2006年4月12日祈祷会 メッセージ

             ※説教のレジュメ(要約)はこちら

第二章 あなたは偶然に存在しているのではない。

 この日曜日、素晴らしいことがありました。メールをいただきました。

「先週の聖歌隊による“マタイ受難曲”は本当に素晴らしく壮大で心打たれました。感謝です。主のみ名を崇めます。当日、来る気の無さそうだった未信者の父と母が礼拝堂の後の方で、にこにこしながら座っているのを発見して、始まる前に、もう、喜びと感謝でいっぱいでした。父も母も、あの大多数の大迫力の賛美に感動したといってくれました。
 またその日の大川先生のメッセージを聞いた父は、『パパはねぇ、死ぬ直前になったらクリスチャンになるよ。約束するよ。だって、大川先生のおっしゃるような天国とやらに行きたいもんな』と少々図々しいというかとても恥ずかしいのですか、なんだかうれしかったです。」
 これも一つの信仰告白ですよ。照れくさいんですよ。男の人が娘に告白をするというのわね。でも、こういうふうに口で告白しましたから、必ず成就すると思います。
 すべての人は間違っても地獄に行かないで下さい。イエス様を信ずるだけで神様が下さった恵をいただくことができるのです。

皆さんに祈って頂いた”マタイ受難曲“は素晴らしいものでした。
私たちはすべての栄光を神様にお返ししたいとおもいます。感謝の拍手をいたしましょう。(拍手;イエス様!ハレルヤ、ハレルヤ、ハレリヤ、アーメン)

 こうやって教会の行事に参加するだけではなくて、何かひと工夫してお誘いなさったら、こんな素晴らしい喜びを経験出来ます。
 次の日曜日には、ユダヤ人の名バイオリニストがおいでになります。
あきれかえるほど、この教会にはいろいろなゲストがお見えくださいます。こんなに立派な会堂をいただいて、今年はドン・モーエンもおいでになりますね。
その次の週は、オーストラリアからクラシックダンスの方々がお見えになります。
オクサーナさんもいらっしゃいますし、6月にはチョウ・ヨンギ先生もお見えくださいますから、皆さん、奇蹟が起こらないわけはないでしょう。
 皆さん一生懸命お祈りしましょう。そして、私たちの親戚や家族みんながイエス様を信じて、みんな天国に行けるように皆で工夫いたしましょう。お願いしますよ。

今日は、イザヤ書44章です。
 初めにジョークです。新聞の投書から。学生時代の友人との会話。
「人間っていろいろ悩みがあってイヤだよ、大変だね。今度生まれて来るときには大空を飛ぶ鷹か鷲になりたいよ」そう言ったら、友人が「鷹や鷲にも悩みがきっとあると思うよ」と。
 鷹や鷲にならないで人間であることの素晴らしさを、今日、ごいっしょに勉強したいとおもいます。

イザヤ書44章1節から5節まで、ご一緒にお読みしましょう。
しかし、わがしもべヤコブよ、わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。
あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主はこう言われる、『わがしもべヤコブよ、私が選んだエシュルンよ、恐れるな。わたしは、かわいた地に水を注ぎ、ひからびた地に流れを注ぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。こうして、彼らは水の中の草のように、流れの辺りの柳のように、生え育つ。
ある人は「わたしは主のものである」と言い、ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、またある人は「主のものである」と手にしるして、イスラエルの名をもって自分を呼ぶ』」アーメン。

 イスラエルの国が何度失敗しても、失意のどん底にあったとしても、その栄光はこれがイスラエルかと思えるようなどん底に地に落ちるようなことがあっても、失意の真ん中にいる人達に対して主の励ましのお言葉を失意の真ん中で見つけることが出来ます。
 主によって選びだされた者の人生というのはそういうものである、とご自覚なさったらよろしいと思います。
 私たちは選びだされた人生であるにもかかわらず、どんなにみじめな人生を送る方々が多くいらっしゃることでしょう。
 いま、横田めぐみさんの話題が新聞やテレビで大騒ぎしておりますが、事はピョンヤン、平壌の出来事であります。ピョンヤンは昔大リバイバルが起こったところであります。北朝鮮から南に逃げて来られなかった方々が沢山おられます。信仰を失った方もたくさんいるでしょうが、生きている信仰者たちが公には出来なくても、祈っておられる方たちが沢山おられます。その人達にとって、昔の栄光は一体どうしたのだろうと泣いておられると思います。また、ひそかに祈っておられると思います。

 私が中国に招かれてオンシュウというところに行きましたときに、三自愛教会、ここは政府の公認されている教会ですが、この教会の関係者が、「ここは昔、東洋のエルサレムと言われた場所です」、というふうにおっしゃっておられました。ピョンヤンもエルサレムと言われた時代がありました。オンシュウもエルサレムと言われるそういうところでありますが、やがてレストレイション(restoration)と言いましょうか、大回復がなされるときが来ると私はそう信じます。

イザヤ書の44章をお開きしたわけでありますが、わたしは、かわいている者に水をそそぎ、ひからびた地に豊かな流れをそそぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう、と英語の聖書ではこのような訳文でありまして、2節にはわたしが選んだから恐れてはいけません、と書かれております。今かわいていること、ひからびっていることを恐れてはいけません。

 むかし小学生時代、中学校時代、高校生時代あんなに恵まれていたのに、今ちょっと枯れちやった、そういう人も恐れてはいけませんよ。わたしがかわいた地に水をそそぎ、ひからびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。こうして、彼らは水の中の草のように流れの辺りの柳のようにはえ育つ。5節、ある人は「わたしは主のものである」と言い、(わたしは主の者であるというのですから I am The Lord’s, The Lord’s)。ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、またある人は「主の者である」と手にしるして、(と言うのですから皆さんも、わたしは主の者である I am The Lord’sと手に 記してみたらいかがでしょう)イスラエルの名をもつて自分を呼ぶ、と聖書の言葉であります。

第二章 あなたは偶然に存在しているのではない。

※ 「わたしはあなたの造り主。あなたが生まれる前から、あなたはわたしの配慮の中にあった。」(イザヤ44;2 CVE )

英語の聖書を日本語に訳したのでありますが、興味深いのは、あなたはわたしの配慮の中にあった、ということであります。へー、と思っておられる方もいらっしゃるかと思いますが、まあ、少し勉強を続けましょう。

※「神は私たちで遊んでおられるわけではない」(アルバート・アインシュタイン)
 有名なアインシュタインの言葉です。「神さまは私たちで遊んでおられるわけではない」。私たちをオモチャ扱いにはしていませんよって。今は乾いていても、ひからびていても、恐れる必要はありません。

※ I am not an accident

 交通事故の話ではありません。
わたしは偶然の存在ではありません。英語の書物にそう書いてあって、これは気に入りました。日本語のほうは、わたしは偶然に存在しているのではない、と訳しています。
I am not an accident。ご一緒に読みましょう。I am not an accident。 だから、
You are not an accident,too。あなたも偶然の存在ではありませんって。いいなぁ。僕は、これだけで随分きょうは恵まれました。
 わたしは偶然に生まれた存在ではなくて、神様のみ手の中にあるんだというネ。いい言葉でしょう。こういう小さい言葉を覚えるということは、とても大きな力になるんですよ。そうやって信仰が成長していくことを保証します。
 あなたが生まれてきたのは、何かの間違いでも、不運にして不幸な出来事でもありません。また、自然の悪戯によるのでもありません。たとえ、あなたの両親があなたの誕生を計画に入れなかったとしても、ちょっと上品な表現ではありませんけれど、“できちゃった”、というような、そう言われるような妊娠であったとしても、神様の側はそうではありませんでした。神はあなたの誕生を驚くどころか、心待ちにして来られたのです。母親があなたを身ごもるずっと以前から、神様はあなたのことを心に思い描いておりました。他の誰よりも先に、まず、神様があなたのことを考えておられたのです。今、あなたが息をしているということは、宿命によるものでも、何かの巡り合わせでも、運が良かったからでも、偶然の一致によるものでもありません。あなたが生きているのは、あなたを神様がお造りになったからなのです。

 聖書は言っています。主はわたしに対するご自分の目的を果たされるって。すごいですね。私たちを通して、神様が目的を果たすために私の存在があるんだという、ネ。
 神様は、あなたの体全体を事細に設計されました。神は私たちの人種、日本人であること、外国の方もいらっしゃいますが、肌の色、髪の毛の色、その他、すべての特徴を慎重に決定されました。神はそのみ心に従ってあなたの体をオーダーメイドで造られたのです。またそれと同時に、あなたの才能とユニークな人格をも決定されました。
 聖書は言っています。あなたはわたしの内側も外側を知っておられ、わたしの体を組み立てている骨々をみな御存知です。あなたはわたしの成り立ちを事細かく正確に知っておられ、どのように生まれてきたかをも知っておられます。

※詩篇 138:8 「主は、わたしに対するご自分の目的を果たされる。」(NIV)
※詩篇 139:15「神はあなたの体全体を事細かに設計されました。」(msg)
神はあなたの出生の秘密をも御存知です。

その次、面白いでしょう。リビング・バイブルで
 詩篇 136:16 「あなたは、わたしが生まれる前からわたしをご覧になっておられ、わたしがまだ呼吸を始めないうちに、わたしの生涯1日1日のスケジュールを造られました。そして、そのすべてがあなたの書物に記録されました。」
考え込んでしまうことが沢山あろうかと思いますね。

※母親があなたを身ごもるずっと以前から、神はあなたのことを心に思い描いておりました。(使徒行伝17:26)
 神はまた、その目的に従ってあなたがどこで生まれ、どこに住むのかを計画されました。あなたは偶然に今の人種、国籍になったのではありません。神はどんなにこまかい事がらでも成り行き任せにはなさいませんでした。神は一切のものをご自分の目的に従って計画されました。聖書によれば、一人の人からすべての国家を造り、それぞれの時代を定め、どこに彼らが住むのかについても正確に決められたのです。

※神はあなたの人生を勝手気ままに決定されたのではありません。

※母親があなたを身ごもるずっと以前から神はあなたのことを心に描いておりました。
 (使徒行伝 17:26)
これが、我々は神のうちに生き、動き、存在しているという。

 日本におりますと、日本は必ずしも単一民族ではないのですけれど、まるで単一民族であるかのごとくに日本人ばっかりでありますが、ちょっと外国を歩いてみますと、なんと人種が多いんだろうということで、人種の坩堝なんていう表現もありますぐらいにびっくりします。

 私はインドネシアのジャングルに伝道に行ったとき、本当に感謝しました。
私がそのジャングルの中に入ったら、オラウンターンが向こうから走ってきました。すご、く恐ろしい気持ちになりました。そして、あの、ながーい手で、私をダッコしてくれましたと言うか、私に飛びつきました。わたしは、もう、本当にびっくりたまげましたが、それがオラウンターンの歓迎の仕方でありましたけれど、ずーっとあそこにいなくてよかったなあと思っています。
 牧師の家に一晩泊まりました。寝ておられませんでした。
天井を見ますとヤモリがいっぱいケテケテ、ケテケテ笑っていました。時々落ちて来ると言うので、渥美先生に「あれ顔に落ちて来ることはありませんか?」と尋ねましたら、「落ちて来ると冷たくて気持ちがいいですよ」。いやなことをいうなと思ったら、ますます目が覚めてしまいました。
明かりのところをヒヨットみたら黒いサソリがいました。お尻をパット上げて、あれは、今スタートする直前でありました。私は驚きましたが、渥美先生がその辺の棒でひっぱ叩いてくださいました。(わー凄い!)。蛇が上がってこないように床は高くなっていました。
一晩中、居心地は非常に悪くありました。
「トイレはどうするんですか」と聞いたら、「水洗ですよ。」(いやー、ここに水洗があるのか?)川でやるということでありました。人々はみんな顔に刺青をしてありました。数年前まで人食い人種であったからであります。私はそこに生まれ育っていなかったことを本当に主に感謝いたしました。

※ 神様はあなたの人生を勝手気ままに決定されたのではありません。

たとえ、あなたの両親が親の務めを果たさずに無関心であったとしても、神は確かなご計画に基づいてあなたを造られました。(うわー)
時々私たちは親に、「何言ってんだい、親らしくせい!」とかなんかネエ。自分が子供らしくしてなくても、親らしくせい、もうちょっと面倒を見やがれ!、みたいなことを言ったり思ったりする若者がいるようでありますけれども、“無関心”、親がたとえ無関心、自分のことをよく理解してくれないとしても、神様は確かなご計画に基づいてあなたを造られました。

 アダムとエヴァが外に追い出されました。その時、赤ちゃんが生まれました。成人しました。そしてカインとアベルが兄弟喧嘩をしました。カインがアベルを殺してしまいました。地面の中に隠して知らんぷりをしておりました。誰も見ていないと思いました。それはそうだと思いますけれど。すると神様からお声がかかって、「カインよ、弟はどこへ行った。すると「何をおっしゃっているんですか。私は弟の番人ではありませんよ」、とですね。
人類の2番目の罪は、“無関心の罪”、“連帯感の喪失の罪”、俺知らんよ、とこういうことですよね。
このところに、“無関心”たとえ親が無関心であったとしても、私はあなたに対して関心を持ち続けているんですよということでありまして、素晴らしいと思いますね。

神様は気まぐれには何もなさいませんし、ましてや勘違いや間違いをなされているお方ではありません。神がお造りになったすべてのものには意味があります。あらゆる動植物を神はそのご計画に従ってお造りになり、またすべての人間をその目的に従ってデザインされました。神様があなたをお造りになったのは、ただ、神の愛によるのです。

聖書は言っております。
※エペソ1:4msg「地球の土台が据えられる遥か昔から、神は私たちを心にとどめ、私たちをご自分の愛の対象とされたのである」

 自殺したくなるような人が現実に日本では1年に3万人以上が死ぬわけでありますけれど、あなたは地球の土台が据えられる遥かむかしから、神様はわたしを、あなたを、心にとどめ、私たちをご自分の愛の対象とされたことを知ってください。
 信じる者は、アーメンと言いましょう。

 神はこれらのすべてのものをデタラメにではなく、驚くほどの精密さをもって計画されました。
 最近は横田めぐみさんのDNAの問題が出てまいりました。相手になった夫と言われる人物は韓国の少年が拉致されて、その子供の存在は明らかにされていなくても、その親の髪の毛でも、唾液でも、血液でも、また、めぐみさんのお嬢さんの髪の毛でも、唾液でも、血液でも、皮膚の一部でも、それですぐその関連が98%ぐらいですか、90何%かの確率でほぼそうであろうという。こんなに凄い世界があるということを、時代が進めば進むほど科学者たちが神様を信ずるはずだと、これがI am an accident という偶然?そうではない。I am not an accident わたしは偶然の存在ではないって、考えてみたら不思議ではありませんか。
 私がどうして大川家に生まれたのか、どうしてあなたが佐々木家なのか、どうしてあなたが久保田家なのか、誰も説明出来ないでしょう。

 神様があなたをお選びくださった。
神はこの地を形造られた。神はそれを無人島としてではなく、人を住まわせる場所として創造されました。
 なぜ、神はこのようなことまでされたのでしょうか。どうして、神はわざわざ私たちのためにこの宇宙を創造されたのでしょうか。その理由を最も適切に表現する言葉があります。それは、【愛】です。素晴らしいですね。愛の対象として私たちは選びだされたということであります。
 聖書は「神は愛である」と第1ヨハネ4章8節におっしゃっておられます。
神は愛を持っていると言っているのではありません。「神は愛そのもの」なのであります。
「愛」こそ神の性質の中心をなすものです。
神様の三位一体の交わりは完全な愛によって保たれています。三位一体が完璧ですから、人の愛を借りて補わなければならないために人間を造ったということではない。
これは哲学的に非常に難しい世界ですが、神は完全な方ですから、愛を対象とするものがいてはじめて満たされるわけでもなければ、愛されてはじめて完璧になるということではない。
 三位一体の神は完璧なお方。じゃー、どうして人間が必要か。それは愛するが故ですという。愛そのものの結果です、という哲学上これは非常に大切な表現です。しかし神はその愛を与えるためにあなたを造りたいと思われました。

 神は言っておられます。
イザヤ書46章3節から4節まで。(ncv) ご一緒に読みましょう。
「あなたが生まれたときから、わたしはずーっとあなたを導いてきた。あなたが誕生したときから、わたしはあなたの面倒をみてきた。あなたが年をとってからも私の態度は決して変わらない。あなたが白髪になってでもわたしはあなたの世話をしよう。私があなたを造ったのだから、私があなたの面倒をみよう。」おお、凄いですね。
 もう一度読んでみましょう。
「あなたが生まれたときから、私はずうっとあなたを導いてきた。(こっちは勝手気ままだったのにね)。あなたが誕生したときから、私はあなたの面倒をみてきた。(えー、面倒見たのは親だと思ったら、神様も面倒見てくださった。)あなたが年をとってからも私の態度は決して変わらない、って。あなたが老人だとか、あなたはもう役に立たないからとか、そんなこと全然関係ない、白髪になっても私はあなたのお世話をしましょう。私があなたを造ったのですから私が最後まで責任を持ちましょう。」
 私があなたの面倒を見ましょうという言葉をここで発見することができて、私は非常に感謝、感激であります。

 詩があります。読みましょう。ラッセル・ケルファアという人の詩です。

あなたは、ある理由のために存在しています。/あなたは細かく精密な計画の一部を担っている存在です。/あなたは尊い存在であり、しかもこの世に二つとないデザインで造られ、/神の目にかけがえのない女性、あるいは男性と呼ばれます。/あなたが今の姿でいるのには理由があります。/私たちの神に失敗はありません。/神はあなたを母の胎の中で育まれました。/あなたは神が望まれた通りの姿をしているのです。

あなたにその両親を選ばれたのは神です。/どう感じようとも、/あなたは神が望まれた通りにデザインされ、/主の証印を押されているのです。

あなたが受けたあの心の傷は決して軽くはありませんでした。/しかし、あなたがその傷に苦しむたびに神も涙を流しておられました。/やがてそれはあなたの心の糧となり、/
あなたは成長して神に似たものとされました。

あなたがあなたであるのには理由があります。/あなたは主の鞭によって整えられてきました。/あなたはありのままで愛されています。/そのような神がおられるのです。

ヨハネ13章を開きます。今日は受難週ですね。
 ヨハネによる福音書の13章と言うのはちょうどイエス様が2000年前の明日でしょうね、木曜日です、お弟子さんの足を洗われた。裏切り者のユダもまだそこにいたんですけれども、弟子の足を洗われたのですよね。上着を脱いで、腰をかがめて、弟子たちの足を洗って、ペテロの番まできて、ペテロが「私は結構です」というと、洗わせてくれないとあなたと私との関係はなくなりますよ、というところですね。

12節からを読みしてみましょう。
こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、再び席に戻って、彼らに言われた。「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そういうのは正しい。わたしはそのとおりである。
14節、しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗いあうべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。」

 実は、今日わたしは結構早く起きているものですから、午後、緊急の危険な人のお見舞いに行きました。真剣にお祈りしますと霊的なものが流れますので、非常に疲れを覚えて病院から帰ってきました。もう一度、説教の備えをして原稿を書いたり色々とあったのですけれど、ちょっと集会の前に15分でも休んだらいいだろうと思って横になりましたら幻を見ました。目はつぶっていたのですけれど、また、意識もはっきりしていたのですけれど「洗足」足を洗うという状況の幻でした。
 私は幼いときに、母によく足を洗ってもらいました。ホウレンソウを茹でますと茹で残りの湯が残ります。当時、お湯を沸かすということは大変なお仕事でありましたから、勿体なくて母はその茹で残りの湯で子供たちを呼んで足を洗ってくれました。その度に、このヨハネ13章の話をしてくれました。
 私の汚い足を洗いながら、「将来、人の足を洗う者になるんですよ。イエス様がそうしてくださったことを忘れてはいけないんですよ。わかりましたか?」「ワカッタ!ワカッタ!」とか言って、足についたホウレンソウの残りを食べたりなんかしたそんなことを思い起こしながら、「神様、これはどういう幻でしょうか?」、と幻なのか何か問答しながら、“足を洗うということは、あなたらしい歩き方をしなさい。そのために洗ってくださると言うのか。人の真似をして歩かなくてもよろしい。わたしは、あなたがあなたらしい歩き方をするように足を洗うんですよ”、というメッセージとして受け取りました。これは本当に感謝なメッセージです。
 その時の幻は、私が90歳になったときに教会員の方々の足を洗うという私の願いですけれど、今、この年齢だと女の人たちは足を洗ってもらうことを嫌うかもしれませんし、いやがるかもしれません。でも、90歳になったら、まぁ、そういうことが嫌いな人はしなくてもいいんですけれど、教会としてはいまだに洗足式が残っている教会も世界にはありますよ。私もやりたいなあと思っているのですよ。
 私が90歳になったときには、小崎先生だって柴田先生も岡村先生も、大体今の若い先生はみんな60代半ばですよ。今の私ぐらいの年齢になっちゃうんですよ。倉知先生なんか若ぶっていますけれどね、そのころは50代半ばですよ。
 わたくしが90歳まで生かされていたら、「神様、そういうチャンスを頂けませんでしょうか」、とか言って杖か何かついてねー。あるところ行って、みんなの足を1000人もいっぺんに洗うのは大変だから何週間にもわたって、その頃には、うちの若い先生たちは、もう、私に説教させてくれないで、「祝祷だけ!」とか言ってですねエ。えー、よくわかりませんけれど、わたくしは皆さんにキリスト者として良いお手本を示してやることが出来ませんでした。十分でありませんでしたので、イエス様の真似だけでもさせてください、とお願いして、わたしは横になって寝ているのに涙があふれて止めることが出来ませんでした。

 繰り返します。イエス様は私たちの足を洗ってくださる方、足を洗ってくださったお方。
私たちも、人の足を洗う者になるんですよ。聖書が私たちに教えておられる遺言です。

お祈りします。
 天のお父さま、具体的に水を持ってきて、タオルを持ってきて、人の足を洗うということはなかなか難しいやれないことであります。
人の汚い部分を指さして裁くことは誰でもが出来ますが、それを洗って差し上げるという愛の心をもって、清い心をもって人に触れ、教会の汚いところを、家庭の汚いところ、よごれている所、また、人の汚れ、けがれを指摘し裁くことは簡単ですけれど、イエス様はイスカリオテのユダに対してもどんな気持ちであったでしょうか。
 また、疑いぶかい、3年間神学校にいたような勉強をした使徒たちも、碌に成長しないで、キリスト様の心をわきまえないで嫉妬の論争をした、と今週の礼拝で勉強しました。妬みをもって「誰が1番か」なんていうような者たちでございます。
 でもイエス様のご愛は少しも変わらず、肉を裂き、血を流し、私たちの汚れを洗ってくださるイエス様が、あなたがたもそうなるように手本を示したんですよ。
 牧者として35年、この群れに仕えておりますけれど十分なお仕事の出来ない僕(しもべ)をお許しくださり、イエス様が私たちのお手本でありますから、イエス様に今顔を向けて「あなたがたもそのようにしなさい」という命令にお従いできるよう、汚れた、高慢な、自己中心で我が儘な私たちの心を清めて、聖別して主に仕える者となるように助けてください。
神学校に入学した新鮮な1年生に触れて、証を聴いて感動しました。
 みんな職場や賜物は違いましても、同じスピリットでイエス様にお従いできる群れでありますように。こんな素晴らしい教会をくださった主にお礼を申しあげます。どうぞ、サタンの奴が麦のようにふるいにかけることを願って許された、と今週勉強にいたしました。でも、イエス様が祈ってくださるから「立ち直ったならば人を力づけてあげなさい」、とそこまで成長するようにこの群れを強め支えてくださいますよう、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。