2006年09月 のメッセージ |
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2006年9月27日祈祷会メッセージ |
第14章 「神が遠く感じられる時」
(When God Seems Distant) 「主はご自分の民から御顔を隠された。しかし私は主に信頼しこのお方に望みをかける」(イザヤ8:17 TEV) 私たちは思いもかけず神様がどっかに消えてしまう、お隠れになってしまわれる様な経験をしますが聖書の中にそれが記されてあります。 この文中にはないのでありますが、ご一緒にお読みしましょう。 「彼、我を殺すとも、我は彼により頼まん」。(ヨブ13:15 文語訳) ヨブ記13章15節は、口語訳も新改訳も、どの訳文もとても難しいのですが、世界中どの訳文をとっても大変なのでありますが、私はこの文語訳聖書が一番いいような気がいたします。 神様が私を殺すようなことがたとえあったとしても、 私は神様により頼みます。 「そんなことをなさる神様なら私は嫌ですよ」とは言っておりませんで、この聖言というものはとても含蓄のある(非常に深い意味を持った)言葉であると思います。 ◎<最も深いレベルの礼拝とは>逆境における礼拝・神が遠く感じられる時、痛みの中にあるにも拘わらず、神様を賛美すること。 わたしたちが学ばなければならないレベルであると思います。 使徒行伝16章でパウロとシラスが捕えられて牢獄に入れられたときに、真夜中、もしかすると血だらけか、泥だらけか、厳しい状況でありましたけれども、(「獄中からの賛美」書物を読んでおられない方ぜひ読んで下さい。素晴らしい本ですよ。)牢獄の中から賛美を捧げたときに奇跡が起こりました。皆様も同じことを経験するでしょう。 神様はどこに行っちゃったのだろう? 私は神様に忠実なのに、まともに献金もしているのに、礼拝も守っているのに、何故こんな事が起こるのかしらと思えるような時に、深いレベルの礼拝に導かれているということを知ってほしいという内容であります。 *神は別離のように思われる期間を用いて、信仰のテストをされ、友情を成長させて下さ さいます。 〇魂の暗黒期・神の不在の訓練・心の冬・信仰のスランプ Ex:フロイド・マッククラウド氏 神様がどっかに行っちゃった。行かれてしまった。離れてしまったようなその期間、その様な状況の中でのプロセスを通して主の働きが進められていくという。魂の暗黒期と表現する人もいらっしゃいます。ある人は神の不在の訓練などと有名な伝道者たちが語っておられますが、ある時は心の冬、ある人は信仰のスランプ。色々な表現法があるかと思います。遠藤周作は「神の沈黙」。神様、あなたは黙っていらっしゃいますね、というような経験。こういう真ん中で私たちは神様の恵みを経験します。 「荒野で主の恵みを得た!」一緒に云いましょう。荒野で主の恵みを得た! フロイド・マククラウドさんというお方が、面白いことをおっしゃっておられますよ。 「ある朝、目が覚めると、あなたは自分の霊的な感覚がすべてなくなっていることに気づきます。あなたは祈りますが、何も起こりません。悪魔を叱りつけてみるものの、何も変わらないのです。(要するにわたしたちは「サタンよ退け!」と言っても、また、熱心にお祈りしても、なんの変化も見えない。) 霊的な訓練を積み重ね、友達にも祈ってもらいます。あちらにメールを、こちらにファクスを、電話をかけても、また、思いつくすべての罪を告白し、知っている罪も知らずに犯した罪も、ごめんなさいと懺悔をする、悔い改めをする。知人という知人には皆赦しを求めて謝罪します。私が悪かったら許して下さい。断食の祈りもやってみます。しかし何も起こりません。これ以上何をしたらいいんだろう。次第に、いつまでこの霊的な暗黒が続くのだろうかと不安になりはじめます。数日たちますか、数週間でありますか、数カ月でありますか、それともこんな状況が一生続くのだろうか。もしかすると祈りは神に届いていないのではないだろうか。多くの全くの絶望に陥ったあなたは、『自分は一体どうしてしまったのであろうか』と叫ぶような状況になることがあるでしょう。」と言う厳しい内容のことが書かれてありました。まるで全てがベールで隠されてしまったように、神様が見えなくなってしまっている。 信仰を持って間もないときには、神様は我が儘なお祈りも、または、自己中心的なお祈りも、よくこんな祈りが答えられるかと思えるようなお祈りも、次々に答えてくださって私達を励まして下さるということがあるかと思いますね。洗礼を受けて1年位といいましょうか、半年位といいましょうか、長く続いている人もいると思いますけれど、よく祈りが答えられた、沢山いらっしゃるでしょう。今まで一度もそういう祈りの答えられていない人は、これからですから期待しておいて下さいね。 でも、ある時にパッタリ何を祈っても、自分の悔い改めもして、神様の前に忠実にしても、何だかさっぱりうまくいかない、そういう伝道者は世界中にたくさんおりますよ。献身者もたくさんいらっしゃいます。 どうしたのだろうか? そのときにはじめて自立的なクリスチャン、一人前のクリスチャンになる訓練がなされている、ということを知るべきであろうというメッセージであります。 〇イザヤ59の1〜2、Tエペソ4の29〜30、Tテサロニケ5の19 イザヤ書の59章の1節・2節。ご一緒に朗読いたしましょう。 「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」アーメン。 こういう苦しみというものは、私たちにとって辛いことであります。 いま、59章の1節ですが、こういうことが起こり得るんですね。 58章の10節〜12節。 「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。(すごいね。)あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、(いいですね、クリスチャンの生き方ですね)、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる」。 13節「もし、安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、・・・」云々。 私たちがもう一度襟を正して、日曜日は日曜日としての生き方、ご奉仕はご奉仕としての生き方をするならば、あなたがたに新しいことがなされますという、そのみ言葉の次に出て来るのが、次の59章。一体何がこの現実をこうしているのであろうかということ。 今、読みました58章の12節に、人はあなたを『破れを繕う者』。ロバート・シュウラー先生が「わたくしはアメリカの破れを繕う者でありたいと願っています」と日本にこられたときにおっしゃっておられました。 私たちの日本の国は、10年前、15年前、20年前はこんなではありませんでした。今、破れて、破れて、破れてどうしていいか分からない状況の中におります。あなたの周りに破れを繕う者がいないということ、間に立ってとりなす者がいないということ、これはクリスチャン、今立ち上がるべき、やるべき内容であろうと思います。 イエス様でなければその破れ、イエス様でなければその穴を埋めることが出来ないと、そうお思いになりませんでしょうか。これは私たちに委ねられたチャンスであります。 エペソ書4章:29〜30節 「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」 30節は、ごいっしょに読みましょう。 「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」アーメン。 聖霊を悲しませてはいけない、というメッセージであります Tテサロニケ5の19 「御霊を消してはならない。」 共通していますでしょう。それは著者が同じパウロ先生の心の中には、私は聖霊を悲しませてはいけない、聖霊を消してはいけない、ということを心に留めていたということが分かるでしょう。 お聞き下さい。大和カルバリーチャペルは不十分な教会です。日本で最も祝福されている教会ですけれど、私はプロの牧師ですからこの教会の欠点をよく知っています。この教会がどうすべきであるかも神様から示されておりますけれど、出来ないときは待たなければなりません。いいですか、出来ないときは待たなければなりません。いいですか、私たちはどんなに勉強して、私のように世界中まわって教会成長を勉強し、神学校で教会成長や、牧会学の教授をしていたとしても、神様はすべてのことに時を与えて下さいます。 神様の時よりも早く行くということは大変危険なことであります。教会は不十分な穴があいていることをわたくしは存じあげております。牧師が不十分であることを私自身がよく弁えております。しかし、「わが恵み汝に足れり」と今週勉強しました。 どうぞ皆さんこの群れを愛して下さい。転入会なさった人も、また、洗礼をお受けになった人も、この教会でお客さんが一人もいないように、この群れを愛して下さい。弱さがあっても、欠点があってもこの群れを愛して下さい。 「私はこの教会を愛します!」、ご一緒に言いましょう。「私はこの教会を愛します。」 お出掛け姉さんみたいにならないで下さい。勉強したければ、この教会はカルバリー聖書学院に大枚を投資して教授を日本中から招いています。非常に優秀な教授です。それを一般の信徒たちに開放しています。これは凄いことであります。この教会で満足できる状況を作ろうと努力していること知って下さい。どうぞ、聖霊様を悲しませないように。聖霊様を消さないように。どうぞ、ご注意なさって下さい。 *クリスチャンの間違い=神ご自身よりも感情的体験を求めている。 事実−信仰 ―― 感情 ビル・ブライト先生が四つの法則を発見なさったときに、こういう図を最後にお書きになられました。 私たちはイエス様を信ずると、感情が伴うという風に、喜びがあふれるという風に、表現します。 「あなた、救われても喜びが足りないわねえ」。 「洗礼式のときにニコニコしなかったわね」。「あなた、あの喜びは何処に行っちゃたの?」。まあ、色々あるかと思います。 私は13歳の11月6日にイエスを信じて、本当に生まれ変わりました。ですから、感情が爆発しました。教会の中で一番前に座って手を叩いているのは私だけでした。親父から怒られましたけれど。私は本当に人生が変わりました。喜びが溢れました。 でも、この絵と言うものはとても意味があります。事実につながる信仰、信仰につながる感情、チョット線が長いでしょう? 必ずしも感情が伴わなくても、神様が私たちを愛しておれるその事実を信じるということに意味があるというのが、ビル・ブライトのこの世界中に影響を与えた内容であります。 神を感じるということよりも、信頼するということの訓練が重要であるということでしょう。神様を喜ばせるのは感情ではなく、信仰だという、この時点をいつでも知りたいと思います。じゃ感情を否定するかというと、そうではありません。この教会はバランスをとるための十分な知恵と、神様からのお働きを感じているのであります。 *あなたが信仰において最も成長するとき=すべてを失ったとき。 ・ヨブ記1の21・2の10・Tコリント13の7・詩篇119の68 Ex:安藤せい姉 Ex:伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」 あなたが信仰において最も成長するときは、すべてのものを失ったときですと言う、非常に厳しい内容が書かれております。 ヨブ記の1章というのは、すべてを失ったヨブの出来事が書かれています。 ヨブは1日ですべてを失いました。男の子が7人、女の子は3人その全部が死にました。参りますね。羊が7千頭、ラクダが3千頭。牛が5百くびき。ロバも竜巻のために、おお風のためにみんな失ってしまいました。 ヨブ記1章20節21節。ごいっしょに朗読いたしましょう。 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭を剃り、地にひれ伏して拝し、そして言った、「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名は誉むできかな」。(凄いね) 主が与え、主が取られたのだから文句は無い。いや、主をほめたたえます。 22節にはすべてこのことにおいてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった、というねえ。 2章の10節には、凄いことが書いてあって奥さんが 「あんた、まだ神様を信じているの? 神を呪って死んじゃったらいいわよ」って。これは、世界最大悪妻の一人と言われる人物でありますが、しょうがない女ですよ。この人は。 2章10節、ごいっしょに読みましょう。 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸いをうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか」。すべてこのことにおいてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。 まあ、これはスタートですからうまくいった、というところもありますけれども、ヨブ記は長いですね。最後まで読みこなすのが難しいほど大変ですね。でも、彼は本当に凄い経験をして私たちにこの経験を残して下さいました。 ここに第1コリントの13章7節と書いてありますけれど、なんであるかというと、愛は寛容にして慈悲ありの結論であります。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛は永遠であるという箇所ですよね。ヨブはそうでしたね。神様を本当に信頼して、そして、期待してそれを乗り越えることが出来ましたね。 詩篇の119編の68節は、ごいっしょに読みましょう。 「あなたは善にして、善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」。アーメン。あなたは善にして、善をおこなわれるお方です。主よ! あなたは最善以下をなさらない神様です。 ここに、安藤せい姉、と書きましたけれど、私のお母さんのように私を15歳から祈り支えて下さった姉妹であります。 いつか証をなさったときに、「私は28年間、この詩篇119編の68節で守られてきました。つらい経験も、行き詰まった経験もありますけれど、私の主は、善にして善をなしたもう。最善以下をなさらない。これで私は耐えてきました。」 今日、私はそこに特殊なことを書きましたでしょう。何を書いたかといいますと、 伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」。 高木美智子さんがわたくしに自分の証を書いて届けて下さいました。全部は読めないんですけれど、これはどのぐらい岡村先生に届いているか分りませんけれど、これはアメリカ人に伝えるべき内容であるかと思います。 1941年太平洋戦争が始まりました。そして、1945年、昭和20年には日本中、大変でした。戦局が厳しくなり、父親一人が東京に残って、母と(その当時のお母さん35歳)姉、弟たちは山梨県甲府市の母の実家に疎開しました。私は学童疎開、集団疎開で新潟に行っておりました。(みんなこういうのが日本中当たり前でした。僕も伊豆の方に一人で行きました。)1カ月後に出産を控えて3月の10日に母は頼りの夫と家を失いました。東京に東京空襲と言ってものすごい爆弾を、空が真っ暗になるくらいにB29が飛んできて、民間人ですよ、戦争と関係のない者たちに物凄い大量の爆弾を落しました。その時の大きなショックと自分の夫を失ったことがわかった喪失感で、赤ちゃんを産む力、赤ちゃんはその時、お腹で9カ月であったのですけれど、出産する力、(僕は男だから分からないけれど)、かなり気力、体力がなければ出来ないのに栄養も失調だから、やせ衰えた母を姉はリヤカーに乗せて勇気づけながら産院に運んだそうです。 そして父の召天から1カ月後、4月10日、小さな5男の弟が生まれました。3カ月が過ぎ、戦況がいよいよ厳しくなり、再疎開先の甲府も焼夷弾の嵐に見舞われました。そのとき、幸い近くの田圃があり、母は5男を背負って家族みんなで布団をかぶって田圃に、家にいると焼かれちゃうから(若い人達もちょっとこういう現象を想像してみて下さい)、田圃に逃げて田圃の中に布団をかぶって隠れた。でも凄い火炎で布団が足りないことに気づいて、私の姉は周囲の反対を押し切って、(お姉さんですよ、女ですよ)、炎に包まれた家に引き返して、みんなに布団をかぶせたそうです。ところが、布団をかぶっても火がついたら大変だから、その時近くの刑務所から避難してきた囚人が、家族全員に布団の上から懸命に田圃の水をかけてくださり助かったそうです。また途中母の背中でぐったりと窒息しかかった5男を急いで背中から降ろし、蘇生させたりしたそうです。やがて空爆が止み、布団の覆いを外したところ、1メートル先に不発弾が落とされ大きな穴があったそうです。やがて助けて下さったその方は名前も告げずに刑務所に戻って行かれたそうです。(不思議ですねえ。天使のようですね。)着のみ着のまま、泥まみれの家族は、5男を焼け跡から拾った鉄甲に入れ、まだ暑い甲府の街を素足で(靴もみんな焼けちゃったから)素足でとぼとぼと、(乞食みたいなもんでしょう)、これが戦争中、トボトボと25キロほど離れた父の実家目指して歩きつづけたそうです。途中、富士川沿いの或る家で乞食のような被災者家族を気の毒に思い(ちょっと想像できるでしょう。着のみ着のまま泥まみれ、焼け跡から歩いてきたオンボロ、オンボロですよ。)、軒下でおにぎりと飲み物を用意して下さいました。(映画みたいだね。)母と姉はいつも私にその時のことを感謝して話してくれます。 戦況の雲行きがいよいよ怪しくなり、生き延びる望みもなくなり、母はどうせ死ぬなら家族一緒に死にたい(みんなそのように思いましたよ)と考えて。叔父に頼んで私を(美智子さんを)新潟から呼び寄せて自分の所に引き取りました。久しぶりで家族一緒の生活が父の実家のお蔵の2階で始まりました。母は生活のため衣類の行商をし、姉は家事いっさいを切り盛りしました。往復12キロの道を徒歩で通う高校生のわたくしに姉は毎夜、自分の夕食をきりつめ私のために残してくれました(この前なくなったお姉さんのことを思い起こして私に伝えようとしているのですね)。村では歓迎されざる疎開者でした。(もう、本当に疎開の人はいじめられたんですね)。 父親代わりを一身に努める家族思いの姉と、子供が不憫と言って身を粉にして働く母の愛と、何よりも主の豊かな守りと哀れみの中で家族全員病気もせず、村の人たちからは、 東京から引越ししてきた、 お父さんを失い、家を失ってそういう貧しさの中で生きるわたしたちを「お蔵の衆はご苦労なし」とそういう言葉で言われるほど、明るく、笑いの絶えない生活をしていました。 こういう中で、姉はこういいました、悩みや怒りが心にあり虚無的な生き方をしているわたくしに対して、「美智子ちゃん、どうして、神様がいないなんていうの? 私は生まれてから神様がいないなんて思ったことなど、一度もないのに」。またあるときは、「美智子ちゃん、あなたはわざわざ買ってまで苦労するのねえ。苦労しなくても神様から祝福される道があるのにもっと素直になればいいと思うわ」など幾度となく優しく言ってくれました。 その後、まだまだ続いて書かれてありきますが、本当にあの時代のことを思い起こして神様の守りと、こうやって避難民のように焼け出されたご家族が苦労している中で神様は最高に素晴らしいことをしてくれるのよ、と言ってくれたお姉さんのことを思い起こしているのですという。 伝えたい戦争の「悲劇の中の賛美」。今日皆さんにお伝えしたわけであります。 どんなことがあっても戦争なんかするものではありません。戦争に巻き込まれないためにクリスチャンの政治家も、そして、私たちクリスチャンも、もっとたくさんの人たちが生み出されることを私は期待します。 *神に見捨てられたと感じることがあっても、その感情に左右されずに神を信じ続ける時 にあなたは最も深いレベルで礼拝しているのです。 私たち日本は、戦後60年間、人を一人も殺していないという誇りがありますけれど、神様は私たちに今、厳しい状況のなかで神を本当の意味において賛美することを教えようとしておられると思います。 韓国では、たとえそうでなくても、殺されても、私は偶像礼拝をしませんというクリスチャンがたくさん起こされました。今のリバイバルはその人たちによってであります。 ◎神があなたのためにすでになして下さったことを想い出す―信仰の宣言。 ・詩篇103の2 神があなたのためにすでになして下さったことを思い出すこと。これが解決の道、乗り越える秘訣はこれです。いいですか? 神様が私のためにして下さった恵みを数える。数えてみよ、主の恵み。 詩篇103編の2節。 「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべての恵みを心にとめよ。」 新改訳聖書は、「主のよくして下さった事を何一つ忘れてはいけない。」 だから、恵みを数えることが必要であります。それと同時に、皆さん、信仰の宣言であります。 私の神様は良い神様です。ご一緒に云いましょう。 私の神様は良い神様です! “God is so good”神様は私にとって良い神様です。 インマヌエルの神様。私といつでも一緒にいて下さいます。これは現実感情が伴わなくても、信仰の告白をし続けるということが重要だ、と言うこと。神は私のために計画をもっていらっしゃる。 こうやって良い神様を、恵みを数えるということと同時に、この世の中において私の上になされた最も素晴らしいことは、イエス様の十字架と復活であります。これをいつも告白する。 私のためにイエス様が十字架にかかって死んで、私は永遠のいのちを頂きました。私の五体がめちゃくちゃにされても、癌で蝕まれたとしても、貧乏人になって食べるものがなくなって飢え死にしようとしても、イエス様は私のために十字架にかかって死んで下さった、あなたにして下さった恵を忘れてはならない。そのお方は3日目に甦えられたお方です。 リック・ウオレン先生はなぜ神は身の毛もよだつような凶悪な虐待行為をお許しになられたのか。そのことを心にとどめて、人生における、神様なんか見えなくなっちゃった、神様なんかどこに行ったか分からなくなっちゃった、そういう思いのときにこそ、この信仰の宣言を通して乗り越えて行きなさいと勧めておられるのです。 私たちは聖霊様を頂いたことを告白できる事を本当に感謝しています。 この教会に聖霊様がいらっしゃいます。聖霊様を受けて、聖霊様に満たされ続けて行けることができることが許されています。 それだから、私たちはこの地上で何が起こったとしても、神様が見えなくなっちゃったとしても、私たちの信仰がためされ、もっと深い礼拝をささげるため、思うようにいかないことたくさんあるでしょう? どうして私の賜物が用いられないのか。 どうして私のことに気付いてくれないのか。どうしてわたくしはこういうふうに考えてお祈りしているのに、私の牧師はぼんくらなのか、どこを見ているのか、というようなことがあるかも知れませんけれど、すべてに時があります。神様が訓練していて下さいます。私たちはこういう信仰を養われて、備えられているときに、主は全世界あまねくみそなわし、自分に向かって心を全うする者のために、力をあらわし、その人をピックアップして下さいます。 この教会はそのことのために、これからはもっと祝福されます。この教会に属する、関係するすべての人は、この信仰、この本物の信仰を持ちましたならば、神様がとき来たりなば用いて下さいます。 姉妹(宮川姉)も、専門家の、これは声楽家の宿命的な病気であると言うことでありましたけれど、それでも感謝して賛美することが問われるわけでございましょう。 「どうして祈っているのにこんな事が自分に起こるのですか?」ということが沢山おこります。それは深いレベルで、深い次元で、私たちの信仰を引き上げて下さっているんだと言うことを、この年をとった牧師である私はよく理解できます。 私は今日まで死ぬほどの苦労、神様、私を殺して下さい。私を早く殺して下さい。私は早く死にたいです。 心臓発作で死にたいです。 私はこの苦しみに耐えることは出来ません。そういう事を何度も経験してきました。でも今、あれを耐えることを通して、本当の神様の礼拝を学ぶことが許されたことを神様に感謝しています。 これから新しい世界がきます。霊とまこととをもって神を礼拝する。私たちの人生に何が起こっても、主を礼拝して進んでいくんだ。この信仰をもって歩み続けていきたいと、そう思います。 私の神様は最高に素晴らしい神様。私はこの神様に愛されて、この神様に選んでいただいて、永遠の命をいただいて、そうして天国に行ける存在ですけれども、この地上に私たちは派遣されているという自覚の中で生きることができる。こんな幸せなことはありません。主を心から愛しお従いする者は大きな声でアーメンと云いましょう。アーメン。 お祈りします。 天のお父様、“数えてみよ、主の恵み”と先ほど賛美しました。幸せなことです。私たちの人生で、神様どこを向いているのですか? 私をもっと用いて下さい。神様、わたしの寂しさが分かりませんか? 色々と神様に問うこと、文句を言うこと、愚痴を言うことが私たちの人生に起こりますけれど、イエス様あなたは最高に素晴らしい神様です。また、われわれの先頭に立ち、また、しんがりに私たちの群を命がけでお守り下さる方です。何よりもイエス様の十字架と復活を感謝します。聖霊様を下さった事を感謝します。幸せいっぱいです。イエス様、恵まれて、感謝して、いつも主に顔を向けて輝いて、人生を歩ませて下さい。主イエスキリストのお名前によってお祈りします。 アーメン |
2006年9月20日祈祷会メッセージ |
第13章 神に喜ばれる礼拝
礼拝という言葉には二通りの意味があると思います。 一つは日曜日などの主日礼拝、聖日に礼拝を捧げるということ。そして、もう一つは個人的な礼拝の時間と言いましょうか、個人的な神様との交わり、神様を崇めるディボーショナルな意味での礼拝を捧げる時間。この両方を足して礼拝という一つの言葉を使っているということを初めにお伝えしておきます。 今回の学びの中心聖句と言ってもいいと思いますが、マルコの福音書の12章30節のみ言葉(New International Version、という聖書の訳でありますが)を皆さんとご一緒にお読みいたしましょう。 「心と、思いと、知性と、力の限りを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」 アーメン。(マルコ12:30 NIV) 口語訳聖書には、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ。」という言葉でありますが、原文のギリシャ語を見てみますと、このように訳されております。 「あなたの心の全体をもって、 あなたの魂の全体をもって、 あなたの知力の全体をもって、あなたの力の全体をもってあなたの神である主を愛しなさい」。 リック・ウオレン先生は言われます。 神はあなたのすべてを求めておられます。神はいい加減な献身や、あいまいな従順や、残り物の時間やお金には興味を持たれません。神はあなたの人生の切れ端ではなく、あなたの100%の献身を求めておられるのです。 非常に鋭いと言いましょうか、厳格なと言いましょうか、そのような表現だと思いますが、今晩はこの世界に挑戦をしたいのであります。 神様はわたしたちの人生の一部分ではなくて、心と、思いと、そして知恵と力、そのすべてを求めておられる。ですから、今晩はこの四つの側面から、神に喜ばれる礼拝ということについて学んでまいりたいと思います。 <神に喜ばれる礼拝の四つの側面> 1:神は、私たちの礼拝が正しくなされることを喜ばれる ・礼拝には正しい捧げ方があり、また間違った捧げた方もあります。 ・聖言の真理に基づいた礼拝、聖書に記されている通りの礼拝をする。 リック・ウオレン先生は、礼拝には正しい捧げ方もあれば、間違った捧げた方もあると言っておられます。そして私たちは自分勝手な見解に基づいて礼拝を捧げてはならない。つまりどういうことかと言いますと、聖言の真理に基づいた礼拝、聖書に記されているとおりの神を礼拝すると、ヨハネの福音書4章23節(NIV)によりますと、 「真の礼拝者は霊とまこととによって父を礼拝します。彼らこそ父が求めておられる礼拝者です。」 ここに使われている「まこととによって」というこの言葉、これが聖書に記されている通りの神を礼拝するという意味でありますが、しかし、もう一つの側面、まことだけではなく、霊によって神を礼拝するというのは、一体どういうことかと言いますと、次、2番目です。 神に喜ばれる礼拝の姿、 2:神は、私たちの礼拝が本物であることを喜ばれる。 (あなたが本気であるかどうかが問われる) ・情熱的であると同時に、教理的。心も頭も動員する 本物であるという表現は興味深いなと思いますが、リック・ウオレン先生は、神様は、私たちの言葉が私たちの言葉以上に私たちの内側、私たちの心の態度に注目をしておられるとこの本の中で言っておられます。 マルコの福音書12章に書かれてある、心と、思いを尽くして、と書かれている言葉は、純粋な気持ちで心から礼拝を捧げるという意味だそうです。純粋な気持ちで心から礼拝を捧げる。そして、純粋であるということは、それは本気だということです。あなたが本気であるかどうかが問われている。ただ、純粋であるがゆえに、まあ、極端に走ってしまうと言いましょうか、誠実であっても必ずしも正しいとは限らないということもあり得ます。多くの若者たちが、純粋であるがゆえに間違った宗教に入ったり、 教えによって振り回されることがありましょう。ですから、神に喜ばれる礼拝と言うのは、情熱的であると同時に、教理的でもあるという礼拝。私たちの感情、心が込められた真心からの、本気の、本物の礼拝であると同時に、なお且つ、私たちを正しい聖書への理解へと向ける、そのような礼拝が、この本物の礼拝と言いましょうか、心と、思いを尽くした礼拝だという風にリック・ウオレン先生はそのように説明しておられます。私たちは心も頭も動員する必要があるのですと。 昨日、成長セミナーの中で大川先生がメッセージをしてくださり、本当に大きな恵みをいただきました。その中で、日本人のワサビ文化と、韓国人の唐辛子文化というのは、違うのですよ、と説明されました。しかし、違う、ということを理解しつつ、チョウ・ヨンギ先生から学んでいることを純粋に受け止めて、そしてこれを実行して行きましょうという、バランスの取れたメッセージをしてくださり大きな恵みでありました。 先ほどもお読みいたしましたが、ヨハネの4章23節のメッセージバイブルがそこに書いてあります。 「父はこのような人々、すなわち礼拝において、神のみ前にありのままの自分を正直にさらけ出す人々を求めておられるのです。」(ヨハネ4:23 Msg)とこのように書いてあります。 私たちが何かに本気になったり、そして、夢中になるとき、と言うのはありのままの自分というものが出てくると私は思います。そして、そのありのままの自分というものは、ある意味、本物の自分、本物の自分の気持ちが表われます。そして神様は、そのような心で礼拝をすることを喜ばれるというのであります。 Ex:ゲイリー・トーマスの【聖なる小道】 ゲイリー・トーマス氏の書かれた【聖なる小道】という本がありますが、この本の中には、様々な礼拝のスタイル、礼拝の方法、神様への愛を表わす表現方法があっていいのだ、というふうに書かれてあります。 例えば、ある人物にとってはアウトドア野外活動を楽しむことを通して、神様へのこの創造主の神様を思い、そしてその神様に愛を表わす、その神様と交わりを持つ、すなわち、ディボーショナルな時間を持つことがあってもいいではないか。 また、ある人にとっては、歌うことかもしれない。ある方にとっては本を読むことかもしれませんし、ある方にとっては絵を描くことかもしれません。ある方にとっては踊りを踊ることかもしれない。さまざまな違った方法や、そして、それぞれの人物の個性を生かすことが神様の前に喜ばれる礼拝になると言うのであります。 これは、わたくしが今年の夏に体験したお証しでありますが、ヤング・チャペル、中学生高校生たちと一緒にキャンプに行きました。その中で、実は一人体調を崩してしまった生徒が居たのですね。一人の女の子の生徒でありました。非常にみんなで心配をして、その生徒のためにお祈りをしたわけでありますが、なかなか体調がすぐれず礼拝の途中でも後ろの方でぐったりしている様子でありました。ある礼拝の中で、私がメッセージをする前に一つの歌を独唱しました。それは、その日の中心的なメッセージのテーマを伝えるそのような歌でありました。実は、この歌はスペイン語から日本語にわたくしが訳した歌でありました。そして、その礼拝の中で1番後ろの方でぐったりとした様子だったその生徒というのは、実は、お父さんとお母さんがスペイン語を話すスペイン語の世界のなかで育てられた子供でありました。ですから私は最初は日本語で、次に、もう一度スペイン語でその歌を歌いました。その生徒にこの賛美の中のメッセージが伝わる様にと願いつつ賛美させて頂きました。他の生徒たちは分からなかったかも知れません。しかし、そのスペイン語という独特のそして個性的な方法で賛美の中でメッセージの言葉が彼女の心に届いたのでありましょう。そのキャンプから帰りましてからその生徒は本当に変わりました。なによりも優先させてヤング・チャペルの礼拝を守るようになりました。そして、まだ未信者だったわけでありますが、自分から洗礼を受けて、そして、「クリスチャンになりたい」と私に伝えてくれました。主のみ名を崇めます。 この本の中には、最も良い礼拝のスタイル。それはあなたが最も自然に神に対する愛を表現できるスタイルだ。神があなたにお与えになった背景と個性に基づく夫々のスタイルがあって良いのです。神は、あなたがあなた自身であることを願っておられます。神はあなたがあなた自身であることを願っておられます。 私は自分がスペイン語圏の教会の中で、勉強させて頂いたこと、また、自分が幼い頃からサッカーが好きでいつか南米に行きたい!そのような思いを持っていたこと。自分が牧師の家庭に生まれたこと。貧しいそういう状況の中を通る経験をしたけれども、でも、そんな中で自分が生かされてきたこと、私が私であることを神様に感謝したいと、そのように思わされました。そして、その全てを以て神様にお棒するその礼拝を神様は喜んで下さるんだということに本当に感動を覚え主のみ名を崇めたのであります。 サッカーの中田英寿選手は、「自分探しの旅」という言葉を使いましたが、私たちの毎週毎週の礼拝、神様との交わりと言うのは、まさに自分を発見することができる、そのような礼拝であります。 礼拝の中で私たちはありのままで主のみ前に跪くことを通して、神様はそれを喜んでくださり、そして、私たちは自分が生かされていることのその素晴らしさを感じることができるのです。私が私であることを喜んで下さる神様に出会うそれが真の礼拝なのです。ですから、本気になって、本物の礼拝を主にお捧げしてゆきたいと思います。それが第2番目のメッセージであります。次ぎ、3番目に神様に喜ばれる礼拝。 3:神は、私たちの礼拝が思慮深いものであることを喜ばれる。 ・礼拝の中の言葉、表現方法、配慮の面に関して。 知性を尽くして神を愛しなさいという言葉がありますが、そのことに関して、いくつかの提案をこの本の中では紹介がなされていました。 しかし、その中の一つだけを紹介いたしますならば、それは、礼拝が信仰をもっていないような人たち、すなわち、未信者の方々にも理解できるものであるために、私たちは知性を尽くして、配慮をもってと言ってもいいかもしれませんが、思慮深い礼拝を神様にお捧げしていくべきだと言うことであります。 コリント人への手紙、第1の手紙14章の16から17節(CEV)には、このように書いてあります。 「あなたがたが霊によって神を賛美しているとき、新来者があなたがたの礼拝のなかに入ってきたとしましょう。もし彼らがあなたがたのしていることを理解出来ないのであれば、彼らはどうしてアーメンと言って心を合わせることが出来るでしょうか。あなたがたは素晴らしい方法で神を礼拝しているかもしれませんが、それは他の人の益にはならないのです。」 コンテンポラリー・イングリッシュ・バージョンの英語訳であります。 私たちの教会の中でも、未信者のおられるところでは決して異言では祈ったりはしないこと、また激しく手を挙げて賛美をしないようにしましょうという指導がなされているということは、それは、初代教会の時代からすでに続いている聖書的な礼拝の姿であったということができると思います。 また、コリント人への手紙の第1の手紙の14章の最後には、すべてのことを秩序正しく行いなさいという言葉でまとめられております。 私たちが配慮をもって、そして、思慮深く礼拝をお捧げしていくということは、それは神様にとって本当に喜びであるということ。毎週日曜午前の礼拝が、スカイ・パーフェクトTVでそのまま流されているということや、また、宴会礼拝のなかで毎週工夫がなされ、そして、分かり易いメッセージが語られているということ。それは本当に私たちが大切にしていかなければならない、当たり前のように思ってはいけない。いつも大切にしていかなければならない、礼拝をお捧げするその一つの側面であると思いますし、なによりもそんな礼拝の姿を私たちの神様は喜んで下さるのであります 最後に第4番目であります。神が喜ばれる礼拝。それは、 4:神は、私たちの礼拝が実際的てあることを喜ばれる。 「あなたがたの体を神に喜ばれる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。これが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。」(ローマ人への手紙12:1 NIV) リック・ウオレン先生はこのように言われます。 なぜ神はあなたの体を求めておられるのでしょうか。それは、神は礼拝に関して実際的であられるのです。力を尽くして神を愛しなさいと主が命じられた時、主は礼拝には努力とエネルギーが必要であると言われたのです。礼拝はいつでも自分に都合のよい快適なものではなく、時には、それとはまったく意志による行為であり、自発的な犠牲を意味するものなのです、とそのように言われました。 自発的な犠牲を意味するもの。例えば、賛美をしているときに、その日は自分の好みでない賛美と言いましょうか、賛美に気乗りがしない、気分が賛美をする気持ちになれないようなそういう時、そういう時でもその賛美の中に身を置き続けること。それは、神様の前に犠牲を払うと言いましょうか、神様への捧げものになるのだと言うのであります。また1週間の生活のなかで疲れがたまって、そして、様々な出来事のなかで、本当にそのまま寝ていたいと思うようなことがあるかもしれません。しかし、床を蹴るようにして礼拝を守ることを厳守すること、これも神様への力を尽くした礼拝になるという。また、決して自分にゆとりがあるわけではないにも関わらず、他者のために犠牲を払って何かを捧げる、または、手を差し伸べて助けをするということ。それら一つ一つのことは神様のみ前に貴い捧げもの、神様のみ前に喜ばれる礼拝になるのだと言うのであります。 マザーテレサが1979年にノーベル平和賞を受賞する時に、このように言われたそうであります。 「神様を目で見ることは出来ません。ですから、ときには目に見えない神様に愛を現わすということが難しい時があります。しかし、私たちの隣りにいる存在は、私たちの傍らにいる人は、いつでも見ることが出来ます。ですから、もしも神様が私達の目に見えたら、これをして差し上げたいと思うことをその隣りの人に私達はするのです。」 と言われました。 来月なされる10月7日8日のリーベ・クロスターというオペレッタは、まさにカトリックのシスターたちの修道院のなかでなされるそのような出来事をオペレッタにしたものであります。まあ、コメディーでありますので、ちょっと清らかな雰囲気とはかけ離れたところもあるのかもしれませんけれども、しかし、これも伝道の機会であります。伝道のチャンスであります。私たちは犠牲を払ってでも伝道するために、このチケットを買って誰かにプレゼントするということも神様の喜ばれる礼拝になるのではないかなと思わされます。 ダビデは心の礼拝を捧げるためには犠牲を払う必要があるということを本当に知っていたのでありましょう。 サムエル記下の24章24節をご一緒にお読みいたしましょう。 「私は何の費用も払わずに、主なる神に対して生贄を捧げたくはありません。」 (サムエル記下 24:24TEV) 礼拝と言ってもいいかもしれません。同じサムエル記の下の6章の中には、契約の箱がイスラエルの国の中に運び込まれるという出来事記されてあります。その時にダビデは力の限りを尽くして踊ったと書いてあります。そして、この契約の箱が6歩進むたびにダビデは神様のみ前に生贄に捧げた牛をほふって、また、リビング・バイブルには、子羊を捧げて犠牲を払って主を礼拝したと書いてあります。私たちが毎日の生活のなかで6歩あゆむたびに、主よあなたをほめたたえます、あなたを賛美します。いつも神様のみ前に何かを捧げたい、 力の限りを尽くして主をほめたたえたい、 愛して生きたい。その様なことだと思います。ダビデは礼拝とは神様の前に犠牲を払うことだ、ということを確信していたのだと思います。 この月曜日、瀬戸カルバリーチャペルの献堂式において開かれた聖書の個所があります。その個所の1番最後はこうでした。 歴代誌下の7章4節。「そして王と民は、みな主の前に犠牲を捧げた。」 瀬戸の教会は勿論、この大和の教会からも大勢の方々の多くの犠牲と言いましょうか、捧げものを以てあの麗しい美しい会堂が建て上げられました。見事完成しました。 そして、捧げられましたのはお金だけではありません。涙と、祈り, なによりも、大川謙司先生、美奈子先生が、本当に心を尽くして、思いを尽くして、知恵を尽くして、力の限りを尽くしてお捧げになったあの新会堂。ちょうどご長女の心愛(ココア)ちゃんはマタイの福音 書の中に出てくる「心を尽くして神を愛する」というこの言葉から名前がとられていますが、もしかしたら、いいえきっと、ココアちゃんも何らかの犠牲を払って、そしてこの会堂は完成したのでありましょう。何よりも大川先生、道子先生にとってもどんなに大きな喜びであったでしょうか。 大川先生は、この献堂式のなかで「永遠の人柱」というタイトルでメッセージをくださり大きな恵みをいただきました。そこには、工事関係者、未信者の方々もこられましたので先生が配慮をなさってさまざまな話題をお語りになられました。 マタイによる福音書の16章を開いて、「私がこの岩の上に私の教会を建てよう」とイエス様が言われたこと、そして、使徒行伝の20章では「み子がその血をもってあがなわれた教会」と言うお話をなさいました。新改訳聖書には「み子がその血をもってかいとられた」。 A.T. ロバートという人は「神ご自身がご自分の血を流されてあがなわれた教会」。神様ご自身の尊い血という犠牲を払って買い取って下さった。それが教会なんだと言うのです。 沢山の捧げものが会堂のために、この教会のために捧げられたでありましょう。しかし、何よりも犠牲を払われた方は私たちの主イエス・キリスト、神様ご自身であるということ。そのあがないの犠牲のゆえに私たちは心を尽くし、思いを尽くし、知恵と力の限りを尽くして主をほめたたえ、主に礼拝をお捧げするのであります。 犠牲を払う、または、捧げるということに関して私が大好きな一つのお話があります。 それは11世紀の聖者と言われたジェロームという人物が聖書の翻訳をしているときの出来事でありました。 聖書の翻訳と言うのは本当に多くの犠牲が払われなければ出来ません。誰にでもできるという働きではありません。大きな働きであると思いますが、彼がその働きをしているとき祈りを捧げていました。祈っているときにそこに主の幻、イエス様のお姿が現れて、そして、ジェロームの前にイエス様が立たれました。 ジェロームは本当に感動と喜びと、驚きをもって、主の前に言いました。「主よ、私はあなたに何かを捧げたいのですが、何を捧げたら良いでしょうか?」 イエス様は言われました。「私はこの天におけるもの、地におけるもの、すべてのものを支配している。すべてのものは私のものだ。あなたは一体何を捧げようと言うのか。」 「そうですね。私は今、聖書を翻訳していますから、この聖書が完成しましたら、それをあなたにお捧げします。」 イエス様はこう言われたそうです。「そんなに、それほどまでに何かを捧げたいのであるならば、一つだけ、一つだけそれを私は貰おう。それは、あなたの罪とあなたの苦しみを私に捧げなさい」。 ある人はこう言いました。私たちの絶望やため息、無気力や自暴自棄、そんな物さえも神様は捧げものとして受け止めて下さる。私たちはこれらが恥ずかしく醜いものに思える。しかし、これなしに神にお会いすることは出来ない。神は心の深いところで私たちにお会いになる。 昨日、チョウ・ヨンギ先生がそのセミナーのなかで開口一番お話になったことは、牧会 とは、人々の絶望を希望に変えること。礼拝のなかで私たちがお捧げするもの、それは時には喜びや感謝だけではなく、絶望かもしれない。 いいえ、この世界は絶望に満ちている。しかし、礼拝の中で、私たちがお捧げするその礼拝の中で不思議な出来事が起こることなのだということであります。 最後にもう一度み言葉をお読みいたします。マルコ12章30節。 「心と、思いと、知性と力の限りを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 このみ言葉が語られた背景は、イエス様が命令をされているようなそのような個所であります。 本来、 人間は誰かから命令をされると素直に言うことを聞けないと言いましょうか、外側ではいうことを聞くことができるかもしれない。しかし心の内側ではなかなか素直になれない。そういうわけにはいかない。それが現実でありましょう。しかし、こんな私たちのためにキリストご自身がまず誰よりも先に、心と、思いと、知性と力の限りを尽くして愛をあらわして下さった、それが十字架であります。それが私たちの救い主イエス様が私たちにあらわして下さったご愛であります。このお方が私たちを今日もこのみ言葉の中に、この愛に生きるように、私たちを招いておられます。ですから、心と、思いと、知恵と力の限りを尽くしてこの方を愛し、このお方にお従いし、そしてこのお方を礼拝してまいりましょう。 主はその礼拝を喜んで下さいます。 お祈りいたします。 愛する、恵み深い天の神さま、あなたのご愛を感謝します。私たちは弱い者でありますが今晩もあなたに心を向け、あなたのみ前に精一杯の祈りをお捧げいたします。聖霊様、力とそしてお助けを与えてくださって、今晩の祈りを導いて下さい。 愛する尊いき主、イエス様のお名前によってお祈りいたします。 アーメン |
2006年9月6日祈祷会メッセージ |
第12章 「神との友情を育む」
「人生を導く5つの目的」という、世界的なこのものに挑戦できることを大変うれしくおもいます。 「神はその友情を神に従う者たちと分かち合わされる」(箴言3;32NLT) なんとすごい、びっくりするようなお言葉でしょう。 神はわたしたちと友情関係を持ちたい。そしてお従いするものと友情を分かち合われる。 ◎どれだけ神と親しくなれるかは、あなたの選択にかかっています。 きょう私は、韓国の韓流ブームのペ・ヨンジュさんのお相手をしたチェ・ジュウさんと電話でお話したと言うとびっくりするでしょうけれど、電話をしたお相手の方は教会の牧師で、この教会にお出でくださる様にお招きをいたしました。直接本人に話すことは大変むずかしくて、でもチャンスがあれば、ということでありますが、彼女は現在、聖書を一生懸命勉強して、信仰告白しているそうであります。今のところでは東京に10月の末にいらして、衛星放送のご奉仕をして下さることになっております。 お交わりのことでありますが、私の方は十二分に交わりたいという思いを持っておりましても、向こうが拒絶すると成立しないということであります。 その次に書かれていることは、友情を深めるために努力をしなければならない。 〇努力―願い―時間を割き―エネルギーを注ぎ込む。 努力をするだけではない。 自分の中に偶然には起こり得ませんから、心からの願いというものを持つ必要がありますね。“神様と親しくなりたい”というね。そのためには洗礼を受けるだけではなくて、神さまと親しい関係になりたいという願い。 そのためには、時間を割かなければなりません。通りすがりの人とか、電車で会う人とか、テレビに登場するような人と親しくなることは難しいことであります。 時間を割いてそこにエネルギーを注ぎ込むということが必要であります。 チョウ・ヨンギ先生が6月6日にこちらにおいでになられたときに、先生は講壇から私のことを 「大川先生は私にとって親しい友達の一人です」と、そういう風に仰られて私は本当にびっくりしました。まあ、少しは気を遣っておられるかとは思いますけれど、単なるお友達の一人というよりも親しいということは親友ということですね。親しい友達の一人です、と仰って下さったのです。 チョウ・ヨンギ先生のためというよりも私のためでありますが、先生が日本に来られ、特に関東地域に来られましたら、私は一度も多分ミスしないで先生の講演を聴き、そして、先生とお交わりをすることができる努力をしてまいりました。 先日もこの教会に来られたときに、うちの息子たちが先生に按手して祈ってほしいと、応接間で祈って頂いて、祈り終わった瞬間にわたくしは先生の手をぐっと掴んで自分の頭に強制的に按手祈祷をしてもらいました。私の気持ち、願いということであります。 ベニー・ヒン先生の追っかけをやりまして何10回も行きましたから、いつのまにか先生は顔を覚えて下さいました。ベニー・ヒン先生は、私の名前を覚えようとしませんから覚えませんけれど、超先生は最初から覚えて下さいました。私のことを大川じゅうどう、と最初に覚えた名前を今も使うわけでございます。どっちでもいいんですけれども、親しくなるための努力、願い、時間を割く、ということの重要性であります。 〇もっと深く=正直な対話、命令の実践、御旨を大切にする。 EX:アブラハムの正直な交渉力と食い下がり。(創世記18:22〜33) EX:モーセの力と食い下がり。(出エジプト記33:12〜17) 神さまとの親しいお交わり。 友情を深めるために、もっと深くするために、この先生のユニークなところは正直な対話が必要である、という風に言っているわけであります。 正直な対話の内容は何であるかといいますと、友情を深める対話の第一歩は正直であること。♪つつまず述べて などかは下ろさん 負える重荷を・・・♪という賛美歌がございますが、わたくしたちの内側を洗いざらいと言いましようか、正直に神様にお語り申し上げることが必要であります。 創世記18章22節から33節まで、これは有名な箇所ですよ。知っておかなければならない箇所です。 「その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。 アブラハムは近寄って言った。「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 たとい、 あの町に50人の正しい者があってもあなたは尚、その所を滅ぼし、 その中にいる50人の正しい者ためにこれをゆるされないのですか。 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、 あなたは決してなさらないでしょう。 正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。主は言われた、「もしソドムで町の中に50人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。 アブラハムは答えて言った、「わたくしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし50人の正しい者のうち5人欠けたなら、その5人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。 主は言われた、「もしそこに45人いたら、滅ぼさないであろう」。 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに40人いたら」。 主は言われた、「その40人のために、これをしないであろう」。 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに30人いたら」。 主は言われた、「そこに30人いたら、これをしないであろう」。アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに20人いたら」。 主は言われた、「わたしはその20人のために滅ぼさないであろう」。アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。私はいま一度申します。もしそこに10人いたら」。主は言われた、「わたしはその10人のために滅ぼさないであろう」。 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。 30人、20人、10人とアブラハムは神様に立てついた男であります。 「神様、あなたがこの町を滅ぼすとおっしゃいますけれど本気ですか。正しい者も一緒になって滅ぼすなんて、あなたらしいとは思えません。この町に50人正しい人がいたら、滅ぼされない。45人だったらどうですかね。そのくらいはいるだろうと。そのくらいはいいだろう。40人だったらどうでしょうね。30人だったらどうですかね。なんか、ねぎっているみたいですけれども、20人では・・・10人では・・・ってなことですが、10人もその町に正しい人がいなかったためその町は滅ぼされてしまったということでありますが、アブラハムが喜ばれるというのは、そういう正直な神に対する訴えということが喜ばれたのだというそういうメッセージであります。 出エジプト記の33章12〜17節 モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかもあなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えて下さい」。主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここから登らせないでください。わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」。主はモーセに言われた、「あなたはわたしの前に恵みを得、またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事をもするであろう」。 神様はお怒りになられて、 モーセがリーダーとなっているにもかかわらず神様に逆らい、そして言うことを聞かず、神様はもうあなたがたと一緒に行くのはやめた。勝手にしなさい、というような時にモーセが間に立って、あなたがご一緒して下さらなければ世の人たちが見て、それは証にならないでしょうと、食い下がっているわけですよね。あなたのご好意を得ますならば、恵みをいただきますならば(これは英語のメッセージトランスレーションですが)、もしあなたが、そのご臨在によって導いてくださらないのでしたら、この旅は取り止めにして下さい。 そうすると、神はモーセに言われた。『分かった、分った、あなたが言ったそのことも、わたくしはしよう。あなたは私にとって特別な存在なのだから』って純粋な友情関係を持っていたというようなことが解説されていますけれど、面白いですね。 もう一度申しあげますが、親しくなるそのことのためには正直でなければならない。 正直であるということは、失敗も感情も神様の前に明らかに。 神様はあなたに完璧を求めてはいらっしゃいませんで、正直であることを強く求めていらっしゃいます。ですから、図々しいと思えるようなことでも、私達の神様はそれを正直さの表れだと見て下さる神様だと知るべきですと言うことですね。 ※「神との間に生じた、隠れた不一致(ひび)」の温床を作るな! これはとても重要なウイリアム・バックスという人の言葉でありますけれども、神様との間にひびを作るとその中にサタンが入り込んで、いつの間にかそこにサタンが住み込んでしまうと言うのです。 このことは、夫婦の間でも解決しないまま人生を過ごして行きますと、うまく行かなくなります。親子の間でもそうですね。嫁と姑との関係。人間関係はみんなそうですね。 教会で牧師と信徒の関係。役員さんとの関係。一般信徒同志の関係でも、気まずい関係を持ちますと教会に行くことが嫌で、彼はいつも下の方に座るから私は2階席だというような人もいるかもしれませんね。 彼はいつも2階だから間違っても2階にはいかないとか、彼はいつもトイレはあそこに行くから、あそこには絶対行かないとか、そういう人がもしいるとしたら問題でしょう。 〇苦々しさは神との友情を妨げる最大の障壁です。 EX:エペソ4:26・27。怒りの賞味期限は1日のみ。 エペソ人への手紙4章26・27節 怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。 悪魔にチャンスを与えてはいけないんですって。 このところで温床と言われてるのはですね、 苦々しさを抱えて、 ぶつぶつ言ってるのはサタンが入り込む温床になるんだって。ですから、怒りの賞味期限は1日だけ。日が暮れる前に「ごめんなさい」しちゃいなさいと言うのが、わたしたちが今まで勉強してきたことですよね。 “苦々しさ”。こんなことを許す神様なんて大嫌い!友達なんかになりたくない!正直に私達の内側を言い表すことを習慣づけておくと、心も癒されるわけですよね。 ジョークでこんなものがありましたね。 神父様に懺悔にいった女性が 「神父様、 私は懺悔します。高慢な罪を犯してしまいました。私は夜、鏡を見るたびに、美しい女だなあ。なんて美しいんだろう。これは高慢の罪だと思いますから懺悔します」。 神父様は言いました。 「それは高慢な罪ではありません。単なる誤解です。」というのがありますが。 正直に表現をするということが、クリスチャン生活の中で重要な清めの流れを汲んで来ると、いたずらに表現出来ないことが沢山あります。 榎本先生の“チイロバ”を是非お読みいただきたい。漫画で出ましたからね。みんなお読みになったらいい。回し読みしたらいいと思います。 榎本先生が本を出すときに校正をしようとしたら、チイロバの中にはどのページにもページごとに、 “腹が立った、 腹が立った”って書いてあるんで、自分でこれはちょっとまずい! 削除しようと思ったのですけれども、ホーリネスの清めの流れですから、 “腹が立つ”ということそのものに問題があって、腹が立つとは、それは清められていないからだという論法の中に生きてまいりました。そうするとどうしても正直でなくなるわけでありますが、腹が立つ、それはあることに対して腹が立つのはいいけれども、自分の内側の肉とか、わがままとか、自己中心で腹が立つことは問題で、その内側が清められなければならないわけでありますけれども、神様の前に正直であるということは、とても重要なことであるということを忘れてはいけないと思います。 「私は神のみ前に私の苦情をそそぎだし、私の問題をすべて神に申し上げよう。私は押し潰されそうだから」 (詩142:2、3 NLT) 先日、私達は、呟きは罪であるということを勉強しましたよね。鏡としての歴史ということを勉強したわけでありますけれども、呟きの問題ではなくて、自分が神様に対して愛の関係がきちんとしていて自分の思いをはっきりと述べるという習慣を持つことは重要なことで神様はそれを愛して下さるという内容であります。 ◎友情の条件(神様との関係の友情条件) 第1の条件 @従順―ヨハネ15:14、ヘブル5:7,8。サムエル15:22,23。 みんな赤鉛筆で線を引いてほしい内容ですよ。 ヨハネ15章14節 「あなたがたにわたしが命じることを行なうならば、あなたがたは私の友である。」 友である。あなたがたが私の戒めを守るならば。 ヘブル5章7節8節 「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、」 イエスさまが、学ばなければならないことは従順であった。 サムエル上15章22、23節 サムエルは言った、「主はみ言葉に聞き従うことを喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲に勝り、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、(占いの罪もいけないことになっていますよ)強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主の言葉を捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。 わたしたちは神様に従順であるということが要求されているということですね。 その次の聖句はすごいでしょう? ルカ福音書2章51節 イエスは、両親とともにナザレに戻られ、彼らと共に従順に生活された」(ルカ 2:51Meg)こんな訳はじめてですね。 彼らと言うのは、ヨセフさんとマリアさん、ご両親とともに従順に生活された。 実は、新改訳聖書の場合には、彼らにお仕えになった、という風になっておりますが、イエス様はご両親に従順に生活された、従順された、お仕えになられたと言うのです。 イエス様のご生涯は、マルコ10章45節に、人の子キリストがこの地上にこられたのは、人々から仕えられるためではなく、人々に仕えて自分の命を提供するためであるというのが、マルコ福音書におけるキーポイントであるわけでありますが、30歳になって洗礼を受ける前から、幼い12歳の時からこのイエス・キリスト様はご両親にお仕えになられた。 若い方々も沢山いらっしゃいますが、どうですか? 自分の意識の中に、私は父や母に仕えよう、従順しようという意識をお持ちになられたら、神様がそこに素晴らしい聖霊の働きをして下さいます。 もし、私達が両親に伝道し、結束してクリスチャンにしてしまおう、というようななことでありますならばそれは上手く行かないでありましょう。あなたが両親に従順しよう、仕えよう、そういう気持ちを持つならば、それは、どんなにキリスト様の名が高められることであろうかと思います。アーメンでしょうか。アーメン。 第2の条件 A神様が大切にしておられるものを大切にする。(嫌がることはしないと書きました。) EX:新生(救霊)―成長・訓練―福音宣教 築地の料亭のおかみさんは、どうして人々が喜ぶかといったら、相手の嫌いなものは決して出さない。相手の嫌いなものを覚えておくという。 私達も人間関係、今恋愛中の人が何人か、今交際中の人が何人かいらっしゃいますけれども、 相手が何が嫌いであるか判らないでやっていくというのはおかしいんですよね。こんなことは絶対やってはいけない、言ってはいけない、こういう仕草、こういう食べ方、こういう言い方、こういうやり方、これは相手が嫌いなことだから、愛する者が嫌いなことはやらないんだということです。 神様が一番好んでいらっしゃる、大切にしていらっしゃるのは、新生と書いてありますね。赤ちゃんが生まれること。救霊と言うのは魂が救われるということ。 神様はヨハネ3章16節で、その独り子を下さるほどに、わたしたちを愛して下さった。 何と言ったって、人間が滅びないようにすることを神様は喜んでいて下さる。魂を、命を大切にしていらっしゃる。すべての人が救われて真理を悟るに至ることを願っていらっしゃるのですから、このことを私達は大切にする。 この教会は祈りを通して聖霊様が働いてくださって、 日本で最も祝福された教会になったわけですが、あえて要因を申し上げるならば、それは、神様が喜ばれること、この教会が大きくなっても伝道を忘れないということ、魂が救われるためになら何でもするということ。 “宴会礼拝”もそうです。何だか訳の分からない名前をつけて伝道しているのは、どうにかして一人でも多くの人に伝道したいということ。オペレッタをここにお呼びするといいうことも、これも、どうにかして福音を伝えるチャンスをつくりたいということです。 この大和市内の市長さんは土屋さんとおっしゃるのですけれど、土屋市長さんが来週訪ねてきて私と面談することになっているのですが、彼がもっておられるバンドがあるそうで、どうしてもここで演奏させてほしいというのですが、演奏させて欲しいと言ったって、世の中の歌を礼拝で演奏されてもちょっと困るでしょう? でも、最後の2曲ぐらいは賛美歌にして下さいって、今から賛美歌をお願いしようと思っているのでありますよ。どうにかして教会なんかには一度も行ったことのない人たちにも福音を伝えたいという姿勢を、神様が喜んで下さるのだと思います。 救われた赤ちゃんが成長する。 訓練される。 訓練されれば誰でもが用いられるのですよ。そして、福音宣教に当たることが出来るのです。そして、もう一度また救霊に戻る。そして、魂が救われると成長して、訓練を受けて福音宣教に。また、ぐるっと回って救霊に。そして訓練。福音宣教。これがクリスチャンの生き方であります。 「私が心に堅く決めている目的、それは神を知ることです。(素晴らしいですね)私は日を追うごとに、さらに深く、さらに親しく神を知り、そしてさらに強く、さらにはっきりと神の御人格の神秘に迫り、また認識し、理解したいと願っているのです」(ピリピ3:10詳訳聖書) もう凄い訳し方だと思いますけれど、神の御人格の神秘に迫るなんていうことでありますがね。私は毎日、日を追うごとに、さらに深く、さらに親しく神を知り、そしてさらに強く、さらにはっきりと神の御人格の神秘に迫り、また認識し、理解したいと願っているのですという願いを、神様の前にパウロが告白している、そういう内容であります。 もう分っちゃったとか、卒業しちゃったとかは、絶対ありえない世界にわたしたちは導かれているということですよ。凄いですね。 ◎痛みの経験―罰ではなく、愛に満ちた神からのモーニングコール。 ・神はあなたに対して腹を立てておられるのではなく、あなたと腹を割って話したいのです。 痛みの経験。痛い目に遭う大切さと申し上げたら分かり易いでしょうかね。 痛いことに遭うとか、失敗するとか、辛いこと、悲しいことに出会うのは、罰があたったことではなくて、愛に満ちた神様からのモーニングコール。モーニングコール、分かりますか? 寝坊スケさんが起こしてもらう。ホテルでモーニングコールして下さる。起こして下さるという。さあ、目を覚ましなさいと。 ヨーロッパに行きますと、教会の十字架が風見鶏になっているところがあちこちにありますけれど、目を覚ましなさい。あなた洗礼受けているでしょう。クリスチャンでしょう。はじめの愛から離れているでしょう。目を覚ましなさい。モーニングコールであるという風に受け止めなさいという。 ・神様はあなたに対して腹を立てておられるのではなく、あなたと腹を割って話したいのです。凄いですよね。この翻訳はね。神様は腹を割って話したいのですという。 うちの息子のことを礼拝で申し上げて皆さんにお祈りして頂きましたが、昨日、むこうから電話がありまして、荷物が出てきたそうであります。大切な荷物が飛行場で失われて泥棒されたのか、何処かに行ってしまったのか、まあ、外国旅行するとそういう経験は1回や2回はあることですけれども、初めてそんな経験をした者にとりましては、ちょっとパニックのようにしんどい経験をしたのでありますね。飛行機もキャンセルして次の飛行機を見つけて、というようなことであったのですが、荷物が出てきたわけであります。私は荷物の問題を聞いたときに、あー、あの孫の祝ちゃんが元気であれば、命が守られていれば、それで荷物はどうにでもなると思いました。でも、こういう時に、うちの息子や嫁さんがどういうふうに神様と対話したでしょうかね。 「神様、これは一体どういうことでしょうか。教会をあげて祈って頂いて出てきたにも拘わらず、こういうハプニングはどういう意味があるのでしょうか。どうして私の荷物がお祈りしてきたのに失くなってしまったんでしょうか。お祈りをしなかった人がいっぱいいてみんな荷物を持っていく。わたしたちの家族だけがここにとり残されちゃいました。祈られていた私達がどうしてこんな目に遭うのでしょうか」。 こういうふうに正直に言うことは悪いことではないでしょう。心の中でブツブツ言って、大川牧師の祈りは効き目がないとかですね、教会なんか祈ってはいないんだ、とか色々言ってですね、それは愚痴でございますよ。 でも直ぐに マイナスは必ずプラスになると心を入れ変えることができたか。 ロマ書8章28節 すべてのことを働かせて益となる、ということをわたしたちは経験していけるかどうか。こんな小さな事だけれど、私にとって良い経験をさせてもらった。これから勉強するのに、生活するのに、神様は不思議なことをして下さるんだ、という風に期待していくことが重要なことであろうかとそう思いますよね。 向こうに行きましたらゴキブリはいなかったそうですが、住む家にコオロギがいっぱいいて、ちょっと抵抗があったそうでありますけれど、小泉八雲はですね、日本人と言うのは、虫が鳴いてもそれを俳句にしたり、和歌にしたり、短歌にしたりする凄い国民だと言っておりますがね。 “ふる池や 蛙飛び込む 水の音”。 それがどうしたの? これが、アメリカ人が考える考え方であります。ふる池に、カエ ルが飛び込んで、ポチャン!と音がした。それが何なのよー、とね。 “痩せカエル 負けるな一茶 ここにあり”。 カエルが相撲とったの? ほんと? それが一体どういうことなの? “岩にしみいる セミの声”。 なによ、それって。これ日本人じゃないと分からない。 八雲は日本人の血をひいていらっしゃるから。我々はちょっとしたことでも素晴らしいことに変えることのできる、そういう文化的情緒を持っていることも素晴らしいことであると思います。 もとに戻りますが、痛いことに遭う経験は罰ではなく、愛に満ちた神からのモーニングコールである。信じる者はアーメンと言いましょう。アーメン。 こういう信仰の素晴らしさ。 ※最も重要な関係を奪い返せ!(Tテモテ6:20,21 口語訳、LB、新改訳、共同訳) Tテモテ6章20、21節 テモテよ。あなたに委ねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。恵みが、あなたがたと共にあるように。 この21節に、ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったとありますが、 リビングバイブの21節では、 テモテよ。神様から託された任務を完全に果たしなさい。知識を鼻にかけ、かえって無知をさらけ出しているような人と、くだらない議論にふけらないよう、気をつけなさい。彼らの中には、人生で最も大切なものを見失った者、すなわち神様を知らないものがいるのです。と訳しておりますね。 新改訳聖書21節では、 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。 共同訳の21節、 その知識を鼻にかけ信仰の道を踏み外してしまった者たちもいます。恵みがあなたがたと共にありますように。 最も重要なことは、神様との関係を持ち続ける。神様との友情を育む以上に重要なものはほかにありません。神様との関係は永遠に続くからです。何が起こっても神様との関係を切ってはいけません。 わたくしにとりましては大変驚く記事が、少し前のクリスチャン新聞に載っておりました。 山本七平さんという方は少し前膵臓癌でお亡くなりになりました。91歳でしたが、クリスチャンでいらっしゃって、日本における昭和思想界の巨人と言われる人物でした。彼はたくさんの本をお書きになりました。 亡くなった後も奥様が山本書店を経営していらっしゃいますが、山本七平さんは、「年をとっても、高貴な精神を持ちつづけている人は美しく見えるものだ。わたくしは、母親と娘の両方に惚れた。結婚をする時にはその娘に惚れるわけですけれど、母親に惚れた。」 れい子さんとお見合いしたときの七平さんはこう述べている。 れい子さんのお母さんは伝道者で、れい子さんは伝道者の子供でありました。 お母さんは宝田愛さんといって、青山学院を首席で出た人だそうですが、終戦直後1945年一家は東京の自宅を売り払い、父の故郷である新潟県村上に引越した。疎開先で待っていたのは貧しさであった。弟に騙され家財と土地すべてを失い、住む家もなく長屋の2階に住みこんだ。 ところがこのお母さんが教会で聖書研究会を始めたら人が集まってきた。 聖書研究会に一人のご婦人が来られましたが、その人は身重のお母さんであった。神の栄光を現す健康な子供が生まれるようにと、二人はいつも集会の後にお祈りをしていましたが、生まれてきた子供は40日目に小児マヒに罹ってしまいました。まあ、新潟の田舎のことですから大変なことを言われたそうです。ヤソの集会なんか、キリスト教の集会なんかに出るからこんな事が起こるんだ、そんなところに行くからいけないんだと、姑さんや近所の人から非難されて、その女性は次第に礼拝に来ることもなくなり、音信不通になってしまったそうです。伝道者にとってこれが一番つらい出来事でありますが、無教会派の伝道者として生涯を捧げたこの宝田愛さん、すなわち山本七平さんの奥さんのお母さんは、晩年87歳の時にもう一度、新潟伝道に出かけて行きました。30年来、気になっていた、あの時いつも礼拝の後に一緒にお祈りしていた、出産後暫くして子供が小児マヒに罹ってしまったあの時の女性と連絡を取ることができた。なんと、その子どもは伝道者になっていた。 現在、れい子さんが通う杉並教会の牧師大竹海二さん、音楽家でもあります。愛さんが集会で教えた賛美歌を子どもたちに教えて、大竹夫人の影響でこの大竹先生は教会音楽に興味を持ち東京芸大を卒業した後、神学校に行って伝道者として献身なさいました。 30年ぶりに大竹牧師に対面したいま、私の祈りは30年後に聞かれました。まことに「神は愛なり」ですと叫んだという。 兄弟姉妹、祈りを途中で切ってはいけません。私の祈りは30年後に聞かれました。神様は生きておられます。ずーっと関係を持ちつづけて行く。神様との真実な関係に神様はお答え下さるということであります。 神様を愛しお従いしてゆく者はアーメンと言いましょう。アーメン。 お祈りします。 天のお父様、伝道者として一番つらい事は、神様の悪口を言われること。神様なんか生きていないんだと或る者は教会を離れる。そうゆう姿を見ることが一番つらい事ですが、この教会も神様の哀れみで毎週のように人が戻ってまいります。 放蕩息子よ放蕩娘よ戻って来い!といつも叫びます。せっかく洗礼を受けたのにいなくなった者よ、もう一度神様のもとに帰って来い!と叫んでおります。クリスチャン・ホームで祈られている者たちよ、サタン悪魔から解放されて教会に戻れ!といつも叫んでおります。あなたはその叫びにお答え下さると信じます。 神様との関係が切れてしまった、そういう方々が次々に戻ってきて、日本にリバイバルが起こりますように助けて下さい。ミッション・スクールで蒔かれ種がもう一度芽を出すことが出来ますように助けて下さい。日曜学校で蒔かれた種が芽を出すことが出来ますように主よお助け下さい。 神様との親しい友の関係がおかしくならないように、私達は正直に神様の御前に対座し、神様から溢れる恵みを頂くことができるように導いて下さい。ご一緒下さるイエス様のお名前によってお祈りいたします。 アーメン。 |
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