願い申しあげます。世界がおかしくなっております。このアジアの情勢がおかしくなっております。クリスチャンが立ち上がって祈らなければなりません。どうぞ日本に大リバイバルを与えてください。お願いしまーす!日本中で主を誉めたたえる祈りが、賛美が、礼拝が引き上げられるようにしてください。わたしたちの親族に、私たちの同級生に、同窓生に、昔のクラブ活動の仲間たちに、主の奇跡のみ業をなしてくださいますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン!