2006年7月5日祈祷会メッセージ

第7章 すべてのことの意味(The Reason for Everything)

○ローマ人への手紙 11章36節(L・B)
 今日はすべてのことの意味、こういうタイトルであります。
「すべてのものは、ただ神から来ています。すべてのものは、神の力によって保たれ、神の栄光のために存在しているのです。」

 これはリビングバイブルですから分かりやすいのですけれど、これは口語訳聖書の方が結構よろしいのですよ。読んでみましょうね。ロマ書11章の36節であります。ご一緒しましょう。
「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン。」
 パウロが筆を進めながら手紙の途中なのですけれど、うーん、アーメン、というような内容であろうかと思います。次にいきます。

◇宇宙の究極的なゴールは、神の栄光を現すことにあります。
 神の栄光というとよくわからない漠然と抽象的に思える人がいらっしゃいますが、どこに神の栄光を見ることができるか。リック・ウォーレン先生は「周囲をどうぞ見渡して下さい」というと、皆さんの隣の人しか見えないかもしれませんけれど、聖書は、さあ、野の花をよーく見て、考えたらいいでしょう。これを、じーっと見て考えているとね、神さまがいらっしゃるということが、心の素直な人には分かるということですよ。空の鳥を見るがよい、ってね、そう聖書にあるからって、ナオミ会の人が空の鳥を見つけようと思ったら、なかなか見つからなかったって。かわいいですね。空の鳥を見るがよいというね。あの鳥を何種類も見て観察したら、ああ、神さまがいらっしゃる、ということが分かるという。
 これは星野富弘さんの特権だと思います。なぜなら、お体が不自由ですから、じーっとしていなければならないので、いつも観察力が強くなります。今まで体操の先生が野の花なんか見ていなかったのですけれども、野の花を見て、あのドクダミみたいな、誰が見ても汚い、トイレの裏側の隠れたところに存在するようなものも、あの白い花が白い十字架だなんて表現するぐらい、これは素晴らしい発見を彼はしておりますね。植えられたところで花を咲かせる、動くことが出来ないそういう存在であります。しかしタンポポのように風の吹くまま、聖霊は風と表現されますが、思いのままに吹くと云う様なことで吹かれてどこかに行ってしまって、そこに置かれて、そこで芽を出し花を咲かせるということもあるわけです。まさかリック・ウォーレン先生が、星野富弘さんの話をこの中に書かれているというのではありませんで、私が分かりやすくこの話を続けているわけでございます。

どこに神の栄光を見ることができるか。これは常識ですから是非覚えていて下さい。

1番目:自然啓示(微生物から巨大な天の川まで)詩篇19の1,148の1~13
 自然啓示Natural revelation、と言いますが、微生物から、目に見えないような顕微鏡でしか見ることのできない動いてる世界がございます。それと同時に、巨大な天の川までと、アメリカ人でも天の川なんていう表現で言う人がいらっしゃるのであろうかと思いますけれど、日本人でしたら誰でもが、夕焼けこやけの赤とんぼ、いっしょに歌いたいと思ったのですけれど、途中で“お寺の鐘が鳴る”と出て来るからやめようかなと思ったのであります。富士山さんは世界遺産と言われる登録をしようとしていますけれど、富士山を見て自然の美しさ、なんと素晴らしいんでしょう。私たちが霊の世界で宇宙遊泳ができるような時代がきましたら、神さまがそれを許して下さったら、神さまがお造り下さった世界をですね・・今晩でも夢をご覧になったらいいですねえ。ベッドから落ちたりする人が居るかもしれませんけれど・・宇宙を遊泳できるなんてすごいじゃないですか。星と星との間とか、美しいその世界をね。肉眼で見て見えない世界。僕は飛行機に乗りますが、必ず夜になりますと、窓のブラインドをさげて下さいと言われます。私はみんなが静まったときにブラインドを少しあけて、暗闇の星空の世界を見るのですよ。もー、雲の上に行くと、全然、雲がないんですよ。夜空は綺麗ですしね。そして、主のみ名を崇めることを習慣としております。

 さあ聖書を開きましょう。詩篇19篇の1節。これは宮田兄弟が前に演奏して下さいましたね。覚えていらっしゃいますか。ご一緒しましょう。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」アーメン。

この後、暗記するといいですよ。「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜に告げる。話すことなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界の果にまで及ぶ。」、と言うね。うーん、まー、「もろもろの天は神の栄光をあらわす。」ベートーヴェンは感動して曲を作っていらっしゃるわけですありますが、時間の関係がありますので、148篇は、今、スクリーンが出ますからスクリーンをご覧下さいますか。
「主をほめたたえよ。もろもろの天から主をほめたたえよ。もろもろの高きところで主をほめたたえよ。その天使よ、みな主をほめたたえよ。その万軍よ、みな主をほめたたえよ。日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。これらのものに主のみ名をほめたたえさせよ、これらは主が命じられると造られたからである。主はこれらをとこしえに堅く定め、越えることのできないその境を定められた。海の獣よ、すべての淵よ、地から主をほめたたえよ。火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、(すごいね、嵐がみことばを行うんだって)もろもろの山、すべての丘、実を結ぶ木、すべての香柏よ、野の獣、すべての家畜、這うもの、(這うものというんだから、ミミズさんだって、ヘビさんでも。何も、さんをつける必要はなかったけれど)翼ある鳥よ、地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。」アーメン。

 今度わたしたちは軽井沢で大変な音楽会のご招待を受けて演奏するわけですが、このウクライナの歌姫も楽器をお使いになり、ボーマン先生とオクサーナさんが中心なのですが、楽器を使われますが、我々の聖歌隊もゴスペルも、声をもって、また、楽器をもって、神を賛美しているその姿を、別荘地におられる方々、あの地域におられる方々に証をしたいと思っております。ぜひ、協力して、よい練習をして、有料のコンサートですから、損したな、と思わせないように、みんなで一所懸命準備して下さい。お願いします。
 さあ次に行きましょう。自然啓示がそうでありますならば、2番目は、歴史を通しての 啓示と言うことであります。

2番目:歴史を通しての啓示(人間・神殿・教会)
 歴史を通して、特に人間の存在を通して。
人間の体は休みなしに、私なんかは64年間も心臓さまが動いて下さったのでありますよ。これが止まるとアウトでございますからね。私の親しくしている人は、腎臓を1日おきに人工透析していらっしゃいます。1回入ると4時間。「おしっこが1滴も出ないんですよ」と。出すぎて困るという人もいらっしゃるでしょう。出なくて困っている人もいらっしゃるでしょう。神の栄光を人間が現すという。

 創世記の2章で人間が神さまによって造られたというときに二人とも裸であった、アダムもエバも裸であった。その裸というのは、アロームというヘブル語が使われているのですが、それは栄光に輝いた姿であって、人間の裸の体が神の栄光で覆われていたと言うか、隠されていたと言うか、だから、神様がそれをご覧になったときに、It is very good と、こうおっしゃった。だけど、3章になると、罪を犯すと同じ日本語の漢字では「裸」なのですけれど、今度は、エロームという裸でありまして、恥ずかしさを覚えてイチジクの葉で体を隠すという。(人間は最初にどうして、スタイルが良いから、八頭身だから、話題が古いかな・・まあ、ともかく)、美しいから、この神様は、やったー、ほら綺麗だー、というのもないわけでもないでしょうけれども、それは神の栄光に輝いている人間の姿。それを、罪を犯したために人間がそれを失ってしまったということですが、しかしその片鱗は人間の体の中に、頭脳の中に、目の中に、耳の中にあるという人間は誠に不思な存在であります。だから、科学者たちの中から、神を信じる人が出ると言うのは、まさにそういうことであります。
 モーセの時代は神殿を通して、天幕を通して、現代は教会を通して、神の聖名が崇められているわけであります。

3番目:特殊啓示=イエスキリスト(ヘブル1の3、ヨハネ1の14.黙示録4の11)
 Special revelation イエス・キリスト様を通して、イエス様という方がどんなに素晴らしい神の子、救い主であるかということを、神の栄光の権限は、キリストにおいて最高潮に達したんだという、その世界を見ることができるわけであります。

ヨハネ黙示録4章の11節
「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
 この存在は、栄光を受けるにふさわしいお方、ということでありますね。

※神に栄光を帰すこと、それがわたしたち人生最大の目票であるべきです。
(使徒行伝12の20〜23) 
  Ex:Tテモテ1の19、20(内容は、いかなる人も知らない:アダム・クラーク)

 使徒行伝12章の20節以下は、ヘロデが王様の正装を着て人々の前に立つと、「ワーこれは特別な神の声だ」、なんて言われるとですね、彼は有頂天になって、神に栄光を帰することをしなかった。神に栄光を帰することをしなかったので、彼は虫に噛まれた。死んじゃったと書いてある。恐れが初代の教会に蔓延したということは、そういうことであります。
第1テモテの1章19節。これは開けてみましょう。

テモテ第Tの1章19,20節
「ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。その中には、ヒメナオとアレキテサンデルとがいる。わたしは、神を汚さないことを学ばせるために、このふたりをサタンの手に渡したのである」。
 これは、非常に珍しい表現であります。新改訳は、「神を汚してはならないことを、彼らに学ばせるためです。」と書かれております。一体これは何のことであるか。

 アダムクラークという人は、この内容は「どのような種類の刑罰かは、今、生きているいかなる人も分からないであろう」と。
 
 車田先生のCDが青年会からプレゼントされて、それを、しょっちゅう聴いているところですが、車田先生がその中で、このテキストから厳しい説教をしておられて、このヒメナオとアレキサンデルという人物が、神を汚さないことを学ばせるためにサタンの手に渡したと言うのは、いろんな理解の仕方があるが、その一つは、「死ぬ」、死ということに渡したということも言えるであろう、ということを厳しくおっしゃっておられました。これ以上、教会を汚すわけにはいかないという。

 リビング・バイブルは、「ヒメナオとアレキサンデルの二人は悪い見本です。私は、彼らを罰するために、悪魔の手に引き渡さざるをえませんでした。それは、キリスト様の名を辱めてはならないことを、身をもって学ばせるためです。」 ふたりの人を学ばせるため、でも、死んじゃったら学ぶということは出来ないかもしれませんから、学ばせるためということですが、その出来事を通して、教会全体が神を汚すということを学ぶという。汚すということは決してしてはいけないんだ、ということを学ぶためにそれをされたという理解があることを知って下さい。その次。
 
※神がすべてのものを造られた以上、全ての栄光を受けるにふさわしいお方は、神以外に
 おられない。(黙示録4の11)
 ・被造物で、神に栄光を帰すことに失敗した2種類(堕落した、死と人間)
 ・神に栄光を帰すこと、それがわたしたち人生の最大の目標です(イザヤ43の7)
 
・被造物で神に栄光を帰すことに失敗した2種類の存在があります。

 一つは堕落した天使。素晴らしかったんですけれど、サタンは、天の使いだった。天の使いの長であった。これらがですね、巻き添えをいっしょに加わせて、たくさんの天使を堕落させた。それが悪霊であろうという風に聖書から理解するわけでありますが、神に栄光を帰することを失敗した天使=サタン。
 人間もそういう風に言うことができるのではないか。
私がこのまえ礼拝でこの本(古屋先生の書物)を紹介したのですが、これは30年前に読んだ本なのですよ。結構、苦労して買った本ですって言うようななことを申し述べたのでありますが、その中で、ハーベイ・コックスと言う、世界的な、まだ、生きていらっしゃると思いますけれど、この人物が書物を書いておられまして、ヘビにそれを任せるなという。英語で読むと嫌う人もおりますが、“ On Not Leaving it to the snake”と言いまして、すごいタイトルであると思いますが、日本語は“世俗化時代の人間”と訳されております。ヘビにそれを任せるな!と書いた人が、(ハーベイ・コックスとというお方ですけれど、つまらないジョークを言ってすみませんね。)創世記のアダムとエヴァの堕落物語が教えるところは、神の様になる高ぶりとか、高慢がその罪を招いたのだということが世界的な解釈でありますが、ハーベイ・コックスというこの学者は、自分で決断しないでそれを蛇に任せた怠慢、怠惰あるいは無関心こそが罪だということである。つまり、いいですか、神の様になるというのは、人間が人間以上になるという高慢な罪で楽園を追放されたと、普通は考えるわけですけれども、このハーベイ・コックスは、それを蛇に任せ、人間が人間以下になることが罪である。人間が人間としての責任を遂行しないでそれを蛇に任せ、ヘビに人間が何をなすべきかを告げさせた怠惰が、より根源的な罪なのである、という。これは、もう、すごい聖書釈義、解釈であります。我々はエコノミック・アニマルと言われているのですよねー。人間だって動物だってちっとも関係ない、儲かればいいんだという、そこに問題、罪があるんだ。ヘビに指導を仰ぐなんていうことは、ヘビに言わせるなんていうことはとんでもない、それは神になるという高慢な罪じゃなくて、怠け者の罪なんだという風に釈義したわけですが、僕はこの古屋先生の説明の方が正しいと思います。

 しかし果たしてそうであろうか。例えばベトナム戦争は、アメリカの怠慢、怠惰のゆえに起こったのか、傲慢のゆえに起こった悲劇であろうか。両者は分離出来ないとしても、怠慢ということよりも、力の奢り、ビル・ブライトが言っている、力の奢り、ということであろう。まー、わざと私はこの古い例を使っているわけですが、黒人問題にしてもその原因は白人の怠慢・怠惰や無関心と言うよりは、根源的に優越感と高慢というべきであろう。罪を怠惰としか見ない、そして人間を怠惰にさせる、怠け者にさせる深い問題、それは、即ち、高ぶりや高慢に罪の問題を見ないところに、現代神学の人間観が、楽観主義に過ぎぬ一因があると思われるのである。これは正しい釈義であると思います。人間があまりにも傲慢になって、社会が神様を無視してやっているから現実があるのである、というのが正しい理解であろうとそう思います。

 ・神に栄光を帰すること、それが私たち人生の最大の目標です(イザヤ43の7)

◇どのようにして神の栄光を現すのか・・・五つの目的に要約する。

 1.神を礼拝することによって。
 2.他のクリスチャンに愛を示すことによって(Tヨハネ3の14)
 3.キリストに似たものとなることによって(Uコリント3の18)
 4.与えられた賜物を用いて人に仕えることによって(Uコリント8の19・NCV)
  「人助けに召された人がいますが。その人は、神が与えて下さる全ての力とエネル
  ギーを用いてそれを行いなさい。そうすることによって神は栄光をお受けになるので
  す」  
 5.他の人々に神のことを伝えることによって(Uコリント4の15・NLT)
   「神の恵みによって、さらに多くの人がキリストのもとへ導かれるとき、神はいよ
   いよ、栄光をお受けになるのです」

 これ面白いのですよね、人生を導く「五つの目的」という本なのですが、その本の中でですね、この先生 “このようにして神の栄光を現す”、 “どのようにして神の栄光を現すか”、五つの目的と、それは、重なり合いがあるのですよということなのであります。
 鳥や魚や蟻さんの様に神の栄光を現すことができる。蟻さんが象さんになろうと思ってはいけない。“象さん、象さん、お鼻が長いのね、そうよ母さんも長いのよ”と象さんが鼻が短くなることを求めてはいけない。象さんは象さんとして生きることが神の栄光を現すことであるという。亀が高跳びする必要もなければ、ウサギが泳ぐ必要もないということであろうと思います。

◇人間はどうしたら神の栄光を現すことができるか。五つあります。

第1番目:神を礼拝することによって。
 わが魂、いざ讃えよですね。礼拝とは神をほめたたえ賛美し、祈る以上の意味を持ちます。わたしたち日本人はまだ開かれない世界であると思いますが、やがてもっと開かれるでしょう。
 私は本気で考えておりますのは、16世紀にマルチン・ルーテルを通して聖書が開かれました。これは驚くべきことであります。
 初代の教父をチャーチ・ファーザーと言いますが、教父を通して開かれた世界もあります。オーガスチンなんかはそうであります。16世紀には、マルチンルーテルやカルバンを通して開かれました。18世紀には、ジョン・ウエスレーを通して開かれました。
 しかし、現代、私たちは聖霊様を通して、考えられないような世界が開かれました。
一つは祈りの世界であります。 もう一つはプレイズ・ワーシップ、 賛美の世界であります。あと数年経って、主が開いて下されば、礼拝、神の前にぬかずいて礼拝をするということが、どんなにすごい世界であるかということを、われ等は涙を流して体験する時が来ると、信仰をもって宣言します。アーメン。

第2番目:他のクリスチャンに愛を示すことによって、神の栄光を現すことが出来ます。
 第Tヨハネ3章14節
 「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている」。人を愛することを通して。

第3番目:キリストに似たものとなることによって。
 第Uコリント3章18節
 「わたしたちはみな、顔をおおいなしに、主の栄光を鏡に移すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(あー)これは霊なる主の働きによるのである」
キリストに似たものに変えられていく。もー、私はですね、あの神学に導かれたことを本当に幸せに思います。皆さん、力まなくてもいい。何も清められていない自分がまだ不十分だと言って、自分をいじめることはありません。聖言さえ蓄えていれば、必ず主を愛する者はキリストに似たものに変えられてゆきます。 信じる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 この教会は本当に幸せな聖書の深い真理、何百年にも亘ってクリスチャンたち、まじめなクリスチャンではない、ちゃらんぽらんな人はそんなことに苦しんだりなどしないのですけれど、清めを求め、ホーリネスを求めた世界中の全てのクリスチャンは、苦しんできたんですけれど、わたしたちは数週間前にこれが開かれて、本当に幸せ。聖書の聖言を否定するいうことはとんでもないことですが、「天のお父様が完全であられるように、あなたがたも完全なものになりなさい」 その通り!。しかし、力んで、頑張って、律法主義になることはありません。聖言を心の中に蓄えておりますならば、主イエス様を愛するならばその人の中に、聖言が成就する。ヨハネ14章21節の聖言を私は同じように信じるられることを本当に幸せに思います。アーメン。

第4番目:与えられた賜物を用いて人に仕えることによって。 
 第Uコリント8の19NCV
「人助けに召された人がいますか。(人を助けるために神様から召された人、ヘルパーさんですよね。いやお医者さんもそうです。いや、みんなそうでしょう。)その人は、神が与えて下さるすべての力とエネルギーを用いて、それを行いなさい。そうすることによって、神様は栄光をお受けになられるのです。」
 皆さん、これ実践しましょう。与えることは、受けることよりも幸い。親孝行を一杯しましよう。教会のリーダー、長老たちは2倍の尊敬を受けるべきだとありますが、地方教会の皆さん、そしてまた、教会が大きく成長しなくて苦労しておられる先生方を、もっと尊敬しなさい。私は、いま、命令形を使っておりますよ。選び出された人たちは尊敬に値する生き方をしなければなりませんけれど、尊敬しましょう。そのことを通して開かれる世界は素晴らしいものであります。
 私も用いられたい。私は引退したら、子どもたちに本を読んであげたいと申しあげました。長生きさせていただけるかなと思っているのですけれど・・・。
 私は、うちの若先生たちの中の何人かは、私が説教することを、この立場をですね、奪おうとしている・・冗談ですよ、今のは、冗談ですけれど・・まあ、私は時期が来たら退かなけれならないことは当たり前ですけれど、子どもたちに本を読んであげたい。紙芝居も、 紙芝居は得意なのですよ、僕は。幻灯もできるけれど幻灯は今ないからね。皆さんも夢をもったらいい。年はとってもいい。アブラハム会が一生懸命お掃除なんかしているでしょう。元社長さんとか、課長さんとか、部長さんだとかやってるでしょ。人のために役に立つことをするということは、神さまが喜んでいてくださっているのだ。隣人を愛することは主の栄光を現すことだ。

第5番目:他の人々に神のことを伝えることによって。(Uコリント4の15・NLT)
 英語訳を、日本語に訳しました。
 「神の恵みによって、さらに多くの人がキリストのもとへ導かれるとき、神はいよいよ、栄光をお受けになるのです」
 きょう、ギリシヤ語の先生の白畑先生とお昼ご飯をご一緒しました。先生は、「より多くの人が救われるという、日本の教会が人数を上げなくなったために、いつの間にか力を失ってしまいましたねえ・・」人数ではない。その通りですよ。教会は量ではない質ですよ。その通りですよ。私はそのことに逆らうつもりはありません。でも、一人の魂を大切にするならば、チョウ先生のように人数を掲げて一生懸命お祈りをする。白畑先生は何度も聴いておられるようでありまして、その数字を見ているだけで神さまは、見ているあなたを見ていて下さるって、いいですねーって。これも力まないクリスチャンの生き方ですね。キリストの品性に似た者にしてほしいと書いて、それを見ているだけで、見る法則、神様、私を用いて下さいと書いたものをあなたが見ていると、見ている法則で神様はあなたの姿を見ておられて、不思議をして下さる。家族は、子どもたちは、孫たちは、親戚が、みんな救われることを書いて、それを見ているだけで、写真でも貼って見ているだけで、神様は見ているあなたの祈りを聴いて下さる、ということであります。主のみ名を崇めます。
 私はこの教会にICA 幼稚園、保育園ができることを夢見て毎日お祈りしております。

◇あなたは、何のために、誰のために生きるのか(第Uペテロ1の3・LB)
 リビング・バイブルです。皆さんとご一緒に読みましょう。
 「キリスト様を知れば知るほど、その偉大な力を通して、神様に従う正しい生活を送るために必要なすべてのものが、いただけるのです。そればかりか、キリスト様は、自分の栄光と、みがかれた品性をも、私たちに与えて下さるのです。」

 必要なすべてのものが頂けるのです。すごいでしょう?。リビング・バイブルは大胆ですね。そればかりか、キリスト様は、自分の栄光と、みがかれた品性をも、私たちに与えて下さるのです。私はみ言葉が開かれると本当に嬉しいです。
 主の栄光のためだったら、もう一度申しあげます。優先順位、英語でPriorityと言いますね。スケジュール、人間関係、その他あらゆることに、変更が迫られます。あなたは主の栄光のために自分の存在があると信ずるなら、今日のこの講義、今日の教えをまともにお受けになると、神様があなたに、優先順位の問題、人間関係の問題、仕事の問題、賜物の問題が、迫って来る。神様が私に迫って来るっていう経験をしたことがありますか?
神様が、「いいの? それでいいの?」ってね。その儘でいいの? どういう生き方をしたらいいの?って迫って来る。私たちに迫られて来る。そこで決断しなければならないことが沢山あるでしょう? 白畑先生は、国立山形大学の大学院のレーザー工学でマスターをとられた方で、レーザーの専門家であったそうですけれど、献身して牧師になられた。主に迫りをお受けになられたからであります。
 この本は、いま第7章ですけれど、7章にして一つの結論を出しておりまして、私はあなたがたに迫ります。もしあなたが神の栄光のために生きたいのであるならば、まず、神の愛を信じなさい。そして、イエス・キリストを罪からの救い主として、人生の主として心の中心にお迎えする決断をなさいませんか。決断しましたか? 祈りましたか? イエス様、どうぞ私の中にお入り下さいと、お祈りなさったらイエス様が本当に中に入って下さいますから、もう、あなたは神様の家族なのですから、そのことを意識して生活なさって下さいという素晴らしい結論をもって終えられているのであります。

 ギデオンの4月号ですかね、これは女性の方でいらっしゃいますが、「私は香川県瀬戸内海に面した漁村に生まれました。毎晩、祖母とお経を上げる、キリスト教とは縁遠い家庭に育ちました。成績はそれなりのものでありましたが、中学2年生の時、親友と作文の応募をしたとき、親友は優勝して私は選ばれませんでした。「いやー、おめでとう」と言いましたけれど、私の心は妬ましい思いが湧き上がってきました。自分が惨めでありました。誰か助けてー、と心の底で叫んでいました。高松第一高等学校に入学して間もないころ、アメリカの姉妹都市セント・ピータースバーグから、3人の交換留学生が訪れて歓迎式の時でした。そのなかの一人の女子高校生が、全校生徒を前にして「私は世界一の幸せものです。なぜならば、イエス・キリスト様が私の罪のために、十字架にかかって死んで下さったので、私はいつ死んでも天国に行くことが出来ます」と、全校生徒の前で挨拶をするのですけれど、挨拶の中身が「世界一の幸せものです」とやった。イエス様のお陰で。ものすごい感動が私に伝わった。何のことか分からない。聖書を読んでみたい。教会に行ってみたい。自分は放送部であるが、隅に埃にまみれたギデオン聖書とマークの入った数冊の聖書を見つけだした。踊りあがらんばかりに喜び、1冊をいただいて眠ることも惜しんで読み進めました。私は十字架の恵みを受け止めることができて、救われました。主は、私を助けてと叫ぶ叫びに答えて、証人を外国から遣わして、聖霊により感動を与え、手渡されたわけではない、埃まみれのギデオンを備えて下さり、私を罪の滅びから救い出して下さったのです。この背後に、どれだけ熱い祈りと、捧げもの、献身があったことか。心いっぱい神様に感謝をします。」

 兄弟姉妹、幸せな顔をしていると、幸せなことがたくさん起こります。積極的、肯定的、信仰的な言葉を使うと、語ったような事が起こります。イエス様をいつも見上げて、イエス様、イエス様、イエス様!と、イエス様を呼び続けていると、初代の教会は、四つ表現、道の者、今週の礼拝説教の中ですよ、それからキリストの弟子、それから聖徒、もう一つ主のみ名を呼び求める者たち、という風に書いてあるのですよ。私たちがイエス様のみ名を呼び求めるながら、キリストの栄光のために用いられる姿勢をとれば、主が不思議なことをして下さると信ずるものは、アーメン、と言いましょう。アーメン。

 はい、ご一緒に私の後について、この姉妹に負けないように言いましょう。
「私は世界一の幸せな者です。イエス様を信じているからです。」
 声を出してご一緒にお祈りをしましょう。

祈り
 天のお父様、感謝します。私たちの存在は神の栄光を現すため、すべてのことに意味があると、すべてのものはただ神様から来て、栄光を現すことができるという、宇宙の究極的なゴールは、神の栄光を現すことにあるということでありますが、主のみ名を崇めます。イエス様、この地上に無駄なことは一つもありません。聖書の世界、深い真理の世界を悟り、主よ、ご指導できたことを本当に感謝いたします。主のみ栄えのために私たちを用いて下さいますように切にお願い申しあげます。主のみ名が崇められるように。主よ、私たちは決して神様の栄光に触れませんから、どうぞ偉大なる主の業をなして下さい。毎週、救われる魂が、聖霊を受ける魂が、清められる魂が、癒される魂が、神の奇跡の教会とさせてくださって、すべての栄光を主にお返しできるように助け導いて下さい。イエス様の名前によって感謝してお祈りいたします。