2006年4月5日祈祷会 メッセージ

             ※説教のレジュメ(要約)はこちら

第1章 すべては神から始まる。   コロサイ書1の16 

わたくしは青山学院大学の卒業生ですが、大学時代に各ミッションスクールの学長会議というのがありました。
 たまたま青山でなされたのですが、その日の昼休みに、同志社大学の総長が話された内容です。
同志社の4年生が同志社出身の社長さんのところに、就職をするために最後の面接試験を受ける。懐かしさのあまり、「君、同志社の出身だねぇ。新島襄先生をどう思っているかね」とこう質問したら、その学生は4年間も学校に行っていたのに、新島襄という方が分からなかった。すなわち、創立者の銅像も建っているのに、どうしちゃったのってなものでございますよ。
社長様の時代と違って「何学部の先生でしょうか」って言ったものですから、社長はカンカンに怒って学長に電話を入れてきて、「学校は何を教えているんだ」とこういうことでありました。
 すると隣りに座っておられた関西学院大学、これは青山の姉妹校でメソジストの学校でありますけれど「うちはもっとひどい、学内を歩いている学生を呼びとめて『君、この学校は誰が建てたか知ってるかね』と聞いたら『はい、竹中工務店です!』と言った」そうで、うちも同じようなもんですよと言われた。ジョン・ウエスレイによって創られた当時のメソジストの状況を知らない。
  
 わたしは今回、人生を導く「五つの目的」という書物ですけれど、これを皆さんに噛み砕いて大川流にご説明申しあげようと思っているわけです。私たちが気をつけておかなければいけないことは、この教会が恵まれている教会ですと、他者のことが分からないまま過ごしてしまう。
 聖霊カリスマの恵みが強い教会は、賛美歌が全くわからないという。反対の場合もありますよ。賛美歌が強い教会は、私たちが歌うプレイズとかワーシップソングが全くわからない。
これもまた困るものであります。

 今日はよその教会の方が電話をかけてきて幾つも質問してきました。その質問の一つに「神さまはどなたが造られたのですか」という。未信者の質問でしたらちっとも混乱しませんけれども、クリスチャンが、神はどなたが造られたのですか、なんていう質問をしてきたら、ほんとに恥ずかしいことですね。
 私たちは案外と年数は経っていても、知らないことというのが沢山あろうかと思います。
その一つに、この本は全米で1500万部売れた本であります。40カ国以上に翻訳されたものでありますが、これを取り上げるのは結構大変なのですよ。でも、知らないまま過ごして外国に行ったとき、また、他の教会の方とお話をしたときにリック・ウオーレン先生の名前が分からない。「人生を導く『五つの目的』」が分からない。それではちょっと恥ずかしいし、指導者としてわたしも申し訳ないと思いますので、わたしはこれを取り上げたい、とそう思っているのであります。
 これは40章に分かれているものであります。わたくしは、この40に分かれておりますものを、40回にわたってお話を申しあげようっとしているところであります。

※40日間・・・ノア、モ-セ、モ-セのスパイ、ダビデ、エリヤ、ニネベ、主イエス様、弟子たち。 
 ノアは、40日の雨を通して変えられました。モーセの人生は、シナイ山で40日によって変えられました。モーセが遣わしたスパイたちは、約束の地で40日によって変えられました。ダビデは、ゴリヤテの40日にわたる神への挑戦を通して変えられました。エリヤは、40日の間神に食事を与えられ、力づけられたことによって変えられました。ニネベの町の民は、皆悔い改めるように、と神が40日の猶予を与えられたことによって変えられました。主イエス様は、ご存知、荒野で40日間その中で力を与えられました。お弟子さんたちは、イエス様が復活された後、40日にわたって備えをしてその中で変えられました。

 これから40日間であなたの人生は変わるのです、というそういう挑戦であるわけであります。
 私たちは40日ではなくて40回にわたってわたしたちの霊性が、必ずアップグレードされると考えて私は挑戦するわけであります。
正直申しあげますと、40日間、40回も連続してやることはしんどいので、二つずつぐらいやろうかと思って取り組んだのですが、この書物のはじめに書いてありました。
もし、あなたがこの書物を読んでも変えられないとするならば、その理由はいくつかあります。1章ずつやろうとしないで、すぐに、先を進もうとするから結局はダメなのです、と書いてありますので、私は2・3章いっぺんにまとめて説明しようと思ったのですけれど、先手を打って説明が書いてあるので1章ずつしようと思っているわけであります。

 わたしは1体何のために生きているのだろうか、ということに対する説明からスタートするのであります。

第1章 すべては、神から始まる。  
コロサイ書1の16
 「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威を、みなみ子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、み子によって造られ、み子のために造られたのである。」

み子は、勿論イエス・キリスト様でありますが、すべてのものがキリストのうちに始まり、キリストの中にその目的を見いだすのてす、とメッセージバイブルは訳しているというのであります。

※ 人生はあなたが中心ではありません。

 人生はあなたが中心ではない、ということからスタートを切るわけであります。
人生の目的は、個人的な達成感、心の安らぎ、幸福といったものよりはるかに偉大なものです。
チョット驚くような大げさな表現でありますが、大げさではありません。
繰り返します。あなたの家庭や、職業、個人的な夢や野心などよりも、もっと重要な偉大なものがあなたの人生の目的です。
自分がなぜこの地上に存在しているかを知りたければ、まず、神さまからスタートしなければなりません。

※ あなたは神の目的に従って、しかもその目的のために生まれたのです。

信じられないような発言、でも、聖書が教えるメッセージをここに見つけます。
人生の目的というテーマは、何千年にもわたって、文学者が、哲学者が、芸術家たちが人生の目的は一体何であろうと考えつづけてきましたが、一向にさっぱりわからない。
何故でありますならば、自分から出発しておりますと、わたしは何になりたいのか、わたしは何をすべきなのか、わたしの願いは、わたしの将来は、わたしの人生は、曖昧無為で人生を考えようとする質問には、結局は答えはでてこないということです。

※ 自己実現でなく、神実現!
自分を中心にして考えていても、人生の目的は決して見えてこないんだということ。

わたしがたびたびこの教会で申しあげていますように、私たちは、自己実現ではなく神実現という、自分の野望が達成されるための目的、人生ではなくて、神さまが、私たちに対して考えておられるあの神さまが、私たちのこのちっぽけな私のことをお考えて下さって、遠大な、壮大な、ご計画の一端を担わせようとして、私たちをお選び下さっておられるということ。わたしが神に何を望んでいるかではなくて、神があなたに、神がわたしに何を望んでいるかということ。
神さまから何かをいただくという御利益主義ではなくて、ウエンデル・スミス先生の『繁栄の目的』の書物の中に書かれてあるように明確な目的があるということ。
人生とは、神の目的のために自分自身を用いていただくことであって、神を自分の目的のために利用することではないんだと言うことです。

 少し前からわたしが読んでおります書物の中に、シュバイッツアー博士のことが書いてありまして、いつかこれを説明しようと思っていたのですが、わたしはシュバイッツアーに惚れ込んでいる部分と、シュバイッツアーに失望している部分の両方がありまして、それはどうしてかって言いますと、エドガワ・パーマンスというお医者様の書いた「シュバイッツアーとの対話」という書物の中に、こういう文章が書かれております。
 ご存知のように、シュバイッツアーは世界的なと言ってもいい程にすごい有名なパイプオルガニストでありますが、アフリカのジャングルに入ったらオルガンが引けなくなるのだという、長い間練習してきたものを放棄しなければならないことが待っていたわけです。彼は大変な聖書学者であり、神学者でありますが、それも、失礼ではありますがアフリカの未開地の人たちには何の役にも立たない現実でありました。
彼は大変な学者であるばかりでなく、音楽家であって、そしてまたお医者様であるわけでありまが、彼はすべてのものを主のみ前によくお捧げしたな、と思えるような内容であります。
シュバイッツアーは、原始林のジャングルの聖者というイメージか、それを裏切られた失望か、どちらかに分かれるようだが、このバーマンという人物は実に暖かく、面白気に次のように表現しています。
シュバイッツアーは、情け深くありながら情け容赦がなく、単純でありながら複雑、頑固一徹でありながら妥協的、大胆でありながら細心、しみったれでありながらも気前がよく、おせっかいでありながら寛大、情に厚いのに冷淡、かんしゃくを起こすくせに平静、細心でありながら厚顔、そしてなによりも、多くの不完全さを備えた完全主義者であった。
わたしは面白くてこれを何度も読んでいるわけであります。
神さまの栄光のために用いられるようとする者の人生の、一つのありよう、あり方という風に見ることができるかと思います。

※成功か、栄光か。
 私たちは祈祷会のたびに、「することなすこと、みな成功します」と宣言しますけれど、少々わたくしはインターネットを見ておられる牧師たちにお叱りを受けるかな?「クリスチャンは成功のための人生を送っているわけではない」、と。
存じあげております。しかし、詩編1篇3節のリビングバイブルには、することなすこと、みな成功します、とありました。
ビジネスマンの人たちは成功しなければなりません。
私たちは成功か栄光かといえば、それは、神の栄光のために生きているのは当たり前でありますけれど、この地上における成功を通しも栄光を現すことができるんだ。ある時は失敗を通しでも栄光を現すこともできるんだ。成功か栄光かといえば栄光に決まっておりますが、私たちはすべての出来事が神の栄光のために成功する。成功させる。これがわたしが考えている出来事であることを知っていただきたいと思うのであります。

※マタイ16章25節 
 「自己啓発は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそが、自分を(本当の自分を)発見する唯一の道であり、それがわたしの方法である。」

メッセージバイブル訳でありますが、“自己啓発”とは、すごい訳文ですね。自己啓発は、実際のところ助けにはならない。自己啓発の書物はどの本屋さんにも100種類ぐらい置いてあるでしょう。自己犠牲こそが、自分を、本当の自分を発見する唯一の道であり、それがわたしの方法である。
 マタイ16章25節と言うのは「たとえ人が全世界を設けても自分のいのちを失ったら何の得になろうか」という。
 フランシスコ・ザビエルが、このみ言葉に捕らえられた。
人が全世界を手中に入れたとしても、true self本当の自分を失ったらあなたは一体何のために今日まで生きてきたのですか。何の得になろうか。自分のいのちを救おうと思うものはそれを失い、自分のいのちを捧げるものはそれを得るのである、と聖書は明確に教えているのであります。これはイエスさまが人類に与えたところの重要なメッセージ。もし、あなたがわたしに従ってきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を担いでわたしに従ってきなさい、というのがメッセージであります。

※あなたは神によって、そして神のために造られました。
 このことが理解できるまで、人生は決して意味を持つことは無いでしょう。

 私たちの人生のため一体どうしたら目的を理解することができるか。
第1に考えられることは、思索すること。
 よく考えて、これがわたしの人生の最善だと考える、という考え方があります。
しかしながら皆様、どんなに考えても自分からスタートしたら、結論は、本物の結論ではありません。が、神さまに顔をお向けになりますなら、すなわち、もっと良い方法は、啓示による方法、レボリューション啓示、聖書の中からその結論を見つけるということ。
 ある発明の目的を知るために最も簡単な方法は、その発案者に直接たずねることです。人生の目的を発見する方法も同様です。神にたずねるのです。

 時計屋さんに行って時計を作られた方に、この時計の目的は一体何ですかと質問したら、正しく時を刻むためです、というでしょう。手につけていればいいという訳ではないでしょう。
 私たちは、人生の目的は何ですか、と神さまに直接質問したらよろしいでしょう、ということであります。

※エペソ1章11節msg
 「キリストにあってのみ、私たちは、自分が何者であり、何のために生きているかを知ることができるのです。私たちが最初にキリストについて聞き、希望を持つようになる遥か昔から・・わたしたちがイエス様のことを知るはるか昔から・・主は、私たちに目を留め、私たちに輝かしい生き方を用意しておられました。・・随分、時間がかかっちゃたね・・すなわち、あらゆる事柄の中に、また、すべての人の中に働いておられる主の大いなる目的の一部を私たちが担うようにと計画しておられるのです。」  
 最後の2行、すなわち、あらゆる事柄の中に、またすべての人の中に働いておられる主の大いなる目的の一部を私たちが担うようにと、主の大いなる目的の一部を私たちが担うように、と計画しておられることを知りなさい、ということであります。

 偉大なヨーロッパのキャセドラルと言いましょうか大聖堂を、何十年もかけて造っております。
「あんた何やっているの?」「見ればわかるだろう。レンガ積んでいるんだよ。」
「あんた何やっているの?」「出稼ぎ、出稼ぎ。稼いでいるの!」
「あんた何やっているのですか?」「見たらわかるでしょ、レンガを積んでいますけれど、これは何十年もの後に立派な礼拝堂ができて、その一部をわたしが担っています。そしてやがてここに、何千何万という人が入って来て、涙を流して罪を悔い改め、そして神の栄光を賛美するその場所になる、その一部をわたしは担当させていただいております」。

 愛する兄弟姉妹、あなたがちょうどお城でありますならば、大きな岩も必要でしょう。
大阪城に行ったことがありますか。大阪城の岩は、わざわざ、朝鮮半島の方から加藤清正が運んできたという、どでっかい石が置いてありますね。しかし、そのわきに穴を埋めるかのように小さな石が入っておりますね。あの石垣の中を見てみますならば、たくさんの土があるでしょう。たくさんの石があるでしょう。砂利があるでしょう。
 もし、これらに人格がありますならば、「わたしは、この立派なお城を築く、どんな敵がやってきても負けない不動の城を築くための一つの石ですよ。削られました。こすられました。けれど、わたしはその一部を担っているのですよ」という。

 愛する兄弟姉妹、すべての人は主の大いなる目的の一部を担うように、神さまが計画していらっしゃるのであります。

 1番目:あなたのアイデンティティーと人生の目的はイエス・キリストとの個人的な関係を通して見いだされる。

自分がどういうふうに考えたとしてもわからないでしょうが、「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選んだのです。行って実を結びその実がいつまでも残るように。」

 今日、小林詩音伝道師が、賛美のリードをなさいましたけれど、この祈祷会の聖餐式の時に何でこんな歌を歌うのか、♪“空を見ても感謝、山を見ても感謝、何を見ても感謝・・”・・これは、わたくしが作詞・作曲した歌ですが・・ちょっと、もっとよく考えてから歌を選びなさい、と後でお説教してあげようかなと考えながら、じーっと歌っておりますときに、あー詩音伝道師にとっては、今、何を見ても感謝なのだ。なぜだと思います?
神さまにお従いしているから、山を見ても感謝。空を見ても感謝。花を見ても感謝。何がなくても感謝。すべてのものは感謝。こんなわたしをお選びくださった神様に感謝、感謝、感謝。感謝、感謝、感謝。
私たちはすべての者がそうであるべきであろうと思います。

2番目:神は、あなたが生まれる前から、あなたのことを考えておられました。
 うそー、と言いたくなっちゃいますよね。

3番目:あなたの人生の目的は測り知れないほど遠大な、宇宙大の目的と合致するものです。神によってデザインされたこの目的は、永遠の目的です。
 正直申しあげますよ。わたしは、伝道者として40年経ちますけれど、この世界を理解するのにとってもじゃないけれど時間がかかりました。なぜならば、わたしは13歳の時に救われて献身して50年たちますが、献身したのですけれど、高校受験に失敗して、わたしの人生は真っ暗になってしまいました。なぜ?。自分が勉強をしなかったのだから、自分の播いたものを刈り取ったのですけれど、自分の将来に対する夢というものは、まったくもって持つことはできませんでした。そんな説教をしてくれる人は一人もおりませんでした。だから、寂しい少年、青年時代を過ごしました。もうダメだ自分は。自分を見れば脳なしだ、ということがよく分かる。よく言いますね、自分を見て失望して、人を見て絶望する。イエス様を見たら希望だとは言いますけれど、そしてまた、わたしは神さまに忠実にご奉仕する姿勢はもっておりましたけれど、希望はなんにもありませんでした。しかし、今になってみると、50年も経ってから、馬鹿だなあ僕は、今頃になって神様のからくりが分かってきました。
天に行きましたら、なぜうちの副牧師は50歳で死んじゃったのか、なぜあの人は、ああゆうような遠回りをしたのか、という人が沢山おりますけれど、神様は無駄なようなことは絶対なさらない。測り知れないほど遠大な、宇宙大の目的と合致するものです。神によってデザインされたこの目的は、永遠の目的です。

 松井やすこさんという方がわたしにFAXをくださって、「わたしは大川先生と同じように同級生にたくさんの本を70冊も配りましたが、先生と同じように同窓生が救われるように祈って下さい」ということです。
今朝、堀切さんという方から電話がかかってきました。聖学院時代の、あまり親しくはなかったただのクラスのメンバーでしたけれど、彼がアメリカに出張しているときに、私たちの高木先生がそのころ責任者として牧会しておりました教会に来て下さったのであります。彼は、「今回、大川君に・・同級生だからね・・“君”呼びで呼ばれるのは久しぶりですけれど、大川君に洗礼を授けてもらいたいんだ。どうしたらいいのかね」、と言いますので、洗礼準備のお勉強してほしい、と言って必要なものを送ったつもりでいたのですが、忘れてしまっていたので向こうから電話してきて、「手紙を読むと入門講座の3本と、洗礼準備会のDVDが送られて来ると書いてあったけど、入ってなかったから送ってよ」ということでした。封筒の中に入れられなかったおかげで、彼の気持ちを確認することができて、今日は非常にうれしかったのであります。

 兄弟姉妹よく聴いてください。
わたくしが13歳の時、神様にこの身を捧げます、と献身してそのまま順調であったわけではない。これはわたしの見る目でありますが、神様の目からは順調だったのですね。わたくしが造られるために、挫折の経験をさせ、少年でありながら、血液を売りに行くような、そういう心をもち、そして、50年たって同級生が、大川君、僕に洗礼を授けて欲しいんだけど、と言えるような神様の遠大なるご計画の中に、それは、「お捧げします」、と申し上げたその時からの神様のからくりですよ。
 「自己犠牲」いや、自己犠牲って本に書いてありますけれど、僕は犠牲にするようなものは何も思ってないんですよ。ただお捧げする。五つのパンと、2匹の魚が、イエス様の手の中に握り入れられたときに、あの決断があったから神様は用いられたのですよ。どうしようか、ひっこめようか、恥ずかしいからやめようか・・・。
お捧げし続けたことの素晴らしさ。ロバの顎骨、わたくしの存在。こんなものが用いられるとは、誰も思わなかったけれど、主の手に握られたらそれが用いられた、ということ。

 ボプ・ピアス先生はもうお亡くなりになりましたけれど、クリスチャンでありながら信仰から離れていて、どこかの路上で悪さをしながら煙草に火をつけていた。そのそばを通りかかった人が先生の顔をじっと見て「あなたボプ・ピアス先生と違いますか?わたしはあなたの説教を通して救われた者です」と声をかけた。彼はその時、主のみ前に悔い改めて、そして、もう一度立ち直ってワールドビジョンという団体を創りました。
彼は日本に来て、30日間連続の説教をしました。ワールドビジョンは彼が死んでも、今、世界中どこの国にも入り込んで伝道しています。貧しい人を助けています。孤児院で彼のスピリットを持った人達が用いられております。
どうしてのですか?。自分の人生をお捧げしたから彼の人生は変えられて、神様によって用いられたのであります。

 兄弟姉妹、今日立ち上がって献身する者を求めます。
ご奉仕をする時に重要なことは、自分の趣味とか、自分の才能とか、学歴とか、賜物とかそれを用いてくださいということではありません。
 神様は、その人の人生をもう一度、聖別します。清く整えて主の栄光のために用いてくださいます。
 わがままな人生、自己中心ではなく、神様に振り回されることを良しとする。わたしもずいぶん振り回されました。神様に自由に用いていただく人生。神様に手入れしていただく人生。これが献身の人生であります。
 みなさん、イエス様は小さなパンになってくださいました。その生涯は、馬小屋で生まれてくださいました。飼い葉桶の中で馬に食われちゃうかもしれない、小さな赤ちゃんとしてこの地上に来てくださいました。謙遜の極みであります。
 パンをちぎって、これがわたしの肉体、食べなさいとおっしゃってくださいました。人間に食べられるために謙遜になって、小さくなって、自分の本当の姿というのはどこにいたのかわからない。私たちのためにお捧げしてくださったその人生でありました。
 
 あなたも主にお捧げするならば、あなたの人生は変えられます。
 申し上げておきますが、わたしの祈りと夢は、教会員全員が献身者になることであります。当たり前のことであります。献身の生涯を送るということは、あなたの生涯はあと1年かもしれない。
今日、元さんの同級生が亡くなったと聞きましたが本当に辛いね。教会のために少し役に立った人でありますけど、わたしの同級生も、もう、何人も死んでおりますが、あなたの人生あと10年か、20年か、30年か。

 若い兄弟姉妹、主の栄光のために、もし、お捧げするならば、神様はそれをじっと見て遠回りをなさるかもしれないけれど、あなたも削られたり、こすられたり、いろいろあるかもしれないけれど、その捧げた時点からすでに永遠の宇宙的な壮大な計画の中にあなたの身を置くことが許されているという。何とも申し訳ないような、顎骨のように捨てられたって文句の言えないこの者を、その泥の中から、ほこりの中から、社会のきたない罪のよごれのあるそのところから、神様が聖別してくださって、そしてそれを持ち上げてくださって、用いられようとしていてくださいます。
 あなたはもう引退なさっていらっしゃいますか?NO,献身なさったら良いですよ。
わたしの父は死の直前まで用いられました。僕もそういう生き方をしたいと思います。
 あなたが、もし、わたくしはこの生涯を主に捧げますと献身を約束されたら、どういう形で神様が用いられるか、講壇で説教することだけが全てではないでしょう。どこかの一部であるかもしれないけれど、わたしはあなたの目的のためにこの身をお捧げします。用いてくださいと申しあげますならば、あなたの人生に新しいことが起こるでしょう。

 わたしは、今、この身を、この人生を主の栄光のために捧げます。そう宣言するもの、告白するものは、大きな声でアーメン言いましょう。アーメン。

お祈りします。
 天のお父様。わたしは右も左も本当にわからないときに、ただ、イエス様のご愛に感動して献身した50年前の11月6日、献身してよかったなーと悔いのない人生を送っております。神様、教会に連なるすべての者がその信仰に於いては私たちの三畑長老もそうでした。彼は洋服屋さんでした。牧師ではありませんでしたけれど、いつも口に告白して「わたしは献身者です」、と言っておられました。神様はそれを見て用いてくださいました。祝福してくださいました。私たちは今日この身を主に捧げます。用いてください。お願いします。わたしの人生を主に捧げます。わたしを用いてください。お願いします。
 人生の目的は、神の栄光の遠大な壮大なご計画の中に、母の胎を出でざる先より、こんな者を選んでくださいました。私たちの罪のゆえに、わがままのゆえにチョットの遠回りをしましたけれど、イエス様はそのマイナスさえも、ほこりを取って清めて、もう一度、きたないからお前なんか握らないなどは言わないで、それを改めて握り返して、聖別してわれらを用いてくださることのゆえに、主の慈悲深さ、哀れみ深さのゆえに心から感謝申しあげ、主にお従いする決断をします。
イエス様、私たちを用いてください。この群れもあなたのものでございます。イエス様のお名前によって感謝してお祈り申し上げます。アーメン。