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2006年 11月 15日祈祷会メッセージ

第19章 「共同体を育てる」

第二の目的 あなたは神の家族となるために造られた。
「私はブドウの木で、あなたがたはその枝です。」(ヨハネ15の5 CEV)
「キリストは私たちを一つの体に造られ・・・お互いを結び合わされた。」(ローマ12の5 GWT)

 今日のテーマは、「五つの目的」に沿って進んでおりますけれど、第19章「共同体を育てる」というテーマであります。

 共同体とは、まさしく教会を表すことでありますけれども、共同体を育てるということであります。共に生きる体、それを育てていく、それが私たちクリスチャンとして大切な要素だということであります。それにいくつかの項目が出てまいりますけれども、今日は、プリントに印刷されている二つのみ言葉と、そして口語訳聖書でも1カ所、エペソ書4章16節を開きたいと思います。
 項目の下にある二つのみ言葉をご一緒に声を出して読みたいと思います

「あなたがたが互いに親しくなるための努力を怠らず、互いに品位を保ち、相手に敬意を払うよう真剣に取り組むときにのみ、神のみ前に正しく、健全で強固な共同体を築き上げ、またその恩寵にあずかることができるのです。」 アーメン。(ヤコブの手紙3:18
Meg)

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、共同生活を営み、食事を共にし、そして祈りに専念していた。」(使徒の働き2:42 Msg)

 もう1カ所、読みたいと思います。口語訳で、
「また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組みあわされ結びあわされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」 アーメン。(エペソ書 4章16節)
 
 共同体は、献身を要求します。

 共同体を育てるには、正直さが必要である。今日のテーマは教会である共同体。キリストの体を建て上げていくというテーマであります。

 私はこのテーマに非常に関心をもっています。ですから、この備えをしながらも本当に楽しませて頂きながら、主の前に準備させていただきました。

 リック・ウオレン先生は冒頭から厳しい言葉でスタートしております。共同体は献身を要求すると言います。献身。
 私たちの利害、私たちの思いではなくて、全き神様に捧げていくことが先ず前提であるということであります。
 それで、まず第1番目のファーストステップ。全き神様に捧げていかなければならないと言うことであります。非常に厳しい言い方の様に思いますけれども、神の教会が建てあげられていく上で大切なことは、私たちの願いや思いではなく、神の重荷に対して私たちは心を一つにしていくことであると思います。

 クリスチャンの愛の共同体を作り築き上げていくためには、神ご自身の聖霊の力と、そして、私たちが意志をもってそこに一つとなっていくために、努力していかなければいけないというのが彼の言っていることであります。

 今日この所から五つのポイントを、共同体を建て上げていくこととして学んでみたいと思います。

◇1番目には、共同体を育てるには、正直さが必要である。

 「愛をもって真理を語りなさい。」 (エペソ 4:15)
 「正直な答えは本当の友情のしるしである。」 (箴言24:26 TEV)

 近年教会成長をしている教会を調べますと、スモール・グループとかセル・グループとかミニチャーチとか言って、そういった教会形成が取り上げられています。
そのミニチャーチ、セル・グループの中での大切なポイントが、正直さ、ということであります。
 透明感のある人間関係というのですかね。お互いに正直に神のみ前に、また、この数人のグループでしょうか、そのみ前に出ていく。そのような中で私たちは親しさ、親密さを築きあげていくことができるということであります。しかし私たちは、いつでもどこでも、言いたい事を何でも言えばいいということではありません。
 ヨハネの手紙の中にも、悪魔も言いたい放題のことを言っている、と書いてあります。リック・ウオレン先生はすべての物事に、そうするのに正しい時と方法があります。たとえ正しいことを行っていても、たとえ正しいことを言っていたとしても、タイミングというもの、また、その言い方が相手がいる故に必要であるということですね。

 神の前に正直である。それは具体的にどういうことなのでしょうか。マタイの福音書では、心の清いものは神を見る、と山上の垂訓の中では出てまいります。
心の清いものと言うのは、二心に生きない。あっちもこっちも、いろんな思いで満たされることではなくて、神様だけに集中するということであります。

 神のみ前に聖別されて生きるということを、心の清いものと言っております。

 エペソの4章8節では、神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手を清くせよ。二心のものどもよ、清くせよ。

 互いに正直に生きる。これは私たちクリスチャン生活、教会生活にとって非常に重要なことではないかなと私も思っております。
 神様の前で、そしてまた愛する兄弟姉妹の前で、私たちが自分を偽って生きることくらいクリスチャン生活のなかで悲しいことはありません。
 この点で二つのことが言えると思います。

 一つは、縦の関係である神様の前では、偽っても仕方ありませんね。すべてをご存じである訳ですから。幼児のようにならなければ天のみ国に入ることは出来ないと、言っています。ですから私たちの弱さや、私たちの至らないところのすべてをご存じの神様の前には本当にそのままの状態で出ていけばいいのであります。

 もう一つ、真実な思いをもって生きると言うことは、私たちの周りにいる愛する方々の兄弟姉妹との関係、または、自分自身に対しても言えると思います。
 ある人はクリスチャン生活の中で、自分にはそんな能力もないのに何かをやって見せかけている人がいるかもしれません。 逆に、能力や賜物があるのにそれを使わないでいる。それも聖書の言う偽善という言葉に当てはまるのではないでしょうか。出来るのにしようとしないことです。
 まぁ、子供の頃は「あいつはカッコだけだ」、という風に言ったものです。けれどもクリスチャンにとってカッコ良く形だけで生きるということほど私たちのクリスチャン生活の首を絞めるものはないと思っております。
 神の前に、または愛する兄弟姉妹の前に、私たちは自らの弱さ、足りなさ、または、問題を認めてもっていく。そして祈ってほしいと言って行く。それがクリスチャンにとって、クリスチャン生活にとって非常に重要なことと思いませんでしょうか。
 私たちはそのような弱さをもって理解していても、無意識のうちに教会や家族、また自分自身に対しても、その偽りの顔をもっている一面があるのではないかと思わされました。

 と言うのは、私たちの古い自分と言うのでしょうか、自我というものとは、この体がなくなるまで、天国に行くまではお付き合いをしなければいけないわけです。この古い人間の性、この自分の性質というものは、自分で良くなろうとする、良くしようとする、良く見せようとする習性があると思いませんか。
 私の場合にはとくにこの習性があるように思うのですね。良く見せよう、やってるように、形だけそういうふうになるような信仰生活の方に、まるで人の眼が気になって、また、自分自身に対してもそういうふうに繕ってしまう面があるのではないかなと今回思わされました。
 特に日本人は信仰を頑張ってしまう。自分の努力で何とかしなければいけない。しかしそういう私たちの人間的な弱さが働いて自分で何かをしようとしてしまうときに、信仰生活上、最も大切な純粋で素直になって神の前に出るということがいつの間にか失われてしまう可能性があるわけです。それともう一つ、その自分を繕ってしまうことに慣れてしまうという恐ろしさがあります

 アダムとエヴァは、エデンの園において神様の臨在のなかで喜びをもって生活していましたね。命の木の実をもって生活をしていた時には、です。しかし善悪の実を取って食べた後は、神のみ前では恥ずかしくなって生きられなくなった。神様との親しい交わりはその罪によって豊かな神様との交わり、神様のご臨在を失ったわけです。
 クリスチャンも、教会に来ていないわけではない、クリスチャン生活をしてないわけではない、けれどもこの神様の臨在という世界が分からなければ、これは非常に空しい信仰生活になっていきます。
 自分たちで繕う、自分たちで何とかしようとする、私たちの肉の性質によってクリスチャン生活を砂の上に土台として立てられていくようなものになってしまう。

 サムソンもそうでした。サムソンも神のナジル人として、聖別された生き方を強いられていましたけれども、最後にはあの遊女に髪の毛を切られて自分の力がなくなっていくのが分からなかった。

 クリスチャン生活のなかで、または私たち各会のなかでお勧めしたいのがこの正直さであります。二心でない生き方。正直に神の前に私たちの弱さを否定せずに打ち明け、そしてまた、先生がたに、愛する兄弟姉妹がたに祈って頂き、私たちの弱さのうちに働くところの神の力を、神の生きた力を体験することが私たちクリスチャン生活の中で非常に重要な点であります。アーメン。
 皆さん、決して自分を繕おうという下心に慣れっこにならないで頂きたい。ごまかそうと思えばこのような大きな教会ですから、体だけが教会に来て帰ってしまうということがあり得るかもしれません。
 どうぞ皆さん、自分の内側に素直になっていただきたい。自分の肉の弱さに本当に素直になっていただきたい。そして私たち自身が祈れないときでも、自分の内側を打ち明けることのできる自分が本当に信頼できる先生がたや兄弟姉妹に祈っていただこうではありませんか。
 そうする中で、私たちは再びこの神の恵みを、神の臨在を、神の親しさを回復することができるわけです。ですからこの共同体には非常にこの正直さという点が大切だと私は思っております。アーメン。
 なによりもこの部分が失われると聖霊の臨在というものが分からなくなってしまうのです。主の臨在、または、主の導きが鈍くなっていく。気を付けたいと思います。

◇2番目:共同体を育てるには、謙虚さが必要である。

 うぬぼれ、独りよがり、意固地なプライドは、交わりを破壊するものです。
 プライドは人と人との間に壁を作ります。逆に、謙遜は人間関係を滑らかにし、潤滑油 
 となり、人との橋渡しになるのです。 アーメン。

 私たちクリスチャン生活にとっても非常に大切な、大切なポイントであります。
謙虚さ。私たちは謙虚にして下さいと結構祈るのですけれど、謙虚にしてくださいと祈って後で、結構、色々な試みが来ますね。でも、その試みの中に私たちが入っていくことは非常に難しいと思います。
 謙遜にさせられるために嫌なことを言われたり、または、いやな仕事をさせられたり、いろんな環境を神様は許していらっしゃるのに、私たちにとってその謙虚さを受け入れ、謙虚に訓練されていくという準備が私にとってはまだ足りないように思います。

 ウェン・コデイロ先生が説教のなかでこう言った話をしてくれたことを思い出します。
自宅に友達のミュージシャンを呼びまして、彼が玄関を開けて入ってきたときに何か一緒に香ばしい香りがしたそうです。犬を飼ってるわけでもないし、自分の家に赤ちゃんがいるわけでもない。 それなのに何か気になるあの臭いですね。それでその友達に、「おい、何かした?」何かしたと言うのは、あの、お尻から出て来る、あのラッパのことですけれども、何か匂うわけですね。
 リビングの中に友達が入ってきて話を続けていくうちに、だんだん、だんだん、その匂が自分に近いことが分かって来る。彼が自分の足もとをみると、自分が犬の糞を踏んでいたことに気づきました。
 私たちは人に謙虚さを要求しますけれども、自分の姿には結構気づかないものであります。人のことは見えても自分のことが良く見えない。案外自分がその犬の糞を踏んでいるような、自分に原因があるような時はないでしょうか。
 プライドというものは神様との関係を隔てるだけでなく、人との関係をも隔てるものです。逆にこの謙遜は人との関係を繋ぐものである、とリック先生は言っておられます。人との関係を繋ぐものである。クリスチャン生活にとってこの謙虚さと言うのは生命線と言っていいかもしれません

 オリンピックの元シンクロのコーチで井村さんと言う方がいらっしゃいましたね。日本のシンクロチームは世界でも有名ですね。メダルを良くとっております。そのオリンピックで活躍したシンクロの元コーチ井村さんが、以前こういうことをおっしゃっておられました。
 シンクロのなかで一番どうでも良いのは顔だって。顔は実力がついて強くなると自然にチャーミングに変わって来るものです。だから、選手が強くなってゆくことによってその顔にも変化が出て来る、と言うのです。

 私も一つ言いたいと思いますね。信仰生活は顔ではありません。イエス様を信じて、イエス様が本当に私たちの身代わりになって死んで下さったということを受け入れることを通して聖霊が宿ります。聖霊が内に住まわれるとどんな男女も、本当に主にあって美人に見えますね。アーメン。えー、私のことを言っているわけではないんですけれども・・・。
         
 また、この井村さんのもとには、シンクロの選手が来るわけですけれども、その選手の成長の具合についてこう言っておられます。
 シンクロをやってみる前に、自分の体力だとか技術力とか能力とかを事細かに計算して私は無理だと考えて自分の頭の中で固くなっている人は、いざやろうと思ったら体が動かないと言うのですね。
 逆に、大きく伸びる選手と言うのは、よく分からないけれども、取り敢えずやってみて、チャレンジしてみる人。そういう事らしいですね。
 コーチの仕事と言うのは、自分を見て自分のことを知りすぎてしまった選手には、自分の中で勝手に限界を作らないように、四六時中、自分自身から目を離させることだ、ということです。
「自分を見ずに、コーチの私を見てごらん。」と言うコーチに乗せられ、われを忘れて没頭していく選手は自分のもっている能力以上のことができるようになるのだそうです。

 皆さん、私たちは謙虚にならなければいけません。私たちはプライドの大きさに圧倒される時があります。そのプライドの大きさに圧倒され続けていくならば、信仰生活は沈んでいってしまいます
 しかし私たちのコーチであるイエス様または聖霊様を見続つづけていくとき、私たちの足りなさやプライドや問題以上に、この方が導かれるところに私たちも素直に心をこめて従って行こうとするならば、必ずあなたはイエス様のように変えられていきます。アーメン。
 私たちのコーチである聖霊様は絶えずあなたを謙遜な道へと導いていらっしゃると私は思うのです。それは、謙虚な道こそイエス・キリストの姿に似たお姿であるからであります。私たちのコーチは私たちに最善のコーチィングをして下さる方であります。
私たちの人生に最適な時にまた最適な方法で、環境を与えて下さる方であります。この方に本当に私たちの信仰生活を委ねていきたいと思っております。

◇3番目:共同体を育てるには、思いやりが必要である。

 思いやりとは、違いを尊重し、お互いの気持ちに敏感になり、感情を逆なでする人達に対して忍耐強くあることです。

思いやりがこの共同体に必要であります。
 大川先生がよくアグネスチャンの言葉を引用しますけれども、日本語で「愛する」というのは難しいと良く言われます。この愛するとは、人を思いやることだという風に良く引用されておりますが、この思いやり。この共同体の中に、思いやりが大切ですということです。

 思いやりとは、違いを尊重し、互いの気持ちに敏感になり、感情を逆なでする人達に対して忍耐強くあることです。
 お互いの違いを認め合う。そしてお互いの気持ちに敏感になり、感情を逆なでするそういう言葉に対して私たちは気を使う。そしてまた、そういう人達に対して忍耐強く、粘り強くいくということであります。

 ある先生が言われたことがいつも私の心に浮かんできます。
それは、私たちは良く教会で「躓いた」という言葉を聞きます。あの人につまずいた。牧師につまずいた。梶山につまずいた。そういう人がいないようにと私は願うものですけれども。
 この“躓く”にはもちろん、相手をつまずかせる人に原因がありますよ。躓かせる人が原因でね。でも、躓く人自身にも躓く原因があるということお分かりになりますか。
 躓かせる相手が悪いんですけれども、躓くあなたは、あなたにも躓く発端が、原因があるから躓くんですよ、ということであります。
 ある人にとっては些細なことで、思いやりのない言葉で、また、ほんのちょっとした言葉でつまずく場合があります。しかし、ほんの少しでもなんとも思わない方もいらっしゃいます。私たちはお互いに相手をキリストの体として、神の家族としての思いやりが必要であるということであります。

 先ほどの紹介にもありましたように私には子供が4人もいます
朝から晩まで私は教会に時間を捧げておりますので、家の家内は大変ですね。今度、幼稚園で一緒にご奉仕させて頂くので子供達と一緒にいる時間がたくさん取れるわけですけれども。
 先日、早天祈祷会を終えて家に帰ってきまして食事をしている席で長男が何かしているので「何やってるの」と聞いたら、「宿題をしている」と言うのですね。「なんで朝になってしているの。どうして昨日の夜のうちにやっておかなかったの」、って怒ったんですね。
彼が理由を言う前に、一方的に僕のほうから怒ったのです。でも、よーく話を聞いてみると、前の日の夜、宿題だった作文を一応は書いたのですね。その作文の題目が、“自分の大切なもの”という題目だったそうです。それで、自分が大切にしている、バッグとグローブと書いて、その大切にしているものを持っていくことになっていたようです。
ですけれども、もっと大切なものは何かと自分で考えたらしいのです。そしてそれは「家族」だと思った。それで彼は、バッグとグローブはやめて、家族の写真をお母さんと相談して学校に持っていこうということにしたようなのですね。
でも、私はそういうことは全然知らないで一方的に怒っていたわけです。そのことをあとで聞いて、私はちょっと心が暗くなりました。子供のことをきちっと聞いてあげればよかった。彼の考えていたことを聞いてやればよかった。私にとっては、彼が自分の好きな野球よりも家族を大事にしている気持ちの方が最も大事だと思うからですよね。
 神の家族の中でもこういった考えの違いが日常茶飯事に起こって来るかもしれません。しかし私たちはその違いを認めない。お互いを認め合うということ。今晩もう一度心にとどめたいと思うのです。

 ドブソン博士によりますと、アメリカの1万1000世帯の家族を調査した結果、アンケートでこういう面白い結果が出ました。
次の四つの時間帯に、父親か、両親か、母親のどちらかが家に居る家庭では非行率が減少していること。これはアメリカの調査ですが、このような結果が出ています。
 この四つの時間といいますのは、
1、朝起きたとき。2、学校から子供が帰ってきたとき。3、夕食のとき。4、眠りにつくとき。この四つだそうです。
 子供達にとって安心できる安心の度合いというものは、勿論食べるものではありませんね。物でもありません。家の中に親が居るということが彼らにとって大切なことであります。親が家にいてくれるということだけで彼らは安心し、又見守られているというその確信を子供は持つことができるのだということをこの結果は表していると言っておられます。
 多少、稼ぎが少なくなっても、大人がもう少しこの時代に子供に対して思いやる心が持てたとしたら、今言われているような悲しい事件が少しでも減っていくのではないでしょうか。私たちクリスチャンホームの親として、子供達にもう少し思いやりをもった信仰生活を今晩もう一度考えてみたいという風に思います。
 悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ。大川先生がいつも言っていらっしゃる通りであります。
 私たちもそのような思いやりのある教会として、共に信仰生活を築きあげていきたいものであります。
 
 ハ・ヨンジュ先生がこの10月30日にいらしてくださってCGNTVの開局記念をなさった最後のときに、“君は愛されるために生まれてきた”という歌を歌ったのですね
皆さんもよく知っておられる、♪あなたは愛されるため生まれた〜〜と、倉知先生がよく歌って下さいます。この歌がよく巷で歌われているのですけれども、その歌を歌っているときに私の心の中に響いてきた一つの言葉があります。
 それは「君」というところを「日本」と入れ替えて「日本は愛されている」そういう語りかけが主からあったのです。
 日本は愛されている。日本はその愛のうちに、愛されるために生まれてきた。日本の存在は尊い。そういう内容の言葉が私の心に響いてきました。私は涙が出て止まらなかったのです。
 韓国の先生がたは激しいタイプが多いのですけれども、ハー先生は本当に私たちに対して、愛といつくしみに満ちた思いやりの霊がその賛美の中から流れてきたことを本当に感じました。
 私たちの教会が本当にこの回りの方々に思いやっていくならば、聖霊さまはさらに力強い働きをしていくでしょう。アーメン。

◇4番目、共同体を育てるには、秘密を守る必要がある。

 神様は噂話を嫌われます。
 「噂話は、邪悪な者たちによって広められていく。彼らは問題を起こし、友情を台無し
 にしてしまう。」 (箴言16;28 TEV)

 私たちの古い自分。古い自分と言うのはうわさ話が好きですね。
もう、どうした、こうした。あの先生は、こうだった。あんな物食べていたとかね。あんなところに行っていた。あんな派手なネクタイをしていた、とか。地味なネクタイをしてくれば、今度は何で派手なネクタイをしないの。とかね。まあ、よく言われます。
 色々こういう話が出て来るのですけれども、しかし私たちはそういう話に心を止める必要はありませんね。しかし、親密な関係をもっていくときに、正直な関係を人々ともっていくときに、秘密を守らなければなりません。あなたを信用して、私を信用して語ってくれたことに対しは、私たちはその場でとどめておかなければなりませんね。
そしてそのことに心を合わせて私たちは本当に祈っていく。そしてまた私たちは励ましを与えていく必要があるからであります。
 共同体を築き上げ、育てあげていくためには大切な決まり事なのであると思います。

◇5番目、共同体を育てるには、頻繁に集まる必要がある。

 「ある人たちがしているように、一緒に集まることを辞めたりせず、互いに励まし合おうではありませんか。」 (ヘブル10:25 TEV)

 今晩もこのようにして多くの方々が集まってきております。私たちがしているように一緒に集まることを辞めたりせず、互いに励まし合おうではありませんか。

 共同体は利便性の上に築かれるものではなく、霊的な健康のために、どうしても必要なものであるという確信の上に建て上げられていくものです。アーメン。
 共同体は私たちの損得の上に、または私たちが楽に生きるために集まっているのではありません。霊的な健康のために、私たちはキリストの体としてキリストを現していくために、どうしても必要なものであるという確信の上に建て上げられていくものです。アーメン。
 私は本当に信仰の宣言にアーメンであります。私にとって皆さんは必要です。そして、皆さんの必要に私もなりたいと思っております。ここにいるすべての方々がキリストの体をたてあげていくために必要な存在であります。そのために私たちは「ときが短いのを知って」と付け加えられておりますが、私たちが集まることをやめず、私たちはこのようにして祈り合い、励ましあって進んでいこうではないかということであります。

 私たちがこの教会を育てていくというときに時間がかかるものであります。あるときに地面に種を播き、水をやり、芽が出て、葉が茂り、そして実がなっていく。
それにはある意味で時間がかかるものであります。そして一人一人その成長の時間に違いがあります。
 また教会においてもその時間と賜物、与えられている能力は違います。
しかし私たちがこの共同体を育てあげていくために、私たちがキリストの体として一つになっていくために、この五ツの項目は非常に重要であります。

 リバイバリストで用いられている、トミー・テン。この方は日本語訳でも何冊かの本が出ております。この方のメッセージをじかに何回か聞いたことがあるのですけれども、彼がこう言う風に言っております。 
 神の夢と言うのは、神のみ体であるキリストの教会が一つになることである。ヨハネの17章ではこれは、彼らが一つになるため、一つになるため、と5回強調していると言う風にこの書物の中で言っております。神の夢と言うのはキリストの体が一つになること。そのためには、神の夢が砕かれるのか、私たちの意思が砕かれるのか、のどちらかです。
 もう一度言います。神の夢であるキリストの体である神の夢が砕かれるのか、私たちの意思が砕かれるのか、どちらかです。
 人間の不従順で砕かれることのない意思がある限り、神の夢は存在しないということであります。神の民は自己犠牲をささげる代りに自己防衛と、自己アピールにエネルギーを費やしているからです。 
 私たちは認めようと、認めまいと神からの委任、任命を受けているのです。神のみ心に服従すること。神の目的のために僕になることを拒絶するならば、私たちは自分で自分の足に誤って銃弾を打ち込むようなことをしているのです。
 神のみ心は人の意思にかかっているのです。神のみ心は人の意思にかかっている。一緒に言っていただけますか?「神のみ心は人の意思にかかっている。」アーメン。
共同体を育てあげる、教会を建てあげていく、一致していくということは、神の聖霊の働きと最初にも申し上げたように、皆さんの意思をそこに積極的にもっていかなければ完成しないということであります。
 私たちの意思を砕いていくとき、その体が一致して神の夢は実現化されていくのであります。それはこの私たちの地方教会、地域の教会、日本の教会が、今のこの最後の時代と言われるときに聖霊によって、そして神の民である私たちの意思によって一つになっていこうとする時であるということができると思います。アーメン。

 共同体を育てていくためには正直さ、謙虚さ、思いやりが必要です。そして秘密を守る必要があります。頻繁に集まる必要があります。

 そこで非常に大事な点が一つだけあると思います。
パウロは新約聖書の中で何回もこのことを書いております。
古い自分、自我に死ぬということであります。もっと聖書的に言いますならば、私たちはイエス・キリストとともに十字架につけられ、そして葬られ、よみがえり、ともに、天の座に座していると26節には書いているのです。その私たちが啓示をいただかなければならないと思います。いつまでも私たちは悔い改めて主よ、どうかゆるして下さい。そしていつも十字架のもとにいく。それの繰り返しで信仰生活が終わってないでしょうか。

 私が尊敬している先生がたの中に大阪のJECの群れの中にひとり先生がおられます。
亡くなられた我喜屋先生の群れの中の先生ですけれども、「罪は悔い改めると赦されます。しかし、自我、私たちの古い自分、肉の働きというこのものは、悔い改めても治らない」と言われます。

 私たちの内側にはいつも反発があり、格闘があり、素直になれないときがあります。
み言葉を知っていても、また聞いていても私たちはそれに従えない。イライラしている自分。そして従えない自分に対して自分を責めてしまう。分っているけれど止められない、
ローマ書の7章であります。しかし私たちはキリストと共に十字架につけられて死んでいるという。 皆さん私たちはイエス様と共に死んでいるというみ言葉の事実に、今晩立ちたいと思います。

私たちは古い自分を死んだ状態にしておく。古い自分を十字架から下ろさない。
この先生はいつもこう言う風に言っておられます。古い自分に餌を与えないで下さい。古い自分に栄養を与えないでいただきたい。
亡くなられた我喜屋先生は、「そんなの放っておきぃー」って関西弁で言ってますね。「ほっといたら良いんや」、という風に言われた先生の言葉が僕にはいつまでも残っています。

 古い自分を自分で作ろうとしないで頂きたい。み言葉によれば、イエス様を信じたときに古い自分はもう十字架に釘付けになって葬られているということです。
古い自分を無視して頂きたい。すぐには出来なくてもそのことを徐々に理解していくならば、そこから来る聖霊の復活の力を認めるところから開かれて来る聖霊の復活の力によって、私たちの信仰生活は共同体を建てあげるために素直になり、そして謙虚になることができる。人を思いやることができる。相手の立場に立つことができる。積極的に神の集まりの中に飛び込んでいくことができると思います。

 今晩、私たちは一緒に祈りたいと思います。先ほども宣言したように、神のみ心は人の意思にかかっている。私の意思にかかっております。皆さん一人ひとりの意思にかかっております。
 この教会の今後は、皆さんの一人ひとりの意思の明け渡しにからはじまります。
神の訪れのときはもう近づいております。さらに素晴らしい収穫のときは、もうそこまで来ております。今晩もう一度、神さまの前に私たち自身を明け渡し、神の教会を育てあげていくために主に明け渡して、私たちの古い自分は死んだという事実に立って祈っていこうではありませんか。アーメン。

祈り
 恵み深い天のお父様、み名を心からほめたたえます。主の恵みと哀れみは今晩も満ちております。イエス様、あなたはシミも、傷も、しわもない栄光の教会をご自身に迎えるために今働いてくださっております。
 主よ、今晩、神の体なる教会が建てあげられていくために、もう一度基本に戻り私たちは自らを明け渡します。神の意思に従いきれない、理解しても分かっていてもどうにもならない自分を明け渡します。あなたにお委ねします。あなたにお委ねするときに、そこに死と復活の力が、聖霊の力が開かれます。
 パウロは言いました。私の弱さのときに完全な神の力が現されると言いました。
主よ、今聖徒の中に驚くべき神の力を現したいと願っておられる主よ、今晩ここにお集まりになったおひとりひとりが自らの意思をあなたにお棒して、あなたの夢に今晩賛同する一人人として下さいますように、よろしくお願い申しあげます。
今晩のひとときを心から感謝し、イエス様の名前にてお祈りいたします。

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