2006年01月 のメッセージ

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「八風吹けども動ぜず」 大川従道師  2006年1月22日

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。」(新約聖書・マタイによる福音書4章1〜11節・口語訳)

 特別賛美:ゴスペル・クルー「God is Working」

 アーメン。素晴らしい賛美をありがとうございます。今年の標語のためにも、もう最高に素晴らしい賛美でした。もう一度感謝しましょう、ハレルヤ。

 遠いところまで行って帰ってまいりました。皆さんがお祈りしてくださいまして、元気で戻ることができました。本当に感謝します。今日は雪で “行きはよいよい、帰りはこわい”ってなもんでございますから、帰りもお気をつけいただいてお帰りいただきたいのでありますが、もし少し日にちが違っておりましたら、私たちは戻ることができなかったのかなあ、と思ったりしております。
 ギリシャに来ておりますルーマニアの方々、(まあ“出稼ぎ”というと失礼になるといけませんけれども、向うではそう言っておりましたが、ディアスポラ・ミッションと言いましょうかね(“離散民”という風に聖書では表現しますけれど)、その方々の素晴らしい、リバイブされた新年聖会のご奉仕をさせていただいたわけであります。ご一緒してくださった倉知先生も、非常に恵まれて御用をしてくださって、どの賛美も大変用いられて、主の御名を崇めました。
 1つ私は「困ったなあ」って思ったわけでもないんですけど、先生は行ってすぐにですね、わかーい女の子、綺麗な女の子にですねえ、言い寄られて、すっかりお友達になったのであります。うーん「独身だから、しょうがないかなあ。」と思っていましたけど、ちょっと写真撮ってきましたから、ご紹介しますね。(笑い)─4歳の女の子であります。ご心配された人、ご心配なく。クリスチャンホームの役員さんのお子さんで、可愛いお子さんでありました。

 アテネに行きましたら、イエス様に“会ってね”とかですねえ、私のジョークや駄洒落が通ずるはずはありませんので、通訳者に迷惑かけないようにしました。ジョークの通じない世界はとても辛いのでありますけど、まあ誰かと“会ってね”、てなもんでありますが、ギリシャで会いました 第1のお方は、ルーマニア宣教に行っております、日本の若い宣教師夫妻、川井先生ご夫妻。非常に優秀なご夫妻とお会いしました。私の通訳をしてくださいました。
 2番目の出会い、“会ってね”はですね、ルーマニア人にこんなに素晴らしいクリスチャンがたくさんいるということを、初めて知りました。今素晴らしいリバイバルの途中でありまして、礼拝、祈祷会でそれをご紹介申し上げられると思います。
 3つ目の出会いはですね、全部の集会を終えましてから、まあ、せっかくギリシャに行ったわけですから、何か観光しておかなければと思いまして、現地の先生がお助けくださいまして、隣の町にコリントの街というのがあるんですよ、ね。オリンピック道路ができておりまして、非常にスムースにですね、アテネの隣のコリントの町まで、数時間かけて車を飛ばしました。ご存知のように第1コリント、第2コリントという、そういうね、街であるわけでありますけど、そこでこういういろいろ古い物、工学的な物を見ております。非常に感動しましたねえ、パウロ先生がここで説教したかと思うとね。その中で、博物館がありましてですね、博物館の中で、いろいろこう見ておりますうちに、少し離れた所からアジア人の方が近づいて来られまして、「もしかしますと、あなたは、毎週テレビで説教しております牧師と違いますか?」と、英語で私に近づいて来られました。もうビックリしましたが、どういうお方かと言いますと、ギリシャに伝道に来ております韓国からの長老教会の牧師、ギリシャ人にギリシャ語で説教しております、そういう主の器が、私達のこの教会の礼拝の様子が、なんとオンヌリ教会の衛星放送によって、今、世界中(アフリカでも、そしてアメリカでも)アンテナとチューナーを入れれば観ることができて、その方はオンヌリ教会と違う流れの長老教会でありますけども、毎週私の説教を見ておるということで、近づいて私の名前を当てて、お交わりをすることができて、本当にすごいことが起こっているなあ、と思って、主の御名を崇めました。
 考えてみて下さい。ギリシャのコリントのこの考古学的な博物館の中でお会いできるなんていうことは、テレビで伝道しておられる人達も、皆喜ぶでしょう。こういう人ですよ。写真を撮って来ましたね。このお方は、ギリシャ語で伝道しておられる牧師先生、ヤン牧師(宣教師)と仰います。ヤン先生、またいつかお会いしましょう。このテレビもご覧になるかと思いますけど、非常に大きな感動を与えられました。早速オンヌリ教会に電話を入れまして、そういう状況をご説明したわけであります。

 先週の木曜日(1月19日)は私の誕生日でありました。前回も前々回も、ロサンジェルスで、マルチン・ルーサー・キングのパレードをやっておる時でありましたけれど、今回は飛行機の中でありましたね。飛行機の中で(誕生のお祝いは飛行機はしてくれませんでしたけれども)、帰ってきましたらたくさんのカードが届いておりまして、またお祝いをいただきまして、ありがとうございました。1つ1つの言葉が、私にとって大きな励ましとなりました。中にはですね、「120歳まで生きて下さい。」っていうお手紙もありました。「100歳までお願いします。」という方もいらっしゃいました。中には「90歳で結構です。」(笑い)という、そういう人もいまして、もういろいろあって、迷っておるであります。今回1月19日は飛行機の中でしたので、今日のメッセージは、天に近い“天的メッセージ”と言いましょうか、高度1万メートル、非常に高度なメッセージと言いましょうか、まあ、そういうことであります。

 マタイ福音書の第4章の1節〜11節まで、大変有名な宿題の箇所でありますから、お読みいただいていらっしゃると思いますけれど、イエス様が3つの誘惑にあったという、「3大誘惑に勝利しよう」という、まあ本来の題であります。ヨハネ第1の手紙の2章で、「人間には3つの誘惑がある。1つは、“肉の欲、目の欲、持ち物の誇り”というようなことで、誘惑があるという風に書かれておりますけど、まさにその代表的な3つの誘惑を、イエス・キリスト様は、このところで経験しておられるわけであります。
 第1番目は、「あんたが神の子なら」とサタンがやって来まして、誘惑を致します。荒野ですから、石ころがゴロゴロしているわけですが、この「石をパンに変えてごらんなさい。」という、そういう誘惑でありました。私達は、こういう誘惑には絶対引っかかりません。なぜならば、パンを石に、石をパンに変えるなんてことは、絶対にできないからであります。でも、イエス様はお出来になるので誘惑であったわけでありますけども、さあ、「この石をパンに変えてごらんなさい。」というような、「もう断食をして、お腹が空いているでしょう。」というようなことでありましたが、イエス様はその時に、4章の4節、(ご一緒に読みましょう)4章の4節、はい。

 「イエスは答えて言われた、『「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」と書いてある』。」(新約聖書・マタイによる福音書4章4節・口語訳)

 この「書いてある」というわけでありますから、これは旧約聖書の引用でありまして、イエス様は、戦いをなさる時に、神の御言葉の剣によって勝利をなさるという、「人の生きるはパンだけで生きるのではない、神の口から出るすべての言葉によって生きる。」大変有名な、文学にも度々出てきます言葉でありますが、ある人は誤解して、「それはそうだ。人の生きるは、パンだけではない。ご飯も食べれば、お蕎麦も食べれば、ラーメンも食べるんですよ。」みたいなことを、そういうことを言っているわけではないわけですね。人の生きるは、パンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる。
 イエス・キリストは現実のパンを否定なさったわけではありません。旧約聖書でも、この申命記の御言葉のすぐ後に「マナが降ってきて、そしてイスラエルの民を養った。」という風に書かれています。イエス様は“主の祈り”の中で、「『日用の食物を与えて下さい』と祈りなさい。」と仰っておられますから、現実における生活を否定したわけではありません。5つのパンと2つの魚で5000人が養われたという奇跡物語が、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと両方とも書かれておりますので、イエス・キリストが私達の食生活に対して興味をお持ちであるということは、明確であります。
 しかしながら、私たち現代人におけるところのとても大切な出来事は、この「神の口から出る言葉によって生きる」ということであります。私は中学2年生の時、13歳で洗礼を受けましたが、一緒に青年会のお兄ちゃんが洗礼を受けました。上中功(かみなか・いさお)先生と仰って、今青森は三沢で牧師をしていらっしゃいますが、この先生のお証を何十回も聞きましたが、いつもこの4章の4節を引用されて、「『人の生きるは、パンだけではない。神の口から出る言葉によって生きるのである。』」─この御言葉に捕らえられて、私はクリスチャンになりました。印象深い少年時代の出来事であります。
 2つ目。それは、「高い所から飛び降りなさい。」という引用でありますが、サタンの奴も、聖書の言葉を引用して迫ってまいります。詩篇の91篇を利用して、「あなたは高い所から落ちて足が砕ける前に、天使が助けてくれるだろう。」イエス様は「神を試みてはいけない。」という、そういう言葉で退けたわけでございました。
 第3番目の誘惑は、8節から。お読みしてみますよ。8節からお読みしてみます。

 「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。」(新約聖書・マタイによる福音書4章8〜11節・口語訳)

 “サタン礼拝”ということについて、「一生ではなくていいから、一瞬でもいいから、1回でもいいから、私を礼拝しなさい。私を拝みなさい。そしたら、これらのすべてのものをあげよう。」聖書の記述は、まことに驚くべきことが書かれておりまして、この8節には、「この世のすべての国々とその繁栄、栄華とを見せて」ということであります。
 キャンベル・モルガンというイギリスの聖書学者は、「イエス・キリスト様は、霊において、第4次元において(私たちの肉眼の視界というものは、見えるところに限界がありますけども)、イエス・キリスト様は、すべての国々のその繁栄というものをご覧になることができたであろう、そう書いてありますから、しかも今世紀の(20世紀の)伝道者でありますが、20世紀の繁栄までも見ることができたでしょう。
 「あなたがもし私を礼拝するのでありますならば、私はこれらのものをあなたにあげるでしょう。」ということに対して、イエス・キリスト様は「サタンよ、退け!」という風にお答えになられたわけであります。
 現代、私達にはたくさんの誘惑があります。十字架の道をやめて、「イエスよ、もっと楽な道を選んだらよろしい。」十字架の道を選ばせないようにしているということは、お弟子さんでもマタイの第16章で「イエス様、そんなこと言っちゃあだめですよ。十字架なんか、かかる必要はありませんよ。」と言わんばかりに、イエス様から「サタンよ、退け!」と、お叱りをいただいているわけであります。誘惑というものは、いつも私達に、今日もあります。誰でも楽な道を歩みたい。文明というのは、そういうものであります。easy(イーズィー:容易)な道を歩みたい、という風に考えております。
 主の御心に遠く離れた道になってしまうことが、度々あります。兄弟姉妹。勝利するために神の御言葉の剣で戦わなければなりません。「腰の朱ざやは、だてにはささん!」と、子供の時日曜学校の先生に習いましたが、腰にありますこの剣、この刀ですね。大刀、小刀。この大きな刀はですね、それは聖書の御言葉。小刀はですね、御言葉ではなくて、賛美歌のこと。大と小とをいつも持ちながら、そして「賛美を通して勝利するんだ!御言葉を通して勝利をするんだ!」と、子供の時に教えられたわけですが、聖書をよく吟味して、自分のものに咀嚼(そしゃく)しておりますと、サタンの誘惑が来た時に、どの御言葉で勝利をしたら良いかということを、「腰の朱ざやは、錆びて抜けなかった。」というのは情けないクリスチャンでありまして、「聖書をむさぼるように読みましょう。」ということを申し上げたいわけであります。

 私のような牧師でありましても、毎日誘惑があります。私の携帯電話のメールのアドレスを(誰がどこで調べたかわかりませんけど)何度変えても入ってまいりますね。今朝は7つ入ってまいりました。それは、“H系サイト”と言いましょうか、“出会いサイト”と言いましょうか、ろくでもないのが入ってまいります。コンピューターに、いっぱいジャンクが入ってまいりますね。うーん、若い人でしたら、ひっかかるでしょうね。「これでもか、これでもか、これでもか!」というね。ポルノの虜になっている(若者だけではなくて)人達は、たくさんいるでしょう。サタンにひれ伏して、サタンの家来、弟子奴隷にさせられている人は、大勢おられるでしょう。
 ジョージ・ダンカンは言いました。「ねてもさめても、悪霊を追い出せ!!」─まあ、イギリスにおいて最も上品な伝道者、ジョージ・ダンカンが、「ねてもさめても、悪霊を追いせ!!」一緒に言いましょう、はい。「ねてもさめても、悪霊を追い出せ!!」。私がいつもこれを自分に言い聞かせておる、日常茶飯事、私達のまわりに、いつもサタン、悪魔が近づいて来て、私達を誘惑しますね。

 聖霊様がイエス様を荒野に導いた、という風に1節に書かれておりますが、これ不思議ですよね。お仲間でしょう?永遠の昔から、三位一体なる神様、聖霊なる神様が、イエス様をなにも荒野に導かなくてもいいでしょうね。よいところに導いたらいいでしょうね。でも、荒野に出なければ得られない体験というものがある。兄弟姉妹、私達は荒野に出ることを恐れてはならない。イエス様が導いてくださったら、荒野においてしか得られない世界を皆で体験して欲しいと、そう思います。

 ヘンリー・ナウエンと言いましたら、カトリックの神父様でいらっしゃいますけど(お亡くなりになったばっかりでありますが)、世界の霊的な指導者(プロテスタント、カトリック教会を超えて、霊的な指導者と言われるお方でありますが)ご自身が、「私もいつも誘惑の嵐の中におるのですよ。」と仰いました。「ヘンリー・ナウエンがどういう誘惑にかかるのかなあ?」と興味深いんでありますが、このところにおける第1番目の「石をパンに変えなさい。」ということを、彼がこういう風に心にとめました。「今すぐ人の役に立つことをしようとする誘惑であります。英語で(彼はもちろん英語の世界の人ですが、英語が出ますかね?)“Be relevant(ビー・レレヴァント)”というね。“すぐに役に立つ”ということを私達が要求されるとそれを出すのは、当たり前でしょう?ねえ。
 “すぐやる課”っていうのが、埼玉県にありましたねえ。何でも役に立ちたいと思いますし、神様に向かっても、私達は「神様、あなたはどっち向いてるんですか?もっと早くしてくださいよ!」─アドバイスを神様にしちゃったりなんかしてね。「こういう風になさったら、あなたの評判は良くなりますよ」、みたいな。
 英語のことわざの中に、「good(グッド:良い)ということは、better(ベター:より良いもの)の敵になる」、「bettter(ベター)というのはbest(ベスト)の敵になる」というような言葉がありますが、「すぐに助けてはいけない」という世界がある。若い兄弟姉妹よ、現代社会の最も恐ろしい出来事の1つはね、私達の周りに、easyに問題が解決するような出来事がたくさんある。現代社会は便利になりましたけど、大切なものをたくさん失いました。goodやbetter(goodやbetterって言ってるんですから、“いいもの”であることは確かなんですけど)、bestである世界を隠してしまうというね。最も大切なものをいつの間にかごまかされて隠されて、(エレミヤではありませんけども)傷を浅くいやして「もう大丈夫、平安だ、平安だ。」とごまかされるという、そういう時代であります。
 第2番目、ヘンリー・ナウエン先生は“高いところから飛び降りる”ということを、こう表現しましたよ。「世間をあっと驚かすことをする誘惑」って、これはありますよねえ。英語では彼、こういう風に表現しましたよ。“Do something spectacular(ドゥー・サムシング・スペクタキュラー)”と言いましょうかね。「特別なことをやって…」という。
 3番目、「サタンの手下になっても、この世の権力を握りたくなる」という。これはもう、政治家もそうでしょうね、経済界もそうであろうと思います。野心家は皆そうですが、英語で彼はこう訳しましたね。“Accept world power(アクセプト・ワールド・パワー)”というね。「世界の力を受けとめたい」という。ヘンリー・ナウエンは、いつもさらされている誘惑として述べているんですが、「私の中には“影響力”とか、“評判を得たい”という願望がありますが、イエス様に従う道は、人の目から隠れて無力で小さな者になることです。」と仰られて、ルカ福音書を引用され、「恐れるなかれ、小さき群れよ。小さいことを恐れるなかれ。恐れるなかれ、小さき群れよ。御国をあなたがたにくださることは、天の父の御心である。」というね。小さいことを恐れなさんな!!
 私の恩師の浅野順一先生は、いつも口癖のように、「日本のキリスト教会は、小さい。1%に満たないような教会の力であるけれど、人数の問題ではない、本質の問題である。中身の濃い存在になりなさい。本当に輝く、そういう存在であるように。」ということをよく仰っておられましたけど、その通りであると、そう思います。

 さてさて、今日の中心的なメッセージの内容は、“言葉の力”。“言葉の力”について、思索を深めたいと思ってることであります。今日の説教のタイトルは、珍しいでしょう?「八風(はっぷう)吹けども動ぜず」というねえ。これは漢詩で、寒山詩(かんざんし)という、寒い山の詩の一節を用いてタイトルにしたんでありますけど、この世の中におりますと、八つの風というものが吹いてくる。北風の冷たい季節でありますけど、実際には北ばかりか、八方から風が吹いて来るという、ね。「春は名のみの風の寒さよ」は早春賦(そうしゅんふ)でありますが、このところに“8つ”と書かれてあることをご紹介申し上げますと(8つ出てきましたでしょう?)、1番目は“利(り)”という。“利”と言いますのはですね、「自分の意に叶(かな)ったことが起こると、動く。」と、こういうんですよ、ねえ。8つの風の1つは、自分の意に叶った、「してやったり!」とこういう時にね、心が動揺する─って当たり前のようなことですがね。
 2番目は“衰(すい)”というのはねえ、自分の意に叶わなかったこと(試験に失敗したとか、失恋したとか)。私達は、ガタガタ来るでしょう?商売がうまくいかなかった。
 3つ目は、“毀(き)”と読みますけれど、これは、うーん、陰でね、ひそかにそしられることを言いますね。悪口を言われることですよ。「あんたのこと、あの人こう言ってたよ。」って聞いていただけで落ち込んじゃう、というね。
 その次は、名誉の“誉(よ)”。“誉”というのはね、ひそかに陰で誉められる。「あなたのことを誉めてたですよ。」って言われることで、心がこう動揺する。
 その次は“称(しょう)”。“称”というのはね、正面から、面と向かって、目の前で誉められること、というね。誉めちぎられることね。
 そしてその次は、“譏(き)”それは正面きって「あんた、だめじゃないか。」とそしられること、悪口を言われること。
 その次は、苦しいこと、行き詰まったこと(“苦”)、楽しいこと(“楽”)。

 考えてみますと、“利”というのも、4番目の“誉”というのも、5番目の“称”というのも、一番最後の“楽”ということも、みんな良いことでありますけれども、「それも風だ」っていうんですよ(すごい世界ですねえ)。私は本当にこれを感動しながら、何度も何度も何度もこれを書きながら、味わったのであります。世の中で、私達の人生の中で、“最も強い風”っていうのは何であるかというと、この4番目の“誉”ということだっていうんですよ。陰で誉められるということはね、陰で誉められて、みんな喜ぶって。面と向かってよりも喜ぶって。

 イソップ物語の『北風と太陽』というのがありますよねえ、北風がビュービューしても、「おお、寒い寒い」といって、こうしてしまうけど、太陽が照らされると、上着を、こうコートを脱いで、上着を脱ぐんだ、という有名な話がありますよねえ。陰で誉められると、もっと強い力を持っていて、コートを脱いで、上着を脱いで、シャツまで脱いじゃうだろうってね。そういうものが私達の内側にあるでしょう。サタンはこれを上手に用いて、表の奉仕の方々も、裏の奉仕の方々も、誉められないとやれなくなるというような状況が起こってくるでしょう。しかし、誤解なさらないで聞いて欲しい。「八風吹けども動ぜず」ということは、“感情を失う”ということではありません。喜怒哀楽を素直に表す。しかし、感情を素直に出しながらも動じない、という。すごい世界ですねえ。感情は持つ、喜ぶこと、悲しむこと、痛むことがあるんですけど、そのことによって軸が動かない、というね。軸が動かないと、デコボコ道を歩いても、軸が動かないから動かないんだ!!という。ヨハネの14章の1節で、イエス様が十字架にかかられようとする時に、弟子達はみんな動揺しました。

 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(新約聖書・ヨハネによる福音書14章1節・口語訳)

 これは、神に対する全幅の信頼であります。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」「あなたの信仰は、どこにありますか?」ということが、いつも問われる、そういう内容。イエス様は、イエス様から学ぶことはどんな誘惑にあっても、おだてられても、「あんた神の子でしょう?」なんて言われても、そして誘惑にもおだてにも勝利をなさった。それは、神の御言葉に堅く土台して売られたからであろうと思います。
 さあ、パウロ先生という方は、コリントの人達に対して、第2コリントの6章(これ開けてみましょう、いい言葉ですから。聖書のない人は、今スクリーンに出ますけど、みんな開けましょう。283ページ)の1節から、お読みします。283ページ、下の段、6章1節。

 「わたしたちはまた、神と共に働く者として(“スネルゴイ”と言いますが、今年の標語にふさわしいでしょう?)、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、(しかし)常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙6章1節〜10節・口語訳)

 愛する兄弟姉妹。ものを考えることの出来る人でしたら、「なんとすごい人物であろうか。何という素晴らしい世界であるか。」ということに、まあ驚きを覚えなさるであろうと思います。8節をご覧下さい(6章8節)。

 「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」ご一緒に8節読みましょう、はい。「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」アーメン。
 無関心で、感動しなくて、無感動で…そんなことではない、「私は神の僕(しもべ)として自分を表しているんでありますが、どんなことがあっても(八方から風が吹いて来たと致しましても)動ぜず、キリスト者として誉められてもそしられても、悪評を受けるようなことがあったとしても、好評を博すようなことがあっても、神の僕として自分を表している。」という、そういう内容でございます。 
 一緒にスクリーンを読みませんか?一緒に読んでみましょう、はい。

「八風吹けども動ぜず  ほめられても そしられても 神の僕として生きる!!」

という、そういう内容であります。「陰で誉められても、陰でそしられても、陰で悪評を受けても、好評を博しても、面と向かって(正面から)誉められてもそしられても、そして悪評を受けても好評を博しても、我々は神のドゥーロス(しもべ)としてキリスト様を表す為に生かされている。これぞ、自己超越的生き方」、という内容であります。こういう生き方に憧れるといいましょうか、「クリスチャンはこういう生き方を聖書から学んで実践しよう」ということに私たちは進歩しなければならないと思います。こんな生き方をさせて欲しい、そう願う者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 いいねえ、素晴らしいねえ。本当に私は、この言葉を何度も書きながら、この年末年始、これを味わわせていただいたわけであります。さあ、神の僕に与えられる恵みを5つ紹介します。

 第1番目、それは救いの恵みであります。
 人間は罪人ですから、地獄に行っても文句の言えない存在。罪人が罪を犯したら罰を受ける(というか)報いを受けるんですけど、イエス様が間に立って、救いの道を開いてくださいました。誰でも救われる、どんな人でも、信ずるだけで救われるという(虫がいいですか?その通りであります)。人間は人間の力で、努力では救われないということを、歴史を勉強したらわかるでしょう?キリスト様がわれらの身代わりになって、十字架にかかって死んでくださいました。イエス様を信ずるだけで、その道が開かれるということを、私達は心から信ずるのであります。
 新年早々、家族の救い、今日洗礼式があります。中富京子さんが洗礼を受けます。83歳、4歳ですか。叔父様が牧師でおられたそうです。若い時にはバイブルキャンプにも行ったそうでありますが、今日の洗礼式、嬉しいですね。

 神保兄弟は、「お母さんが救われた」とメールをくださいました。新年早々、“BUT(バット)”の勉強しましたね。Break-through(ブレイク・スルー)というのと、“U”はなんでしたか?Up-grade(アップ・グレード)というのと、“T”はTransformation(トランスフォーメーション)でしたね。私の家庭に、Break-through(BUTの“B”の体験であります)。今年は、“U”も“T”も体験させて欲しい、と。「祈祷会でいつも家族の救いの宣言をしているようになりました。」と、「私の家族は全員救われました。」と、お手紙といいましょうか、メールをいただきました。私達の教会の祈祷会の様子はね、みんなで信仰の宣言をしているんですよ。一緒にやってみましょうかね。祈祷会になかなかいらっしゃれない人も、祈祷会の霊的な高まりというものは、、本当に素晴らしいものですよ。一緒に行きますよ、大きな声で行きましょう。

 「私の家族は全員救われます(私の家族は全員救われます)。」「日本にはリバイバルが起こります(日本にはリバイバルが起こります)。」「私も用いられます(私も用いられます)。」「どんな問題も解決します(どんな問題も解決します)。」「することなすこと、みな成功します(することなすこと、みな成功します)。」「イエス様がご一緒ですから(イエス様がご一緒ですから)。」「ハレルヤ、主を感謝します(ハレルヤ、主を感謝します)。」─これでもう、みんなで一所懸命お祈りするんですよ。このご家庭がたに神様の栄が表れたことを、本当に感謝します。

 第2番目、聖霊様の素晴らしい恵みの世界であります。
 1995年というと、ちょうど10年前にチョウ・ヨンギ先生がヨーロッパの伝道旅行をなさった時に、大きな聖会で預言をなさったそうであります(1995年ですよ)。チョウ・ヨンギ先生は、「ヨーロッパ全体をリバイブに導く鍵となるのは、ルーマニア人であろう。」と、そう仰ったそうであります。そんなの誰も信用できないですよ。「チョウ先生狂っちゃったかな?」と。ルーマニア人が、どうしてヨーロッパの、あの伝統あるヨーロッパのリバイバルの鍵になりますかねえ。ところがですね、共産の政権が潰れてから、驚くべきことがルーマニアに起こったわけです。今まで共産主義の場合は、「神はいない、神はいない、神はいない」と洗脳されておったんでありますが、どうもあの時代にも“神はいる”と信じて迫害に耐えた人達の姿を見ていた人達が、自由になりますと、「本当に神がいるかどうかを体験したい」ということで、求めるようになったんですよ。そして、リバイバルが次々に起こった。それはルーマニアの国内の問題でしょう?でも、「ヨーロッパ全体に対して影響を及ぼす」とチョウ・ヨンギ先生が預言をなさったわけですけども、何が起こったかというと、ルーマニアがあんまり貧しいので、隣の国に(周りの国に)出稼ぎに行く若者が次から次へ、次々と出て来たんですよ。そして素晴らしいことが起こり始めたんですね。
 イタリアに、アルバニアに、スペインに、そして、オーストリア、ウィーンなんかに、でっかいルーマニア人教会ができたんでありますよ。今回のギリシャも、もう素晴らしい。私達は、新しい礼拝堂の建物の為にお祈りをしてきたんでありますが、これはもう奇跡よ。「アルバニア人は、国を離れるとすぐにバーを作るけれど、ルーマニア人は教会を作る。」という噂が流れたぐらい、若い方々によって、リバイバルの御業が、周りに次々になされているということに、私達は本当に驚きますよ(こういう話は祈祷会にしますからね。これはもっといっぱいあるんですよ)。
 ギリシャのリバイバルは(ルーマニアのリバイバルは)、本当に私達にとって、ニュースが入ってきませんでした。驚きであります。
 聖霊の力っていうのはね、1つは、聖霊を受けたら力を受けて、じっとしていられないという。聖霊を受けるということは、エルサレムをはじめ、ユダヤ全国地の果てにまで証人になる。
 もう1つは、聖霊はHoly Spirit(ホーリー・スピリット)と表現されますから、聖さが内側に入ってきますと、内側が聖化される。肉が砕かれて聖化される。「どんな出来事が起こったとしても、動じない」っていうね。正しい事を喜ぶ、泣く者と共に悲しむ、喜ぶ者と共に喜ぶ、人の噂をしない、人をさばかない、御霊に喜ばれることをする。これが、sanctify(サンクティファイ)、sanctification(サンクティフィケーション)ということであります。

 第3番目、それはいやしの世界。
 次々に主のいやしが、今もこの教会でもなされていますね。2日前もなされました。

 第4番目、神様は私達の人生を祝福で満たしてくださいます。
 ルーマニア人がギリシャに出稼ぎに来ておりますね。“ディアスポラ・ミッション(離散民の宣教)”というんでありますが、次々に救われる。教会がですね、若い人ばっかりが(だって働きに来る人は若い人ですからね)、私世界を回っていますけど、20代の方々にもてなされたのは初めてですね。「倉知先生をせっかく外国にお連れしたんですから、ご馳走しよう。」と思ったんですけど、一度もそういうチャンスはありませんでした。なぜ?ルーマニア人の若い人達、信徒の方々が、私達を次々にご自宅に招いてくださってね(笑い)。子供と一緒に食事をするというね。ルーマニアの人達は、奉仕をすることが、ビジネスに(お仕事に)祝福に繋がる、ということを本気で信じているんですよね(ああ、話したいなあ、こういう話を。本当に素晴らしい出来事を)。

 愛する兄弟姉妹、創世記の24章を開けてみましょう(創世記っていうのは、聖書の1番前ね)。創世記24章(聖書の無い人は、今スクリーンに出ますから、それをご覧になって下さい)。創世記24章。24章の1節。いいですか?

 「アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。」(新約聖書・創世記 24章1節・口語訳)

 私が帰ってきたら、誕生日カードがもういっぱい来ておりまして、その中の1つ。この教会から出て行きました若い伝道者が、私に誕生日カードをくださいました。「先生。先生の為に、この御言葉をお送りします。」、というね。主はすべてのことにアブラハムを恵まれた。でも私「この御言葉がどこにあるかな?」と思って、調べて(24章の1節なんですけど)、その人、さすがにねえ、この前半は書いてなかったんですよ、私にね(笑い)。「アブラハムは年が進んで、老人となった(笑い)。(しかし)主はすべての事にアブラハムを恵まれた。」という。やっぱり、気を遣って前半書いてなかった。後半だけ書いてあったんですよ。新改訳は「主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられる。」
 兄弟姉妹。私はねえ、今年1年ねえ、またこれを味わいたいと思うんですが、味わえると思っているんですよ。あらゆる面で、あなたのご専門に関して、それは祝されないと困るでしょう?あらゆる面において、あなたのご家族、子供のことも、ありとあらゆるすべてのことにアブラハムを恵まれた。どなたが?「主は」というんですよ。今年の標語、一緒に読んでみましょうね。ご一緒しましょう、はい。「わたしの父は、今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」これはイエス様のお言葉でいらっしゃいます。
 主はどこでも働いてくださいますから、若い兄弟姉妹も、アブラハムの様に年をとって「もう引退」と思っていらっしゃる人も、これを経験したいと思いません?あらゆる面においてですよ。あなたが想像もしなかったその世界で神の祝福を経験する。「なんとすごい恵みであろう!」と経験する。聖書の世界ですよ。あらゆる面において主が働いていてくださるんですから、主ご自身が私を恵んでくださるんだ、あらゆる面において、祝福してくださるんだ。この世界を受け入れたい、そう願う人は、アーメンと言いましょう。アーメン。これは私の信仰であります。イエスの御名で祝福します。

 第5番目、それは、再臨信仰。再臨信仰。「イエス様が再びいらっしゃる」という。
 ギリシャのある教会で集会をいたしました。ギリシャ人の教会でありました。正面の十字架の横っちょに、金縁(というか)の色でですね、御言葉が書いてありました(ギリシャ語で書いてありました、当然ギリシャ人だからね)。それが、この聖書の1番最後は「黙示録」でしょう?黙示録の最後の最後は22章でしょう?その22章の御言葉でありました。「私はすぐに来る。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」というその言葉が、そこに書かれておりました。感動的でしたね。この教会は毎日、「今日、イエス様がいらっしゃる。それでも大丈夫、準備ができています。」という事を心にとどめている。「今日イエス様が来られても、私の心は準備されています。」
 今回ヨーロッパに行きまして、私はギリシャ正教の世界が開かれました。これはもう、私にとってものすごい嬉しい世界であります。ギリシャ正教、ルーマニア正教(Greeth Orthodox〔グリース・オーソドックス〕と言いますけど)、その世界が開かれました。ローマン・カトリックに関しては、随分前から開かれました。今日もヘンリー・ナウエン先生を引用しました。帰りにドイツ、フランクフルトに寄りましたが、私はドイツ神学のリベラルな神学に対して非常に否定的でありましたけど、私はその世界に対して心が広げられました。嬉しい、ものすごく嬉しい。イエス様がいらっしゃる前にこんな風にして拡げられるということは、All one in Christ(オール・ワン・イン・クライスト:キリストにあって1つである)という。お洋服は違うかもしれない、趣味や伝統や歴史や習慣は違うかもしれないけど、本質に関しては一致する。「イエス様が救い主である」というね。「本質以外は寛容であれ」というね。嬉しいねえ。「本質以外は寛容であれ」、一緒に言いましょう、はい。「本質以外は寛容であれ」。人間はそれぞれでありますが、本質で1つになれるなら、主をお迎えする準備ができるでしょう。「イエス様、どうぞいらして下さい。」と、申し上げられるように整えていただきたいと、そう願ってやみません。イエス様を愛する者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りします。恵み深い天のお父様。クリスチャンとしてイエス様を信じているんですけど、なんかちょっとあるとガタが来てしまうような、恥ずかしい、そういうクリスチャンでありますけど、「八風吹けども動ぜず」、誉められても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、私は神のドゥーロス(しもべ)である。自分を証人として明らかにしながら生きるという。若くても、年をとっても、経験が豊かでも、経験が無くても、同じキリストに従うキリスト者として、この生き方ができますように私達を支え、強めてください。お願い申し上げます。
 日本の国を覚えて、世界の勉強の為に、また世界の主にある者達を覚えて、世界の福音宣教の為に用いられますように。ここに集いましたすべての人、私達は今日、日本国内の衛星放送だけではありませんで、世界のインターネットを通して、また衛星放送を通して、どこの国でもこの教会の礼拝を観ることができるという、驚くべきニュースを知りました。神様がこのメディアを通しても、神の働きを進めてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

「愛はじっとしていられない」 大川従道師  2006年1月8日

 「そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、『ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから』。彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。さて、イエスは彼らに答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。』さて、イエスは彼らに答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。』」(新約聖書・ヨハネによる福音書5章14節〜20節・口語訳)

 特別賛美:宮田四郎兄 エルガー作曲「愛の挨拶」

 素晴らしいというか、素敵と言いましょうかねえ。エルガーの曲を、少し画面で説明してくださいましたので「ああ、あの有名な歌は、こんな意味の中でなされたんだなあ。」ということで、何かさわやかな、あたたかい愛のご挨拶が皆さんに届いたのではないかな、とそういう風に思います。元旦にいらっしゃれなかった人達にとりまして初めての礼拝になろうかと思いますが、新年のご挨拶を、少し大きな声でご挨拶させていただきたいと思います。皆様、あけましておめでとうございます。
 
 思いもかけずに大雪ということで、北陸の方々や東北の方々はご苦労されておられると思います。「初雪や これが砂糖だったら まるもうけ」という図々しい歌がありますけれど、笑っていられないほど、屋根が、家が壊れつぶれてしまうのではないかというようなことで、昨日もあちこちに電話したんですが、皆さんもどうぞ覚えてお祈りいただきたいと思います。
 今朝、雪国のことを考えておりましたら、江戸時代の小噺を思い起こしました。江戸時代(若い人達は分からないでしょうけれど)、今のように、こうサッシの窓ではなくて、みんな雨戸は木で出来ておりましたでしょう?ですから、ガタピシャというようなものでありまして、少年が夜中にオシッコをしたくて起きたんですけど、廊下でもじもじしながらドアを開けようとしたんですけど、寒さで雪で氷で、どうもドアが(雨戸が)開かない。だいたいその時代はトイレは全部外、“ご不浄”といった時代でですから、まあ外にトイレがあったわけでありますが、少年は考えました。(凍っていてドアが開かないから、ここにオシッコをかけちゃおう)といって、誰も見てないからといって、その開かないドアの下の方にオシッコをかけましたら、温度があってですね、それが溶けて、スルリとドアが開きました。しかし、開けたはいいんですけど、何のために開けたか、もう既に用が足されていた…という、そういう小噺でございます。

 随分間をおきまして、昨日の新聞でありますけど、投書欄に<カミのおつげ>というのがありました。最近携帯電話を持ちました、55歳の女性、お母さん。家族内のメールは、みんなタダ、無料であるということで、やたらめったら家族同士でメールを送っているんですけど、息子にメールを送っても全然返事をしてくれないんですが、今日始めてメールがありました。「俺、今2階のトイレ。紙が切れている。」というですね(笑い)。タイトルが<カミのおつげ>というので、牧師が使ってはいけないようなジョークからスタートしまして申し訳ございません。神様のお告げである聖書を開きたいと思います(笑い)。

 新年早々、私達は非常に大きな恵みを初詣礼拝において、宴会礼拝において、そして新年聖会でいただきましたが、今年の標語は素晴らしいですね(今スクリーンに出して頂きますので、みんなで一緒に読みたいと思います)。みなさん、(標語の紙を)いただきましたか?ご一緒しましょう、はい。「わたしの父は今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」(ヨハネ福音書5章17節、この所番地も覚えましょうね)。もう一度行きましょう、はい。「わたしの父は今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」(ヨハネ福音書5章17節)アーメン。素晴らしいですね。
 昨日の英語礼拝で、ケン先生に英語の訳文をお読みいただいたんですが、英語のある聖書には、「わたしの父は働きをストップしません。ですから、わたしも働き続けるのです。」という、そういう表現で、「うーん、いいなあ。」と思いました。
 
 この言葉はある意味において、イエス・キリストの命懸けの言葉である、と言ってよろしいかと思います。なぜなら、今日お読みしたのは5章の14節からでありますけれども、5章の1節から11節までに書かれております出来事は、“ベテスダの池”という池に、イエス様がいらっしゃいました。ユダヤ人のお祭りは、20歳以上の成人は、全員そちらに集合することになっておりました。人々は祭りが好きで、どんちゃん騒いでおったわけですが、イエス様は病人の方々をお訪ねになりました。「もうそこから動けない。」という、まあ力のない因習に縛られて、その池が動いて、まっ先に池に飛び込んだら病気が治るという、そういうような伝統でありました。行くところがなくて、人々が病人、盲人、そして足衰えた者、そしてこの所に集まります人達の中には、足なえ、やせ衰えた者などが体を横たえていたということでありました。38年も病気の人がおりまして、イエス様はその人に近づいて、「なおりたいのか?」とね。なおりたいのは当たり前のようなことですけど、38年も毎日が同じでありますと、もう失望と言いましょうか、絶望と言いましょうか、「もう、どうやったってしょうがないんだ。」という気持ちであったと思います。イエス様が「なおりたいのか?」とお声をかけますと、その人は返事もできなくて、「だってみんなが先に降りちゃうんですもん。」とか、「誰も入れてくれる人がいないんですから。」と、人頼みと言いましょうか、みんな先を越してしまう、弱肉強食と言いましょうか、そんな人生の中で、イエス様はその人に対して、「床を取り上げて歩みなさい。」とね。
 当時のイスラエルの国は安息日でありますので、土曜日に仕事をすると、まあ、本当は村八分になるというような状況でありまして、歩くことはある程度ゆるされたんでありますけども、“労働”はゆるされない、「床を取り上げる」という行為そのものがいけない。それで、安息日にそれをしたので、大騒ぎになりました。「誰だ、安息日に病気をいやすのは。とんでもないやつだ!いったい誰だ!誰だ!」と言うと、イエス・キリスト様であるということがわかってしまったわけであります。イエス様はそれに対して、「わたしの父は今もなお働いておられるんですよ。だから、わたしも働くんです。」と。天の創造主なる神様を「私のお父様」と申し上げたことに、1つ問題がありました。もう1つは、安息日にはみんな共通の考え方が「働いてはいけない、礼拝に行くだけですよ。」という風に言われていたのに、「その日に働いた、労働した、命令をした」ということで、イエス・キリストを殺しにかかった─という風に書かれております。我々は「大袈裟かな」と思いますけれども、当時はそういうような状況であったことを、まず理解しておく必要があろうかと、そう思うのであります。

 一緒に少し考えたいことがあります。それは「労働論」ということについてであります。“働く”ということを苦痛と思っているのが現代人であります。喜びではなくて、苦痛。できれば休みたい、サボりたい、逃げたい─というようなことであります。聖書の中にそういう「労働論」について書いてありまして、旧約聖書の最初の部分の創世記の3章には、アダムとエバが罪を犯して、楽園から追放されます。その時(楽園から追放される時)に、神様がアダムとエバにこう言いました。(まず、ヘビに対して)「あなたは地面をはうようにしてのろわれるであろう。」という(昔は足があったのかもしれませんねえ)。2つ目は、「女性よ、あなたは出産の苦しみを経験するでしょう。」3つ目は、「男達よ(男よ)、アダムよ。あなたは顔に汗して働かなければならないでしょう。」という3つの出来事を、そのところで語られたわけであります。しかし、イエス・キリスト様がガラテヤ書の3章で、「キリストが私達の為にのろいになってくださった。」創世記の3章では、「地面ものろわれた。」という風に書かれているんですが、「環境ものろわれた。」という風に書かれているんですが、“イエス・キリストが十字架にかかられた”ということの意味は、我々が担ぐべき人生ののろいといわれるものをキリストが代わりにひっかぶってくださったので、キリストを通して(出産ということの苦しみだけではありません)、それは喜びに変えられるもの、喜び、楽しみ、素晴らしさということ。“労働”というものは逃げたいようなものではなくて、意味のある仕事に対しては、素晴らしい喜びの業である、ということに気づくわけであります。

 パウロ先生は「自分の人生というのは、神様から、信じるだけではなくて、苦しむことも賜(たまわ)った。」と言った。「賜った」というのは“プレゼント”という意味ですよ。プレゼント─“苦しい”ということは否定的な表現でありますけど、“賜る”ということは、良い、肯定的な表現でありますが、矛盾した言葉が交差しておりまして、(ピリピ人への手紙の1章でありますが)「苦しむことをプレゼントされたということは、苦しみが苦しみでない、それはわたしにとって賜る贈り物、プレゼント、喜びだ。」という風に変えられているということにお気づきいただきたいのであります。

 (今5章ですが、4章では)イエス様がサマリヤの女性をお導きなさった時に、弟子達が戻ってきて、「イエス様、あなたは食べ物を何か食べたんですか?」という風に言われますと、イエス様はこう仰った。「わたしのご飯(食べ物)というのは、わたしを遣わしてくださった方のみこころを行い、その御業を成し遂げることだ。」という。愛する兄弟姉妹、これは素晴らしい表現であります。私達の労働論は苦痛に満ちたものであり、「できたら休みたい、逃げたい。」という風に思うのではなくて、イエス・キリストは、「わたしがこの地上に来て働くことの意味は、わたしを遣わしてくださったお方がいらっしゃる。わたしは神によってこの地上に遣わされていて、神のみこころ、神のご計画、御旨(みむね)を行うこと、神の御業を成し遂げることがわたしのご飯だ。」─“わたしのご飯”というのは、わたしにとっての喜びだ、という意味であります。

 私は昨日、富山県のある教会に電話を入れました。本当に大変だなあ(まあ、失礼ですけど)、会堂は建ったんですけど、安普請でありますので(写真を見てわかるくらいですから)、お金をかけた建物ではありませんので、心配でお祈りしておるんですが、電話をしましたら、もう向こうで大騒ぎです。「大変よ、お父さん、大川先生からの電話よ!」なんて叫んでるから、みんな聴こえるんでありますが(笑い)、「大変、早く早く!(何が大変かはわかりませんけど)、その家の中ではですね、素敵なゴスペルがもうバンバン鳴っておるんでありますが、「急いで早く消してー!」なんて、みんな聴こえてしまってですね、でお父さんが出て、「いやあ先生、あけましておめでとうございます。」「どうですか?雪につぶされないように祈っておりますよ。」「ありがとうございます。もう少し雪が屋根に入っても大丈夫なように作られているそうですから。」と、ちょっとこう安心したわけですけど、そんなところでね、教会の無い所に、豪雪地帯にね、教会を作ったんですよ。ねえ。そんなところに作らなくても、雪が降らないところでやればいいのにねえ。その先生達にとっては、それが喜びなんでしょう?ですから、一言の愚痴もありませんで、「大変ですよ、こんなところで開拓しちゃって、大変ですなあ。」なんて言うわけじゃない。奥さんも子供達も、まるでこの音楽(ゴスペル)を聴いていますと、そこではしゃいでるかのごとくに、踊っているかのように思えたですねえ。

 先日ここに、チベットから日本人の宣教師がみえましたねえ。この先生達は、わざわざチベットに入り込んでね、(語学の達人みたいな人達でありますけど)若い人達がチベットに行って伝道しておられるんですけど、昨年もチベットで、(車がありませんので)タクシーに乗ろうとしてですね、子供達を座席に置いて、先生は前の座席に座ろうとしたら、タクシーの運転手が急発進して、子供を連れて拉致して逃げちゃった。叫んでも、追いかけたって、猛スピードで逃げちゃった。もう腰が抜けるほど(そりゃそうですよ、チベットでねえ、子供が拉致されたら、だいたい人身売買ですからね。売春婦に将来なるかねえ、または、臓器、この臓物を取って売られる、というようなことが言われているわけですけど)、もうへたりこんでしまったこの先生は、「神様助けてください!」と言ったらですね、本当に奇跡が起こって、その運転手がねえ、また猛スピードで戻って来て、そうして、子供達をですね、その道路に放っておいてですね、そしてまた逃げて行った、というね。「そんなところ、やめてくださいよ!もっと衛生上いいところ、そして治安の良いところに行ってくださいよ!」と言いたいところですけど、その人達にとっては喜びなんですよね。

 わたしはインドネシアのジャングル(奥地)で伝道しまして、裸族でね。(集会中みんな裸ですから、どこに目をやっていいかわからないような集会でしたけど)顔にはこう刺青がしてあってですね、(まあ「昨日まで人を食ってた」みたいな、そういう人達ですけど)そこで伝道しました。宣教師がその中に入り込んでいるわけですけど、そんなところに行ってマラリアになるよりも、悪いデング熱になるよりも、帰って来たらいいのに…と思いますけど、彼にとってそれは“喜び”なんですよね。
 愛する兄弟姉妹、あなたの人生でも、あなたの人生で“ご飯”はいったい何ですか?「それは遣わされて、“私”という人間は気づかなかったけど、神は私をこの地上に遣わしてくださった。そのお方のみこころを(御旨を)行うことが私にとっての喜びであり、それが食物です。」という人生がある。そんな人生を送りたい人は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 「安息日問題」と言われるこの聖書の時代は、613の律法があったと言われます。ああでもない、こうでもない。人間がみんなひっつけて、くっつけて、そしてがんじがらめになっていたわけですが、最近出た本に、『Ten Commandments(テン・コマンドメンツ)』が、(20世紀を代表する神学者で、ウェストミンスターの弁証論の教授でありますが)コルネリアス・ヴァン・テル(Cornelius Van Tel)という人物がお書きになられて、それが日本語にされました。ちょうどその書物の中で、私達は「モーセの十戒」というね、第1番目、神以外のものを神としてはいけない。(日本人は、これ弱いよねえ)。これを否定する人がね、新聞でたくさんいますけど、本当はおかしいんですよ。結婚したらね、1人の人と「まあいいじゃない。女はいっぱいいろんないい人いるよ。」同じことなんですよ。神様と結婚生活に入るみたいで、神以外のものを神としてはいけないという、その世界がある。2番目、像を刻んで偶像礼拝してはいけない。神の名をみだりに唱えてはいけない。4つ目にね、「安息日を覚えて、これを聖としなさい。」というね。「週に一度は体を休めて礼拝をするんですよ。」ということは、神が人間に与えた戒めである。5番目、「父と母とを敬いなさい。」いつかまたお勉強したいと思いますが、すごいですよ、この十戒は。「殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、偽証を立てるなかれ、貪るなかれ。」という。
 その中の4つ目にね、「安息日を覚えて、これを聖としなさい。」この説明をする時に、このヴァン・テルという大学者が、この私達の5章の17節のこの言葉を引用して説明しておられるんですよ。もう先ほど読みましたよね、5章の17節。一緒にもう一度読みましょう、はい。「わたしの父は今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」(ヨハネ福音書5章17節)これを引用しましてですね、神様は、6日間で世界を創造されて、そして7日目にお体をお休みになられて(それが土曜日ということが伝わっているわけですけども)、イエス・キリストが十字架にかかられて3日目に甦られてから、キリスト教会は変わっちゃったんですよね。一週の最後の日に安息をするのではなくて、頭(週の最初の日)にキリストが甦られたので、今まで「何しちゃいけない、これしちゃいけない」というようながんじがらめになる律法ではなくて、「人の為に安息日があるんだ」ということで、日曜日の朝、礼拝を守るようになりました。この日に主の日として礼拝を守るように世界が変わってしまったわけでありますが、そのヴァン・テルという人物が、こういう風に言いました。「主は働きを全くやめられたのではなく、創造という特定の働きをやめられたのである。創造されたものを喜び、祝福されるようになっておるのです。」と。このヨハネの第5章の17節を引用しながら、こう仰るんですよね。「この御言葉を深く心に留めるならば、2つの極端を避けることができる。」

 2つの極端というのはね、1つはね、「安息の日だから、何もしちゃいけない、礼拝以外はしちゃいけない。」私の少年時代はそうでしたよ。スポーツもしてはいけない、遊んではいけない、買い物してはいけない、というね。世界中がこのピューリタニズムの流れの中に生きて、クリスチャンというのは堅い、暗い、つまらないという人生でした。この極端は間違いです。私達は礼拝を守ることは絶対的に重要なことでありますけれど、この日を主の日としてもっと喜ぶ、楽しむ、清い楽しみの中へ。
 2つ目は、反対にこれは昔のことで、今は週に一度体を休めて礼拝をする必要はない。もっと働いたらいい、もっと遊んだらいいといって、安息日を否定する、そういう生き方をするという。両方の極端を私達はこの御言葉によって知ることができます。
 「安息日を覚えて、これを聖としなさい。」という、“聖”というのは、“清い”という意味もありますけども、“聖別”の“聖”であります。聖別っていうのはね、他の物と別にするんだという意味であります。聖餐式というのがありますが、あのところで使われるカップはままごとにも使えますけど、使いません。なぜ?そのことの為に使っているからであります。私達の人生の中には、他の為にも使えるんですけど、他の為で稼げるんですけど、「私は、この賜物は神の栄光の為に使います。」というのを“聖別”というんですよ。日曜日というものは、遊ぶこともできれば、仕事をすることもできれば、勉強することもできるけど、これは主の日ですから、だから主日礼拝という。「主の日だから、私はこれを他の24時間と違って、区別して、聖別します。これが「安息日を覚えて、これを聖としなさい。」という、深い意味を持っていることを言いたいと思います。今年も安息日の主を崇めて、大いに聖なる喜びを楽しみたいと思います。アーメンでしょうか?アーメン。

 昨日私は旧約聖書の「ルツ記」を勉強した。「ルツ記」というのはね、4章しかないんですよ。「創、出、レビ、民、申命記、ヨシュア、士師、ルツ」だから8番目の、4章しかない、みじかーい女性物語なんですが、これは文学的に非常に高いんですね。どういうことかというと、「ルツ記」ですから、ルツという人物が出てまいりますね。ルツのお母さんがナオミなんですが(お姑さんですけどね)、実はイスラエルから離れた所で生活しておったんですが(“ナオミ会”ってあるでしょう?)、ナオミの御主人が死んでしまうんですよ。ナオミさんには、2人息子がいたんですけど、この息子さんが2人の人とそれぞれ結婚したわけでありますが、この息子さん2人が死んじゃったんですよ。
 皆さんね、人生の中でね、自分のご主人が死んだだけではなくて、頼りにしておった息子2人が死んじゃったらね、これはもうアウトでしょう。そこにね、飢饉がやって来て、食べ物が無い、生活することができない状況でありましたから、そのナオミというお母さん(お婆ちゃん?)は、2人の嫁さんに対して、「あんた達はね、もう息子は死んじゃったんだから、夫が死んじゃったんだから、解放してあげるからね。私に何もついて来ることはないよ。もう解放してあげるから、自由にしなさい。」と言ったらね、1人の方はね、「はい、わかりましたお義母様。」と言ってね、もう自分で自由になったんですよ。まぁ、ルツというのはね、「お母様、私はね、あなたにどこへでもついて行きます。」という感動的な話があるんですよ。
 このルツという人ね、「あなたが行くところはどこへでも行きます。」それで、ナオミという人がね、考えたんですよ。「私はどこへ行ったら、飯が食えるか。生活ができるか。やっぱり、郷里に戻ろう。」ということで、ベツレヘムに戻るんですよ。ベツレヘムと言ったら、イエス様が生まれた場所じゃないですか!ねえ。ベツレヘムに戻るとね、ベツレヘム中をあげてですね、「うわー!ナオミが帰って来た!」─ナオミという言葉の意味は、“喜び”とか“楽しみ”という意味なんですよ。「喜びが帰ってきた!楽しみが帰ってきた!」というと、彼女は「ちょっと待ってください、私なんか、笑えないんですよ。夫が死んで、2人の息子が死んで、嫁さんがいなくなって…こんな人生で私は喜べますか?だから私のことを、もう“喜び”とか“楽しみ”とか言わないで下さい。“ナオミ”と言わないで、“マラ(苦しみ)”と言ってください、私は苦しみですから。」
 こういうような、まことにお気の毒な人生を送っておられるんですけど、この賢いルツさんという女性が、ものすごい不思議な経験をするんですよ。はからずも、ボアズという男性が持っている畑に行きまして、そこで落ち穂拾いをするんですよ(さあ、「落ち穂拾い」の絵が出ますかね)。ほら、有名でしょう?これを知らない人はいらっしゃらないでしょう?ミレーの「落ち穂拾い」であります。
 「落ち穂拾い」っていうのはね、落ちた穂を拾う、というぐらいですからねえ、イスラエルの国っていうのはね、収穫をする時にね、全部刈り取っちゃうと、「貧しい人、食べることのできない人のために少し残しておきなさい」というね、すごい話ですね。落ちている穂を、食べるものがない女性達が行って、落穂拾いをする。これはもう、最低なんです。「人の畑に行って食べ物をいただかなければ、生活ができない」という。ところがですね、聖書は明確に、「はからずもルツはボアズの畑に行った。」と書いてあるんですよ。で、ボアズはどういうことであるかというとですね、このルツをめとってですね、もうルツはボアズの恩恵によって素晴らしい生活を送るんですが、「ルツ記」は4章しかないと言いましたが、4章の13節から(スクリーンに出ますかね、出ましたね)。

 「こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は(神様は)彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。そのとき、女たちはナオミに言った、『主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから』。そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。近所の女たちは『ナオミに男の子が生れた』と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。(その次に書いてあること)彼はダビデの父であるエッサイの父となった。」(新約聖書・ルツ記4章13節・口語訳)

 その子孫にイエス・キリストが生まれるんですよ。“鳥肌が立つ”という表現がありますが、聖書の中で、まことにみじめな、夫が死んでしまって、子供達も死んで、そして頼るところのが全くない者がベツレヘムに戻って、ルツがボアズと結婚したことによって、この人生はどんでん返し、逆転ホームランを経験するということが聖書の中に書かれております。人生の失敗者、みじめな労働者、なんといっても、この人物を通してキリストの先祖、ダビデの父、はからずも、もし子供が死ななければ、夫が死ななければ、ルツという嫁さんが忠実について来なければ、ルツがボアズと結婚しなければ…もしも、もしも、もしもということを考えてみると、まことにまことに不思議な言葉があります。

 大川牧師は今日まで60数年の間、はからずも─はからずもというのはね、計画したわけじゃないのに─大川家に生まれたんですよ。親が牧師でした。東京生まれなんですけど、私は突然静岡の地に来て、6年過ごしました。はからずも、私は受験に失敗しました。みじめでしたが、東京に戻りました。上京しました。神様の本当に不思議な摂理でですね、東京で高校時代を過ごしました。千代崎先生のところでお勉強させてもらいました。日曜学校の教師をしました。そして私は18歳で聖書学院へ入りました。最高に素晴らしい神学校でした。全有名な伝道者達が揃っておりました。私は本当にラッキーでした。はからずも、私は青山学院に(大して勉強していなかったんですけど、神学校ですっかりエネルギーを使っていたんですけど)、試験を受けたら合格しました。夜学でしたが、昼間働いて夜夜学に行って、そして牧師をしました。はからずも、私は家内と結婚するように導かれました。はからずも、私は子供が与えられました。2人も素晴らしい息子が与えられました。素敵な嫁さんが来ました。2人のかわいい孫が来ました。1970年、私はサンフランシスコで牧師をしておりましたが、本当にはからずも、私はそういう計算が全くできない(というよりもしない牧師でありますけれど)、強制的に私は、この地に就任して35年間、はからずも、はからずも、はからずも、はからずも、はからずも、私はこの地に35年間おりました。そして、私の人生は神様の御手の中にあること、歴史の中で働かれる神様を信じないと耐えられないことが、いっぱいあります。 

 スティーブン・ケイラー先生が、新年聖会ですごい説教をされました。詩篇の102篇ですけど(家に帰って読んで欲しいと思いますが)、1節から11節までは、もう本当に混乱として寂しいですねえ。「これが聖書か?」と思えることですが、12節に入りますと、「しかし主は」というね。「しかし主は」まことに最低のどん底の生活なんですけど、神様が生きておられて、「しかし主は」というね。スティーブン・ケイラー先生が、「今年は神の領域に入る年だ」という素晴らしいメッセージでした。めちゃくちゃな最低のどん底でも、「しかし主は」という世界がいらっしゃる。「下には永遠の腕がある。黄泉(よみ)に下られた主は、私達のどん底にも立ってくださる」と言ってねえ。
 “しかし”というのは、英語でBUT(パット)ということでしょう?BUTというのはね、B・U・T(ビー・ユー・ティー)でしょう?これを先生は説教中に説明されたんですよ。BUTのBは、スクリーンに出ますか?はい、こういう文字を使いましたよ。

B = Break-Through = 打ち破る
U = Upgrade = レベルを上げていただく
T = Trans-formation = 全く新しくなる、変革

 “Break-Through(ブレイク・スルー)”というね。ブレイクする、打ち破ってしまう、というね。現実にどんな困難があっても、打ち破ることが今年起こるでしょう、という励ましのメッセージでした。私は20歳になった成人者達にサインをしましたよ。30人近い人達がこの教会の関係者で20歳を迎えるんですけど、どういうサインをしたかというと、マルコの11章から、「山は動く」とサインしました。
 私達の人生には山がたくさん、山を越えると、また山がありますけど、「山に向かって『海に移れ!』と言ったら、山は動くんだ。」と聖書に書いてあります。私はそれを体験して欲しいですよ。生まれた時から、もう冷暖房完備の中に、またテレビのある世界を、食べ物が豊かな時代に今生きているわけですけれども、あなたの人生にも必ず山があります、壁があります。打ち破られなければならない壁は破られます」、というメッセージであります。

 2番目、BUTの“U”はUpgrade(アップ・グレード)というね。あなたの人生がグレード・アップされる、というね。私はヨーロッパから帰ってきます時に、飛行機がオーバー・ブッキングでですね、私が入るべきエコノミー・クラスはもう満席でした。、係の人がいらっしゃって、「大変申し訳ないんですけど、ファースト・クラスだけが空いておりますが、いかがでしょうか、ファースト・クラスの方に移っていただけますでしょうか?」─そういう時は、顔色を変えないで、「まあ、いいでしょう。」とか言ってですね(笑い)、同じ料金でファースト・クラスに行きました。3人ぐらい行ったんですけど、本当に金を出した金持ちがファースト・クラスに入った時は、落ち着いていますね。あれはねえ、アップ・グレードされた人は落ち着かないねえ。食べ放題、飲み放題、最高のご馳走が出ますね。でありますから、もう本当の金持ちはねえ、もうすぐに寝たりですね、仕事をしたりね、「食べなくても結構」っていうような顔をするんですけど、もうあの偽物の(私も含めてですね)、もうそれは食べられるだけ食べたりですね、もう飲みたいだけ飲んだりですねえ、まあまあ大騒ぎでね、「寝るのが惜しい」っていうようなもんでね(笑い)、そんなことでありますけどね。今年ね、皆さん、思いもかけずグレード・アップされる素晴らしいことが起こるでしょう、という預言でした。

 3つめ、BUTの“T”ね。これはTrans-formation (トランスフォーメーション)というね。「全くもって新しくなる」という、変革の御業という。ちょっとばかり新しいのではない、時々テレビでね、ボロ家のボロ家のねえ(本当に汚い家なんですけど)、もう名人の大工さんがやってきてね、そしてね、「うわー!これはもうこんなに変わるとは!」という番組をご覧になったことあります?こういう、あなたの人生がどんな状況でもね、これが自分の人生であるとは思えないような変革の御業がなされるという。育ちが悪くても、血筋が問題であっても、DNAがなんであれ、教養があってもなくても、本質的に主が変えてくださる。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しい。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる、神様の驚くべき御業。今年主が働いてくださる年にさせて欲しいと思います。あなたの人生に驚くべきBreak-Through(ブレイク・スルー)、必要でしょう?ねえ。伝統を破るというか、破るべき伝統と、破ってはいけないところの伝統、これが分からなきゃダメでしょう、ねえ。私達の人生がこのままでおしまいにならない、グレードアップされるという。私達の人生の中で驚くべきTrans-formation(トランスフォーメーション)、変革の御業をしていただくことができるということを主に期待したい、そう思います。
 ケイラー先生がこう仰いました。BUT、しかし主よ、1つだけ条件があります。自分勝手な世界を作ることではありません。神様のご計画に自分を合わせることです。どうしたらわかりますか?Back to the Bible(バック・トゥー・ザ・バイブル)、一緒に言いましょう、はい。“Back to the Bible(バック・トゥー・ザ・バイブル).”
 今年も聖書に土台するんであります。私のお父さんは働かれます。イエス様も働いてくださいます。私達も主の働きにサインをさせていただきます。時間もエネルギーも賜物も、全て主の栄光の為に用いさせていただきます。私、50年そうやって生きてきました。本当に幸せでした。人生にはどんでん返しも逆転劇も、逆転ホームランもあります。今困難で全く光が見えなくとも、あなたの人生に主は「山は動く、ブレイク・スルー(破られる)、アップ・グレードされて、トランスフォーメーション(全く変革される)、そういうことを信じたいと信ずる者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 イエス・キリストがこの地上に来られて働かれると、何が起こりますか。

 第1、救いの御業がなされます。本当に素晴らしい世界です。クリスマスにこの教会に日本画家の専門の方がお見えになりました。そのお方の為に私が入り口でお祈りしたそうですが、奥様の代理のお手紙です。
 「私が祈った後、本当の話ですが、突然、富士山の絵が欲しい人が来られて、10号の富士を見て(非常に大きな富士山の絵ですが)、即お買い上げで感謝しました。先生にこの赤富士を送りたいと思いますので、感謝のしるしです。」と。素敵でしょう?ね。「ああ、教会に来られた人が、こんな不思議な経験をなさったんだなあ」、と思います。「うちの主人が、先生がくださった『筆遊び彩書(さいしょ)』が気に入り、先生のご本の表表紙の「道」に、とっても関心があります。」─日本画家のプロの方が、これを誉めてくださっておられます。「わたしは道である」というね。“道”、イエス様が「私は道だ」と仰ったでしょう?これを絵にしましたね。これを“彩書”と言いますでしょう?
 「私はこの絵に感動させられただけではなくて…」いいですか?「わたしは道であり…」一緒に読んでみましょう、ヨハネの14章の6節、はい。

 「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(新約聖書・ヨハネによる福音書14章6節・口語訳)

 愛する兄弟姉妹、イエス様が私達の為に踏みつけられる道になってくださいました。誰でもこの道を通るのであれば主の御許に行くことができる。誰でも、誰でも、どんな罪深くても、聖書のことを知らなくても、イエス・キリストは、“I am the way(アイ・アム・ザ・ウェイ)” 、「わたしは道だ」と仰ってくださいます。信ずるだけで、救いの道が開かれるのであります。イエス・キリスト様を罪からの救い主、人生の主として信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 第2番目。
 聖霊様によって、使徒行伝を見ますと、あの平凡な、箸にも棒にもかからないようなろくでもない弟子達が、なんであんなに考えられるか、考えられない。福音書から使徒行伝に行きますと、全くもって人生が違う。これはブレイク・スルーですよ。アップ・グレードですよ。これはトランスフォーメーションですよ。過去において、聖霊によってそう変えられたら、私達の人生もそうされる。私は2日前に、教会で按手祈祷をしました(おでこにちょっと手をおいてお祈りすることを、按手祈祷と言います)。気の弱いテモテは、「臆病の霊ではない、力と愛と慎みとの霊をいただいた」と聖書に書いてあります。
 私はですね、1992年からこれを始めて、人々が倒れたり、大きなスポーツマンも倒れたり、元ヤクザのでっかい人が倒れたり、悪霊が出て行ったり…いろいろな現象がありました。でも、倒れても、倒れても、倒れても、何も起こらない人もおりました。それで批判を受けるので、私は「もうやめよう」とそう思っておりましたら、昨年ですね、年末に白畑牧師とお会いした時に、「いやあ、按手は素晴らしいですね。」「どうしてですか?倒れても変化がない場合があるでしょう。」そうしたら、「先生、それは違いますよ。それはちょうどですね、漆(うるし)を塗るみたいなものですよ。わたしは輪島に行ったことがありましてですね、輪島塗(わじまぬり)をよく勉強したことがありました。調べるところによれば、124の工程があるそうですが、高級な輪島塗はですね、124の工程で立派に出来上がって、それでも塗って、また塗って、塗って…と、こういうようなね。“山中塗(やまなかぬり)”というのは、またもっと凄いそうですね。で、“敦賀のバカ塗り”というのがあるそうでありますけれども、もう私はそれを聞いたから、「あ、“大和のバカ塗り”というのがいいなあ」と思ってね。バカな信徒に対して…いやいや、そうではなくてですね(笑い)、バカな牧師がが、バカな…いやいや、そうでもなくてですね(笑い)、“バカ塗り”というのは、丁寧に塗る、ということであります。

 愛する兄弟姉妹、聖霊の力無しに、私達生きることはできませんね。聖霊様の油注ぎを、毎週、毎週、毎週、毎週、毎週、毎週、いただくんですよ。本人は気づかないかもしれないけど、何十回も何百回も油注がれているうちに「絶対に変えられる」と、聖書は教えます。信ずる者はアーメンと言いましょう。アーメン。

 いやしも素晴らしいことが起こるように。
 
 4番目は神様が祝福して、経済的に祝福してくださいます。アメリカ・カリフォルニアの奉仕団体(宣教団体)が、私に2006ドルを送ってきました。2006年にちなんでですね、2006ドルって、大金ですよ。「どうしてですか?」─手紙に書いてありました。「先取りして、神様が今年私達を用いてくださる為に、2006ドルを送りますから」ということでした。今年神様は不思議なことをしてくださいます。

 第5番目、死ぬことを恐れない。永遠の命、天国を先取りして喜ぶ人生を送りたいと思います。アメリカから私にたくさん手紙が来るんですが、英文ですとあまり、こう読む気がしないというか、うーん、ナナメに読めばわかるような気がしてですね(笑い)。最後の方に、こう1、2行日本語が書いてあるのがありました。(どなたかよく分からないんですけど)こういう日本語でした。
 「お祈り=いつも心に沁(し)みています。思わぬ時にイエス様が訪ねてきて下さり、1人でワンワンうれし泣きをしています(イヌ年だからワンワンじゃないんですよ)。1人でイエス様が訪ねて来て下さって、1人でワンワンうれし泣きをします。賛美にたえません。感謝を込めて。」というお手紙でした。皆さん、今年ね、これが起こりますよ。思わぬ時にイエス様が訪れて下さって…ああ!兄弟姉妹達がこの経験を今年なさることを期待します。

 日曜学校の先生がお正月にね、子供達を前にして、「皆さん、今日お年玉をもらいましたか?(今日、お年玉献金が入っていますが)とね。
 子供達、赤ちゃんにも、お年玉献金をするように教えてくださいね。什一献金をさせてくださいね。「お年玉をもらいましたか?」と言ったら、お年玉を聞いたこともない、いただいたこともない子供が2人いたんですって。施設から来ておられる子供がいるんですって。お年玉をいっぱいいただく人もいれば、お年玉の経験のない子供がいるんですって。私は心痛んで、その子供達に神様の特別な恵みがあるようにお祈りしておるのでありますけど、私は、子供の時にお年玉なんかもらったことありません。そんな時代じゃないから、お年玉なんかもらったことがない。親からお小遣いをもらった経験というのがないんですけれども、私の父も私の母も熱心なクリスチャンで、天国貯金がいっぱいありますよ。私は天国貯金が、私の父も母も、この地上では報われなかったが、天にたくさん宝物があります(私も積みましたから)。それをじゃんじゃんおろして、私は使うことができますが、このお年玉のない子供はねえ、お父さんもお母さんもいるのかないのか知りませんけれども、お年玉をもらえないということはね、霊的にも天国貯金が全くないという子供ですよ。
 しかし私は今回、このヨハネの5章の17節で、「あなたにお父さんがいなくても、あなたにお母さんがいなくても、あなたのお父さんお母さんが天国のことを知らない、神様のことを知らない、神様に背中を向ける人でも、「わたしの父は今もなお働いておられます(笑い)。天のお父様が天国貯金で(どういうことかようわからんけど)、イエス様がお働きになって、天国にもたくさんあって、「私たちが祈る時にそれを私達に与えてくださるんだ」ということを信じて、その幼子(おさなご)達の為に祈りました。
 お年玉っていうのはね、報酬(働いた結果)ではないんですよ。お年玉っていうのはね、もらえなくたって文句言えないんですよ。お年玉というのはね、愛情ですよ。神様はあなたが立派であるから、あなたが品行方正だから、あなたが立派な奉仕をするからではなくて、あなたに今年お年玉をくださるでしょう?これは素晴らしいものです。
 ときどきね、1人になってください。イエス様が訪ねて来られて、このお方のご臨在に触れてワンワン泣くような、「ああ、私は愛されていたんだ!私の神様は生きておられるんだ!もうそっぽ向いて私なんか無視されていると思ったら、私の父は働いておられる。イエス様もなお働いておられる。働きをストップされることはない。山に向かって、『海に移れ!』と言ったらそういう風になるんだ。」という世界を、今年みんなで体験させていただきたいと思います。主イエス様が生きておられて、私達の人生を導いてくださる。このお方に従って行く、そう願う者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを捧げます。恵み深い天のお父様、主の御名を心から崇めます。あなたが私達の為に御子イエス様を遣わして決断してくださいました。イエス様を勉強しますと、「ああ、こう生きればいいんだなあ」と教えられます。私が私の遣わしてくださったお方のみこころをわきまえて、それを実践することが私の喜び、食事です。」と言われましたが、みんな同じです。意味があってこの地上に生きています。生かされております。与えられたエネルギーや時間や賜物を十分に主の栄光の為に用いていただければ、こんな幸せなことはありません。どうぞ兄弟姉妹たちの自覚を深めて、与えられた毎日を主のご栄光の為に用いてください。本当に生まれ変わって、家庭がトランスフォーメーションされて、この国もトランスフォーメーションされて、天皇陛下とその御家族の上に、また、政治家達に教役者達に、国のリーダー達に、知識人達に、どうぞこの世界をお教えくださいまして、不思議なことを今年たくさん起こしてください。個人的にも同じように教会に、また私達の人生、家庭に突然訪れて下さって、「はからずも私の計画以外のことでしたけれど、こんなに素晴らしい不思議を経験しました。」と申し上げることができ、証ができるように導いてください。イエス・キリストのお名前によって、祝福してお祈りを捧げます。アーメン。

「働き続けてくださる神様」 大川従道師  2006年1月1日

 「そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、『ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから』。彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。さて、イエスは彼らに答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もその通りにするのである。なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。』」(新約聖書・ヨハネによる福音書 5章14〜20節・口語訳)

特別賛美:ベアンテ・ボーマン夫妻

 素晴らしい演奏のゆえに、主の御名を崇め、また先生方のために継続して皆さんに祈っていただきたいと、そう思っております。
 
 今日は、初めての方、「クリスマスと初詣礼拝は、もうぜひ教会に行くんだ!」と、ご家族やお友達と一緒に来られた方々、心からご歓迎申し上げます。そしてまたテレビで、ラジオで、インターネットで、衛星放送で礼拝を守っておられる方々にもご挨拶申しあげます。会衆の皆さんとご一緒に、少し大きな声で新年のご挨拶を致しましょう。新年あけましておめでとうございます。今日1月1日が日曜日であるというのは大変珍しいことではありますけれど、誕生祝福のお祈りを毎月しておりますので、今日初めての方も含めて、1月生まれの方、また1月に洗礼をお受けになった人、霊の誕生日、そして結婚記念日の方もいらっしゃいましたら、お立ちくださいますか?一言お祈りをさせてください(私も1月生まれです、1月の結婚式というのもあるでしょうね)。はい、お祈りします。アーメン。
 恵み深い天のお父様、麗しい主の御名を崇めます。お立ちになった兄弟姉妹達は、今月の誕生日です。昨年苦しんだ方、涙を流した方、今でもトンネルの中で光をなかなか見出だせない方、いろいろいらっしゃると思いますけれども、イエス様によって生かされてここにおります。もしイエス様を知りませんでしたら、いたずらに年を重ねるだけでしたが、今はそうではありません。生かされているんだ、ということを確認して前進します。どんなに激しい仕事にも耐えられる肉体健康を、また、どうぞストレスにも耐えられる精神力を、またサタン、悪魔にやられない霊力をお与え下さい。いつでも、どんなところでも夜の光として輝き、そしてまたある時には己を隠しつつ、味のある地の塩としての務めを果たすことができますように。今年祝福の基になりますように。愛する神様、これらの者達に何か素晴らしいことをお与え下さい。励まして下さい。私たちの愛する主、イエス・キリスト様の名前で祝福してお祈りします。アーメン。

♪God bless you Halleluyah(ゴッド・ブレス・ユー、ハレルヤ) God bless you Halleluyah God bless you Halleluyah God bless you Halleluyah♪

 God bless you! あとでお立ちになった方々に、まわりの方々、無視しないでご挨拶してください。

 年末に有名な黒沢明監督の映画の評論を読みました。世界の黒沢と言われますが、非常にスケールの大きい映画をたくさん作っておられますが、しかし、非常に細部に至るまで(細かいところにまで)配慮しているようであり、たとえば『赤ひげ』なんていう名作がありますが、あそこに登場します薬の箱なんていうのは重厚で黒光りする素晴らしい物ですが、一度も開けるシーンというのはないのですが、中に薬が入っておったそうであります。『影武者』なんていうのもありますけれど、馬が何度も登場しますが、黒沢監督が「馬よ、お前はもうちょっと上手に演技せい!」とかですね、「馬面(うまづら)が悪い!」って、顔を変えてですね、新しい馬にしたとかですね。また、『7人の侍(さむらい)』は世界的に影響を与えた映画と言われるんでありますが、最後のシーンは土砂降(どしゃぶ)りの雨の中で繰り返し繰り返しこの合戦を撮るわけでありますけれども、この黒沢監督もレインコートで濡れながら、あんまり土砂降りの雨というか土がはね返るものですから、長靴の中に泥がいっぱい入ってですね、締めつけられて爪が全部死んでしまって、黒くなってしまった…と、そういうようなエピソードが残されているのであります。クロサワの格言(モットー)は、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」ということであります。
 また、劇団四季の浅利慶太さんのモットーは、「見る天国とする地獄」とね。先生の演奏なんかは見る天国でございますが、背後でどんなにたくさんの練習をなさっておられることであろうかと思います。
 井上ひさしさんという方がいらっしゃいますが、「難しいことを面白く、面白いことを深く、深いことを易(やさ)しく」、ということをモットーとしておられるそうであります。

 このような日本を代表する名人と比較致しますと、牧師の説教はまことに乏しいものでありますが、皆様方のお祈りに支えられて1年間、毎週毎週のメッセージをお取次ぎ申し上げるわけであります。その意味において、皆さんと同じ共同作業であると自覚しております。また、聖霊なる神様が我々の祈りに答えて真理を教えてくださる真理の御霊なる聖霊様がご一緒してくださいますから、神様との共同作業ということも申し上げることができるかと思います。今日は1月1日、初詣礼拝ということで、今年の貴重なメッセージ基調メッセージを皆さんにお届け申し上げたいと思います。大きなことで2つであります。

 私の教会は、この礼拝堂を出る場所に英語の文字で「Your vision is your future.」という言葉が書かれております。皆様が毎週これを読みながら帰って欲しいんであります。皆様、夢を失った人生は、どんなにわがままでいい加減であるか分かりません。時間の使い方もエネルギーの使い方もあります。若者だけではありませんで、聖書には「年寄りも夢を見る。若者は幻を見る。」と言いますが、夢と幻があなたの人生を決定します。毎週祈りの課題を持って、夢を持って、あなたの来週を、来年を、将来を決定して行くという世界を経験して欲しいと、そう願っているのであります。クリスチャンの標準的な夢は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神様を愛する」ということであります(ちょっと抽象的ですか?)。具体的には、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。」これが、イエス様が私達に寄せて下さった私達の姿勢である、と申し上げてよろしいのではないかと思います。

 年末に2番目の息子の家族が遊びに来てくれました。私の2番目の孫は祝、祝福の祝、祝ちゃんというぐらいですから、祝福を持ってきてくれますね。息子がまだお仕事、サラリーマンをしておりますが、私達の家に着く前に、お嫁さんが(もうすでに赤ちゃんを連れて来てくれたんでありますが)、立ち話の中でこう言いました。「どうもキーちゃんは(これはうちの息子のことなんですが)、お父様のことを本当に尊敬しているみたいですよ。」と、こう言いました。私はもう、天にも昇る喜びでありますが、顔色を変えないようにして、隣の部屋に行ってですね、ウルウルやっておったわけであります。ヨセフが別室で泣きじゃくった、とそういう心境でございます。
 世界中の牧師は(特に熱心な牧師は)家庭を顧みないので、「家には牧師は居るけれども、お父さんはいない。」なんて言われてですね、みんな傷ついておるんでありますよ。そして、ショックで、ある者は鬱的になっておられる牧師が居るくらいですが、「尊敬しています。」なんて一言で、私はどんなに気分を良くしているかわかりません。
 ロマ書の12章の10節には「兄弟の愛をもって、互いにいつくしみ進んで尊敬し合いなさい。」と書いてあります。これは聖書の言葉です。「進進んで尊敬し合いなさい。」一緒に言いましょう、はい。「進んで尊敬し合いなさい。」

 何年も前にロバート・シューラー先生がアメリカから来られた時に、私が司会をして、大きな武道館の仕事をしましたけれども、その時に隣の席に(食事の席に)座ってくださいました。その時にシューラー先生が私にこう言いました。「若い牧師よ。(私のことね、何年も前ですからね)。人と触れるときの牧会で1番重要なのは、人間を(人を)尊敬することですよ。」とそう仰いました。シューラー先生は、ルカ15章の放蕩息子から、この尊敬を勉強したそうです。橋にも棒にもかからないような放蕩息子が戻って来た時に、お父様はこれを歓迎してくれました。叱りつけないで、「冷たいご飯を食べていなさい」とかですね、もうボロ洋服をまとったままとかですね、「納屋(なや)にでも入っていなさい」というのではなく、直ちにありのままを受け止めて最高のご馳走をして最高の洋服を着せて、そして「裸足でいなさい」なんていうのではなくて、靴を履かせて、指輪をはめて、子供としての権利を回復させたという。ここに、私は“尊敬”を勉強致しました。「人間は尊敬されたら心が変わっていくんですよ。」ということを仰った。それが私の心にずっと留まっているわけであります。

 私は数年前からサインを頼まれると(または手紙を書く時に)「敬愛するボーマン先生」とかですね、この“敬愛する(尊敬します、愛します)”という言葉をつけました。最初はぎこちなかったんですけど、この方法は誰から勉強したかといいますと、本田弘慈先生が私がまだ青二才の時に手紙をくださって、「敬愛する大川牧師へ」と。「いやいやいやいやいやいや、本田先生のような日本を代表するお方からそんなことを言われると、こそばゆい。先生も、わかってこんなことを仰っておられるのかなあ?」というようなことを思ったんですが、先生から伺ったわけではないんですけれど、私の悟りは「この世の中から選び出されて、イエス様に仕える者を私は尊敬します、愛します。」という心がその言葉に出たのであろう、と思います。
 私はそれからね、一信徒の方に対しても、お手紙を書く時にほとんどはね、「『敬愛する…』って手紙を書くようにしました。なぜなら、神様が意図して、この世の中から選び出してそこに救いを与え、神の子として(神様のお子さんとして)、この地上に生かしていてくださるものに対して、私は尊敬します。そして、愛を感じます。」そういう風に申しあげるようにしているわけでございます。「『進んで尊敬し合いなさい。』人間の世界でもそうでありますならば、毎日「神様、私は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる私の神様を愛します。」と告白したら、神様がどんなに喜んでくださるか、とそういうことを感じるようになりました。私は毎日申しあげております。私は心を尽くして主なる神様を愛します。いっしょに言いましょう、はい。「私は心を尽くして主なる神様を愛します。」
 素晴らしいですね。神様も案外傷ついておられてですね、日本は99%ノンクリスチャンですから、もうしょっちゅう「神もホトケもあるものか!」なんて言われるたびにですね、神様も寂しい思いをしておられると思います。今初詣でたくさんの人たちが神社に行っておりますが、創造主なる神様に背中を向けている姿は、神様がお痛みなさっておられることでありましょう。ですから、私達は毎日信仰告白したらいいでしょうね。私のような者でも、嫁さんにですね、「尊敬してるんですってよ。」と言われただけで、天に舞い上がるような気分になるわけですが、神様に「I love you,I praise you,I worship you.(主よ、私はあなたを尊敬し愛します。崇敬〔すうけい〕致します。)」と礼拝を致しましたら、主が喜んで下さると、そう思うわけであります。「子供から(孫から)尊敬されています。」なんて、素晴らしいと思いません?
 
 小学校1年生が学校に行きまして、「家庭調査票」というのをもらいました。「あなたの尊敬する人は?」って書いてありまして、お母さんに(小学生ですから、よくわからない、“尊敬”の言葉が)「お母さん、これどういう意味ですか?」「あのねえ、あなたが大きくなった時に『そういう人になりたい』という人を尊敬というの。だから、『ああいう人になりたいなあ。』と思えば、そこに書いたらどうですか?」と言うと、すぐに「お父さん」と書きました。「うわー、お父さん読んだら喜ぶなあ。どうして?」と言ったら、「だって家のお父さんは、いつもお寝坊して、そして暇さえあればパチンコ屋に行って、そして好きなことばっかりやってるでしょう?僕も将来そういう人になりたいなあ(笑い)。」うーん、なかなか大変なことだと思いますよねえ。聖書ははっきりと、「父と母とを敬いなさい。」と言うんですよね。もし今日初めて来られた人で、あなたのお子さんが教会のクリスチャンでいらっしゃって、あなたをもし尊敬する姿勢がないとしたら、私に仰って下さい。私の教育が足りないからであります。どんな環境、状況の中でも、「父と母とを敬いなさい。年寄りを尊敬しなさい。」と聖書は教えることを知って欲しいと思います。

 今日は基本的なことをまず最初に申し上げているわけですが、この教会はエレベーターのそばにわたしの教会の席の言葉が書いてあります。英語なんですけど、スクリーンをご覧ください。「We live to give, we love to give!(ウィー・リヴ・トゥー・ギヴ、ウィー・ラヴ・トゥー・ギヴ)」一緒に読んでみましょう、はい。「We live to give, we love to give!」─私は与えることが好きなんですよ、愛しているんですよ、そういう生き方をしたいんですよ、という、そういう言葉であります。

 (岡村)ケン先生のドクターコースの先生、ジャック・ヘイフォード先生が、『The Keep to the Everything』という本を書いていらっしゃいますが、その中にルカ6章から引用されて、「天のお父様は慈悲深いお方だから、あなたがたも慈悲深い者になりなさい。」これはクリスチャンの標準ですよね。神様が慈悲深いお方ですから、憐れみ深い方だから、皆さんも憐れみ深い者になりなさい。4つあったんですよ。1つはね、ルカ6章からね、「人をさばいてはいけない。あなたもさばかれないためですよ。人を罪に定めてはいけない。あなたが罪に定められないためですよ。人をゆるしてあげなさい。そうしたら、あなたもゆるされますよ。人に与えなさい、与えなさい、与えなさい。不思議なことが起こりますから。」と、そう聖書には書いてあるんですよ。
 数日前、12月30日金曜日の夜。ご覧になりましたか?テレビで小澤征爾さんが指揮をして広島で…大変な演奏会でしたねえ。聖路加病院の(ここにもいらしたことがある)日野原先生が、2年がかりでお作りになった詩を朗読されながら(もう素敵なレイクイエムでありますが)、それが演奏されました。日野原先生が2年がかりでお作りになったその詩の中心は“ゆるす”ということでした。しかし先生はお考えになられて、“恕(じょ)”という字(女を書いて右に口を書いてそして心とね)、これで“恕(ゆるし)”と読ませて、恕(ゆる)すこと、“恕”こそ世界を平和にする、恕がなければ、憎しみ合いが続いていくでしょう。争いを取り除くためには、恕が必要だ。“恕(じょ)”というこの言葉、女を書いて口を書いて心というのは、思いやる心、相手の側に立つ心。

 歴史の中で最も素晴らしい“恕(じょ)”の精神を発揮されたのは、私達の天の父なる神様。人間がどんなに努力してもまともな人生を送れないので、イエス・キリストを私達の側に、人間の側に送ってくださいます。これがクリスマス。イエス・キリストを信じるすべてのものがゆるしの中に生きられるように。キリストは十字架の上で磔(はりつけ)にされて血だらけになって「父よ、彼らをゆるしてやってください。何をしているかわからずにやっているからです。」とお祈りくださいました。この祈りこそ、国と国と、教会と教会と、親子の関係で、教師との関係で、もしゆるしがあれば、私達の人生の中にどんなにか素晴らしい出来事が起こるか、ということをもう一度確認したいと思います。

 私たちはゆるしを与える、愛を与える、物を与えるという、与えることは受けることよりも幸いだ。パウロ先生は、「豊かに蒔く者は豊かに刈り取ることができる。神様は惜し気もなく与える者を祝福してくださる」という風に書かれているのであります。愛する兄弟姉妹、私達は聖書の御言葉に堅く立つ。これが第1の(復習のようでありますけれども、繰り返しのようでありますが)、今年神様から、本当に上からの特別製の祝福をいただきたいと思いますならば、御言葉に従順する、聴従する(聴き従う)、この姿勢が重要であります。
 ボーマン先生が祈りの賛美を奏でてくださいましたけれども、教会の中で問題が起こりますと、私に相談の手紙を下さいます。「日曜日に、ぜひ時間を取って下さい。」先日もそうでした。「礼拝の後に時間を取って頂くつもりでしたけれど、今日のメッセージで、すべては解決しました。」皆様、毎週、毎週、Jesus is the answer(ジーザス・イズ・ディ・アンサー)、イエス様が答えですから、聖書の御言葉に答えがありますから、いつも聖書に戻る、Back to the Bible(バック・トゥー・ザ・バイブル)、一緒に言いましょう、はい。「Back to the Bible.」祈っておりますと、不思議なように答えが与えられます。答えのないようなことはあり得ません。私達はどんな問題も解決すると信ずるのであります。今日の第1の基調メッセージは、聖書に戻って御言葉に従順する者でありたい。夢を持って生きましょう。与える人生を送りましょう。そういう人生を送りたい、そう願う者はアーメンと言いましょう。アーメン。本当に素晴らしいことが起こります。

 第2番目、今日の中心メッセージであります。「働き続けてくださる神様」─今日の説教のタイトルでありますが、聖書をお読みします。ヨハネの第5章の14節から18節までをお読み致したいと思います(スクリーンに出ますので、聖書をお持ちでない方はそちらをご覧くださるとよろしいかと思います)。5章14節。

 「そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、『ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから』。彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。そこで、イエスは彼らに答えられた、『わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである』(今年の標語)。このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書 5章14〜18節・口語訳)

 そこまでにいたしましょうか。「安息日に働いてはいけない、休みなさい、礼拝を守りなさい」を怠りますと、とんでもないことになりました。週に1度は体を休め、心を休めて、神を礼拝する。働いてはいけない、労働してはいけない。イエス・キリストは、この5章の1節以下に書かれておりますのは、ベテスダという池のそばに病人が沢山いて、特に38年も病気で苦しんでいる人の病気を癒してあげました。皆さん、38年も病気だったんですから、安息日だって、ゆるしてあげたらいいでしょう?ところが、人々は頭にきたんですよ。人々は、誰もやらない出来事(イエス・キリスト)に面食らった。イエス様は人々の反発を食らった、とこういうことでございますが、人々はわんさと押しかけて「イエスを殺すように」と計画した(図った)と、そう書いてあります。
 ちょっと注目して欲しいのは、14節であります。14節、その後イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた。「ごらんなさい、あなたは良くなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから。」ちょっとこれはビックリな発言であります。私達はヨハネ福音書の9章で、生まれつきの盲人に対して、「この人が罪を犯したからこうなっちゃったんですか?因果応報で、両親が罪を犯したからですか?」という質問に対して、イエス様は「この人が悪いわけではない。両親が罪を犯したからでもない。これを通して、神様の御業が現れるためだ。」と。「世界中の人達に、病気が治っても治らなくても、人間を通して神の御業が現れる」という、こういうメッセージですね。 ヨハネの11章の4節には、ラザロという人物が死に至る病、“もうこれで死んじゃう”という状況の中で、イエス様の発言であります。「これは死に至る病ではない、死でおしまいではない、この人を通して神の栄光が現れるためだ。」と、もうすごいことが書いてあって、私たちはそれを発見して喜んだわけですが、なんとこの5章の14節には、「罪の結果の病気だってあるんだ」って、問題が起こった時に、罪をきちんと悔い改めすることが必要なんだ、病気でも、病気は全部罪からものであるとは申しませんし、病気は悪霊からものであるとは言いませんけど、問題が起こったら謙遜に罪を悔い改めて、徹底的に罪を食い改め、神様に「ごめんなさい」をして前進するということが重要だ、ということにお気付きであろうと、そう思いますね。

 それにしても今年の標語、素晴らしいですね。墨字で書いていただきました。ご覧ください、いいですねえ。今日帰りに皆さんにこれを差し上げますので、一緒に朗読しましょうねえ。これはねえ、共同訳でも新改訳でも口語訳でもないんですよ、私がね、いいとこ取りをした訳なんですよ。一緒に朗読しましょう、はい。「わたしの父は今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」もう1度行きましょう、はい。「わたしの父は今もなお働いておられます。ですから、わたしも働くのです。」覚えられましたか?ヨハネ5章の17節であります。ねえ、素晴らしいですねえ。2000年の8月、オランダはアムステルダムで(ボ−マン婦人もご一緒したかと思いますけど)、そのアムステルダムでビリー・グラハム先生が(お年を召していらっしゃるんですけども)このテキストからメッセージをされました。そして、英語の表示をこのようにお書きになられました。何訳か知りません。ビリー・グラハム訳かもしれませんが、

 My Father is always working(わたしのお父様、天のお父様、神様はいつも常に働いておられるのです)
 and I too must work.(ですから私も働くのは当然でしょう)

という、ね。私にとっては、大きな大きな刺激になりました。「イエス様、なぜあなたは安息日に働くんですか?」イエス様の明確な答えであります。「私のお父さんが働いているから、私も働くんですよ。」
 日本人は働き過ぎ、とよく言われますが、まあそういうことでしょう。エコノミック・アニマルではいけないでしょうが、もっと大切なことのためにエネルギーを使うのはどうでしょうか。「わたしの父は、今も働きます。」私達のmotivation(モーティベーション:原動力)は、ここにあるということであります。詩篇127編の2節には、「主は愛する者のために、眠っている時にも備えてくださる、必要を。」と書いてありますが、私達がグーグー寝ている時に神様が働いて必要を備えてくださるということですね。
 ♪母さんは夜なべをして手袋編んでくれた♪という古い歌がありますけど、あれは「夜中にお母さんが子供を寝かしつけて、夜おいしい鍋を食べてた」と、そういう理解をする子供が最近はおるそうでありますが、ここに取り出したるは靴下と電球でございます。ちょっとこれが理解できる人は、手を上げてください、と言いたいところでありますけど、日本中どのご家庭でも靴下が、もうすぐ破れるんですよ。“戦後丈夫になったのは靴下と誰かさん”と言うんですけど(笑い)、この靴下の中にこの電球を(スウェーデンでこんなことしてたかなあ)こうやって入れて、どこの家のお母さんも、この先が破れるので、これを繕うということをしましたよねえ。母親が針仕事をしている姿を見て「早く寝なさい」と言われると、子供達はお母さんが起きて働いているときにみんな寝ます。起きると、もうお母さんは釜戸に火をつけて、そして朝食の準備をして、(お母さんていつ働いているんだろう、いつ寝ているんだろう?もしかすると、親っていうのは寝ないのかなあ?)なんて子供ながらにお考えなった人はたくさんいらっしゃるでしょう。どこの家庭でも、親が人生のお手本でした。働くということは、こういうことだ。イエス様にとっては、「天のお父様が働いておられる、私もそれに右へならえしているのですよ。」ということは、私達が知っていなければならないということであろうと思います。

 誤解なさらないように、マタイ11章28節は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。」キリスト教の中心です。休んでください。いくらでも休んでください。キリストのもとで安息を得てください。重荷を置いてください。でも生涯休みっぱなしにしないで、エネルギーをいただいたら、力をいただいたら、回復したら、さあ、主の愛のくびきを負いましょう、ということ。
 イエス様は仰いました。「収穫は多いんですが、働き人が少ないのです。」と仰られました。ねえ。主なる神が休んで、私達を奴隷のように働かせようとしておられるのではない。イエス様ご自身がお手本を示してくださいましたが、イエス様と同じように働きたいものであります。

 主が働かれると一体何が起こりますか?
 第1番目。それは救いの御業がなされます。このことの為に、イエス・キリストが失われた人達を救い出す、そのことの為に。
 私達の教会は、昨年88名の洗礼者がありましたけれど、クリスマスには3000名くらいの方々が1週間の中にいらっしゃいましたが、私にとって人数(たくさんの人が集まること)も喜びでございますけど、魂が救われること、それに命をかけて、今年も熱心に早天祈祷会で、断食して、徹夜して、私達ができる限り1人の魂を大切にして進んでいきたいと、そう皆さんも願っていらっしゃる。この教会の、神様が与えられた使命であります。
 クリスマスにたくさんの人が洗礼を受けましたが、1人の若者であります。
 「私の家は仏教であり、小さい頃から仏壇の前で般若心経を唱えて育ちました。ごく普通の家庭ですが、そういう状況で育ったこともあり、自然と宗教に対して考えるようになったと思います。意味ももわからず唱えていた般若心経に対して疑問を抱いて、大学生の頃から全く唱えることもなくなりました。大学を卒業し、司法試験の勉強を独学で始めました。司法試験予備校の講師に恵まれて、法律学に対する考え方から文学との出会い、古今東西の哲学思想…さまざまなものの見方を学びました。イギリス労働党の学者キングスレイ・マーチンが、有史以来、最も大きな影響を与えた本として、『聖書』『資本論』『社会契約論』の3つをあげているという、このことを知った時から、聖書に対する意識が出てきたと思います(たくさんとばします)。私は昨年11月26日土曜日、大和教会の礼拝堂で牧師と信仰告白の祈りに導かれ、とめどもなく涙が流れて来ました。深い幸福感に包まれました。『自己中心ではなく、神中心の的外れでない人生を歩みたい』と思いました。過去の自己の罪を焼き払い、新生の門口に導かれたことを感謝し、自分の生きることの意味を、愛する者への愛を、神様の前に見出して、イエス・キリストと共に歩んで行きたいと思います。天において、千々万々の天の使いが喜んでおられる、そのことであろうと思います。

 主が働かれると、第2番目、聖霊の満たしが起こります。
 皆様、過去において、聖霊のバプテスマで素直受けた人も、今年聖霊の満たしの素晴らしさを経験して下さい。

 3番目。神様は私達に素晴らしいいやしを与えてくださいます。
 実は私は、昨年年末10月11月、体調を崩して、もう目がつぶれそうになりました。もう引退か?と思いました。非常に疲れて、本当に不思議な疲れで覆われて、2回の礼拝を終えると立てないぐらいつらい経験をしました。気持ちが萎えて集中力を失いました。もう50年間全力で走って来たから、主は天にお召しになるか…と思えたほどであります。ところが第1礼拝を若先生達にお任せしたのでありますけども、中高年の方が「先生が第1礼拝をしないのなら、もう行かない。」という話を聞きました。主の御前に祈りました。「神様!もう1度、体力を、気力を、霊力を与えて下さい!」と祈りました。そして、祈ったんでありますから、クリスマスは挑戦しました。24日・クリスマスイブ礼拝、25日(重なりましたが)・3回の礼拝、全部1人で2つのメッセージを4回連続で致しましたが、ピンピンしておりました。元気でした。主の御名を崇めます。「(プロ野球でしたらもう引退試合というか消化試合なら)もう天に召してください。一生懸命働きましたから、力をください!」と祈り続けました。
 (もちろん、今年は休暇も取らせていただきたいと思っていますが)主が私達に力を下さいます。御言葉によって励ましをくださいました。私達の心と体をいやしてくださる主を信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 第4番目。
 神様は私たちの経済を祝福してくださいます。年末に結構難しい本を読んでおったんですけれども(社会学者の本ですが)、その中に、「日本には珍しい神社があります。それは、“貧乏神(びんぼうがみ)神社”というのがある」と。「うわー、知らなかった!」と言って電話局に電話を入れて、長野県の飯田市の“貧乏神神社”というところに電話を入れました(笑い)。向こうでは私がお参りに来るんだと思って、地図とパンフレットを送ってくれました!「でも、まあちょっと教えてください。」とでも言ったら、(素人神社なんですけど)その神主(勝手に神主になった男)はですね、“びん棒”という棒(なんかダジャレだねえ)で、神社にある“ご神体”─貧乏神ね。貧乏神を、これを3回ぶん殴る、というね。そして貧乏を追い出す。バチャーン、バチャーン、バチャーン。そして、3回ケリを入れるというね、凄いねえ、日本のお国もねえ。「どうぞ、貴方様はおいでください」なんて言ってですね(笑い)。

 皆様、私は貧しさの中から見出すことのできる世界をよく知っております。しかし、聖書は「金銭を愛する者は危険である」という、その通りです。しかし、杯が溢れること、そして主ご自身が貧しくなられたのは、「あなた方が豊かになるため」だと、第2コリントの8章9節、クリスマスでメッセージをしました。ビジネスをしていらっしゃる人、商売をしていらっしゃる人、ビジョンを持っていらっしゃる人、することなすことが、みな成功するように。熱心に私も祈りますが、祈って主に栄光をお帰ししてください。教会が豊かでなければ、貧しい教会を応援することができません。福祉社会にも献金することができません。どうぞ皆さん、私達の経済社会で…後で財布を出して祈りましょうね。

 第5番目。死ぬことを恐れない。天国の喜びを先取りして生き続ける。もし今年主のご再臨があっても悔いのないように歩みましょう。なんと心強いことでしょう。働き続けてくださる神様がいらっしゃる。働き続けてくださる神様がいらっしゃる。
 さっき次男の子供(私の孫)の話をしましたが、長男にも心愛(ここあ)ちゃんというですね、「心を尽くして神を愛する」とおいしい名前ですが、そういう孫がおります。数ヶ月前に訪ねてくれました。一緒にスーパーマーケットに買い物に行きました、ね。心愛ちゃんのお母さんがいろいろ買い物をして、買い物袋というかビニール袋の中に荷物がこう入ってね、結構重たいんですけど、その孫、1年と数ヶ月の孫が(心愛ちゃんが)「私が持つ!」と言って我を張るんですよ。で「持てないからダメ、壊れちゃうからダメ!」と言っても「どうしても持つ!」とこう、芯が強いんでございますよ(笑い)。じゃあ持たせよう、ということになって持たせたんですけど、やっぱり案の定、1歳には無理な話で、このフロアまで(小さいこともありますけど)ついてしまう、持ち上げることができない。「ね、ダメでしょう?じゃあ、持ってあげますよ。」と言うと、「自分が持つ!」と言う。で自分が持てないから引きずることになって、スーパーで、みっともない引きずって歩いて…。それでグランパが登場して、この心愛ちゃんの裏にまわってですね、「ココアちゃんはなんとエラいんでしょうね、荷物が持てるなんて!」と、心愛ちゃんを抱っこしながらも、その荷物の下の方に手を入れてすねえ、心愛ちゃんのプライドを傷つけないように(笑い)、「アーラ、持てるわねえ、エラいわねえ、持てるわねえ、なーんとエラいんでしょう!」と言って、車まで動きました。
 あなたの人生をつぶすほどの重荷は、神様は与えないんですよ。あなたがやろうとしてビジョンを持って夢を持ったら、主はしてくださるんですよ。荷物の下に手をおいて(笑い)運んでくださるんですよ。あなたごと担いで下さるんですよ。これが私達の愛する神様であります。私達の父は、今もなお働いてられます。ですから、わたしも働くのです。主を心から愛しお従いする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを致します。主よ、恵み深い天のお父様。あなたの素晴らしさをお証させていただきました。主の働きの中で最も素晴らしいことは、愛の働き。十字架にかかってお命を私達に下さって救いは完成したんですけど、なお働き続けて我らの為にとりなしの祈りをし続けてくださっておられます。祈りを通して奇跡が起こる賛美を聴きながら、それを今年の私の心の中に留めるべきだと思いました。神様をお父様とお呼びできる創造主なる神様を“父なる神様”とお呼びして、御子イエス様によって「アーメン」と祈ることができるこの幸せを、心から感謝します。兄弟姉妹達が今年御言葉に従順して、夢と幻に堅く生き、主の御心を実践して、その祝福にあずかることができますように。働き続けておられる神様を誉めたたえ、私達の愛する主イエス・キリスト様のお名前で祝福してお祈りを捧げます。アーメン。

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