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2006年 12月 06日祈祷会メッセージ |
第20章 「壊れてしまった交わりを回復する」
「神はキリストによって私たちの関係を回復させる働きを私たちに与えてくださったのです」 (Uコリント 5:18 GWT) 今日は第20章で「壊れてしまった交わりを回復する」というテーマであります。 倉知先生の作られた曲の中で大ヒットしておりますのは「土の器」というのがありますね。 「土の器」私たちは土の器、離せば落ちる、落ちれば壊れてしまうようなもの、そういうような器の中にイエス様が住んで下さるということであります。 ワシントンDCから上原先生がお見えになりまして、メッセージを先週して下さったのですけれども、先生は19年前に私が、この教会がしたことに対する感動をまだ覚えておられて、話すたびに目をウルウルさせておられるのであります。 19年前、先生の教会が困難の極みの中にあった時に、私が、教会が幾ばくかの献金を定期的に送りますということで、早速、速達でお送りしました。「帰宅して玄関のドアを開けたところそこに速達が置いてあって本当に感動した」とお話して下さいました。私にとりましてそんなことを何度か言われますと、だんだんと思い起こして来るのですけれど、その当時、福田リカさんという人がワシントンDCから帰ってきまして、上原先生の教会を応援してほしいと言われたのですけれど、この姉妹は帰国したらさっさと転出して他所の教会へ行ってしまった人なのですよ。 そんな人の申し出を受けることもないでしょうと思う人もいるでしょうし、私もチョット半分、いや、90%くらい、そんな女の子の言うことを聞いて私の知らないワシントンの教会を応援する必要もなかろうと思わないわけではありませんでした。ちょっと自分の頭の中をそんな思いがスーッと通り過ぎました。しかし、反対にですねぇ、だからこそ応援した方が良いのではないかというお声との葛藤があったのですよね。 ナーマン大将が自分の召使いでしょうか、女中さんでしょうか、若いヘブライ人の女の子に「イスラエルの国では凄いことがなされていて、エリシャ先生のところに行けば凄いことがなされますよ」とこんな小娘の言うことを聞いてなるものかって普通だったら思うのが本当であるかもしれませんけれど、ナーマン大将がとことんまで従順したことによって、あの奇跡を体験することができたわけであります。 私は福田さんが小娘とは思っておりません。立派なお方でありますけれど、この教会をさっさと離れていった人の言うことを聞くことはないんじゃないかなって思ったことと、応援した方が良いよ、これはテストだよ、というようなところがあって、お手紙を書いて献金をお送りしたことが、19年間もその関係を保ち祝福された関係になりました。 なぜかというと、私の内側にはこの先生は改革派の神学校を卒業して、長老系の教会の牧師でいらっしゃいます。私の青年時代のホーリネスの流れは、改革派と言うのは、カルビニズムと言って16世紀の宗教改革者ですから、その流れの中にいる人とは異端のように扱っていた時代があるのですよ。お粗末ですね。無知から来るものだと思いますけれども。 ですから私の中には、その関係が破れる前から、もう、最初から破れていたわけです。破れたことしか私は聞いていないのですから、そういうとろに応援をするというのは私にとっては本当に考えることが出来ない、神学的な破れがあったわけです。神様はそういうことを通して私をテストしてくださって、一つ一つ聖霊様が喜んで下さった内容であると、今日、お証を申しあげることができると思います。 「神はキリストによって私たちとの関係を回復させる働きを私たちに与えて下さったのです」 (Uコリント 5:18 GWT) 皆様、ビジネスをやっている人で人間関係のうまく出来ない人は、絶対に成功出来ません。牧師もそうですが、クリスチャンも人間関係をどういうふうにするかということは、重要な、重要な、とても重要なテーマであります。 ◎人間関係は、どんな場合でも回復させるに値するものです。 あきらめては決していけない。私たちはその破れた関係を繕う努力をあきらめてはいけません。 ◎人生とは、いかに人を愛するかを学ぶことに尽きる。 これも凄いですね。人生の目的とは一体何であるか。神のみ名をあがめ、神を喜ぶことにあると言いますけれども、その中味はいったい何であるか。それは人を愛するということを学ぶ事に尽きるというのです。 ○「和解の務め」(Uコリント 5:18)(ピリピ U:1,2 Meg) 〇 他の人と仲良くしていく能力こそが、霊的成熟度を表す=『和解力』 (恥を知りなさい。―)(Tコリント6:5 TEV) (互いに仲良くしなければなりません)(TコリントT:10 Msg) 「和解の務め」と書きましたが、勿論、この本をそのまま引用しているわけではない、というところがいっぱいあります。 第Uコリント人への手紙の第5章17節は、誰でもキリストにあるならば、古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しい・・と、こちらの方が有名なのですけれども、ところが、内容的には18節は凄い内容なのですよ。20節までをお読みしてみたいと思います。 第Uコリント人への手紙の5章18節から20節まで。ご一緒しましょう。 18節、しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたくしたちに授けて下さった。 19節、すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたくしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 20節、神がわたくしたちを通して勧めをなさるのであるから、わたくしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい。アーメン。 和解の福音をゆだねられている。18節には和解の務めを授けて下さった。 新共同訳聖書の19節は、和解の言葉を、あとでこのテーマが出てまいりますが、言葉も重要ですよという。20節も新共同訳聖書は、キリストに代わってお願いします。神と和解させて頂きなさい。これは素晴らしい表現であると思われますね。 他の人と仲良くしていただく能力、力こそが、霊的な成熟度を表す=『和解力』 パウロ先生はクリスチャンでも2種類あげておられて、 @肉のクリスチャン、と、A霊のクリスチャン。こう言う分け方をしていらっしゃいます。 ここでは霊的な成熟度。ここまで パウロはエペソ人への手紙の中で、愛にあって成長する。育てられて、そして、頭なるとキリストに達するという。 クリスチャンのスタンダードと言いましょうか、標準は非常に高い。だってキリストまで引き上げられていくということでありますが、霊的な成熟度を表すという。 「和解力」、と言うのは私が造った言葉ですけれど、斎藤孝さんに言わせてみれば、現代的な表現からいうと和解力というふうに言えるであろうと思われますね。 クリスチャンはそういう力を神様から与えられてその務めを果たすことができるという。 あの人が間に立つと何かうまくいくという。 アブラハム会とかナオミ会の人たち、みんな若いでしょう? 和解の務めが果たされているという。これは上品なジョークでね。自分でほめてもしょうがないけれど。 ピリピ2章、1節、2節は英語のMsg、メッセージバイブルです。 「もし、キリストに従うことによって何かを受け、また神の愛によってあなたがたの人生が変えられ、そして聖霊との交わりにあずかっていることに何か意味があるなら・・・互いに一致を保ち、愛し合い、深い友情を築きあげなさい」アーメン。 深い友情を築きあげなさいというこの表現。友達になるということには努力が必要でありまして、霊的な成熟度というものが問われている事を知らなければなりません。 江戸時代の狂歌で、「我が衣、破れ衣になりにけり。やれ、さしてくれ、やれ、ついでくれ。」という。 どうしてこんな言葉を覚えているかというと、わたくし路傍伝道をやっていた時代に、こういう言葉を真剣に何だかよくわからなかったけれど覚えた時代があるのですよ。40年も前にね。 私の衣は破れちゃった。だから、やれ、刺してくれ。針を刺してくれ。やれ、破れたからついでくれ、とこういうんです。 この意味は、お酒で私の人生はボロボロになっちゃったけれど、おっとっとっとっと、やれ、さしてくれ。ついでくれ、という。これを狂歌という風に言うわけでありますけれど、私たちの人生、破れているところをイエス様に繕って頂くという。 イザヤ書の58章の12節には、私たちを「破れを繕う者」と呼ばれるという預言的な言葉があります。 ロバート・シューラー先生は、自分はそういう人生を送るために神様からcalling 召されているのであるという。 あなたが入ると破れがもっと大きくなるというのでは困りますね。破れを広げるものと呼ばれるであろう。こんな預言が当たちゃったと言うのでは困ると思いますね。 「私たちは破れを繕う者です。」 ご一緒に言いましょう。「私たちは破れを繕う者です!」 それは私の心の中の破れを神様に繕っていただいて、先ず神様との関係の破れを繕って頂くという。人間の関係の破れを繕って頂くだけではなくて、教会と教会との破れを繕って頂くだけではなくて、国と国との破れを繕うということが、最大級の大きな務めであります。 我々は政治家ではないんですけれども、北朝鮮や中国のためにわたくしが毎日お祈りしているのは破れが私たちの間にはあるわけでして、その関係を繕うということは政治家たちが出来ない仕事を必ずさせて頂くのだという。民間人と言いましょうか、商売人と言いましょうか、経済人と言いましょうか、それだけではありません。クリスチャンの果たすべき務めであると思います。破れをを繕ろう者ということ、これはとても意味のあることです。 高木國男先生が元いた教会の誰かさんが亡くなって、大変お世話になった人ですが葬儀に行ってもよろしいでしょうかとおっしゃって、勿論、どうぞいらして下さいと申しました。 もしかするとその関係が、まだどこかに破れているかもしれない人の場合には、何をおめおめやって来たかと思われるかもしれないけれども、そういうことに対する努力をてらわないでやるということもとても重要なことであります。その意味において今日のメッセージは、大変内容のあるものであると思います。 〈恥を知りなさい―〉(Tコリント6:5 TEV) 〈互いに仲良くしなければなりません〉(第Tコリント 1:10 Msg) 第Tコリント6:5 (TEV) 「恥を知りなさい。(大胆な訳ですねぇー)クリスチャン同士の争いを仲裁できる賢い人が、あなたがたの中には一人もいないのですか。」 みっともない恥を知りなさい。 こういう訳文なのですね。 第Tコリント 1:10 (Msg)」 「私はこのことを心から勧めます。あなたがたは互いに仲良くしなければなりません。」 凄い訳ですねぇー。互いに仲良くしなければなりませんという。 間に立つことを通してAとBとの関係を繕うことによって、神の国はどこにありますか? In the middle of you あなたがたの間に神の国が造られていくという。 新渡戸稲造先生は500円のお札のモデルになったお方でいらっしゃいますが、ご存知クリスチャンのお方でいらっしゃいます。今教育基本法が改正されようとして日本国中が大騒ぎしているわけでありますけれども、元の教育基本法と言うのは東大の総長をしておられた南原繁先生がおつくりになっていらっしゃるようですね。そのあとの矢内原忠雄先生はクリスチャンでありまして、この新渡戸稲造先生もそうでした。彼は太平洋の橋になりたいという願いをもっておられて、あの時代に国連のお仕事をしておられましたが、凄いビジョンであると思いますね。 ◎人間関係を回復させるためには、(これも凄い訳文です) 「互いに円満な人間関係を築くように召されました」(Uコリント5:18 Msg) 何か、さっき読んだばかりでありますけれども、和解の務めを果たしなさい。和解の務めを私たちは授けてもらっています、と言うのをメッセージバイブルでは、「互いに円満な人間関係を築くように私たちは召されております」と訳しています。 私たちが神様からクリスチャンとして召し出されたことは、あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選びました。行って実を結び、その実がいつまでも残るように。私の名前で祈る祈りは何でもお父様に聞いて頂ける、そのことのために私は敢えてあなたを、あなたを選びました。 では、実際問題として祈る祈り方は?「互いに円満な人間関係を築くように召されております。」 私の少年時代、青年時代のこういう解釈は、ただ魂が救われるということ以外に、物ごとを考えられないような流れの中にいましたが、今はもっとワイドに神様の働きというのはこの面も重要で、人間関係の円満性ということを私たちは重要なテーマとしなければならないということであります。 じゃー、どういうふうにしたら良いかということを、リック・ウオレン先生は七つもあげておりまして、示された通りにしたいと思います。 1.問題の相手と話す前に神と話すこと。(ピリピ4:6,7) 「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」アーメン。 ただ事ごとに、何事も思いわずらないで、何でもかんでも、全部、ひっくるめて、事細かに、神様に申し上げるがよい。新改訳では、神様に知って頂きなさい。知って頂きなさいってね。あのお方に知っていただいているということによって、心に平安が来るということはあるではありませんかね。 わたしは今苦しいのですけれども、牧師に理解してもらっているというね。 サムエルのお母さんは教会で祈っているときに、うめきの祈りをしていたのですけれど、エル祭司がそばに来て、「あんた酔っ払ってるんか」というように誤解されて、牧師から誤解されたら寂しいですよね。でも反対に理解されていたら、いやぁ、あの人に理解されておったら私は生きていくことができる。 この地上で理解して頂くことが難しくありましても、私たちは神様に知って頂きなさい。あの神様が、あの全能なる神様が、私の痛みを、私の悲しみを、私のこの破れを、ご存知でいらっしゃるということで満足すると言いましょうか、大丈夫、最善以下はなさらない方なんだというふうに、マイナスは必ずプラスになるんだ。トンネルの向こうには光の世界が待っているんだ。苦しみの向こうに光を見て満足するんだ。これは信仰の歩みであります。信ずるものは、アーメンと言いましょう。アーメン。 ですから、カウンセリングにすぐにいくということ、誰か相談相手をあちらに電話をかけ、こちらに電話をかけ、悪いわけではありませんけれども、優先順位を間違ったらいけませんよ。まず、神様に知って頂きなさい。神様に知って頂いたけれど満足しなかったというのではチョット寂しい話だけれどもねぇ。でも、牧師に聞いて頂いたり、役員さんや信頼できる人に聞いて頂くことは悪いことではありませんが、ここで語られていることは、先づ、神様に話なさいよということです。 2・いつも率先して行動すること。(マタイ5:23・24Meg) 「あなたがたが礼拝堂に入り、供え物をささげようとしている時に、突然友達に憎まれていることに気づいたならば、供え物はそのままにして、すぐにその場を出てその友達のところに行って、問題を解決しなさい。それから、戻ってきて神を礼拝しなさい。」 礼拝をさし置いてもいいから、その人と和解をしなさい。これは、気をつけていなければいけないことでね。 礼拝堂に入ってきたとき、受付の人憎らしいなとか、おー、あの人来てるな今日は・・こんな時にこのみ言葉を思い出して、礼拝の始まる前か、まだ賛美している時に、「すみませんけれど、長い間憎んでいました。本当は、あなたなんか死んでもらいたいと思っていたのです。ゆるして下さい」 こういう問題ではないということ。 アホな人はね、すぐそういうふうに考えて、自分がさっぱりすればいいと思って、自分の重荷をちょうどゴミの日でないのに家をきれいにするためには、どこにでも捨てっちまえみたいな、そういうトラック人もいらっしゃるでしょ。ね。私たちはどこにそのゴミを置くかということを意識していなければなりません。どのタイミングでやらなければいけないか、ということを意識していなければなりません。 大切なことは、神様を礼拝するのに人を憎んだままではいけませんよということ。 まずゆるして頂きなさい。それが具体的に声を出してゆるして頂く内容の問題と、心の問題とは違いますよね。 私がいつも説教するだけではない。若先生たちも説教をしますが、また賛美を指導する。ああ、あれを思い出したといって、倉知先生ごめんなさい。わたくし本当に先生のことを夢の中でブッツリやちゃったんです。本当にゆるして下さい。なんて言ったら、先生賛美の指導なんか出来なくなっちゃいますよ。 大川先生、どこか胸の骨が折れているそうですけれども、私は骨をおる牧師に粗忽者め、滑るとはとんでもないと裁いていましたけれど・・。もうわたくし講壇に上がって説教するのは嫌になっちゃいますよ。そういう問題ではないということを知っておかなければならないと思いますね。 今週の礼拝メッセージの中で、第Tペテロの3章7節を引用しました。 「夫たるものよ。あなたの妻が弱い存在であることを知りなさい。(その辺はあまりよく理解していないのですけれども、聖書が言っている事は本当かなぁと思っている、そういう人もいるかと思いますけれど)、女は自分よりも弱い器であることを認めて、(なかなか認められない人もいるかと思いますが)、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐものとして尊とびなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためである。」と今週の礼拝メッセージで伺ったわけであります。 祈りが妨げられないことのために私たちは最善の努力をするということは、聖書的なことなのですよ。交わりを、祈りを、妨げるサタンの思うツボにならないように注意しなさい、ということでございました。 3・相手の気持ちを理解し、同情すること。(ピリピ2:4 TEV) 「自分の言葉ばかりに気をとられていないで、互いに相手のことにも気を配りなさい」という。 わたくしがこの講義の中で、英語訳のものを引用するのは、かなり優れた訳文であるからであることを知っておいて下さい。ですから、この本(人生を導く、五つの目的)をもっている人は、聖書の中にこれを書き込んでおいたらどんなに力になるかと思いますね。 わたくしは、あなたの測る秤で相手を測ってはいけないということばを、いつも心にとどめます。人の怒りに忍耐深く待つという。 私は韓国に37回位、もっといったかな・・いきましたね。行く度に「日本人の犯した罪をゆるして下さい。ゆるして下さい。」とあるときは土下座してゆるしてゆるしを乞いました。初期の時代には涙を流してゆるして下さいといろんなことで行きましたけれど、中には、もう、ゆるしていますから、そういう事はしないで下さいという人もいれば、やっぱり一言言って下さいという人もいたりして、私の中でカチンと来たりしてですね。韓国のクリスチャンのレベルと言うのは、ろくでもないなぁってね。まだ、ゆるしていないから色々と問題が起こるんだと思ったときがありましたよ。 私には韓国人の教え子がいっぱいおりますけれどね。口に出したくなったことがありますが、このところで言っていることは相手が痛んでいるのですから同情しなさい。 私に質問した人がいます。先生は何回謝りにいきますか? その傷がいえるまでわたしは謝ります。そういう環境であったらいつでもごめんなさい。先祖の犯した罪をゆるして下さい、と。 ハー先生のような方が登場してきて、CGNTV凄いですねぇ 「私は何だか知らないけれど、日本人を愛するようになっちゃいました」愛するということは、その人のことをずーと考えるということ。「日本人のことを考えていると、何かしたくなっちゃいました」って。すーごいですねぇ。そして人々を動かして日本にテレビを入れて、やがて24時間日本で日本語キリスト教番組というものを放映。皆さんもういれましたか?すーごいですね。いつ見ても良くぞこんな番組をつくっているなぁと思えるほどであります。 愛するということは、許す、許す、許すけれどさ、あのー、忘れないよーなんていうのは許すということにはならない。ゆるして、忘れて、いやー、もう一歩、何かしたくなるというところがね。素晴らしいことだと思いますよね。そういう器になりたいですねぇー。 アーメン。 4・争における自分の非を認め、それを告白すること。(マタイ7:5 NLT) 「自分の眼の中にある丸太を取り除きなさい。(私みたいな細い目の人には丸太は入らないのですけれど。どこかに目の大きい人がおりますけれど、それでも入らない。これは例え話ですよね)そうすれば、友人の目の中にある塵を取り除けるくらいによく見えるようになるのです。」ということ。 告白することの重要性。 告白は和解を生み出す強力な武器です、と書かれておりました。 アダム問題はなんであるかと申しますと責任転嫁でありますね。 アダムに、どうしてやったんだ? 私は悪くない。女が悪いんですよ、って。 エバどうしてやったの? 私は悪くありませんよ、悪いのは蛇ですよ。 蛇よどうしてそんなことやったんだ? あなたが私を造ったんでしょう、と。聖書にはそこまでは書いてあませんけれど、責任を転嫁していくということは人間の中にある恐ろしい問題であります。 5・問題を攻撃しても、相手を責めないこと。(箴言15:1Msg) 「穏やかな答えは怒りを静めるが、きつい言葉は、怒りの炎に薪をくべるようなものだ。」 箴言と言うのは凄いことが書いてあるものですよね。 同じ箴言16章21節にも、賢く成熟した人はその思慮深さで知られる。その言葉が適切であるという。思慮深い生き方、それは言葉にあらわれる。 この言葉を使いますならば、わたくしがピレモン書のメッセージをしたときに、書道家の石川さんという人が、日本人の心が崩壊したのは、ワープロになったからであると、ね。パソコンになったからである、と。メールを送るときに自分で書いた文字でないから。だから縦書きで肉筆の文字を用いて書くべきである。そしたら心は変わる。書道のこれが極意である。こんな字でいいかなー、失礼かなぁ?この言葉は相手をどんな風にいためつけちゃうかなぁー。わたしはだから、次のお説教のテーマは、「ラブレターは肉筆で」というのをどっかでやりたいなと思っているのですけれど。 字に心が現れることがありますよね。いやー、あんなに良い言葉を使っていたけれどこの肉筆、こんな字書いちゃうの?ということもあるかもしれませんよね。字のちょっと粗末と言うかうまく書けない人がこんなコト言われると、辛いんですけれど。でも、真心をこめて誕生日カードを書くとか、謝罪文を書くということに意味があると、もし、日本人が筆でなくても文字を縦に書きながら・・この「縦」が私にはよく分かりませんけれど・・その人は、いつの間にか日本人はあのメールをパッと送ったら、送った瞬間に吟味するチャンスもなくて相手の心に届いてしまう。面と向かってだったら絶対に言えないのに、平気でそういう言葉を使ってしまう。ここに大きな問題があるということは正しい内容であると思います。どうぞその言葉が吟味されますように。 6・できる限り協力すること。(エペソ4:29 TEV)(マタイ5:9 Meg) エペソ4:29 TEV 「人を傷つける言葉ではなく、むしろその人を建て上げ、その必要を満たすような言葉だけを用いなさい。そうすれば、あなたの語る言葉によって、それを聞く人たちが益を受けるのです。」アーメン。 これは素晴らしいことですね。 マタイ5章9節。Meg 「あなたがたは競争したり争ったりするのではなく、共に力を合わせる時に祝福を受けるのです。それは、あなたがたが本当の自分を見い出す時であり、神の家族の中に自分の居場所を発見する時なのです。」 争の問題を表現している内容であると思います。平和を保つために喜んで犠牲を払う。 平和をつくり出す人は幸いである、のメッセージバイブルですよ。考えられない訳文ですね 7・解決でなく和解を強調。(Tペテロ3:11 NT) 解決しなければ困るんだけれど、その前に和解ができる。 Tペテロ3:11 NT 「他の人と平和に暮らせるよう懸命に努力しなさい。」 凄いですね。懸命に努力しなさい。溝が埋まらなくても、溝を埋めるのには長時間かかる。心が癒されるのには時間がかかるのですけれど、人間関係を築き直すことは可能です。 わたくしは、すべての人間関係を修復するのには希望があるとそのように宣言しました。どんな人の人間関係もキリストのもとで変えられます。 多様性の問題も考えなければいけません。神様は画一化されることを望んでおられません。全員、同じというのはおかしいのであります。 わたくしが以前、副牧師をしていた教会の婦人会は、日曜日に洋服を着ること、(この教官も結構おしゃれをして来る人が多いのですけれど)下町の教会だったのですけれども、みんなどんな洋服を着て行くか困ってしまったそうであります。 落語でもありますね。あの人は毎週違う着物を着てきて羨ましい。お仕事なのですか?そしたら、質屋さんだったって。毎週洋服が流れるから。 それでわたくしがお仕えしていた副牧師の教会では、婦人会は全員が割烹着を着ることになって礼拝中、料理教室みたいになって・・・。 画一化されることを望んでおられない。聖霊の働きは多様である。 兄弟姉妹、ものすごく重要なことであります。世界が聖霊様を憂いしめ、悲しませてきたのは、もう既に16世紀、17世紀、18世紀、19世紀とずーっと聖霊を悲しませてきたのは、この真理を知らなかったからであります。主よ、私は高慢なつもりで申し上げているわけではありません。聖霊様の働きは多様性に満ちています。 あるときには賜物としての異言が現れて、与えられて、それが用いられるでしょう。 わたくしも異言の祈りをする牧師であります。あるときには癒しの問題が与えられる。知恵が与えられる。預言が与えられる。聖書には25種類ぐらい賜物のことが書いてあるとピーター・ワグナーは言いますが、それぞれみんなが色々で手が足の真似をする必要もなければ、足が手の真似を、目は口の代わりでない、口は鼻の代わりではない。みんなそれぞれ違ってキリストの体なる教会を建て上げている。 使徒信条の中で“われ公同の教会を信ずる”と言うのは、キリスト様によって教会は一つだということを表している内容であるにも拘わらず、世界のいろんな教団教派はミッションモードの関係もあるでしょうけれども、俺たちは正しいと自己主張していろんな問題を起こしてきたことが、世界の歴史の中でクリスチャンが顰蹙を買ってきたのであります。 私が申し上げたいことは、本質以外は寛容でありなさい。 ○「本質以外は寛容であれ」 本質の一致がなければこの教会のクリスチャンになることは出来ませんけれども、私たちは寛容であること。違いがあって一致することができるのだ。 もう少し申し上げますならば、お子さんを何人かもっていますなら、同じお母さんのお腹から、同じお父さんから生まれたにもかかわらず、どうして子供はみんな性格が違うんだろうと思っていらっしゃる方々が何人もいらっしゃるかと思います。 私は6人兄弟でございますよ。6人みんな違う性格してますねぇ。不思議ですね。ねえ、おかしいですね。これはクリスチャンもみんな違うのでありますが、みんな違うから面白いのであって、違いの分かる人だけでなく、違いを楽しむというのがクリスチャンの生き方でございましょう。 ○「自分だけが正しいと主張しない限り、誰とでも仲良くする」 わたくしが繰り返し申し上げてきたビリーグラハムの副総裁をしておりました、レントン・フォードの言葉であります。 わたくしが祝祷する時に、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊様の親しきお交わり。最後は聖霊の親しいお交わり。 聖霊様は交わり。キリストの恵みと父なる神の愛と。それぞれ特色があるのですよね。 キリストの恵みと、父なる神さまのご愛と、聖霊様は・・何だろう?ホーリー・スピリット。聖霊は交わりだって。祝祷で世界中が祝祷してるのですよね。交わりだって。 交わりを大切にする時に、嫌な人でも仲良くするならば、あまり好みではない人とも仲良くするならば、自分の教会と体質が違う教会を経済的に応援したり仲良くしたり、愛し合ったりすること、交わりをするということは聖霊が働かれるということなのですよ。 聖霊は好むところに吹くと言うわけでありますから、第一ペテロの3章の11節に、ほかの人と平和に過ごせるように懸命に努力しなさいと先ほど読みました。 ほかの人と平和に過ごせるように懸命に努力しなさい。平和をつくり出す人は幸いであるという。 その結論は何か。神の子と呼ばれる。神の子とは何かと言うと平和を愛する。そんなの世界中誰だって平和を愛していますよ。平和を創るために喜んで犠牲を払う。 私たちの教会にはみなタイプの色々と違うスタッフがいらっしゃるでしょう。でもみんな力を合わせ、仲良く教会をもり立ててやってきておりますね。この教会は交わりを大切にする。交わりを大切にするということは、皆でイッパイやるということではないんですよ。おしゃべりをするということでもない。何かしゃべりまくるということ、そういうことも重要なんですけれど、何が重要であるかというと、それは愛ですよ。聖霊様のもっていらっしゃる、その人格、その品性、それをいただいて私たちは他者とうまく交わることのできる神さまの恵みを頂くことができるのであります。アーメン。 1984年、オランダはアムステルダムで世界会議がありました。 その時の最後は、そこに集ったところの数千人の人たちがそのアムステルダムの国際会議場で聖餐式が行いました。各国の代表的な伝道者たちがそこに集まって聖餐式をしました。 1984年ですと、まだ私は本当に未熟な牧師、今でも未熟ですけれども、その時の聖餐式をビリーグラハムがパンを裂いて司式をするのならば、私たちはビリー・グラハムから聖餐を戴くというのでありがたいことですよ。ビリー・グラハムから聖餐式を頂くならば、感謝、感激、雨あられでございますけれど、その時に司式をして下さった方は聖公会の牧師でありました。 私はまだ聖公会に対して抵抗がありました。聖公会に入っているような人で立派なクリスチャンなんか知らない。あそこは生ぬるいクリスチャンである。もう本当に聖書的ではない。いろいろ裁くと言うか、測る、そういうものをたくさん私はもっていました。 わたしはそのように教えられて来たし、そういう目で、その様な色眼鏡で見ていたから。 私は聖公会の牧師が何か凄いガウンを着て聖餐をするときに神さまの前に誓いました。 「わたくしの歴史の1ページです。神さま、私はこの方からこの聖餐にあずかります。」 まさかねえ、世界会議に行って伝道者が聖餐拒絶なんていうのはおかしいでしょう?私はこんな聖公会の司教から聖餐式をいただけませんなんてそんな無礼なことないでしょう?だから受けるわけですよ。「神さま私は今日聖公会の牧師から聖餐の恵みを頂きます、と」 パンを割いて、これは私の体です。みんな一つになりましょう。これは私の血です。とりて飲みなさい。みんな一つですよ。こういうことをおっしゃって聖餐式がなされる時に私は決心しました。「2度と聖公会をさばいたりはしません。ここにいらっしゃる多くの教団、教派がありますけれど、私は教団教派を裁かないと決心します。もし間違って裁くようなことあったときにはゆるして下さい。私はこの約束を死ぬまで忘れないようにしたいと思いますから私の頭にどうぞこれを入れて下さい」と約束をしたことを今でも覚えております。 聖霊様がそのことをとても喜んでくださって、私は各教団教派を愛し何も出来ないのですけれども祈ることに対して、聖霊が風を吹かして下さっていると今でも信じています。 愛する兄弟姉妹,みんな違いがあるのですけれども、スタイルも違うのですけれども愛し合いましょう。平和を作り出しましょう。そして主に喜ばれるために出来るだけの努力をして平和をつくりだす人の幸い、神の子と呼ばれるその素晴らしい幸いを経験したいと思います。 み言葉に従順したい、そう願う人はアーメンと言いましょう。アーメン。 お祈りします。 天のお父様、主のみ名をあがめます。たくさんの破れがあります。過去を振り返ってみて、そんなことを思い起こすと傷がうずく場合もあろうかと思います。まだゆるしていないんだなと思っている方もいらっしゃるかと思います。イエス様の十字架は御霊の一致。一致が与えられるため和解の務めを積極的にしなさいという務めを私たちにゆだねられたことでございます。つらい経験をして裁くよりも同情します。そんな事されたら仕様がないです。私がその立場だったら、私も怒り狂うでしょう。私がその立場だったら私が同じことをされたら、私もめちゃくちゃ傷つくでしょう。同情しなさいと教えを頂ました。同情します。 イエスさまの十字架の前で今日は聖餐の恵みに与りますが、この聖餐の前に、肉を裂き血を流したもう主の最後の祈りは、私と天のお父様、あなたとがまったくもって一つであるように彼らを一つにして下さいという祈りであったことを覚えて下さい。会衆一同にこの真理、このミステリー、この奥義を知らしめたまわん事を。 つらい経験をしておられる人、傷を引きずっていらっしゃる人に、イエス様の特別な慰めと、助けとがありますように天のお父様助けて下さい。許せないと思っておられること、口惜しと思っていらっしゃること、絶対妥協しないと思っていらっしゃることをイエス様の愛で溶かして下さいますようにお願い申しあげます。 聖霊様をここに歓迎し、認め、感謝し委ねます。主イエス・キリストの名前によって祝福してお祈りいたします。 アーメン。 |
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