2006年4月27日祈祷会 メッセージ
※説教のレジュメ(要約)はこちら
第3章あなたの人生を動かしているものは何か
私たちは今人生を導く「五つの目的」という世界中で用いられているこの器 (The
purpose driven life By Rick Warren)を勉強することになって今日は3回目であります。
シリーズであります。感謝ですね。こういうことが勉強できるということは素晴らしいことであります。
人生を導く「五つの目的」。リック・ウオーレン先生であります。
第3章 あなたの人生を動かしているものは何か。
まー、今日のタイトルとしては、“目的に導かれた人生、五つの恵み”、としたいと思うところでありますが、
「成功のための基本的な原動力となっているものは、ねたみと嫉妬であることがわかった」(伝道書4:4
L・B)
これは伝道の書。旧約聖書であります。ソロモンが社会を見ていたときに、ねたみとか嫉妬とかはすごい力を持っているものだなあって。だって、イエス様が十字架につけられたのは祭司長たちの妬みの故であると聖書ははっきり書いてありますから、そういうことだと思いますよね。
如何でしたか?バザーのようなお仕事をすると、まあー、波が立ちますよねえ。ねたみとか嫉妬とかね。「大川先生はあっちで食べたけれど、こっちでは食べてくれなかった」とかですねぇ。ウフフ。特別賛美はどうですかね。上手とか下手とか言うようなことがでてきますかねぇ。「気づいたことがあったら、何でも言って」なんて言われたから本当に言ったら、大喧嘩になったということもありますしねえー。皆さんも気を使っていらっしゃると思いますけれど、こういうものから解放されたいですね。
※ 誰でも何かに動かされて生きているものです。
1.罪責感(詩篇32:1)
2.怒りと憤り(ヨブ 5:2 L・B)「怒りをため込んで死ぬほど思い煩うのは、愚かで馬鹿げたことだ」
3.恐れ(Tヨハネ4:18 Msg)「成長した愛は、恐れを締め出します。恐れは人を不自由にするため、恐れ(死の恐れ、裁きへの恐れ)に満ちた人生は、愛において十分に成長することがないのです」
4・物質主義(マタイ6:19〜21)
5・受け入れられたいという必要(マタイ6:24)
1番目:罪責感。多くの人は罪責感に駆り立てられて生きているということであります。
逃亡者は罪責感にあおられるようにして荒野に逃げていきましたね。
私は幼いときに、もっと幼い赤ちゃんの妹が私の膝の上で火だるまになって死んでいきました。記憶はないんですけれど、私がだっこしてたんだって。当時セルロドのオモチャというのがありまして、東京に住んでいたのですけれど、それが火鉢に落ちてボッと燃えて火傷で死んだのだ、と言う風に聞かされたことが1回だけあって、まー、それがずうっと、罪責感、おれが殺したんだと思いながら苦しんだ時代がありました。もう、今は解放されてこんなことが話せますね。天国に行ったら「お兄ちゃんのおかげでこの世の中の苦しみを経験しないで天国に来ているのよ」と言ってくれると、そういう話を時々します。
2番目:多くの人は「怒りと憤りによって、(そこに書いておきました。)怒りをため込んで死ぬほど思い煩うのは、(時々あるでしょ。死ぬほど苦しむようなこと)愚かで馬鹿げたことですよー」というね。でも、人間って大変ですよね。
サリン事件の問題とか、JRの交通事故の問題とか、最近はもう本当に身近と言ってもいいほど殺傷罪が、10代20代、高校生、中学生、大学生、小学生もあるでしょう。大変ですよね。建築会社から偽装されたということの、そういうことの怒り。でも、怒りを手放さないとだめですよってね。簡単ではないかと思いますけれど、祈らないといけないですね。
3番目:「恐れ」。多くの人は恐れに駆り立てたられて生きている、という。
「成長した愛は恐れを締め出す。恐れは人を不自由にするため、恐れ(死ぬことに対する恐れ、裁きに対する恐れ)に満ちた人生は愛において十分に成長することは出来ないのです。」
恐れ、恐怖感というのを持っていると人間は健全に成長しないという。
4番目:「物質主義」ってね。金がすべてである。
最近、私はアノー、前から気になっていたのですけれど、僕は教養のない牧師ですからね、えー駄洒落にはちょっとは強いんですけれど、教養の方はちょっと弱いんでございますですね、えー、シェイクスピアの“ヴェニスの商人”に触れてですね、(私ヴェニスに行かなくちゃいけないので、前からチョト気になってしょうがなかったんですけれど)、最近触れてですね、もう面白くてですね、その深さと言いましょうか。結局、金が全てだと思っている人と言う人が沢山あって、日本の経済も同じですが、エコノミックアニマル、「けもの」と言われたって金があった方がいいってね。悪口言われても経済主義で生きているという、そういう内容ですね。そういうものに駆り立てられているって。当たり前のような現実でありますけれど。
5番目:「受け入れられたいという必要」がある、ということだと思います。私たちの信仰はaccepted acceptance神様がもう受容していて下さる。洗礼を受けてから受け止めて下さるのではない。もう既に2000年前に私たちは受け入れられている、ということを受け止めるということが重要なのである。あー、そういうことに気づかなかったというふうな内容であろうかと思います。
○ どうしたら「目的に導かれた人生」を生きることができるか。それは、神様に導かれ、支配され、そして正しく方向づけられた人生です。自分の人生に用意されている神様の目的を知ること以上に大切なことはありません。
これは皆さんとご一緒に読んでみましょうかね。ハイ!
「どうしたら目的に導かれた人生を生きることができるか。それは、神に導かれ、支配され、そして正しく方向付けられた人生です。自分の人生に用意されている神様の目的を知ること以上に大切なことはありません。」
あゝ、素晴らしいと思いますね。私これ読んだときに少なからず感動しましたね。神様に導かれ、私たちは神様に導かれているという意識を持つ、持てる、ということは幸せなことですね。神様に支配されている。導かれているだけではなくて、「イエス様が主」という。主人という。♪イエスは主 イエスは主〜 私たちの主人ですから支配されているということに喜びを感じる。Going
my way 私が私の人生を歩むのではない。
主に支配されて、手を握られて導かれて行く。例えそれが荒野でも。イエス様も荒野に導かれた。これは絶対意味があることなんだ。まだ、その意味が分からなくても信仰を持ってどう解決されるかということを前もって感謝するというね。神様は最善以下をなさらないと信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン!
そー、アーメンなんですけれど、現実にとんでもないことが起こるとパニックってですね、なぜ、うちにこんなことが起こるのかしら・・? そう、チラット思うでしょう?ええー、チラッと思うだけでなくて、それが定着するでしょう? それが継続するでしょう? ご主人の顔を見るたびに憎しみを抑えていく、本田先生に言わせると、コカコーラとセブンアップが一度に上がってきたみたいに抑えるということが難しいんだ。
この現実をどう乗り越えていくか。
“私の心ではありません。私はそんな苦い杯は飲みたくはありません。”イエス様の真似をする。少しは言ってもいいからね。“神様、わたしは苦い杯は嫌です。あんなの辛いです。でも、あなたのみ心でしたら私はそれに従います”。
神に導かれ、支配され、そして正しい方向づけに詩編第23編。私たちの魂を義のゆえに、主の義のゆえに、神様、沽券にかかわるから、私はそう思っているの。
この教会はね、岩の上に私の教会を建てようと、主は“I will build”言われるのですから、絶対にイエス様の教会をお建て下さると思っているのですが、もう一つはね、私がきわどいメッセージをすると、全国から異端のように扱われるときがあるんですよ。でもね、神様は主のみ名のゆえに私たちを正しい道に導かれると、そう信じて勇気を神様から与えて頂いているんですよ。
自分の人生に用意されている神の目的を知ること以上に(あー、凄いですね)自分の人生に用意されている神の目的を知ること以上に大切なことはありません。自分の神様が、あの偉大なご計画の中の一つ(歴史のことを英語でヒストリーhistoryというでしょ?His
Story)主の物語。私もその中に入っているんだ!本当かしら?こんなちっぽけなものが・・・。神の計画の中に入っているのかしら?・・・入っているんですって!ですから、何が起こったとしても、私は主が用意されている神の目的を知ること以上に大切なことはありませんという世界を、私たちは信仰もって前進していくということが、何と素晴らしいお恵みであろうかとそう思います。アーメンでしょうか。アーメン!
これは五つの否定的な話から、今度は積極的な次のポイントです。
※ 目的に導かれた人生の五つの恵み。
1番目:人生に意味が与えられている。人生最大の悲劇は、死ぬことではありません。何のために生きているのかわからないほど辛いものはないのです。(エレミヤ29:11)
(エペソ3:20LB)
人生の目的を知ることによって、人生の意味が分かるようになる。トルニエがね、「苦しみに出会ったことのない人は、ある世界が開かれない」。ボンボンってよく言うじゃないですか。女の人のことはあんまりボンボンて言わないけれど、男の人はよく、「あれは長男のボンボンや」って。長男がどうして言われるか分からないね。「あれ、ボンボンや」って。「あれ、苦労したことがないよ」ってよく言うでしょう。「あれはもうわかんないよ」って馬鹿にされるでしょう。
苦しみを通してでなければ分からない世界がある、ということを子どもにも教えなければまずいよね。苦しみに導かれたときは、神様には何か、何かご計画がある。
苦しむということは自分のミスからの場合もあるから苦しいことは嫌だってね。そりゃそうでしょ。私も同じですよ。苦しんでいる人、貧しい人、恵まれない人を自分のことのように愛するというか、分かちあうというか、努力して助け合うということ抜きにしては、或る世界は分からないんですよ。そう言うのも嫌!私は自分だけ幸せになりたいという人は、まあ、アホとしか言えない人だと思いますけれど、そういう人にはある世界は決して開かれない。意味がわかるならば乗り越えることができるって。イエス様が苦しんでくださったということの世界が分からなければ、永遠の世界は開かれないということは本当だなって思いますね。
人生最大の悲劇は死ぬことではありません。何のために生きているのかわからないほど辛いことは無いのです。
2番目:人生はよりシンプルになるという。(箴言13:7 MSV ・イザヤ26:3 TEV)
家に帰って聖書の箇所を開いて下さいね。人生はシンプルになる。
今回、小林詩音さんがお元気で韓国に行っているのですけれど、お部屋が四畳半ぐらいあると思って行ったら2畳ぐらいしかなかったという。だから僕が「京都の二条城みたいですね」って言ってるんですけれど、部屋は変えてもいいことになっていますが、荷物少ないから大丈夫。二畳では可哀そですね。押入があれば生きられるからってね。押入をベットにして過ごしたことのある人いますか。私なんか6人兄弟でしたから押入がベットでしたね。
和田さんはね、ここから引越しして行きましたが、けっこう荷物があったのですよ。私はホーリネス教団にいましたでしょ。教団の任命で私は全国の教団の青年部長をしておりましたから、全国の様子がよくわかった時代があるのですけれど、車田先生が或る時に手厳しくおっしゃたことがあるのですよ。「荷物が多すぎる!」A点からB点に行くのに引越代だけでも物凄く費用がかかる。ホーリネス教団が任命するのにすっごい苦労したことがあって、車田先生が、「シンプルに行かなければなりません。イスラエルの民は荒野を旅行する時には荷物なんか持っていなかった!」。そのとき、僕は物凄く感動したのですが、今考えてみれば当たり前だ、それは。荒野を旅するのに荷物は要らないだろうよ、今と時代が違うって。こういう風に大人になると文句言うからダメだよね。でも、そのときはそうでした。シンプルに生きなければなりません。
みなさんも今日そう思っているでしょう。でも、荷物を増やす、増やさないと言うのは、私たちはシンプルに生きられる目的がはっきりしていると言うことですよ。
3番目:人生の焦点が定まる。
太陽の熱をレンズでやったことありますか。光を集中させると、火をつけることができるというのを子ども時代にやったことがあると思いますよね。何を選ぶのか、どっちに行くのか、うーん、私たちは、もう、目的がはっきりわかっていますからね。それを選ぶことに対してそんなに時間をかけることはないのですよ。
私は教団を辞める時は辛かったですよ。本当に誰も味方がいなかったのですよ。わたしの父はね、「お前が信ずるなら信じる方向に行ってもよろしい」と。本当にさびしくて、辛くて、あんなことよくできたなぁと、この気の弱い男がよくできたなぁって思いますけれど、み言を与えてい頂いたからそれに土台しました。
サンフランシスコから座間教会に1970年に戻って来るときは、み言ではなくてassuredly saying that 、状況判断からして、これが正しいという理解をしました。時間がかかりました。帰って来るお金がないから、もう、数カ月で飛行機代と言いましょうか帰って来るお金を見つけなければなりませんでしたけど、焦点が決まってますから、何であるかというと、“主のお役に立ちたい!”ということ以外の何ものでもありませんから。
私は牧師になって40年。まともに休みのための休み、遊んだ時間というのは殆どないんですよ。明確な目的があって、そのことのために時間を費やすということが、私にとって喜びでございました。エペソ5章の17節にこう書いてありますね。
○エペソ15:17 Meg 「浅はかで思慮に欠けた生き方をしてはなりません。主が願っておられることが理解できているかどうか、よく考えてみなさい」
早く救われるって素晴らしいね。13歳のときに救われて、神様にその人生をお任せしましたから、無駄なことはなかったかと言うと、そんなことは無い。勉強しなかった時代もありますのでねえ。でも感謝ですよ。ほんとうに。
○ピリピ3:13 NLT 「私は自分のすべてのエネルギーをこの一事に集中させています。すなわち、過去のものを忘れ、ひたすら未来のものに向かって進んでいるのです」
子どもは親の姿を見ていますから、お父さんは物質主義なのか、恐れや憤りで生きているのか。焦点がハッキリしていて、お母さんの目的は一つだけ、主のお役に立ちたい。私の母親は、私が見ている限り自分のものを一度も買ったことがない。それはもう社会、世の中みんな貧しいですからそうですけれど、まあ、伝道者は世の中から5年も6年も遅れていましたから本当に貧しいけれど、一言の愚痴も文句も言わなかったのは焦点がハッキリして、私はこのことのために召されている、私はこのことのために献身している! 子供達はそれを見て育ちましたから、人生とは一体何であるか。私がまだクリスチャンでない時代にですよ。クリスチャンでない時代に、もう、そういう必然的な自然の養いの中にいました。一つの目的のために生きるということは、何が起こっても文句はない。母はこういうような勉強なんかしたことないんですから、よくわからなかったと思います。整理された形ではないんですけれど、自分の人生に用意されている神の目的を知ること以外に、大切なことはないってね。神様に導かれ、支配されて正しい方向づけの中に自分が生きていることが分かることの平安。
僕は高校受験に失敗した話をよーくしますけれど、そのときに、止むを得なく東京に出て、東京の私立の学校に入らなければならない。兄貴は青山に入って私は聖学院だから、貧乏牧師が二人も私立の学校に入れるなんて、ということは不可能を超えている内容で、そんなことは非常識なんですよ。ちょっと悪い役員さんがいてですね、私の母に「貧乏人は学校になんか行くことありませんよ」なんて言ったらしんですよ。母は、ものすごく憤ってですね、「私は土方してでもお前たちを学校に入れてあげるから心配しなさんな」という。小さな体の小さい人なのですけれど、そういうときは、凄く強かったですね。私は本当に申し訳ない気持ちで一杯で、一生懸命アルバイトしました。母の生き方ということが私に今でも伝わって、焦点が、ポイントが、ハッキリしているから、自分のすべてのエネルギーをこの一事に集中させる。
私は、だから、自分の伝道牧会は、聖霊様を受けてからハッキリとしたことは絶対成功する!教会は成長する!絶対そうして頂かなければ天国にいけないわけではないけれど、申し訳ない気持ちでいっぱい。今でも同じ気持ちでいっぱいであります。
4番目;人生に動機づけが与えられる。
目的を知ることによって人生に動機づけが与えられる。目的は情熱を生み出して喜んで苦労することができる。目的がハッキリしていると、苦労することが何でもなくなるというね。
5番目:永遠の準備が整う。ロマ14:10b・12NL
「私たちはそれぞれ、個人的に神の裁きの御座に立たされることを覚えておきなさい。・・・そうです。私たちは皆、神に対して個人的に申し開きをしなければならないのです。」
永遠の準備ができるという。ドブソンがテニスで大学チャンピオンになったそうですけれど、大学のキャビネットに優勝のトロフィーが置かれてドブソンの名前が入っていたそうです。「ああー、何年たってもすごいね、歴史というものは。あなたのことを記念して飾られているんですね。」あるとき、学校が改築されたときに友達が学校を見に行ったら、ドブソンのトロフィーがゴミ箱の中に落ちていたというね。いつか忘れられる時がある。それが送られてきたという話であります。私たちはこの地上の者ではありません。永遠の準備であります。ロマ書10章。
ロマ14:10b ,12NLT 「私たちはそれぞれ、個人的に神の裁きの御座に立たされることを覚えておきなさい。・・・そうです。私たちは皆、神に対して個人的に申しひらきをしなければならないのです。」
幼いときから私は再臨信仰を植え付けられましたから、今晩イエス様がきたら、イエス様が来られたらどうするの?という、そういう教育の中に生きてきました。今晩、命が、心臓が止まったらどうなるかということを、毎日、というと嘘ですけれど、週に一度は、命が取られたら主の御前に立つのだ、という意識をいつも持ちながら最善を尽くしております。
幼いとき、まだ車がなくて静岡の地で馬車が通っていたという時代をご存知ですね。道を馬車が通るという、牛や馬が通った時代があるのですよ。馬糞とか牛の糞が道に落ちててね、牛の糞を踏むと背が低くなって、馬の糞を踏むと背が高くなるとか言って。倉知先生、わからないでしょう。分かる人!何人かいるでしょう。そういう時代があったのですけれど、それはどうでもいいんですけれど、近所で石蹴りか、カン蹴りかなんかやって子供達が遊んでいたんですよ。夕暮れ、今のようなスモッグなんかないからね、夕方、西の空が真っ赤に染まったのですね。そのときに、いま、岐阜県で伝道者夫人をしております妹が、まだ、幼稚園かな、1年生ぐらいだったでしょうかね、その美しい夕焼けをチラッと見たのですね。見た瞬間にウワー、って泣いたんですよ。何が起こったのか、僕の妹ですからね、「どうしたの?」。再臨が起こったと思ったのですよ。毎日聞かせられているから。それは皆さんも、レフト・ビハインドのテレビとか映画、小説を読んだら気になるでしょう。
有賀先生だってそうですよ。高校の授業をサボってね、良からぬ映画を観ていたそうです。突然、映画が故障したんでしょうけれどね、真っ白くなって画像が映らなくなったそうですね。まだクリスチャンになる前にね。学校サボって映画観てた。悪い映画を観ていた。みんなは動かなかったって。大人はじっーと我慢してたんでしょうね。でもね、彼は、あっ、再臨だ!ああ、どうしよう!教会堂の牧師のところに行こう、宣教師のところに行こう!もし、宣教師がいれば再臨じゃないし、いなかったら残されたんだと思って、走って宣教師の家に行ったら、先生たまたま買い物に行ったかなんかで家に居なかったのですよ。わー、私は残されちゃった!そう思ったそうですよ。これは再臨信仰が高められているのでね。子供にどう教育するか。私たちはやがて主の御前に立つのだ。だから今の勉強はそのためのものである。私たちは目的のなかに生きているんだ。勉強って素晴らしいでしょ、ね。
結 論。
※決定的な二つの質問。
1番目:わたしのひとり子・イエス・キリストに対してあなたはどのような態度をとりましたか?
神様から来る質問であります。前もって聖書を通して、試験科目を教えていただいているのであります。あなたはイエス・キリストをどうしましたか?
ヨハネ1章12節
「彼を受けいれた者(イエスさまを受け入れた者)すなわち、イエス様の名前(救い主)を信じた人々には、神の子となる力(力は特権という意味ですよ)特権を与えたのである。」
我々は 神の子としての特権にあずかりました。この1問目は皆さん通過しているでしょう。イエス・キリスト様を、私が遣わしたイエス・キリストさまをあなたはどうしましたかと質問されますよ、というのですよ。裁きのときに、私は信じませんでした。受け入れませんでした、と言うんじゃまずいでしょう。私はイエス様を受け入れました。これが永遠を決定します。
2番目:私があなたに与えたものを、あなたはどう活用しましたか?
わたしは数ヶ月前に長老さんの話をしました。私がこの教会に就任した時は28歳で若い、結構、美男子だったんですけど、いまは崩れてしまいました。えー、そのころですねエ、勢い込んでアメリカから帰ってきたものですから、役員さんたちを目の前に並べて勉強しました。黒板を使って。生意気でしょ。でも、燃えているからね、立派な役員に育てようと思ったわけですよね。 私より皆全員年上ですよ。黒板で色々。でも途中、数ヶ月でやめたんですよ。あゝ、こうしなくても良い。この人たちはみんな立派な役員さんだから。持って居られるそのままで良いとそう思ったんですよ。まぁ、そうでもないんですよ。みんな訓練を受けなければいけないんですけれど、これから変えられていくと思いますけれど、この教会のターニングポイントの一つなんですね。
先々週話しました勝又佳子さんが、信仰を回復して心を燃やしているときに「先生、わたしは何にも出来ません。個人伝道も出来ないし、人も誘えないし、賛美歌も歌えないし、なんにも出来なくて申し訳ない。」「じゃぁ、あなた何が出来ますか?」「漬物をつけることだったら上手です。」小料理屋をやっていましたからね。
私はそのときに神様からインスピレーションを頂いた。ほんとうに感謝いたします。
全国の牧師は聞くべきメッセージだと思いますね。 その人の賜物を生かせばよろしい。
僕はどういう中で育ったかというと、“あなたは人を何人導きましたか”、といつもチクチク、チクチクされておりました。あなたが天国に行ったときあなたの船の中には何人のっておりますかってね。あなた一人だけ船に乗っているのですか。あなたはお仲間を、家族を、船の中に入れていますかって、いつも指されたのですよ。
みなさんは、私がそういう説教しないことを幸せに思ってくださいね。いい牧師だなあと思っている人は手を挙げなくてもいいですけれど・・。私はそういう中で苦しんだんですよ。でも、今は、私はそうは思わないですね。あなたの持てる賜物を生かしていますか、とういうこと。漬物つけることが上手な人。バザーを見ていると色々と得意なことがあるでしょ。それを喜んでする、てね。参加することだけでもよろしい。お掃除もよろしい。片づけもよろしい。なんでもいい。あなたの持てるものを活かす。“いいえ、私なんにも持っていません”とおしゃいますか? そんなことは絶対にありません。二つ以上賜物を発見することが出来ますから、賜物が分からない人はおっしゃってください。一緒になって見つけましょうね。
教会の歴史を知るということが、どんなに重要なことであろうかとそう思いますね。
小林詩音さんが、先週のアノインチングというオンヌリ教会の聖会に出て報告をしてくださったのですよ。素晴らしい報告書なんですよね。
“韓国の教会が今危機に瀕しているのは豊かになっちゃったから、教会が大きくなっちゃったから、緊張感が足りなくなったからお祈りが弱くなった。あんまり素晴らしく整えられているので、自分もそう思うときがあるって。どういうふうに思うかというと、もうこの教会はこのままでよいと思うときが正直言ってありますが、私は悔い改めして、断食して悔い改めます“、とそういう風におっしゃったそうですよ。
(私もこの教会に対して本当に主に感謝しております。こんなに整えられるとは思いもしませんでしたから、後輩たちのためにあんまり大きくすると後が大変だ。だから、このくらいでいいでしょう。もしできたら200人ずつ分けて、そういう小さい教会を作るのもいいでしょう。色々考えます。でも主のみ前にとても恥ずかしく思います。99%ノンクリスチャンなのに、神様どうぞ助けてくださいと必死になってお祈りしております。)
この聖会中10日間の勉強会なのですけれど、お弟子さんたちが聖霊を受ける前に10日間の準備をしたのは苦しみを身ごもるためですって”。すごいねぇこの先生はね。もう一度やりますよ。こういうお方です。お体の少し弱い方なのですけれど。
100年前に平壌、ピョンヤンで大リバイバルが起きました。それは一人の宣教師の殉教からであります。今は殉教、それが必要です。主のために代価を払う。血を流す。どんな犠牲を払うか。それがリバイバルと関係していることだと思います。そのためには一つになりましょう。今、聖書学院に山本土生夫さんを送り出しております。一つになるための努力でもあります。
私のこの新しい書物「ですから、聖書に戻るのです」のあとがきをお読みなった人はびっくりしたと思いますが、この書物を今回は静岡ホーリネス教会、私の母教会に捧げます、と書いてあります。それは、どうしても仲良くしたいからであります。和解したいからであります。何も、喧嘩してるわけではないけれど、わたしたちは小さな孔を通してサタンは働いて来ますから、和解の福音をいつも持たなければならない。わたしは毎週
静岡ホーリネス教会にはわたし傷があるんですよ。わたくしが受験に失敗したときに、青年会のみんなが僕の将来は無いみたいな言い方をしたんですよ。私は本当に辛い涙を流しました。私を応援してくれた人は一人もいません。励ましの手紙も言葉も、一度もかけてくれた人はありませんでした。僕は希望のない高校時代をしばらく過ごしました。静岡教会は私が聖霊問題のときに、たいへん厳しい姿勢をとりました。でも、今、私は神様によって素晴らしい恵みをいただきましたから、“本質以外は寛容である”ことを学びましたから、わたしは静岡教会に昨日手紙を書いて書物をたくさんお送りしました。
神様は、どの教団・教派とも仲良くして福音宣教のために僕(しもべ)を用いて下さることを確信します。だから今必要なことは、あなたの人格を治すことです。
どうして問題が起こるのですか?あなたの人格の問題です。すべての優先順位は人格です。
人格に対して
1番目:怒り。怒りの問題があります。それは解放されなければいけない。
2番目:仕事を独占する。これは誤ったリーダーシップです。
3番目:口数の多いことです。多くないのも問題があります。「ありがとう、ごめんなさ
い」が言えないのも問題です。
仕事よりも大切なことは人格です。その人を見るだけでよい人と思うくらいに成長しましょう。ゴマすりをするということでは決してありません。聖霊を受けてあなたの人格が変わる、変わったということが重要なことであります。人を通して福音が広げられています。どんな人も変えられます。自分で驚くほど変えられます。愛の器、祈りの器になることが出来ます。主の働きを信じる者は、アーメンと言いましょう。アーメン!
お父さまもイエスさまも働かれる中心的なのは、お仕事が前進するということもありますけれど、人の人格を変えて下さるということであります。
お祈りをいたしましょう。
天のお父様、本当に感謝です。1回しかない人生の中で聖書の悟りを得られると言うのは、こんなに幸せなことはありません。むかし随分苦しみました。だから、牧師として信徒をも苦しめてしまいましたが、今は本当に悟りの霊のなかで、わからないことは勿論たくさんありますけれど、主が奥座敷に導いて下さると信じています。Up
grade、レベルを引き上げて下さることを信じております。壁があったらそれを
brake through 破って下さる、乗り越えることができることを信じます。みんながリバイバルを求めて、私たちの個人を通して、グループを通して、信徒会を通して、教会を通して、主の働きが前進しますことを信じます。あなたの懐は素晴らしく広くて寛容な方です。ですから私たちを受け止めていて下さることを本当に幸せに思います。私たちの信仰も広げられ深められますように。み名が崇められるために私たちを用いてください。主イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。