2005年12月 のメッセージ

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「X'マスと老人の輝き」大川従道師 2005年12月25日

 「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります』。父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、『ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです』。」(新約聖書・ルカによる福音書2章25節〜35節・口語訳)

特別賛美:カルバリー聖歌隊・アンサンブル 〜ヘンデル作曲「メサイア」より〜「われらをば血もて」「アーメン」

 聖歌隊の皆さん、アンサンブルの皆さん、この1年間西田姉妹がよいご指導をしてくださって、本当に感謝します。またゴスペル・クルーの皆さんも大活躍で、井澤美智子姉妹、そしてそのご指導を受けた方々、もう一度この素晴らしい賛美のゆえに、主に栄光をお返しして拍手と感謝を致しましょう。ありがとうございました。アーメン。

 クリスマスのご挨拶を申し上げたいと思います。衛星放送、スカイパーフェクTV216チャンネルを観ておられる方々、そしてまたラジオで、ビデオで、インターネットで─インターネットは、先週は、北海道の教会の無いところでこのインターネット礼拝をしていらっしゃる方からお手紙をいただきました。「牧師もいなければ教会も無いんです。だけれど、この礼拝を守っています。」というね。
 オンヌリ教会から、アジア全体をカバーしている衛星放送がありますが(それにも私は登場しているのでありますが)、皆さんと一緒に「クリスマスおめでとうございます!」とご挨拶しましょう。クリスマスおめでとうございます!

 イエス・キリスト様抜きのクリスマスがあちらこちらでなされているわけでありますが、私達は教会ですから、イエス様のご誕生日をお祝いする日、それがクリスマスであります。私達の主なるイエス様、王の王なるイエス様、私達の救い主であるイエス様に、お誕生日のお祝い、「Happy Birthday(ハッピー・バースデイ) イエス様!」大きな拍手をもってお祝いしましょう。ハレルヤ!イエス様、感謝します。イエス様、感謝します。イエス様、あなたを誉め賛えます。Happy Birthday,Jesus(ジーザス)!ハレルヤ、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン、アーメン、アーメン。
 
 今日は私のメッセージの前に、イ・チソンさんが証をしてくださいます。ご存知のように、この素晴らしい主の器は、アジア全体で最も今用いられている、良いお証をしていてくださる主の証人、アメリカはボストンからいらしてくださいました。早速(なんと今日は日本語でお証をしてくださるそうであります!)、拍手で歓迎してあげてください。
 
「はじめまして。私はイ・チソンと申します。先週アメリカのボストンから来ました。そこで私は大学院に行っています。今日皆さんにお会いできて、とっても嬉しいです。3年前は私、日本の病院に入院していましたけど、今年は神様の恵みによって、作家として、ゲスト・スピーカーとして
日本に来ることができて幸せです。午後、幸せの秘訣を話します。どうぞ来てください。ありがとうございます。」(イ・チソンさん)

 「もう、なんだ、おしまいですか?」と思っていらっしゃる人もいらっしゃると思いますけれども、午後3時から特別な集会があります。その時は韓国語の通訳者をつけてのスピーチですから、たっぷりと聞かせていただきます。また、イ・チソンさんは本を2冊出しておられまして、今日皆さんのお手元にお届けできる「アンビリーバボー!」というフジテレビ系のテレビ番組がありますが、大反響でしたね。「今日も幸せです!」
というね。本当に素晴らしい書物を2冊出しておられます。「私達が退屈しないように神様は困難を与えて下さっているのですよ。」と、まあいろんなことを体験していらっしゃることを今日証してくださいますので、それを楽しみにね、午後いらしていただければまことに幸いでございます。御名を崇めます。

 ジョークということでもないんですけど、説教の前に何か言わないといけないことになっておりまして、第2次世界大戦の時に、イギリスはロンドンに、かなりの爆弾が落ちました。デパートに大きな爆弾の為に穴が開いてしまいましたが、デパート側は「これではお店が開けない」とは言わないで、次の日の朝、その大きく開いたデパートの穴の横っちょに看板を立てまして、「私達のデパートは、これから入り口を拡張しました。」という…(笑い)であるということであります。
 今年皆様の中には、人間関係に穴を開けてしまった方もいらっしゃると思います。つらいですねえ。商売で穴を開けて、倒産が多い時でありますが、商売が左前になってしまって大きな穴をどうしたらいいかわからなくて途方に暮れておられる方もいらっしゃるかと思います。でも今日「穴の開いた所から神様の恵みがどんどん流れて来ますよ。」ということを申し上げたい。私達の人生におけるどんなマイナスも、「マイナスは必ずプラスになります。」、一緒に言いましょう、はい。「マイナスは必ずプラスになります。」災いと思えるようなことは祝福の基になるんだ、ということを今日も味わいたいと、そう思っているのであります。

 もう1つね。新聞の投書欄に「夜もすっかり長くなったある日、夫の読みかけの本の題名がふと目に止まりました。『45歳からシングルになる』─(まさか"熟年離婚"かしら?!)と手に取って本を読んだら、ゴルフの本でした(笑い)。シングル・ベルでしょう?
 クリスマスの中で、薬屋さんが間違って挨拶をしました。「メリー・クスリマス」という(笑い)。

 はい、冗談はさておき(冗談を言っているのは私だけですが)、聖書をお勉強しましょう。先週のクリスマスメッセージは、今日の夜、テレビで流れるわけですが、今日はおまけのクリスマスメッセージであります。ルカ福音書の第2章21節からお読み致します(86ページになりますね。聖書をお持ちでない方はスクリーンに出ますのでご覧下さい)。

「八日が過ぎ(というのは生まれて8日目ですよ)、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章21節〜24節・口語訳)

 ユダヤの国というのは、非常に厳格な法律といいましょうか、律法といいましょうか、生まれた男の子は必ず割礼を受ける(神様との契約ということであると思いますが)、7日が過ぎて8日目にそれを受けたというイエス様も、人としてスタートをお切りになられたと言ってよろしいかと思います。
 "きよめの期間"という風に書かれておりますが、これはですね、出産をした女性がきよめられるのに時間をかけましょう、産後の静養をするという配慮があったかと思いますけど、それが33日間、きよめの期間があったというのであります。産後ですから35かと思った…というのが私のジョークの世界でありまして、7と33を足して40、そして41日目にこの出来事が起こったんですよ、という風に受けとめることができる。それまでは聖所に入ることができなかったわけであります。
 23節に「幼な子を主に捧げるため(献児式であります)、親の自覚は"自分の子供であり自分の子供ではない、預かり物である"という自覚。24節には鳩のヒナが捧げられる(羊を捧げるべきなのですが、貧しくて捧げられない人は、鳩でもよろしい)。1羽は燔祭(はんさい)として"全焼のいけにえ"という、これは神に対する礼拝の意味を持っているでしょう。もう1羽は血を流して罪のゆるしをいただくという、親も子供も同じように神の前にゆるしをいただくという習慣、よい、素晴らしい、この宗教的な意味を持っている内容でございます。

 さあ、次に行きますよ。そういう状況の中で、25節、26節をお読み致します。

 「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。」(新約聖書・ルカによる福音書2章25節〜26節・口語訳)

 原文のギリシャ語では、この25節、その時は「見よ(Behold)」というね。このシメオンに注目しなさい。クリスマスの注目度というのは、馬小屋でしょうかね?御礼のこの礼拝に来られたのは、羊飼いでありました。東から博士達が来ましたが、エルサレムにいるユダヤ人達は一体何をしていたか?と言いたいところであります。羊飼いも市民権がありませんから、野宿をしておりました。外にいた人物であります。クリスマスにイエス様を礼拝した東からの博士という有名なあの方々は、2000キロも離れたところから旅立って来た異邦人(外国人)であったわけでありますが、ユダヤ人は「エルサレムにいる人達は、一体何をしていたか。どっこい、エルサレムにこのシメオンという年寄りがいたのですよ。」という、そういうお話の仕方であります。
 シメオンは老人でありましたけれど、3つの祝福にあずかっていた正しい人であった。新改訳聖書は"敬虔(けいけん)なる人"("信仰深い"というのをそう訳しておりますが)、また「待ち望んでいた。」と、そう書かれています。正しいだけではなくて、敬虔な信仰を持っていたということであり、待つことを知っていた。"あわてないで、その時を待っている"ということを、このところで見ることができます。神殿において、イエス・キリスト様を抱っこされた(抱かれた)最初の人物は誰ですか?というクイズでしたら、このシメオンということだと思います。27節をご覧いただきましょうか。

 「この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります』。(新約聖書・ルカによる福音書2章27節〜32節・口語訳)

 アーメン。すごい預言であります。32節に「異邦人を照す啓示の光」、異邦人(日本人も異邦人であります)、2000年後の今日、2005年12月25日、まさにイエス・キリストの光に照らし出されている私達が、御前に礼拝をしているわけです(間違ったら大変だったでしょうねえ)。イエス様が洗礼をお受けになる時に、バプテスマのヨハネはイエス様をじっと見て、ご覧になって指を指して「見よ、見よ、見よ。これぞ世の罪を取り除く神の子羊。」とそう預言されましたが、見事に当たりでありました。

 私が聖書を何十年も読んでいながらいつも気にかかりますものは、たぶん14歳、少なくとも10代であったマリアが出産をするわけでありますが、「マリアのご両親は一体どこにいるか?」ということがとっても気になります。ヨセフの両親は一体どうであったであろうか。この若い女性が出産をするのに、彼女を助けてくれる人は一体どこにいるのかなあ?身内は、彼女を受けとめてくれる人はいたのかな、いないのかなあ? 
 今イ・チソンさんがこのスピーチをしてくださいましたが、私は彼女の本を読んだりビデオを観たりすると、いつも嬉しいことは(今日もお母様がご一緒なんですけども)、この悲劇的な出来事ねえ、交通事故で火だるまになって生きる希望がないと言いましょうか、どん底と言いましょうか、美しいお嬢さんがねえ、本当にまたもう考えられないほど大火傷(やけど)を経ました。その時に受けとめてくださったお母様がいらしたということねえ。それからお兄さんがおんぶをしている写真をよく見ますが、お兄さんもいてだくさったんだ(もちろん、教会もそれを受けとめてくださったわけでありますけれども)、「ああ、この人は愛されているなあ、受けいれられているんだなあ。」ということを、あの写真を見ながらいつも感じるのであります。
 ヨセフとマリヤは一体なんであるか。エルサレムでもナザレでもベツレヘムでも総スカンでありまして、彼女らを理解できることのできる人はいない。結婚前に赤ちゃんができるなんて、とんでもない。日本でこんなことがあったら大変なことでありますが、その当時は石をもって「その女性はふしだらであって、殺されてもよろしい。」という、まあ、律法であったわけであります。でありますから、両親さえも「うちの娘がそんなことに」という噂が立ちますと、どこにいたと致しましても、それを受けとめることができない。ベツレヘムは生まれ故郷といいましょうか、まあ、この身内の者達、親戚の者達がいたはずでありますけれども、ナザレを出てベツレヘムに行きましても馬小屋でしか生まれることができないというのは、まさに親族の者達も受けとめることができなかったと言ってよろしいと思います。
 しかしなんとエルサレムのど真ん中に、信仰深い、敬虔な年寄りが2人いて、理解して受けとめてくださった。"クリスマスとは、若者達がはしゃぐ祭りである"と限定する必要はない。人生経験の豊かな人こそ、深く味わえる祭りであると言ってよろしいでしょう。

 聖書のヨハネ8章というところに、イエス・キリスト様が姦淫の現場を捉えられた女性がキリストの前に連れて来られた。男達は手に手に石を持ちまして、この女性にぶつけてもよろしい石打ちの刑を自らやろうと、いやらしい目をもった男達が石をもってその女性にぶつけようとしたけれど、もっと大きなことは"キリストを亡きものにしよう"、「あなたはいつも愛を説いているが、この女性をどうするかね?」キリストがもしも何か発言をするならば、「あなたはいつから裁判官になったのかね?」どっちに転んでもうまくいかない。人々は、石を持ちながら「さあ、どうする?キリストよ、どうする、どうする!」と近づいて行きますと、イエス様はそこに座られて、地面に文字を書き始められた。みにくい、ふしだらな姿をしているところに、男達のいやらしい目が…でも、イエス様はこちらの方にすうっと座られたので、目が両方だと目が広がりますから、「もうイエス様、イエス様、何を書いておられるのかな?」これを"視線の肩代わり"という。
 イエス様はやるなあ、人の恥をお受けになられて、やがては視線だけではない、十字架にかかられるわけでありますが、キリストはすっとお立ちになられて、「あなた方の中で罪の無い(原文では定冠詞がついている)、このような罪の無い者がいるならば、石を持って投げ打ちなさい。」と仰いますと、聖書は「年寄りから始め、石をそこに置いていった。」というんでありますよ。年寄りは、そういう経験があったんでありましょうか。少なくとも、情欲を持って女性を見るというようなことを誰でもがしたのでありましょう。
 若い人は、自分こそが裁かれるべき存在であるということ、それがわからない。人をさばけるような存在ではないことに気づかない。だから恵みがわからない。喜びが爆発しない。榎本保朗先生は、こういう解き方をなさるのでありましょう。ルカ福音書の第2章の36節をお読みします。36節。

 「また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章36節〜38節・口語訳)

 「あんな(アンナ)おばあちゃんがいたもんかあ」、というところでありますが、悲しみつつも、ひがみ屋ではなかった。84歳というんですが、年を取っても望みを失わなかった。どうしてだと思いますか?1つは、礼拝を欠かさなかった。愛する兄弟姉妹、週に1度礼拝を捧げるということがどんなに重要なことであるか。礼拝をお捧げするだけではなくて、この人は祈りを主に捧げることを知っておりました。
 私は13歳の時から祈りを覚えました。50年の間、苦しいこと、死ぬ目に遭ったようなこと、死にたくなるようなことが何度もございましたが、いつでも神様を「天のお父様、お父様、お父様!」1日何度も「お父様、私の危機はこういうことです!」と申し上げながら、人生を過ごして参りました。
 大きな穴を開けてしまった人、頭を上げることができなくて困難を極めておられる方々。礼拝を休まないように、礼拝を捧げるところから来る素晴らしい神様のお恵みがあります。祈りを覚えますなら、祈りを通して神様の世界が広げられていくということを知って欲しいと思います。週報をお開き下さいますかねえ。週報の右のページ(隣でお持ちでなければ、一緒にご覧になってください)。「石の枕」といいますよ。

 「夏目漱石の『道草』という作品(昨日は芥川龍之介の『思想』というのをご紹介しましたが)、主人公の養母が客と話しあっているとき、傍で聞いていてもたまらなくなるほどAという女を罵(ののし)ったが、その客が帰ったあとでAが突然訪ねてきた(こういうことってありますよねえ)。すると養母はAに向かってそらぞらしいお世辞をつかい、しまいには(言わんでもいいのに)『今、誰さんとあなたのことを大変ほめていたところですよ』と不必要なウソまでつくので、子どもながら、それを聞いていた主人公がすっかり腹をたて、『あんなウソついてらぁ』と言ってしまった。
 A(その方)が帰った後、『お前と一緒にいると顔から火の出る思いをしなくちゃならないよ』と彼女からきつく叱られたが、主人公はいっこうに平気で、彼女の顔から早く火が出ればいいと思った。
 人は気づかれさえしなければ、笑いながら愛想よげなことを言う(恥ずかしいねえ)。こういう俳優性と偽善性とが、そのままでも別に不思議に思わずに注意をしてしまうのが『この世』(我々人間の世界)でありましょう。
 ルカ福音書の2章を今読んでいますが、35節によれば幼児イエスを見て、老(年を取った)シメオンは、この子によって『多くの人の心にある思いが現れる』と預言しています。ここに『現れる』と訳されているギリシャ語のアポカリュプトーは、被いを(カバーを、ベールを)『取り除く』という意味であります。まことにイエスは『人の心の奥底までも探り知る者』(黙示録2:23)でいたもう。
 私たちは『自己反省』では自己を知り得ない。自己反省する自己は、反省の対象にならぬからだ。人はイエスという他者からさす光を受けて初めて自己を知らされるものである。」(12月25日週報・「石の枕」より)

 聖書をちょっと開けましょうね。今の2章の33節から。ルカの2章の33からお読みしますよ。

 「父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、『ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう(これは『ピエタ』ですよ。イエス様が亡くなられた後、イエス様がお母様のひざの上に、横になるでしょう?)。それは多くの人の心にある思いが、(暴露される)現れるようになるためです』。」(新約聖書・ルカによる福音書2章33節〜35節・口語訳)

 兄弟姉妹、罪が暴露されて悔改めに導かれるという世界、反省というレベルではなくて、打ち砕かれること無しにキリストは分からない。34節に「倒される」という表現が書かれておりますが、キリストの前にぶっ倒れるという(物理的に倒れるということではありませんで)、絶対者なるお方(相対の世界ではどんな偉い人の前でも倒れる必要はありませんが、絶対というのは、"対立を絶つ"、対立の絶たれる経験をしたことのない人には分からない世界というものがあるのであります)キリストの前に立った時に、私達はぶっ倒されるという。
 
 パウロという人物は、ロマ書の7章で「私は"良い"と思っている良いことができない。"悪いこと"は、分かっているんだけどやめられないんだ。そして、その7章24節では「ああ、我悩める人かな。私はなんとみじめな人間であろう。こんなに深く人生を考えた人はいないであろう。」と言いますが、この哲学者が、この神学者が1人のキリスト者として、「私は良いということが分かっているんだけど、できないんだ。悪いことはやめようと思ってもストップできないんだ。私の内側に変な奴が宿っていて(下宿してて)、私の体が、私の心をめちゃくちゃにしてしまうんだ。私はなんとみじめな人間なんだろう。誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか。」と、彼は泣く、叫ぶという状況ですが、その1節後の25節に「ああ、我感謝すべきかな。」というね。「ただ神に対して感謝を捧げます!!」原文のギリシャ語には"カリス"という言葉が使われておりまして、「神にカリスです!!」というのはね、「感謝でありますが、これは恵み以外の何者でもない!!」と叫んでいる状況であります。

 26節にご注目いただきたいのですが、2章の26節。

 「そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章26節・口語訳)

 老人の根性といいましょうか、すさまじい信仰といいましょうか。このことが成就するまでは、俺は(私は)死なないぞ、という。「神様がくださる人生は、こんなはずじゃない。必ずリバイバルが起こる。」と、三畑長老は最後の最後の最後の95歳までずーっと祈ってくれました。私の母親もリバイバルを願いながら、リバイバルを願いながら、どんな苦しみでもどんな貧しさでも耐える、「やがて来るんだ、こんなはずではない」と、信仰を持って祈りを重ねていてくれました。「私達の家族は全員救われます、主イエス・キリストを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。こんなはずがあるはずはない。家族が全員救われるまで、私は絶対に死なないんだ」、と家族全員が救いの恵み、喜びで爆発するように祈り続けるという。

 テレビを観ておられる方もインターネットの方も、キリストが馬小屋で生まれてくださって、33年半のご生涯を終えられて、そして十字架にかかって死んでくださいました。今信ずるだけで、キリストは受け入れるだけで救われるという道を広げてくださいました。主イエス・キリスト様を、自分の罪を認めて、キリストを自分の罪からの救い主、人生の主として心の中心にお迎えする人は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。これは信仰の単純な姿勢であります。
 
 第2番目。それは、聖霊に満たされる世界であります。なんとこの短い節、25節にも「聖霊」と出てまいります。26節も「聖霊の示し」が出て来ます。27節にも、「御霊に感じて(同じ言葉にしるしをおつけになると、ビックリします)」。ペンテコステの前に(イエス様がお生まれなさったこの時に)、聖霊様のご活躍の第1は、"お腹の中に命を与える"ということでありましたが、「聖霊様が」「聖霊様が」「聖霊なる神様が」が次々に出てまいります。愛する兄弟姉妹、この聖霊の世界に入れていただくまでは死なない、求め続ける。この信仰の根性を持って欲しいと、この教会に導かれましたら、この世界、この信仰の奥座敷、入り口で「はい、さようなら。」ではない世界を体験して欲しい。

 第3番目、心がいやされる。アンナおばあちゃんが10代で結婚してね、7年間ご主人とご一緒だった。どうしてこのやもめ暮らしになったか、よくわかりません。まったくわかりませんが、心深く傷ついておっただけ、それは確かなことです。離婚なさった方、夫婦が上手く行かない人、本当にかわいそうだと思います。一人ぼっちで生きている方々、つらいかと思います。でも彼女の心がいやされて、傷がいやされて、生きる目的、生かされていることの目的、今まではお金だけを追いかけて、仕事だけを追いかけて、自分の趣味に興じておった人が、大きな穴が開いてどうしようもない、にっちもさっちも行かなくなった時に、「私にゆだねられている使命とはなんであるか?」ということに気がついて、「このマイナスが、この負の世界が、私に与えられたがゆえに、私の人生は変わりました。」という、その生き方。

 具体的ないやしもあると思いますねえ。いやしのために祈りたいと思いますねえ。先週はねえ、ヘルニアの方がいやされて、お手紙をくださった。学生時代から何十年も苦しんでおりましたけど、いやされました。
 リウマチの方がね、「腕が上がらなかったんですけど、入り口で祈っていただきました。私は素晴らしいいやしを与えられました。」
 いいねえ。いやされることに対して祈り続けるって、素晴らしいと思いますねえ。ガンのためにも祈りましょうね。難病のためにも。

 第4番目、神様が祝福であふさせてくださるまで、祈り続ける。「私の杯はあふれます。」と御言葉を信じるなら、絶対今年の標語「することなすことみな成功する。」、ね。みんな栄える、神の栄光のために栄える。これを信じ続ける。

 第5番目、死ぬことを恐れない。いつも天国の喜びを先取りして味わう。または、再臨信仰。ファースト・カミングっていうのは、クリスマス。最初に(first:ファースト)イエス様が来られた。セカンド・カミング、再び来られる。再臨信仰ということが、どんなに大きなものであるか。
 テレビでみのもんたが、「ヘンな、おかしな世の中になっちゃった」と嘆いておりました。みんなうなずけると思います。毎週10代の小学生のかわいそうな事故が、続けて続けて…いったい教育はどうなっているか、家庭教育はどうなっているか、もう頭を抱え込んでどうしていいかわからない。近隣諸国の者達も、日本もそういう目で見ておると思うんでありますが、必ず助け主が来られる、救い主が来られる。Jesus is coming soon.やがていらっしゃったらどうなるか。いや、クリスマスですから、もう既にイエス・キリストがこの地上に来ていてくださる。「主は近い。だから、いつも喜んで行きなさい。」これがパウロの信仰であります。私は昨日、ヨハネ3章16節をメッセージしましたでしょう?皆さんと一緒に読んでみましょうね。覚えてくださいませ。3章16節(聖書の中で一番有名な箇所ですよ)。はい。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書 3章16節・口語訳)

 アーメン。私の興奮はなんであるか。神様がそのイエス・キリスト(ひとり子)をくださった。これは1人しかいないからもったいない、ということだってないわけではないでしょうけど、ユニークな、神であって人であるこのお方を、私達人類にプレゼントしてくださった。考えられない。

 昔の昔の昔に信仰の父、アブラハムという人物が「たったひとりっ子、年を取ってから生まれたイサクという子供を神に捧げなさい。羊や牛のように殺して燔祭(はんさい)として焼きなさい。」「そんなバカな、倫理的におかしい!」と言いたいところですが、確かにそれは神の声である、ということで、彼は山に子供を連れて行きます。そして子供を祭壇の上に乗せて、刃を持って子供ののどを掴んで、羊を殺すように殺そうとした時に、「アブラハム、アブラハム。よくわかった、もうそれでよろしい。」とお声がかかります。彼が目を上げて見ますと、エホバ・エレ、アドナイ・エレ、ヤーウェ・イルエ、"主の山に備えあり"、必要なものがそこに備えられていた(有名ですねえ)。原文のヘブル語を調べてみますと、「お前さんは、アブラハムよ。ひとり子さえも惜しまないで捧げようとしたので」というね。あの"ひとり子"という言葉はねえ、"魂"とか"命"とかに訳せる言葉。アブラハムは痛くもかゆくもない、自分が血を流すわけでもない、傷を受けるわけではない、八つ裂きにされるわけではないけれど、自分の子供が死ぬ、殺されるということは、他人事ではない。自分の部分でもない。自分の命が、魂が祭壇に捧げられることと同じである。
 天のお父様は永遠の昔からおられる。天と地を想像された神様が、御子イエス・キリスト様は部分の痛みではなくて、それはひとり子ですから、魂であり命であり、まさか神様が死ぬはずはないけれども、「神がそのひとり子をくださった」ということは、その御自(おんみずか)らのお命をこの罪深い、"間違ったって人間の為に身代わりになんかなりたくない"とお互いに思うでありましょう。この罪深い不信仰者の為に、御自らのお命、魂を祭壇の上に置くかのごとくに、御子イエス・キリスト様を十字架におかけになられて、なぶり殺しにされた。

 使徒行伝の第20章というところで、パウロがエペソの教会とお別れをします時に、彼のメッセージの中に「教会というのは、御子イエス・キリストの血によって贖(あがな)われた者(教会をバカにしてはいけない、建物の問題ではない)、教会というのは、御子イエス・キリスト様が御血潮をもって買い取られたところのものである。」
 A.T.ロバートソンという人物は、この「『御子イエス・キリストが血を流す』という表現は、『神ご自身が血を流す』と訳しても間違いではない」と原文を解釈しました。でありますから、(神様がまさか血を流すなんていうことはありえないけれども)御子イエス様が血を流すということは、即、父なる神様御自ら(全能なる神様が)「死んでもかまわない。人類が救われるそのことのためでありまするならば、教会が贖われるそのためでありますなら、私は身を呈(てい)します、命を与えます。」という風にして、教会が成立したというのでありますなら、愛する兄弟姉妹、私の興奮はですね、人類に絶対、ものすごいことが起こると信じるのであります。

 「私はねえ、救い主に会うまでは死ぬことはない」とシメオンじいさんがこのように祈った、示されたということでありますけど、私達もねえ、この国がどんどん悪くなっていく、世界の情勢が良くない、悪くなっていくとしたと致しましても、神様はどんでん返しをなさる。なぜこの国のために、この世界のために、この罪人のために、まだ戦争をする愚かなこの我々人類のために、神様は御子イエス・キリスト様御自らのお命を、魂を祭壇におかけくださったそのお方様が、不思議なことをしてくださらないはずがあろうか。それを見るまでは、死なないよ、死ねないよ。これが私達の祈りであり、願いであります。
 新しい年、夢を持って進んで行こうとしておりますが、兄弟姉妹、罪のどんな大きな穴が開いていても、人生にどんな大きな出来事があっても、乗り越えて、主に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。主はあなたを愛していらっしゃいます。あなたの人生に、あなたの頭脳では理解することのできない不思議なご摂理を、ご計画を持っていらっしゃいます。思うようにいかないことがあったとしても、主イエス様に顔を向けて進みましょう。
 イ・チソンさんのように、美しい若い女性が火だるまになって、交通事故で相手を恨むこともなく、自らの人生を案じてお受けとめなさって、「私には使命がある」と私には生かされていること、こういう環境の中で主を賛美していらっしゃるをお忘れにならないで、明るく元気でのびのびと過ごさせて欲しいと思います。主を愛しお従いする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを捧げます。愛する天のお父様。あなたは全能なる神様。全能なる神様がお考えになられて、御子イエス・キリストをこの地上に遣わして、信ずるすべての者に永遠の命を与えてくださいます。現実、日本は信じない方が多い。99%がノンクリスチャン、80%の人達がクリスマス(「メリー・クリスマス!」と言いますが)、その本質がわからないというのが現実でありますけれども、滅びないですべての人が救われて真理を悟るに至ることを願っておられる神様、御子イエス様の死が無駄にならないように、この国をあわれみ、アジアをあわれみ、世界をあわれみ、神の前に額(ぬか)ずいて礼拝を捧げる者としてくださいますように。
 クリスマス礼拝を感謝し、2000年前にイエス様を遣わしてくださったお父様、感謝します。御子イエス様、お生まれくださって本当にありがとうございます。聖霊様、真理を我らに示したもうことを感謝し、キリスト・イエスのお名前によってお祈りを捧げます。アーメン。

「響動(どよ)めきのX'マス」大川従道師 2005年12月18日

 「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章1〜14節・口語訳)

 特別賛美:ゴスペル・クルー「Jesus Born on This Day」

 素晴らしい賛美でした。留架(るか)さんは、ちょうどアメリカからお帰りになられたばかりですが、一緒に賛美の中に加わってくださってソロをしてくださって、本当に感謝します。
 衛生放送を観ておられる方々は、1週間遅れとはいえ、25日の夜、この礼拝が放映されるわけでありますので、ちょうどクリスマスになります。スカイパーフェクTV216チャンネルを観ていらっしゃる皆様方、また支教会の皆様、ビデオで、またラジオで、そしてまたインターネットで礼拝に耳を傾けておられる方々に、クリスマスのご挨拶を申し上げたいと思います。皆さんと一緒に「クリスマスおめでとうございます。」と、そう申し上げていただきたいと思います。はい、「クリスマスおめでとうございます。」

 ここに取り出したるは、特別な物でありまして(いただいたものですけど)、これが有名な"マツケン・サンタ"といいます(笑い)。…たいしたウケではございませんでしたが(笑い)、こんなことを牧師が言っていると、「クリスマスとは、サンタクロースの生まれた日。」と思ったりする人達がいらっしゃると思いますが、イエス・キリスト様が2000年前にお生れくださった、その日であります。ですから、イエス様に対して「Happy Birthday(ハッピー・バースデイ)、イエス様。」と、こういう風にお歌を歌って、お祝いしたいと思います。ご一緒しましょう。

 ♪Happy Birthday(ハッピー・バースデイ) イエス様 Happy Birthday イエス様 Happy Birthday dear(ディア) イエス様 Happy Birthday イエス様♪

 拍手をもってお祝いしましょう。イエス様感謝します。イエス様感謝します。イエス様感謝します。主の御名によって感謝します。ありがとうございました。
 さっそく聖書を開きましょう。ルカ福音書の第2章でございます。世界中で開かれる、クリスマスのメッセージテキストであります。ルカ福音書の第2章の1節から朗読致したいと思います。

 「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章1〜8節・口語訳)

 アーメン。1節に"皇帝アウグスト"という言葉が出てまいりますので、イエス・キリストの誕生が歴史的な出来事であることの証明であります。全世界と言いましても、東はインダス川、西はスペインからイギリスのあたりまで、ローマ帝国がいかに偉大であったかということを証明しておるわけであります。人口調査ということでありますけれど、14年に1度、と言われます。もちろん、これは税金を取るための人口調査でもあり、ローマの支配権、その権威というものを表す、そういうことのためでございましたでしょう。「(慣れた町の)ナザレを出て、ベツレヘムというダビデの町に上っていた」と書かれております。
 ナザレを出るという─ヨセフとマリアにとりましては、この慣れ親しんだナザレの町を出ていくということには、まあなんとも言えない寂しさがあろうかと思いますが、今流に現代的に表現すれば、このお腹の赤ちゃんは"できちゃった結婚"のように人々は思うであろう─もちろん、結婚の前に性的な交渉があったわけではありません。"婚前交渉"というようなものがあったわけではありません。聖霊なる神によってみごもるという、過去の歴史の中に一度もなかったこと、これからもないだろうと思われる出来事が、「マリアのお腹の中にイエス様を宿す」という出来事を通して、奇跡がなされたわけであります。
 もしも"できちゃった結婚"のようなことでありましたら、当時のユダヤの世界の中では、石をもって殺す"石打ちの刑"というものが待っていたわけでありまして、若いマリアとヨセフの結婚の噂話が広げられていきますと、ナザレにおいて買い物に行くにしても、白い目で見られるという。町を歩くだけではなくて、きっとその前を通る人たちが指を指すというようなことであろう。いじめの中で過ごしておったこのナザレから離れる(120から150まあ200、そのあたりの距離であると言われますけれども)時間をかけて、マリアに「ロバに乗っていただく」というようなことであったであろうと思いますが、"自分の町"と言われる、実家がありますベツレヘムに、行動を共にするということであります。
 結婚式でありましたならば(今日も結婚式がなされますが)、「どんなことをしてでもこの娘の結婚式に出たい!」と親御さんはお思いになるでしょう。お友達も、そしてまたご親族の方々も、そういうような気持ちであろう。特にユダヤの国は、結婚式が随分華やかになされるわけでありますが、この人達は、華やかな結婚式、また披露宴のないまま行動しなければならないという。この結婚式は、"自分の町"と書かれておるんですけれども、自分の町には親戚がいたでしょう。ご実家の方々がいたであろうと思いますけれども、見向きもしないという。
 有名な小林一茶が、その句の中で「ふるさとや 寄るもさわるも いばらの花」という風に表現しておりますけれども、チクチク、自分の郷里でありながらも刺されるということ─「誰ひとり登場しないこの結婚は、われらの家系において恥である」という噂が流れて、結婚前に「赤ちゃんがどうもできたらしい。」というようなことで、宿屋が満席であった、ということもないわけではないと思いますけれども、泊めたがらなかった。「あんた達のことは、噂に聞いておりますよ。まあ、かわいそうだから馬小屋にでも入りますか…」というような、家畜小屋での出産と言いましょうか。

 私は昨年、2人の孫が与えられて、まあ、可愛いこと可愛いこと、可愛いことでございます。出産の時には、お嫁さん達が、この孫が生まれるために最も良い環境、もう最高の産婦人科と言いましょうか、産院を見つけて、この病院は安心であるかどうか、評判はどうであるか、過去において間違いがなかっただろうか─いろいろ噂を聞いて、「ここがいい」と薦めて、2人のお嫁さんはそこで出産をするという。もう私達にとって、ベスト以外のなにものでもない環境を作るわけであります。(本当にイエス様に申し訳ないような気がしますが)マリアもヨセフもどんな気持ちであったでしょう。初産(ういざん)、初めての出産であります。初孫の顔も見られないというグランパ(granpa:おじいちゃん)は、初孫を抱っこすることのできないグランマ(granma:おばあちゃん)は、いったいどんな気持ちであったであろう。誰も駆けつけてくれない出産。「おしめの準備を、10代の娘ができたであろうかなあ?」という風に、心配をしてしまうような内容でありましょう。
 8節に行きますよ。司会者がお読みくださいました、有名な箇所です。  

 「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。」(新約聖書・ルカによる福音書 2章9〜14節・口語訳)
 
 そこまでに致しましょう。クリスマスのシーズンにこれを読みますと、私たちの心はもうドキドキと言いましょうか、ワクワクということであります。今日の説教のタイトルは、「響動(どよ)めきのクリスマス」というんでありますが、最近テレビで漢字を当てると言いましょうかね、そういうクイズが流行っているようでありますが、"響動(どよ)めき"って、こんな漢字を書くんですねえ。皆さんがクイズに出たら、これを当てることができるでしょうね。ミルトンが『失楽園』の中で、「地上における世間の者たちは知らんぷりしておったけど、天上においては響動(どよ)めいた。」というね。 
 やがて私たちはこの地でも、響動(どよ)めく時が来ることを期待して、祈っているものであります。天が空っぽになったかのごとくに、千々万々の天の使いと言いましょうか、これはもう、天の使いがこの天に現れてですね、大合唱をした、という。2000年前のベツレヘムの空は、天使でいっぱいになったでしょう。すごい賛美歌(まあ、今もゴスペルが、素晴らしいクリスマスの賛美をしてくれました)。うちの聖歌隊も素晴らしいのでありますけど、それを合わせて10倍か100倍か1000倍か、まあ、本当にこれは最も素晴らしい聖歌隊が賛美をしたでしょう。しかしながら、賛美をしている天使達は、口々に色々ボソボソ言ったと思います。「ねえ、ビックリねえ。」「本当に神様もすごいことをなさるねえ。私達は700年も前から『こういうことになるかなあ』と一応は想像しましたけど、なんと、永遠の昔からおられる、アルファでありオメガである、栄光の座を持っていらっしゃるイエス・キリスト様が…おお、すごいことねえ。」天使がささやきながら、天と地を創造された、「光あれ」と言ったら光が生み出されたという、「あの時から」というよりも「あの時の前から」天地創造にサインをしておられるこのイエス・キリスト様が、なんと人間のお姿をもってこの馬小屋で(家畜小屋で)お生れなされて…私達の神様も、すごいことをなさるんですねえ。よっぽど人類を(人間どもを)愛しておられたんでしょうね。」と、天の使いたちは賛美をしながら、そんな風に口々にこのことを述べたかと思うのでありますが、今日の中心メッセージであります。

 もしもヨセフやマリアが大金持ちでありましたら、客間には(宿屋に行ったんでありますが、出産する時に「ここに入ることができない」ということは)金さえ持っていれば(金の世の中、ユダヤ人に金を握らせれば)、まあ絶対に便宜を図ってくれたであろうという風に想像することができます。彼らが名刺を渡して、その肩書きの素晴らしさをもし見るならば、「どうぞどうぞどうぞ」と奥の間に連れて行かれたでしょう。もし誰かが間に入って(例えば、ローマの皇帝アウグストがですね、「この者たちを大切にしなさい」というようなことの)、紹介文をいただきましたら、最高級の場所に案内されたでありましょうが、7節には"No room for Christ."、キリストのためにお部屋がありませんでした。人類は彼を受け入れませんでした。恥ずかしくも申し訳ないような感じがいたします。

 以前ですが(もう十数年前になろうかと思いますが)、私達が忠武(チュンム)教会という姉妹教会と大きな聖会(記念会)をする時に、私達の教会から、私の他に十数名の役員さんや信徒の方々が、韓国ソウルの忠武教会を訪ねたことがありました。あまり人数が多いとホテルが大変なわけでありまして、ちょうど完成したばかりのホテルが(小さいホテルでしたが)、教会の斜め前に完成しましたので、向こうの牧師さんは大喜び。「まあ、車で移動しなくても目の前ですからね。よかったですねえ。」というようなことで、新品のホテルに泊めていただいたんですが、どうも夜になると、おかしい雰囲気になってきました。ラブホテルでございました(笑い)。
 牧師さんも我々もそういう世界に疎いので、「どうもなんだかわからないけれど、おかしい。」というような─新武(にいたけ)さんという恵まれた兄弟がおられまして、「とんでもない!牧師達をこんなところに泊めるとは!」というようなことで、もうすぐに手配して、次の日からはソウルの最高級の素敵なホテルに私たちを案内してくださいました。
 新武さん、懐かしいですねえ(もう天に召されましたが)。金があるとか、金がないとかの問題ではなくて、彼の熱い愛情と、そして熱心な信仰とがそうさせたであろう、という風に思わせられる、懐かしい出来事でありました。

 今日のメッセージで私が申し上げたいことは、マタイ福音書の(これはルカ福音書の2章でございますが)クリスマスのメッセージがマタイの第2章にありますが、よろしゅうございますか?順番から言いますと、イエス様のお誕生を最初にお祝いしたのは、今日の出来事─野宿をして羊の群れの番をしておりました羊飼いたちが、そこに出て行って、「イエス様、おめでとう!」ということで、お祝いした。何年か離れてから「東から来た博士さん達が(そこの場所ではないでしょう、別の家であったと思われますが)そこに行って礼拝をした。」という風に、聖書を読みますと考えるわけであります。しかし(私のちょっと想像でありますけど)、もしもこの順番がですねえ、東の博士さんたちがもし最初に来ておりましたら、どんな風であったであろうか。彼らは黄金、乳香、没薬という最高の素晴らしい宝の箱を開けて、その宝物をもうなんでも差し上げたいというようなことでありました。
 まあ、ヨセフは「ラッキー!神様は生きておられる。黄金もらっちゃった、ありがとう!これで、あの馬小屋で出産しなくてもよろしい。」宿屋の御主人にですね、「この黄金、これが目に入らねえかあ!」てなことでありますと、もう宿屋の御主人は「ははあ!」ってなもんでありまして、最高級のお部屋に案内してくださったに違いない、と思うのであります。

 ちなみに、わたしは昨日、帝国ホテルにお電話をいたしまして、「スイートルームは一晩おいくらですか?」と質問を致しましたら、一晩100万円するそうであります。帝国ホテルは私がお客さんだと間違ってですね、まことに丁寧な応対をしてくださいましたが(笑い)、電話で聞いただけでございました(笑い)。もし貧乏人がそんなところに泊まりましたら、もう夜目をつぶっているわけにはいきませんでしょうね。100万円の部屋に一晩だけ泊めていただいたら、もうキョロキョロしてですね、食べ放題、飲み放題、大騒ぎでありましょう。
 もし博士が最初であるならば、ホテル代も食事代も、すべて代わりに支払ってくれたでありましょう。博士さん達は1300kmから2000kmぐらい、ここから鹿児島あたりの距離を旅をしてきた─という風に言われるわけであります。彼らは盗賊山賊にあっては大変ということで、彼らは200人ぐらいの武装集団によって囲まれながら旅をしたであろうという風に言われるので、このヘロデ王はビックリしたわけでありますが、「ヨセフさんよ、マリヤさんよ、私達は寝ずにあなた方をお守り申しあげます。私たちは200人の武装集団を持っておりますが。この武装集団にあってあなたがたが守られますので、どうぞご安心くださって、出産してくださいますように。」というようなことであろうかと思うのであります。

 さあ、もう少し。それでは、もしイエス様が馬小屋ではなくて、立派なホテルのスイートルームにでもお生れなさったと致しますならば、羊飼い達は近寄ることはもう、決してできなかったでしょう。彼らの服装というものは少々汚いだけではなくて、臭いのするものでありました。羊飼い達と野宿をしているわけであります。屋根のあるようなところではありません。「小羊のおしっこがかかる」というようなことで、年がら年中、「普段着も寝巻きもみんな同じ」というようなこういう人達は、街を歩くことはできません。「くさい、くさい」と言われたわけであります。そして彼らが、そんな立派なホテルのスイートルームに生まれたところのイエス様を訪ねる、なんていうようなことは決してできなかったわけであります。

 羊飼い達がイエス様に近づくようなことができる場所に、神の子イエス様がお生れくださった、ということであります。松尾芭蕉はこんな句を作りました(スクリーンをご覧くださいますか)。

 「ノミしらみ 馬が尿(しと)する枕もと」 (芭蕉)

 ノミもシラミも知らない人が随分出てきたそうでありますが、「ノミしらみ 馬が尿(しと)する枕もと」 と、松尾芭蕉らしいなあ、と思いますが、浅野順一先生は私達に、「クリスマスというのはきらびやかな色、イルミネーション、そういうことにとらわれないで"臭い"ということが重要である。」ということを言われたことがありました。

 アメリカはロサンゼルスの近く、オレンジカウンティーというところがありますが、そこにクリスタル・カテドラルというですね、まあ全米1番の美しい礼拝堂があります。ロバート・シューラーという先生が牧師をしておられます。(私、一緒に何度か御用をしたことがございますけど)その教会のクリスマスは、皆さんも全員お連れしたいようなミュージカルを、「Glory of Christmas(グローリー・オブ・クリスマス)」という、素晴らしい(ハリウッドが近いので、ハリウッドの俳優さんたちも使いますでしょう)クリスマスのページェント(ミュージカル)でありまして、現代風のダンスを入れながらの素晴らしい素晴らしい、まあ馬も、ロバも、羊も、家畜も、ラクダも、みんな本物を使います。フットボール競技場ぐらい大きい礼拝堂のこの講壇を、2000年前の馬小屋、家畜小屋に致しまして、劇をするわけですね。素晴らしい聖歌隊もありますし、オーケストラもあります。もう最高ですよ(少々入場料が高いんですけれども、それなりに)。

 私がそこを訪ねました時には、隣の人達は、ニューヨークから来られた。ニューヨークからロサンゼルスまで、これを観に来られたというね。素敵なイブニングドレスといいましょうか、タキシードを着ておられて、こちら側も、もう「これぞお金持ち」というような格好をしておられました。外を見ますと、ロールス・ロイスであるとか、リンカーン・コンチネンタルであるとか、キャデラックの最高級が、ずらっと並べられているような、そういう、まあすごい、そういうレベルの人達が集まるような教会でありますが、そのミュージカルが始められてしばらくしてから、馬が(ローマの兵隊が馬に乗りまして)「ハイヨー!」って入って来まして、途中で止まった。止まったと同時に、考えられないような臭いがしてまいりました。もうこの世のものとは思えないような(たぶん、あの馬はお腹が壊れていたであろうと思われます)"そそう"を致しました。これは想定外でありました。予想外でありました。もう関係者たちはビックリ。隣にいたニューヨークから来られた人も、この素敵なイブニングドレスやタキシードを着ておられる方々も、一生こんな臭いは(我々は昔、"田舎の香水"で嗅いだことがありますけれども・笑い)…でもこの人たちにとっては初めてのことであろうかと思いますが、私は「おお、クリスマスは最高のクリスマス!最高のハリウッドの俳優を使って2000年前を描写して、これぞ最高の音楽!」というようなものがあっても、どこか欠けているのは、"臭い"であります。

 愛する兄弟姉妹。私たちの心の中は、誰も隠すことができない。「あなたがたは、白く塗った墓のようである。」とイエス様は仰いました。「偽善者よ。外は白くなってごまかすことができても、墓石を転がせば死人の骨と汚れたものでいっぱいではないか。」そういう臭いのする、鼻をつまみたくなるような汚れた、罪深い、馬小屋のような真ん中に、イエス・キリスト様はお生れくださった─というのが、クリスマスのメッセージであります。ヨセフが、マリヤが大金持ちでないことの意味は、そこにあります。東の博士さん達が、この羊飼い達よりも先でないことの意味に、そこにあることに気づくべきであろう、と思うのであります。

 私達の人生には、思いもかけない、想定外のことが起こるものでありますが、先週の祈祷会のメッセージは、みんな恵まれました。ダビデは詩篇第23篇の1節で、「主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。」一緒に言いましょう、はい。「主はわたしの牧者。わたしには乏しいことがない。」イエス・キリスト様は、私達の愛する神様を、羊飼い─「わたしは乏しいことはありません。この人、この方がわたしの羊飼いでありますから」ということであろうかと思います。現代人の最も大きな問題は、「"神様から助けていただかなければ、まともな生き方ができない"ということに気づかない。」ということであります。私達は「神様が牧者になっていただく、羊飼いになっていただくこと以外には、まともな人生を歩むことができない。」ということを認めないために、謙遜になれませんし、ある深い世界を体験することができないのであろうと思います。

 先週の祈祷会で、その詩篇第23篇1節と同時に創世記の22章を引用しました。「アブラハム、大切なイサクをモリヤの山で捧げなさい。」アブラハムはイサクを捧げる。(今日もひとりっ子のうちの孫が来ておりますけど、"子供を捧げる"なんていうことは考えられないことでありますが)アブラハムは神様のいうことを聞きまして、刃(やいば)を上に上げて、子羊が殺されるのと同じように、イサクを殺そう、刃を下ろそうとしますと、天から声が聞こえて、「アブラハム、アブラハム、よくわかった。お前はひとりごさえも惜しまないで、わたしのために捧げようとするから。」アブラハムにとって最も大切なのは、ひとりっ子(ひとりご)でありました。原文のヘブル語を調べてみますと、"ひとりっ子"っていうのは、アブラハムにとりましては(もちろん違う人格でありますけれど)「彼が刺されるのであって、自分は痛くもかゆくもない」ということではありません。イサクが、愛する者が捧げられて殺されることは、自分が殺されることと同じである。魂("ひとりご"っていうのは、魂とも訳せる)、「よくぞアブラハムやった。あなたはあなたの魂を捧げるほどに私を愛し、わたしの言葉に対して従順にしてくださるんですね。」ということで、ストップ、目を上げてみたら、「エホバ・エレ、アドナイ・エレ、主の山に備えあり。」と、神様は必要を備えてくださるという、あの恵まれたメッセージを私達は受け止めたわけであります。
 愛する兄弟姉妹。「備えてくださる」という神様は、"見る"とも訳せる原文ヘブル語であります。私達の現実を、こう見ていらっしゃる、見てくださる。「あれ、あそこに必要があるんだ。あそこに穴が開いているんだ、あそこは乏しいんだ。」って、主が私達の牧者になって見ているだけではなくて、必要を準備してくださる、備えてくださる。備えてくださるだけではなくて、私達のために与えてくださるということであります。信ずる者はアーメンと言いましょう。アーメン。
 "備える"という言葉は、"provide(プロバイド:前もって見る)"という言葉があります。用意するとか準備するとか、前もって必要を備えるという言葉ですが、"摂理"という言葉、"providence(プロヴィデンス)"と言いますが、この元の言葉、この"備える"という言葉が、やがて"providence(プロヴィデンス:摂理)"という言葉は、私達の人生で神が手を延べて、生まれてから死ぬまで永遠に神の御手の中にあって、私達の必要を満たして、「どうしてこんなことがあるのか?」というようなことのすべてを、神の御手の中に置いていてくださる。 
 アブラハムという人物は、危機に瀕しますと、自分の奥さんを妹と偽って嘘をついて、情けないような男でありましたけれども、ダビデはダビデで、自分の息子アブサロムに反逆されて、「王様、あんたは自分の子供さえもを育てることができない。子育てがへたくそですね。」と言われるようなそういう中で、問答無用、彼は沈黙を守りながら、「主がわたしの牧者です。主がわたしの羊飼いです。わたしには乏しいことはありません。」神様が摂理の中で神の許されることに、"無駄になる"ということは、決してない。例えどんな失敗をしでかしたとしても、大きな穴を開けたとしても、どんなマイナスもプラスに変えてくださる。神様を信ずる者は、アーメンと言いましょう。アーメン。

 知ってください。人類最大のマイナスは、人類最大のマイナスは、アダムとエバが罪を犯したことであります。人類を代表して罪を犯しました。神の戒めを守らなかった。大ポカをやった、大ドジをふんだ、ということであろうと思います。「あいつらが(っていうのはアダムとエバのことですが)、あいつらが失敗しなければ、こんな風にはならなかったんだ。」失敗した彼らを恨んで人生を過ごす、という人がいるそうでありますが、もしも現在、「アダムよ出て来いよ、一発殴らせてくれ。お前のおかげで、どんなに俺達苦労したかわからない。」アダムは言うでしょうね、「わたしは悪くない。エバが悪い。『すべての裏に女あり』って言うでしょう?エバが悪い。」「エバよ、あんたはどうしてやったんだ?」「わたしは悪くない。ヘビが悪い、ヘビが。」「ヘビ、お前どうしてやったんだ?」彼はなんて言うでしょうね。「こんなわたしに創った神が悪い!」と言って、みんな、もう神のせいにするかもしれない。

 人類最初の罪は、責任感の喪失の罪。「ごめんなさい」って言えない。無責任の罪。自分が神の前に出て、謙遜になることができない。人類の失敗やマイナスや大穴を、命がけでキリスト様がお埋めくださいました。歴史の中で最も大きな失敗はアダムとエバでありましょうが、歴史の中で最も大きな穴を埋めてくださった、マイナスをプラスに変えてくださるということをしてくださったのは、主イエス・キリスト様。この地上でお生まれくださっただけではなくて、33年半のご生涯を終えて、最後は「マイナスをプラスに」という、イエス様が十字架にかかられて、十字架にかかられて、すべての人間の罪のマイナスをプラスにお変えくださって、救いを成就してくださいました。このことに気づいた偉大な器は、使徒パウロであります。
 聖書を開きましょう。第2コリント、コリント人への第2の手紙8章の9節をご一緒に朗読したいと思います。パウロ先生がコリントの第2の手紙の8章の9節で、こんな素晴らしいメッセージを語っていらっしゃいます。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙8章9節・口語訳)

 ご一緒に9節を、ご一緒にお読み致しましょう、はい。

 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(新約聖書・コリント人への第2の手紙8章9節・口語訳)

 アーメン。すごい聖書の御言葉であります。イエス様がこの地上で、精神的に霊的に乏しくなった、なんていうことは考えられません。だからこれは経済的な生活の問題がここにあります。イエス・キリストを通して、救いの豊かさを味わうことができます。ヨハネ黙示録の3章の17節にはこう書いてあります。「アンタ達は知らないんだ、気がついていないんだ。『自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もない。』と言っているが、実はあなたがた自身がみじめな者、哀れむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていないでしょう。」というメッセージを取り次いでいらっしゃいますが、そうであります。

 日本の国は経済大国と言われるようになりました。バブルが済みましても、最近の経済学者は"ミニ・バブル"と言って(まあ、ちょっと貧富の差が激しくなるような状況ですが)、豊かになりつつあるという。中国は今、大バブルでありますが、中国のバブルが今、崩れそうになりますと、私達はもっと大変になるそうでありますが。
 自殺者が3万人以上も出てくるのは、これは豊かな国ではありません。離婚者が1分51秒に1組と言われます。子供が虐待されることが毎日、毎週大騒ぎをしております。建築のごまかしがあって、世界中にこれが広げられておるでしょう。エコノコミック・アニマルと言いましょうか、人の命を軽くみるという。「金持ちの為なら、金を儲ける為だったら、何でもする」ということですが、イエス様は私達の貧しいところに降りて来てくださって、私達が本当の意味において富める者に変えてくださる為の、メリー・クリスマスであります。クリスマスとは、私達が本当の豊かさを味わうためであります。

 新聞に証が載っておりました。タイのお嬢さん。大金持ちのお嬢さん、仏教徒でありました。ミッション・スクール(あれが不思議ですね)。ミッション・スクールの素晴らしさで、お父さんお母さんが、「娘よ、ミッション・スクールに行って、素晴らしい教育を受けて来なさい。でも言っておくけど、キリスト教に感化されてはだめだよ。キリストを信ずるとか洗礼を受けるなんて、間違っても言ってはだめだよ。」と言われて、言うことをきいておりました。高等学校を卒業して、大学に行きまして、大学で教会のバイブル・キャンプが夏にあったんでありましょう。台所のお手伝いのアルバイトで行きました(友達に誘われて)。そうすると、スタッフが足りなくて、「あんた、ミッション・スクールに行ってるんだから、聖書の話ぐらいできるでしょう?」と言われて、イヤイヤイヤイヤながら、バイブルキャンプの分級でお話をしましたら、それを聞いた子供達が救われてしまいました!これが「宣教の愚かさをもって、信ずる者をよしとしたもう」ということでしょう。物語を説明しただけですのに、涙して罪を悔い改めて救われました。お話をした、キリスト教に背中を向けているこの人物が影響を受けて、自ら子供達と一緒に罪を悔い改めて、イエス様を信ずるようになりました(もちろん、家から追放されたでしょう)。
 この人はクリスチャンのリーダーと結婚なさって、結婚生活で妊娠致しました。最初の子供はどうしてもうまくいかなくて、流産。2回目も3回目も4回目も…もう狂わんばかりに苦しんでいる中で、5回目の妊娠がありました。神様が特別な意図をお持ちになられたのでしょう。もう、ちょうどこのクリスマスに出産されたので、子供の名前を"ジングルベル"という名前にしたそうであります(笑い)。「ジングルベル、ジングルベル」一年中「ジングルベル」(笑い)。
 細川さんは、子供に"ノエル"という。♪ノエルノエル♪"ノエル"にしましたね。
 せっかくクリスマスに生まれたら、"クリスマス"にすればねえ。「クリスマス、クリスマス、クリスマス」、ねえ。クリスチャンの生活は、毎日がクリスマス。私達の内側にイエス様が生まれてくださったということ。

 2番目の豊かさは、聖霊の恵みの豊かさであります。
 ルカ福音書の第1章で、「聖霊が(聖霊なる神が)、マリヤのお腹に命を与えた。」ってね。この宿っているのは、歴史上初めて、「聖霊なる神様が宿らせた」という。聖霊なる神様がそんなことができるのか?ということでありますが、使徒行伝1章の8節に、「あなたがたは、もし聖霊を受けるなら(聖霊があなたがたの上に宿るなら、注がれるならば)、あなたがたはじっとしていられない。地のはてにまで証人(あかしびと)になる。」という時に使われる、聖霊の注ぎと同じ言葉が使われる。すごい世界があったものであろう。この教会に導かれたならば、洗礼を受けるだけではありません(これは、"水のバプテスマ"ですが)、"聖霊のバプテスマ"、聖霊なる神様が、どんな力を持っているかわからない。イエス・キリスト様を宿らせるようなお力を持っていらっしゃる、不思議をなすことができる。全世界に出て行って、福音を宣(の)べ伝えることのできる、殉教も恐れない力を持っていらっしゃるという、聖霊のパワーというものの豊かさを味わうべきでしょう。

 第3番目。神様は私達の心をいやしてくださって、肉体にも不思議なことをしてくださいます。
 この教会に永井透さんという方がいらっしゃるんでありますが、白血病のためにもう何ヶ月前に入院して、いつ召されるかわからないほど危険な状況の中で、ICUに入ったり、無菌室に入ったり出たりということで、私は何度も「お見舞いに行く」と言ってもお見舞いすることができないような状況であったんですが、奇跡が起こりましたよ。白血病(血液のガンでしょう?)のこのお方が、今週かな?退院されることになりました。皆さん、お祈り感謝します。一緒に拍手して喜びましょう。栄光の主の御名を崇めて感謝します(拍手)。
 ガンで苦しんでいらっしゃる人、一生懸命祈って挑戦しましょう。

 第4番目。私達の現実の祝福の豊かさであります。クリスチャンの祝福の豊かさの素晴らしさ。
 ゴルフ好きな人(私も大好きですけど、やるチャンスがありません)。これはフジサンケイ新聞に出たのを川端先生が送ってくださいました。すごいですよ。

 「日本を代表する2人のプロが同時期に話題を提供しています。尾崎プロは58歳。中嶋常幸プロは52歳である。尾崎プロは負債16億円を抱えて破綻(はたん)、民事再生法を申請したばかり。中島プロは日本シニアオープンに初優勝し、日本のプロではただ1人、日本アマを含め、メジャー全タイトル獲得の偉業を成した。
 片や、通算112勝、片や59勝、どちらも日本のプロゴルフ史上に残る燦然(さんぜん)たる偉業を成し遂げたことでは、他に追随を許さない。しかし実績はともかくその生き方はあまりにも対照的である。(これはゴルフジャーナリストが、一般の新聞に書いたんです)
 強さと裏腹に尾崎プロはこれまでずい分世間を騒がせてきた。
 広域暴力団とのパーティーに出席したり、賭博の問題があったり、いつも大騒ぎであった。バブル期には、うさん臭い人脈の勧めもあって、不動産投機に手を出して、それが膨大な借金となった。ルール疑惑も何度も犯し、世界的に有名な外国人プロにも強い抗議を受け、それが外国にまで広まった。強さゆえに『裸の王様』になり、身の破綻につながったのである。
 一方、中嶋プロは、1980年にクリスチャンになり、以後人生観が変わった。「人間というものは、自分一人で生きているのではない」と、公人として身を慎むようになった。ルール、マナーに気を配り、社会への影響力を意識した。
 一時期参戦したアメリカのツアーでは、ルールミスを自己申告し、「日本にも、こんな正直なプロがいる」と、称賛された。
 2002年には7年間の大スランプ(彼のスランプはもうめちゃくちゃすごかったですよねえ)。47歳にして、ダイヤモンドカップと三井住友VISA、太平洋マスターズと2勝して、『奇跡の復活』といわれた。昨年、日本シニアオープンに初参加し、その賞金全額を『新潟中越地震』の被災地へ寄付している。
 『誰が見ていなくても、神様は見ている。結果が問題ではない。自分がどう生きるか、そのプロセスこそが大切」と、いつも淡々とプレイする。(素晴らしい証だねえ。結果、病気がいやされる、貧しい人が豊かになるそれも豊かさであるけれど、結果が問題ではない、自分がどう生きるか。そのプロセスこそが大切なことである、と証をして。)
 晩年になって、対照的な結果を出した2人。それは日頃の生き方の延長でもある。『因果応報』というか、『天は自ら助けるものを助ける』はやっぱり真理なのであろう。」(フジサンケイ新聞記事より)

 と、ゴルフジャーナリストが新聞にですねえ、「同じ人生を送ってもこういう違いが出てくるのですねえ。」というようなことを証しているのでありますが、これは素晴らしい。主の御名を崇める次第であります。

 さあ、おしまいに第5番目。本当の豊かさは(この地上はほんとちょっと、永遠と較べると)、死ぬことを恐れないで永遠を先取りして、天国を先取りして、この地上で喜んで生きることができる。
 一昨日、相鉄線に乗って、横浜に行きました。帰り際に、私の座席の隣に(60代後半でしょうか)、お2人の夫婦がお座りになられて、会話が聞こえてまいりました。「ねえあなた、1人は心配だから、一緒に行きましょう。」(北海道にどうも行かなければならない)「大丈夫、1人で大丈夫!」「だって心配ですから。」─御主人なんと言ったと思いますか?「もしものことがあったら、葬儀は簡単にしてくれな。」ビックリしましたよ(笑い)。『死の壁を超えるもの』をあげたい、という気持ちになりましたが、神様の憐れみを祈りながら、耳に入ってきました。「互助会に入っているから、葬儀に関しては簡単でいいよ。」というようなことであったとしても、奥さんは今にも泣きそうでありました。

 プロ野球のファンにとっては、大木監督が亡くなったのはちょっとショックでしたねえ。70歳。あんな素敵な、お洒落な、スマートな、イチローや野茂を作り上げた…。長嶋が倒れて病気で、まだ再起できない。これは我々中年層にとっては、もう大きなショックですよね。皆様、簡単な葬儀ぐらい費用の準備はしてあるでしょう。保険にも入っていらっしゃるかもしれません。葬儀の後はどうですか?お墓の用意がありますよ。お墓の後はどうしますか?
 聖書は、永遠の命を教えるのであります。本当の弱さ、にっちもさっちも行かない、人間としての本当の貧しさに気づいて、苦しむことなしにその行き詰まり、その経験なしに主の豊かさを味わうことはできないでしょう。イエス様は、あの豊かな、富むお方でしたのに、私達の為に貧しくなられた。クリスマス。それは私たちの貧しさを乗り越えて、豊かになるためである。クリスマスのメッセージをお送りします。イエス様を信じお従いする者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを致します。恵み深い天のお父様。聖書の御言葉を通して、羊飼いが博士の前であったこと、順番さえも神様の摂理の中に私達が偶然のように思っているような出来事、ひとつひとつの出来事─それがたとえ私たちの罪から出たこと、ある時は"失敗"というようなこと、地団駄(じだんだ)踏んで苦しみもがくようなこと─自ら主にひれ伏して、灰をかぶって懺悔(ざんげ)したくなるようなことであったとしても、愛する者の為に手を広げて、摂理の中に私達の存在を置いてくださって、すべてのことを益にお変えくださる主を誉めたたえて賛美申し上げます。
 ご参加されたすべての方々に、この驚くべき、この地上における(短くありますけれども)生き方に御手をさしのべくださいまして、「あなたこそ、わたしの羊飼い(牧者)です。あなたこそわたしの人生の主です。」と崇めながら過ごすことができますように。日本の国を覚えて、本当のクリスマスを体験し味わうことができるように導きたまえ。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りをお捧げします。アーメン。

「復讐の壁を超えるもの」 大川従道師  2005年12月11日

 「六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません』。そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(新約聖書・ルカによる福音書1章26節〜38節・口語訳)

特別賛美:サインダンス「Oh Holy Night」

 まあ、なんと素晴らしいんでしょうね。天使が舞い降りてきたような、素敵な賛美でありました。2節は、言葉がわからなかったと思いますが、ハワイの言葉ですね(多分、本郷先生ご夫妻が賛美されておったんだと思います)。もう1度感謝しましょう、Thank you!
 クリスマスの雰囲気が与えられて、本当に感謝であります。今日、私が長い間お祈りしておった人がお見えになっており、たいへん嬉しく思います。クリスマスのシーズンは、誘い合わせて、クリスマス、イースター、そしてまた初詣、必ず教会で礼拝を守るという習慣は素晴らしいことだと思います。心からご歓迎申しあげます。少し大きな声で朝のご挨拶をしましょう。皆様、おはようございます。

 新聞の投書欄。広島の53歳のご婦人でありますけれど、我が家の外で、大きな声で騒いでる人がおりました。「もう、本当に困っちゃうんだから。そんなにだだをこねているんなら、もう置いてっちゃうから!」とそう叫ばれたので、心配で窓を開けて外を見たら、犬と飼い主の会話であったという、ね(笑い)。犬を好きな人は子供のように愛するでしょう?「言うこときかないと、置いてっちゃうわよ!」ていうようなことでありますが、ドッグ・マザーがキレた、ということですね。まあ、私だったらね、「言うこときかないと、ホットドッグにしちゃうぞ!」というような(笑い)。

 テレビの朝の番組で「はなまるマーケット」というのがあるようでありますけど、その導入にあいさつが入っておりまして、「入っているつもりでいたのに、入っていると思って入っていないものは何ですか?」というと、女優の水野さんというんですかね、あの方が「私のところにお歳暮が、ずいぶん上等な様相で入ってきたので、中身はすごいものが入っていると思っていたのに、中は空っぽだった」というね。
 岡さんという女性がですね、「私はね、トイレに人が入っていると思った。トイレにこう半分くらい赤い印がついているから、使用中だと思ったけど、我慢していたのに入っていなかった…」という、何かこう落ちた、というんでしょうね。

 私は若い時に、埼玉県のある教会の特別集会で(かなり大がかりな集会で)、講演を終えましてから、役員さんが別室に案内してくださって、お茶をいれて下さり、羊羹(ようかん)を出して下さり、そしてまあ、このなんて言いましょうか、厳かにですね、紫のふくさに包んだ(中は謝礼なんですけども)、このひげの生えたような、立派な"謝礼"と書いたものを、私にこう渡してくださいました。貧しい時代でしたから、もうすぐにでも開けたかったんですけれども、電車でずっと我慢して、家に帰ってきて開けてみたら、中に何も入っておりませんでした(笑い)。シャレにもならないというところでしたけれど(もう時効ですから言うんですよね)…期待が裏切られた、というね。

 聖書を開いて期待が裏切られた人は1人もおりません。中身は恵みで溢れています。聖書に挑戦しましょう。ルカ福音書の第1章の26節からお読み致します。これがクリスマスの(アドヴェントの)世界中で読まれている箇所ですよ。ルカ第1章26節。

 「六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう』。そこでマリヤは御使に言った、『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに(結婚していませんよ)』。御使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません』。そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(新約聖書・ルカによる福音書1章26節〜38節・口語訳)

 アーメン。今からちょうど25年前の12月8日、ジョン・レノンが自宅前で射殺されました(第2礼拝の時は間違ってノレンと言って、"のれん分け"みたいなことを言っちゃいましたけど)。ビートルズファンにとっては、忘れられない日であります。40歳で熱狂的なファンに殺されたわけであります。もう25年経ちますね。ビートルズファンを大きく2つに分けると、ポール・マッカートニーの派と言いましょうかね、ジョン・レノンの、そういうグループに分けられるという風に言いますが、ポールが、聖書の38節のこの言葉(『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』"Let it be to me , as the word of you.")から「Let it be」という詞を作って、これが世界中に広げられたわけであります。読んでみます。

私が苦しみに出会う時/母マリヤが現れて/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/"Let It Be"(みこころのままに)
暗闇の中に包まれてしまう時/彼女は私の前に立ち/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/"Let It Be"(みこころのままに)
すべてはみこころのままに/知恵ある言葉をつぶやいてごらん/"Let It Be"(みこころのままに)
(「Let It Be」オリジナル詞:ポール・マッカートニー)

 互いに(ポールもジョンも)個性が強くて、喧嘩したわけですねえ。確執が深くなって、とうとうビートルズが分裂する、というその直前に、ポールがこれを作って、「もしできたら、もう一度やり直せないかなあ」という気持ち。しかしまた反対に、「これが運命であるならば、もうしょうがない。」"Let It Be"(御旨〔みむね〕のままになるように)、ということを考えて作られた─という風に言われるわけであります。
 "マリヤ"という名前が出てまいりますが、これはもちろん、ポール・マッカートニーのお母さんが熱心なイギリス国教会の信徒でありましたから、その影響を受けていて、聖母マリヤのことでありましょう。それと同時に、ポールのお母さんの名前も同じであったというようなことがそういう中に含まれているのかなあと、そういう風に思います。

 ルカの1章38節を今、ご一緒にお読みしました。、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように(Let it be to me , as the word of you.)』。英語の訳も同じように、神様の言葉が私に成りますようにという言葉─クリスマスには耳を傾け、聴くべき言葉であろうと思います。
 マリアは当時何歳であったか。学者に言わせると、14歳ぐらいという。中高生が今日たくさん見えていらっしゃいますが、14歳の女の子(まあ14歳でなくても10代であるということだけは確かなことであろうと思いますが)、重大発表を聞いたわけですよねえ。まさか結婚していないのに、赤ちゃんがお腹の中にできるという、そういうお話("受胎告知〔じゅたいこくち〕"と言いますが)、まあ私のシャレでありますが、"受胎酷知"というのは、この厳しいですね、残酷の"酷"を書いてですね、ちょうどお医者様が「あなたはガンですよ、ガンの末期ですよ。もう余命はいくばくもありません。」なんていうのは、告知する方もつらいと思いますが、受ける患者さんも家族も、それはもう本当に厳しい内容であろうかと思いますが、マリアにとりましても、これは非常に重すぎる受胎告知でありました。しかしながら結論としては、「主のみこころでありますならば、受けとめます、お従いします。」という内容。
 尊敬する小島伊助先生は、マリアは処女であるから聖いのではない。姿が美しく、若く…そういうことで聖いということでは、もちろんない。「主の御旨であるならばお従いします。」という信仰の従順性が、選びの理由であったであろう。私は主のはしためであります、というね。ハンドメイドというね。「私は主の奴婢(ぬひ)です。」という風にも訳せます。奴隷女です、というね。
 生殺与奪(せいさつよだつ)の権と言いましょうかね(あまり使いませんけど)、生きることも殺されることも与えられることも奪われることも、その権利を私はあなたにおゆだねしております─結婚前の女性がお腹が大きくなるということは、石打ちの刑(石で殺されるということ)の時代でありましたが、汚名を着せられようと、石を投げつけられようと、ヨセフに捨てられようと、いっさいを捧げて、「私は主の奴隷女です、主の僕(しもべ)です、はしためです。」という、そういう言葉であります。

 愛する兄弟姉妹、私たちの人生にはどうしていいか分からないような出来事が起こることがあります。若い人でありますならば、結婚をすべきであるのかすべきでないのか、相手を決定するような時に、本当にこの人で良いのであろうか、という。仕事を継続するか、それとも辞めるべきであるか。子供の将来に口を挟むべきであろうか。「お母さんはね、絶対反対だからね!」と言っていいのか。「お父さんはな、絶対許さんよ!」と言うべきであるのか、言ってよいのか─人生の大切な節目節目に、自らの実存をかけて祈りをするということでありましょう。
 「ひざまずいて、いろいろと意見を述べてまいりましたが、もともとイサクを捧げてまいりました。私自身の生殺与奪の権も、うちの娘の、うちの息子の、私の生涯の生殺与奪の権は、あなたの御手の中にあります。元より、あなたの御手にお捧げしてまいりました。」牧師である私も今日まで、こういう経験をたびたびして、主から取り扱いをいただいてまいりました。

 信仰の父アブラハムがイサクという、かけがえのない、年を取ってから与えられた1人息子を「モリヤの山で捧げなさい」と言われました時に、従順いたしましたが、それはつらいつらいつらい、考えも知れない「神様、お間違いではないですか?」と楯突(たてつ)きたくなるようなことですが、創世記の22章では、「イサクを捧げる」と言った時に天から声が聞こえて、「アブラハム、アブラハム。うん、わかった。もうやらなくてよろしい。」その時の言葉は、「あなたのひとりごさえも惜しまないで捧げようとした」という。そのひとりごというのは、原文のヘブル語では、"魂(たましい)"と訳せる言葉だと言われます。すなわち、アブラハムは「イサクは、親子の関係とはいえ、この人(子供が)殺されることは、私にとっては、痛くもかゆくもない。人格は別である。私が何も刃(やいば)を向けるわけではない!」というわけにはいかないでしょう。「"子供を捧げる"ということは、"私の魂をゆだねる、捧げる"ということと同じことでしょう。」と言って、彼は備えられて、取り扱われて、留められた後に、神様が「主、山に備えたもう。エホバ・エレ、アドナイ・エレ、ヤーウェ・イルエ。」と言って、あの歴史的な出来事がなされた─という風に私達は理解しているわけであります。

 ルカ福音書が言いたいこと─ルカだけではなくて、福音書の記者が言いたいこと─は、まさにそういうことでしょう。ルカ福音書の第5章では、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」バカバカしいような出来事であります。「人がなんと言うか分かりませんが、あなたのお言葉ですから、わたしは網を下ろします」という。
 イエス様御自身もルカ福音書の第22章、ゲッセマネの園で、ひざまずいて、手を合わせてお祈りしている時に、「お父様、あなたにできないことは何もございません。私は嫌ですよ。裸にさせられて、ムチ打たれて、十字架につけられて殺されるなんて、嫌です。苦い杯なんか、飲みたくありません。私の気持ちは、そんなんじゃありません。」しかしその後に、「しかし、あなたのみこころでしたら、、この身になりますように。お受け申しあげます。」という。
 愛する兄弟姉妹。主のみこころにいつも従順したい、そう願う者は、大きい声でアーメンと言いましょう。アーメン。これがクリスチャンの生き方であります。

 第2番目のメッセージは、26節に、6ヶ月目に御使いガブリエルが、神から遣わされたナザレというガリラヤの町の一処女の家に来たと言いますが、このナザレということに対して言及したいと思います(私は説教を始めて42年経ちますが、初めてこの世界が開かれて、今日はもう本当に幸せな、「御言葉が開かれるということは、こんなに有難いことか!」と思ってメッセージをお取り次ぎ申し上げるのであります)。

 イエス様がお生まれになった時代は、ローマ帝国に対する反乱軍がイスラエルの中のあちらこちらに起こりました。大きく揺れた時代であります。独立を目指して武装蜂起(ぶそうほうき)と言いましょうかね(蜂起っていう漢字、面白いですねえ。"蜂〔はち〕"を使うんですよねえ)。蜂の巣をつついたこと、ありますか?ねえ。彼らが怒ると、もう1匹残らず出てきてですね、目標をめがけて追いかけていく、というね。武装蜂起というのは、そういうことでありましょうね。当時、イスラエルの民が反発をいたしますと、ローマ軍は世界最大の帝国軍隊を持っていますから、武力で鎮圧して、陰惨なこの記憶を持つ、そういう村が、このナザレという村でありました。

 記憶に新しいところは、数年前に中国の天安門事件というのがありましたねえ。若者たちが立ち上がって、政府に楯突いたんですね。私も1960年代に安保問題でデモをかけた男の1人でありますけど、「政府、間違っているだろう!」というようなことで、騒いだこの若者達を、中国の政府は軍隊を出して、(自分の子供達ですよ)自分の若者達を戦車で轢き殺したというんでありますから、これはもう大変なことでありますよねえ。ベトナムにおいてもそういうことがありましたですねえ。またフランスにおいては、最近はまあ、いくら外国から来た人々であったと致しましても、市民権を持っている人達がたくさんいるにもかかわらず、ご存知のように、もう大変な弾圧と言いましょうか、騒動が起こったわけですが、武力によって鎮圧されたわけであります。

 当時、ナザレのこの地域では、2つの大きな事件がありました。1つは、"ガビニウスの大虐殺"という(BC57年ぐらいでありますけれども)、イスラエルの民、特にナザレの地域のガリラヤの周辺の人達が、もうどうしても立ち上がらなければ、こんな重税を負わされて生きていくことはできない、ということで立ち上がったわけでありますが、このガビニウスというシリヤの総督が、反抗するナザレ人、ガリラヤの人々を弾圧致しまして、なんと皆さん、1万人ぐらいを殺したという、大虐殺ということですね。当時のこの地域の人口は、15万人。15万人の人口の中に1万人、15万人の中の1万人が殺されたというんですから、もうこれは歴史に残るというか、記憶の中に留められる内容であります。

 もう少し新しいのは、"セフォリスの破壊"というんですが。これはBC4年、ヘロデの死を契機にして、人々が立ち上がってですね、「もうローマ政府に対して反抗しよう!」というような出来事が起こって、大騒ぎだったわけであります。捕まっちゃいまして、2000人の人達が十字架刑というね。26聖人の姿を、私達はまあ色々映像で観ますよね(26人が十字架にかけられて、長崎で殺されるわけでありますが)。"2000人の人達"っていうとですね、何百メートルの距離。人々が磔(はりつけ)にされて、そして槍(やり)で殺される。血だらけになって、ムチ打たれて、そして人々はぎゃあぎゃあ騒ぎながらローマ兵を呪い、家族の者達もそれを囲みながらですねえ、「お父さーん!」って叫んでみたりですねえ、「おじいちゃーん!」と叫んでみたりですねえ、大騒ぎをしたりして、この村全体、この町全体が、2000人の人達が十字架刑にかかったというんですよ。
 その後ローマは何をしたかっていうと(やりかねないんでありますけれど)、この村を、この町を、火をつけて焼いてしまった。「こんな町、焼いちまえ!」ということでありまして、彼らは生活圏が奪われる、というようなことであったと思います。町の人々は、見ちまった。家族や親戚や友人はさらしもので、槍で殺され、苦しみ、呪いの叫びがあって、そしてさらしものにされていると、やがて鳥がやってきて、その人間の体(肉)を食う、つつくというような現象─この呪われた町からマリアが選び出されたという、このシチュエーションであります。

 当然、マリアも、人々から、家族から、周りから、ローマに対する憎しみが燃えている、という環境の中で育てられて、この受胎告知を受けた、と言ってよろしゅうございましょう。
 イエス・キリスト様ご自身は、お父さんのヨセフが大工でありましたから、焼き払われたこの町の再建の為に、「イエスよ、手伝いなさい。」と言って、隣の町(同じ地域、同じ部落でありますが)、もう生活ができない状況の中で木を切って来て、そしてハンマーを持って釘を持って鋸(のこぎり)を持って、その町を再建する為に用いられたでありましょう。2000人も十字架で殺された町でありますから、残酷な残忍な、憎しみに満ち溢れた復讐心が心に溢れている状況の中で、イエス様もお仕事をなさったであろうと想像することができます。

 使徒パウロが、「ガラテヤ人の手紙」の4章の4節で、イエス様がお生まれなさったクリスマスは、「時満ちるに及んで」と表現されました。タイミングが良い、という。学者達が"時が満ちる"ということで、第1番目に言語が、(ローマが物凄い勢いで支配しておりましたから)、その地域というのはコイネー・グリークという、非常に平民でもわかるギリシャ語で統一されておりました。
 中国の文化革命の後に中国の言語が300もありましたのに、毛沢東が北京語に統一したおかげで、福音宣教というものが広げられた。ローマが言語を1つにした、そのことのために福音宣教は広がった。

 2つめ、シナゴーグという礼拝堂。ユダヤ人は、10人集まると礼拝堂を建てたという。それがあっちこっちあっちこっち、あっちこっちあっちこっち、いっぱい出来た。すなわち、安息日には"歩いてはいけない距離"があります。それ以上行ってはいけないから、そこに教会を作らなければいけない。物凄くたくさん教会ができましたが、その教会が伝道に使われた。 
 3つめ、「すべての道はローマに通じる。」というほど、軍事道路がお見事に作られたわけでありますが、それを用いて、この軍事的な政治的な仕事をしたわけですが、パウロ先生が短期間にA点からB点に行けたのは、その道路がきちんとしていたから。
 それから「ローマの平和」と言われますけど、ローマの軍隊が強かったから、少なくとも時代的には「治安が良かった」いうことが、みんなプラスの面だけを私は何度もこの礼拝で語ったことがありますが、今日のメッセージは、「時が満ちるに及んで」ということは、もう1つ、すなわちイエス様がお生れなさるという時に(タイミングが良かったんでありますが)、そのタイミングの1つの中には、この驚くべきマイナスのタイミングがありましたよ、と。このマイナスが、どうプラスに変えられたか。

 今ルカ1章でありますが、4章までとんでくださいますか?ルカの第4章の16節からお読みします。イエス様が洗礼をお受けになられて、40日の荒野におけるところの試練に遭われて、伝道を、公生涯(こうしょうがい)を始められたその箇所。4章の16節。それからお育ちになったナザレ(ほーらね、育てられたんですよ、ナザレで)。ローマに対する激しい復讐心が充満している中で、イエス様が育てられた。安息日にいつものように会堂に入り、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので(これが不思議ですよ)、旧約聖書はもう39(巻)もあるのにもかかわらず、イザヤ書が手渡された。その書を開いて、こう書いてあるところを出された(61章なんですけど)。18節。

 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである("わたし"っていうのは、イエス様の預言なんですよ、ね。キリストが生まれる700年も前に旧約聖書で預言されておったことを、イエス様はご自分のことだと、そう表現されたね)。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ(与え)、主のめぐみの年(これがジュビリーですよ、ヨベルの年ですよ)を告げ知らせるのである。イエスは聖書を巻いて(羊皮紙だからね、この巻物を巻いて)係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句はあなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、『この人はヨセフの子ではないか』。」(新約聖書・ルカによる福音書4章18節〜22節・口語訳)

というメッセージであります。
 ナザレの村における、復讐心が満ちあふれる、充満している、絶対に許せない。折があれば仇討ちをしたいと思っている、その中に若いイエス様がお立ちになられて、神々しいほど輝いておられるイエス・キリスト様がお語りになられた。なんとイザヤ章の61章。「あれ、凄いところを読まれたけれども、読むべきところを読んでいない。」というね。さっきはカッコを閉じる、なんてこう申しあげましたけれども、20節に、会堂にいるみなの者の目がイエスに注がれた。目が点になっちまった。岩波の翻訳によると、「彼に釘付けにされた」というね。「釘付けにされた」って、「いやあ、呆れてビックリした。あり得ないことをやった。」このあり得ないことをやった、というのを今勉強しましょう。イザヤ書の61章であります(またここへ戻りますよ)。「イザヤ書」、旧約聖書の1033ページ(聖書をお持ちの方は、もう頑張って開きましょう)。よろしいですか?1033ページ、上の段。61章。

 「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで(ね、これがメシアという意味ですよ、油を注いでキリストという意味です)、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年(これはさっきカッコ閉じるって言いましたでしょう?ここでストップしちゃった)とわれわれの神の報復の日とを告げさせ…(以下略)」(旧約聖書・イザヤ書61章1節〜2節・口語訳)

…云々(うんぬん)、と読むべきところであったにもかかわらず、イエス様は意図的に1行目の「主の恵みの年」でストップした。その意味において、新約聖書で永遠にこの御言葉が封印されてしまって、聖書を巻いて、係りの者に手渡した。最も肝心な復讐預言、報復預言、我々の神の報復の日を告げ知らせると言いますと、絶対に読まなければならない箇所、落とすなんてことは間違っても考えられない箇所。ここまで読めば、人々は大きな声で、アーメンと唱和し、ローマ帝国に対する恨みつらみ、侮辱と呪いとを口々に言いやって、「いつか必ず俺達はやるぞ!この悲しみやこの苦しみ、武装蜂起への呼びかけをして、叫び込んで、待ち構えていた。よくぞイザヤ書61章を開いて下さった!」ところが、イエス様は途中でストップして、巻物を巻いて係りに戻してしまった。人々の目は、点になっちまう。彼に釘付けになった。民族こぞって機会を伺ってきました。
 この"報復の蜂起"というものを完全に捨てなければ解決しないことを、イエス様が宣言されたわけであります。報復を、復讐を求めないことが神の意志であるということ。人々はそれを聞いて、会堂内は騒然としたでしょう。(蜂の話をしましたけど)蜂の巣をつついたように大騒ぎ。「なぜこの若いラビは読まなかったのか。何を考えているのか、何を言いたいのか。」さあ、ルカの4章、このイザヤ書を読んだんですよ、ルカの4章、先ほどの箇所に行ってみましょうね。20節ですよ。

  「イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』(これも本当は重要な箇所ですが)と説きはじめられた。すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、『この人はヨセフの子ではないか』。」(新約聖書・ルカによる福音書4章20節〜22節・口語訳)

 私は聖書を読んで40数年間、「イエス様、最初のメッセージ、みんな誉められて、『まあ、素晴らしいことだ』と感嘆されて、ヨセフの子供であるにもかかわらず、こんなメッセージを語られるとは、すごいすごいすごい。」という風に考えてまいりましたが、どうもそうではないかもしれない、という。「イエスを誉め」というその言葉を、ヨアキム・エレミヤスという人が、1958年、今申し上げたように、イザヤ書の61章を途中でストップする人々の復讐預言というものをストップさせて、誉めてくれるはずがありましょうか。「『これを反対したイエスに反対した。』と訳すべきである」という大学者であります。
 ケネス・E・ベイリーという人が1980年、同じように「私もその説を取りたい。そうでなければ、辻褄(つじつま)が合わないだろう。"恵みの言葉"というのは、このテキストを"恵みの言葉"というわけですから、"感嘆した"というのは肯定的ですから、新改訳が訳しておりますように、「驚いた。」この箇所を長い間読まれてきたが、このように読んだ人は今まで1人もいない。「この人はヨセフの子供ではないか。」というのは、「こいつはヨセフの子供だろう、せがれだろう!?こいつは何を考えてナザレで育てられたのか!俺達のナザレの村というのは、2000人の者達が十字架につけて殺された。この町は焼き討ちされたではないか。親父さんと一緒に、この町の再建のために一生懸命、釘を持って、ハンマーを持って、ノコギリを持って、家を建てた。その時に、俺達はこの子供を洗脳するかのように繰り返し繰り返し、『ローマ憎し、ローマに勝たなければならない、立ち上がるべきである、抑えつけられてはいけないんだ!』という風に教えてきた、育てられたナザレにおいて、何故(なにゆえ)イエス・キリストは途中で止めたのか。」

 大虐殺の大事件は、BC57年ぐらいでありますから、そのことが頭になくても、このBC4年の出来事がわからない、というようなことは考えられない。人々は民族の誇りが続けられた瞬間でありました。「我々の涙を知っているはずであろう、我々の苦しみを共有して育ったはずであるお前は(こいつは)民族の裏切り者である。何をトンチンカンなことを言っているんだ、この若者!こんな奴は村から追放だ、崖から突き落とせ!」と書いてあるでしょう。4章の23節以下はですね、イエス様が特別なことを仰ったから、28節に「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ちた。」ということは、そういうことなんですが、それだけでイエス・キリストを亡き者にしようとしたはずはない。29節、「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、その町が建っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落そうとした」けれど、イエス様は上手にそこを逃れた、ということが書かれているわけであります。

 後日、イエス様が山上の説教をこの近くでなさった時に、イエス様はマタイ第5章で「人々は『敵を憎め、隣人は仲良く愛するんですよ。隣は一緒に生きるんだから。"隣人を愛し、敵を憎め"』と長い間言われてきたけれど、私はそうは言わない。『敵を愛し、迫害する者のために祈れ。』」というのはね、こういうバックグラウンドがある中で、イエス・キリスト様が語られたんだ、という。「ローマへの報復を放棄されるならば、本当の自由と解放は今実現する。それが本当のヨベルの年である。」キリストにあって本当の"ヨベルの年(主の恵みの年)"と預言されてきたことが成就するということは、そういうことである。
 
 聖書解釈ということは、イエス様が解釈されたら、それが最も正しい聖書の釈義でございますから、世界は、このメッセージをクリスマスのメッセージとして聴くべきであろうと思います。本気で主の言葉を聴き、従順しなければ、キリストの存在を無視し、キリストを崖から突き落とそうとするのでありますならば、世界はこれから何百年経っても変わらないでしょう。

 クリスチャン・ライフはねえ、クリスチャンでないわけではない、洗礼を受けていないわけではない、日曜日に礼拝に通っていないわけではない、聖書もある程度読んでいないわけではないけど、この世界によって取り扱われて聖められて、神様の前に砕かれる経験無しには、この恵みの年というものは、その人のものにならないでありましょう。
 "主のめぐみの年"と書いてありますが、「マリヤよ、恵まれた女よ、おめでとう。」というのは、「恵まれた」と"恵み"が出てまいります。天使が「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」と1章の30節にありましたが、クリスマスとは"恵みとの出会い"であります。

 神様が下さる"恵みとの出会い"を現代的に優しく表現しますなら、第1番目、私達は救われるということであります。
 アメイジング・グレイス、驚くべき神様の恵みですよ。私達が良いことを積み上げて救われるのではなくて、イエス様が全部を引き受けて下さった。罪深い、本当に愚かな、神様を崖から突き落とすまでしませんでも、ないがしろにする、神を第1にしないような者の罪を覆って下さって、私達の救いを成就してくださった。

 2番目、聖霊なる神様の恵みです。
 ホーリー・スピリットですから、聖いんですね。内側を聖めてくださる。「私はこう思いますけど、苦い杯(さかずき)飲みたくありませんけど」─聖霊の火を通過していない人は、わがままクリスチャン、肉のクリスチャン、主のみこころをわきまえないクリスチャン。年数なんか関係ないんですよ。「私の生殺与奪の権をあなたにおゆだねします。私の人生は、あなたのところからきました。」
 今日シャレでですね、メイド・オブ・ロード(私は主のはしためです)、というね。メイドはメイドでもね、ハンドメイドというね。ハンドメイド・オブ・ロードで"主のはしため"というのは、英語の聖書にそう書いてある。(同じスペルではないんですけど)ハンドメイドというのは"手製"ということでしょう?「神様が私の人生をお作りくださったんだ、私の1から10まであなたの御手の中にあります。私は確かにあなたから自由意志をいただいておりますが、私はその意思さえもあなたにおゆだねして人生を過ごしております。主のはしためです。この身にあなたの御言葉が成就しますように。」

 第3番目、いやしの恵みであります。
 関根辰雄先生が脳をやられて、お倒れになって、意識がおかしくなって、不明になられて、しゃべることもできない最悪の状況でありましたが、2日前にお訪ねしてまいりました(今市市でありますが)、もう本当に奇跡ですねえ。すっかりお元気になられて、先週から説教しておられる、というね。今日は他にもいやしがあったということでありますね。神様の御名を崇めます。恵みです。

 第4番目、現実の祝福の恵みです。
 昨日転入会なさった兄弟が、手紙をくださいました。世界中を回って飛び回っている、40代の働き盛り。
 「大川先生の火の出るようなメッセージに、いつも励まされています。今仕事が大変忙しく、祈祷会に参加できませんが、インターネットでダウンロードして、通勤時に聴いています。仕事が忙しくなると、体とともに心も弱くなるものですが、祈祷会のメッセージを聴くと、心の奥底から強められます。私にとって、1週間の生活を守る糧です。聖書なんか読めなかったけど、今年は読み通せそうです。今までできなかったことができてうれしく思います。本当に感謝です。」

 タナボタ式ではないんですよ。子供の時から、日曜学校の時から何年も教会に通っていれば、いつも新鮮な恵みを与えられる、そんなことがあるはずはありません。努力して工夫して、ある人は、この聖書の分厚いのを電車で読むためにですね、こうちぎってというか分冊にしてですね(それはもちろん、あんまりいいかどうかわかりませんけれども)、まあこんな分厚いものを満員電車で読んでいたらいけないので、こう、マタイはマタイ、ルカはルカで、こうして、それを満員電車で読んで養われています。
 ある人は奥さんから聖書を朗読していただいて、それを満員電車の中で聴いている、というね。「読むかわりに聴くんですよー」ってね。これは子供達がお父さんのために、「お父さん、今日の箇所はここですよ。」なんて、娘さんの声だったら、もうね(奥さんの声でもそうあるべきだと思いますけれど)。孫の声だったら、もう何時間でも聴いているでしょうね。息子さんでも出来ると思いますね。「さあ、お父さん、聖書の箇所です。これを読んだら力になりますよ。」という励ましですよね。

 第5番目、死ぬことを恐れないで天国を先取りして、喜んで人生を過ごすことができる。
 愛する兄弟姉妹、クリスマスは私たちの為です。イエス様をお祝いする背後におけるこの驚くべきメッセージを、私たちのものとさせていただいて、人生(私たちの人生)、何が起ころうとも、(「死の壁を超えるもの」という説教を致しましたが)今日は「復讐の壁を超えるもの」、その答えはイエス・キリスト。イエス・キリスト様を心から信じ、この方にお従いしていく者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを捧げます。
 恵み深い天のお父様。与えられた人生を感謝します。1回しかない、繰り返すことのできない人生、誰でも100%死亡率であります。いつか死ななければなりません。「人間は一度(ひとたび)死ぬことと、死んだ後にさばきを受けることが定まっている」と言われます。
 神様、日本中の80%の人がクリスマスを祝うといいますが、イエス様抜きの、イエス様を崖から落とすようなクリスマスであります。どうぞイエス様に顔が向きますように。イエス様を信頼して、「このお方こそ救い主である」ということを信じ、そしてお従いすることができますように。主の戒めでしたら喜んで従います、という御言葉に対する従順、"聴従(ちょうじゅう)"、これをお与えくださいますように。私は主の僕(しもべ)
です。本当に光栄に思います。あなたのお言葉でしたら、みこころでしたら、御旨でしたら、喜んでお受けします。お従いさせていただきます。
 このクリスマスを通過することを通して、人格が変えられ、信仰が引き上げられ、そして上質の、アップグレードされたクリスチャンライフを送ることができますように。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りを捧げます。アーメン。

「ここに愛がある」大川従道師 2005年12月4日

 「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節〜12節・口語訳)

特別賛美:Eternity(エタニティ)

 素敵な素晴らしい賛美を、心から感謝致します。また、私の今日のメッセージの為にも素晴らしいものでした。主のお導きのゆえに、御名を誉め賛えたいと思います。今朝は初めてこの教会に来られた人がたくさんお見えでいらっしゃいますが、心からご歓迎申し上げます。少し大きな声で朝のご挨拶しましょう。皆様おはようございます。
 今日は月の最初の日曜日でありますから、誕生祝福のお祈りをします。初めての方も含めて、12月生まれの方、また洗礼記念日、霊の誕生日の方、結婚記念日の方も、ご起立下さいますか?ひとことお祈りをさせて下さい(私も12月25日に洗礼を受けたんですよ)。アーメン。1年守られた人もいらっしゃいますね。はい、お祈りします(たくさんいらっしゃいますね、2階席にも)。アーメン。

 恵み深い天のお父様、主の麗しい御名を誉め賛えます。もしイエス様を知りませんでしたら、いたずらに年を重ねるだけでしたけれど、今はそうではありませんで、こういうような記念日に「生かされているんだなあ、生かされてきたんだなあ。」ということを確認する時になりました。中には苦しい、光の見えないトンネルの中を通過しておられる方もいらっしゃいますけど、主がご一緒で、また先取りして感謝して御名を誉め賛えておるのであります。兄弟姉妹達に健康を授け、そしていつも"明るく、元気に、のびのびと"過すことができますように。またある時には、大胆に世の光としての輝きを、またある時は己を隠し地の塩としての味のある人生を送らせて下さい。愛が壊される時代に、心を尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する、この最も大切なことに挑戦できますように。お立ちになった方々に、どうぞ今月素晴らしいことを体験させてあげてください。主イエス・キリストのお名前で、祝福してお祈りを捧げます。アーメン。

 ♪God bless you Halleluyah(ゴッド・ブレス・ユー ハレルヤ) God bless you Halleluyah  God bless you Halleluyah  God bless you Halleluyah♪

 アーメン!Bless you(ブレス・ユー)!幸いですねえ。お立ちになった方々に、後でお声をかけてあげてくださいね。

 新聞の投書欄に、50歳の女性「もと私は銀行に勤めていて、窓口業務をしておりました。定期預金が満期になって、継続するので質問をしました。「お客様、端数(はすう)はどうしましょうか?」と言うべきところを「"はしたがね"(笑い)はどうしましょうか?」と言ってしまいまして(笑い)笑われました、と。

 私のような牧師でも、時々緊張して失敗してしまうことがあります。(滅多にございませんが)結婚式で失敗したことがあります。男性に向かって、「鈴木ヤスヒロ、汝(なんじ)この男子を娶(めと)りて…」って(笑い)。(今その方ちゃんと牧師をしていますから、大丈夫ですけれど)「もとへ!」と言ってやり直をしたわけです。

 ある結婚式の披露宴で、聖書のことをあまり良く知らない披露宴の司会者が、祝電を朗読致します。「ご結婚おめでとうございます。(ま、クリスチャンは時々そうするんでありますが、聖書の言葉で)第1ヨハネの4章18節。」という、これを朗読しました。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。(いい言葉でしょう?)」ところがこの人ですねえ、ホテルの聖書でも持って来たんだろうと思いますけれども、気を利かせて「ヨハネの福音書の4章の18節を読みまして、もうビックリ致しました。なんと書いてあるかというと、「あなたには5人の夫がいたが、今のは夫ではない。」という─同じ4章18節でも、こんなに違うのであります。だから聖書を知らないと恥をかくことが多いんでありますが、さあ皆さん、聖書をお勉強しましょう。

 聖書の「ヨハネの黙示録」が最後でしょう?その1つ前に、「ヨハネ第1の手紙」というのがありますよ。そこを開きましょう。380ページになります。福音書や黙示禄と同じヨハネさんでいらっしゃいますよ。エペソから晩年(80年代の後半、AD90年の初期に)小アジアのいろんな教会に宛てて書かれた、まあ回覧版のようにして用いられたであろうと言われるものでありますね。4章の7節から10節までお読みします。

 「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節〜10節・口語訳)

 今日の中心的なメッセージでありますが、7節をご一緒に朗読しましょう(今お読みしましたね)。7節、ご一緒しましょう、はい。

 「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章7節・口語訳)

 アーメン。パリサイ人が、イエス・キリストに質問しました。「イエス様、聖書の中で一番大切な戒めは、なんですか?」イエス様はお答えになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛することですよ。」─このお答えは、もうイエス様が仰ったんですから、正しいんですけれども、ちょっと抽象的で良く分からない。でもイエス様はちゃんと、第2に重要なことを「第1と同じレベルですよ、それは自分を愛するように隣人を愛すること。心を尽くして神を愛するっていうことは、自分を愛するように隣人を愛することと同じですよ。」ということを、イエス様は仰ったわけであります。
 イギリスの偉大な聖書学者、ウィリアム・バークレーという人物が、「『愛する』ということは、神が愛しておられる者達を愛することである。」ご注意いただきたいのは、「神"が"愛しておる」ということと「神"を"愛しておる」ということは、随分違うんであります。神"を"愛しておる者は、日本は人口1%でありますけれど、神"が"愛しておられるのは、すべての(本人は気づかないけど)人、それを愛するということが、神を愛している唯一の証である、というのであります。
 4章の8節に、先ほどお読み致しましたけれど、もう1度お読みしますと、「愛さない者は神を知らない。God is love(ゴッド・イズ・ラブ:神は愛である).」と、そう書かれています。「お互いに愛し合いましょう。」という言葉でありますが、まあ英語のリビングバイブルでは、こんな風に書いてあります。「Let us practice loving each other.」このpractice(プラクティス)というのは「練習しましょう、まあ、そうやってみましょう。試しに実践してみましょう、実行してみましょう。」というような言葉が含まれていることであると思います。4章の9節行きますよ、4章の9節。これもご一緒しましょう、4章9節、はい。

 「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章9節・口語訳)

 アーメン。クリスマスのことが、こんなところに出てまいります。「イエス・キリストがこの地上につかわされたのは…」という、2000年前に馬小屋で生まれてくださったイエス様を(勝手に生まれたのではなくて)父なる神様がこの地上につかわしなさったのは、その神様のご愛によって私達が生きる者になるためである。
 イエス・キリストを知ると、私達は生きる力が与えられます。キリストを通して私達は生きる、生きるようにして下さる、というのが1つの意味であります。他の聖書の訳文はほとんど名詞で訳されておりまして、「生きる」というのを「永遠の命をいただく為にイエス様がこの地上に派遣された」という、まあどちらにしてもそれは素晴らしいことであります。

 先週読んでおりました、この元玉川学園大学の教授がお書きになった書物ですが、ちょうど戦争直後(終戦後)小学校6年生であったそうであります。修道院に疎開(そかい)しておったそうでありますが、東京に戻ってまいりまして杉並に住み、どうも都心が心配であるから、当時省線(しょうせん)と言いました今のJRに乗り、御徒町(おかちまち)の駅で降りましたならば、そこは焼け野原で一軒も家がない(これが戦争、若い人達はわからないでしょうね)。もう、まったくもって焼け野原になりました。遠くに(浅草の方に)松屋のビルが見えた、という程度であります。彼はそこで降りてですね、松屋の方に歩いて行きますと、御徒町や上野や浅草の辺りはみんなそうですが、露天商が出て、まあお店を広げておったわけですが、その中に1人だけ男性がボツッとこう立っておりまして、こう看板をぶら下げておった。首から何かこうダンボール紙のようなものをぶら下げておった。なんと書いてあるかと言いますと(ビックリするなかれ)、「私を売ります。私はどのように扱われても問題ありません。生体実験でも、生体解剖でも構いません。」そして2千円、という風に書いてあった。
 もう唖然として、周りの人達は(今でしたら揶揄〔やゆ〕するでしょう、笑うでしょう、指差すでしょうが、その時代でありましたならば)、このお父さん、この人物は子供の為に、奥さんの為に、必死になって出稼ぎに来たんでありましょうか、買出しに来たんでしょうか、もう食べる物が無い。あとは奥の手、自分自身の命をかけて家族を愛するということ以外の何ものでもない。もしもこれをご家族の奥さんや子供達が知りましたら、どんなに感動するかというか、「自分のお父さんのその尊い命の犠牲を無駄にしてはいけない!」と誓ったでありましょう。「どんなことがあっても、生きるんだ」という風に考えたであろうと思います。
 同じようにイエス・キリストはこの地上に来られて、死んで下さいました。私達の身代わりになって下さいました。八つ裂きにされました。血だらけにされて、人間によってその命が取られてしまいました。それは私達の罪の身代わりになって死んでくださった─そのことを知りますと、私達クリスチャンはどういう生き方をするかというと、「この愛にいかに応えるか」という生き方が、自分の人生の生き方になります。4章の10節、これもご一緒に読みましょう。4章の10節、ご一緒しましょう、はい。

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章10節・口語訳)

 素晴らしいですねえ。順番がございますよ。あなたが神を愛したのではなくて、神がまず、まず神があなたを愛してくださった。それはちょうどヨハネの15章の16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。(私達が神様を選んだと思っていたら、そうではない。神様の方で)わたしがあなたがたを選んだのです(順番を間違えないように)。」私達は神を今愛しておりますが、神様がまず私達を愛してくださった。11節も行きましょう。11節もご一緒に読みましょう、はい。

 「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」(新約聖書・ヨハネの第1の手紙4章11節・口語訳)

 アーメン。愛し合うことの"根拠"というものが(互いに愛し合うということが、戒め、命令として書かれておりますけれども、その根拠は)、「神がまず私達を愛してくださったからです。」と。お気づきいただいた人がいらっしゃると思いますが、11節の「互に愛し合うべき」という言葉でありますが、先ほどの7節でも、「私達は互に愛し合おうではないか。」という言葉を用いました。下の段に行きますと、19節から「わたしたちが愛し合うのは」、またこのところに同じような言葉(これで3回目でありますが)、「神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」20節、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、(新改訳聖書では「この命令は」)わたしたちは神様から授かっているのである、という。「互いに愛し合うということは神の命令なんですって」ということを忘れてはいけないと、そう思いますね。

 今日は受洗者がたくさんいらっしゃるんですが、もう既に第2礼拝で洗礼式がなされました。私にとっては、もう洗礼式が1番大きな喜びであります。昨日の夜にいただいた手紙なんですが、私今朝読んで、本当に興奮しました。中学生ですよ。お手紙を下さいました(よく勉強したのねえ)。

 「私は一生懸命勉強しました。放課後、5時から9時まで塾に行って、10時まで自習室で勉強しておりました(私、まったく勉強しなかったから、もうこういう人、本当に尊敬します)。友達と遊ぶ時間がまったくありませんでした。成績はどんどん上がりました。第1志望校に合格することができました。受験が終わって、やっと友達と遊べる時間が生まれるようになってから、疑問を持ちました(皆さん、これ中学生の疑問ですけど、大人も持たなければならない疑問であります)。私は人々から『成績がいいわねえ、天才だわねえ。』とかいろいろ誉められる、また親もそれを喜んでくれますが、もし私から学力を取ったら、私はどういう存在、何が残るんだろうか。」(中学生の手紙より)

 これは大人の人達にとりましては、仕事を取ったら何になるんだろうか。定年退職後、みんな悩んでおりますでしょう。私からスポーツを取ったら、私から健康を取ったら、私から若さを取ったら、私から美しさを取ったら…私はいったい、何が残るんだろうか?という。
 えー、私の非常に親しい者で、高校1年生(聖学院高校の1年生の時に)、クラスで1番成績の良い"藤井君"というのがおりました。藤井君はものすごい美男子でした。もう、すごい美男子でした。成績は、クラスだけではない、学校中で1番でした。もう学校の代表はいつも彼でした。彼はある時に、自殺をしました。原因は、まったくわからない。成績が悪くて叱られて…そんなこと、全然考えなかった。私はこのお嬢さんの文章を読んで、ああ、藤井君はもしかすると「私は学力がある、人々から誉められる。だけど、学力を失ったら、この美しさを失ったら、私にこの持っている物を失ったら、私はみんなから注目されるんだろうか?いったい何の為に生きるんだろうか?」─悩んだんじゃないかなと、今思うのであります。

 「私は毎週教会に行くようになりました(お友達を通して)。行くのが楽しみで仕方ありませんでした。夏休みの頃になると、十字架でのイエス様の愛の大きさがわかり、疑問に思っていたことも毎日聖書を読んで、『もし私から学力を取ったとしても、神様は私をお見捨てにはならない』とわかったので、とても嬉しかった。これはもう大発見、人生にとって一番大きな発見ですねえ。どんな私でも愛してくれる神様、そしてイエス様を信じた。"信じたい"という思いをいただいたんですけども、親が『洗礼を受けたい』と言いましたら、『もっと先の方がいい。』と許可をしてくれませんでしたから、もう本当にショックでした。でも、神様は1番良い時に1番良いことをしてくださる神様だから、信頼して祈り求めて行こうと思いました。この1年と約5ヶ月祈り続けた結果、今日洗礼を受けることができるようになりました。私の為に祈ってくれた方々と、イエス様に感謝します。」(中学生の手紙より)

 この人は忍耐して祈るテストに合格したんだと思いますねえ。本当に喜びであります。

 もう1人洗礼をお受けになる方の証をお読みします(必ず読み上げるわけじゃないですから、どうぞご心配なさらないようにね)。40代の男性です。

 「私は妻と結婚することをきっかけに、大和カルバリーチャペル(この教会)に来るようになりました。1年以上が経ちます。いつも先生をはじめ教会の皆様に心あたたかく迎えていただき、教えに触れて、なかなか洗礼を受けずにいたのは、決心がつくのに優柔不断だったためで、恥ずかしい限りです。
 神様の前で結婚の誓いを立ててから、毎日が楽しく、恵まれた毎日を送っています。それまでの生活とはずいぶん変わってしまいました。私はそれまでは、食事のときに祈りを捧げたり、親の誕生日を祝ったりすることはありませんでした。今では妻に先導されながら感謝と祈りを捧げて、食事をとり、眠り、何かの出来事のたびに神様を意識して暮らしています。1日、1日の重さを感じられるようになりました。
 それまでの私というのは、自分では、ああなりたい、こうなりたい、人から賞賛されるようなことを成し遂げたい、高校の頃から芝居が好きだったので、演劇の世界で名を挙げたいという夢を持ちながらも、怠けながらその日、その日を送っていました。私は何者にも囚(とら)われない人間でありたいと、自分の立場を定めないでおくことが自由に生きることだと思い込んでいました。信仰を持つということは1つの考えに縛られることだと思ってたからです。自分の考え方、物事のとらえ方がこそが1番で、他人を自分より低くみなしていました。
 ですが、同時に劣等感も持っていました。自分だけが周りから取り残されてしまう不安や、老いて死ぬ時は1人ぼっちになってしまうのではという考えにおののいて、夜も眠れなくなることが度々ありました(正常ですよね)。病気にかかったら自分で医者に行くなどして治すしかない。お金がなければ働くしかない。そうして苦労したことは、自分自身しか理解できない。ということは、私の一生は、結局私の為でしかないのか。もしそうなら自分が生きていることは何の意味があるのだろう、と悩みました。つまり私は今現在も一人ぼっちなのだ、というわけでした。それが確かめられるのが怖くて、人との交わりも浅く。風が吹いたらどこかに飛んで行ってしまうような状態でした。
 こんな私でも、演劇活動を通じて、今の妻と知り合い、結婚することができました。彼女に勧められて、教会の入門講座に通い、「人が神の為に生きなくなることを『罪』という」と教わりました。神を1つの身体にたとえれば、人はそれぞれ手であり足であり、手が身体に逆らって勝手なことをし始めたら、それは良くないことだ、という考え方は、私にはひっくり返るような発想の転換で、とても新鮮でした。
 私は自分ではあまり悪いことをせずに生きてきたと思っていましたが、考えてみれば、高慢で、嘘をついて逃れ事をしたり、困っている人を助けずにいたり、怠惰や快楽にふけったりしています。自分ではわかっていたことですが、自己嫌悪に陥るくらい、自分の中にすべてを納めてきました。また、そんな自分をゆるしてきました。
 2000年も前にイエス・キリストが、現在生きている私達のためにも罪を被(おお)ってくださった、ということは、私のことを知ってくれて、この人生を見守ってくれているということか?そう思うと、自分の中の不安が軽くなっていくのを感じました。私は自分が罪人であると思うと同時に、なんと恵まれた生活を送っているのか、と思えるようになりました。(コリント人への手紙、聖書の言葉)「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」という言葉が、私への戒めのように聞こえました。
 いつも妻が私を愛してくれて、祈っていてくれるということはとても嬉しく幸せです。これから生まれてくる子供と一緒に、どう家庭を築くか、2人とも真剣です。経済的に決して裕福ではありませんが、毎日、糧を与えられ仕事をすることもできます。これらは皆、神様がお恵み下さったことなのでしょう。神様のご計画のうちにあることなのです。その恵みに対して、何もお返ししないのは良くないと思います。
 私は神様を信じ、イエス様を救い主として信じ、従うことを決心しました。洗礼を受けることを決心します。よろしくお願いします。」(40代男性の手紙より)

 まあ、40代で人生のすべてがわかっているという風には思いませんけれど、真剣に人生を生きてきた者が1つの決断をするということは、素晴らしいことだと思います。私が感動する1つは、この若い夫婦が、結婚生活の中で工夫して努力している。愛を継続させるということは、非常に難しいことであります。互いに愛し合うということは、とても難しいことであります。この人達は、毎日祈り合うということをして、麗しいと思いません?ある人は手をつないで必ず祈ると言います。夜休むときに榎本先生の『1日1章』を読む、スポルジョンの『朝ごとに』または『夕ごとに』、『荒野の泉』を用いる人もいます。「あなたは愛されるために生まれた」という歌を歌うという人もおります。
 私は1日1回、「possibility thinking(ポシビリティ・シンキング)スローガン」というロバート・シューラーの新しい、これをめくっては見る習慣を持っております。なんでも自分の魂の為に、「お互いが愛し合う」という最も大切なそのことの為に努力するということは、とても重要なことであると、そう思います。

 皆さん、テレビの「熟年離婚」というのをご覧になったことがあるでしょうか?(笑い)たいへんヒットしているそうですねえ。報道ステーションで、渡哲也さんが登場して、その内容を語っておられました。大相撲の朝潮龍が優勝する、あの最後でも6.9%の視聴率なのに、この「熟年離婚」というのは20%の視聴率ということであります。中年の女性が注目しているということでありますが、内容は、定年退職の日に奥さんからバッサリ、「私はあなたと離婚!」宣言して、長い間のツケがまわってきたという、ね。「蒔(ま)いたものを刈り取ることになる。」まあ、渡哲也さんも僕も照れくさくって、「ありがとう」ってなかなか言えないんですよ(「ありがとう」が言えない人はねえ、なんかこうガラスのコップにアリでも10コ入れてねえ、そして「アリガトウ、アリガトウ」ってやってもいいんだと思うんですけど)。ある人は、それにしても残酷、かわいそうという。しかし、中には冷たい女もいて、「当たり前よ、自業自得よ。」というのもおります。
 まあ私はそういう話を聞いていると、「私も失格だなあ。」と思います。テレビのコマーシャルで「男の人って、ダメね。」っていうのがありますが、あれを見るたびに「…はい。」って(笑い)。私の友人は、「家には牧師はいるけれど、お父さんはいない。」ってねえ、子供から言われてショックであったというね。仕事人間は、そんなことでありましょうかね。

 私はこの11月6日にイエス・キリストを信じて50年、金婚式を、ね。クリスチャンは、イエス・キリストが花婿、私達は花嫁。50年もちましたよ。50年間、1度も離婚話は出ませんでした。追い出されるとか見離されるとか、不安、恐れは1度もありませんでした。喧嘩をしたこともありません、争いをしたこともありません。どうして見捨てられなかったかと言いますと、(私が立派だからではなくて)主の愛があまりにも素晴らしかったからであります。

 熟年離婚というのもありますが、成田離婚というのもありまして、結婚して飛行機で新婚旅行に行こうとして、行く前にもう離婚したというのもおります。洗礼式がピークで、信仰生活、だんだん下がって右肩下がりという。数年はもったけれど、すぐ自我まるだし、相手のことを考えない、自己中心、聖霊様を悲しませ、人も天使もつまずかせ、あきれかえさせられるような存在。「これでもキリストの花嫁か…」イエス様に、ペテロという代表者が質問しました。「イエス様、人が罪を犯したら、何回ゆるしてあげたらいいですか?」─"ホトケの顔も3度"って言いますから、7回ぐらいだったら誉められると思って、「7回ですか?」という風に申し上げると、イエス様が「7回ではない、7回の70倍。」─「70倍もゆるしなさい」ってことは、それは「無限にゆるすんですよ」ということを、イエス様が仰ってくださったわけです。
 「愛はがまん、愛は忍耐、寛容。」第1コリント13章、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」これが愛の本質である。私達はそんなことできそうもありませんが、イエス様がそうしてくださるということが、感動であります。
 ご存知でいらっしゃいますか?イエス・キリストは十字架にかかられて、最期の、最期の、最期の言葉、「父よ、彼らをゆるしてやってください。権威あるお父様、彼らにゆるしを与えてください。」と、人間の為に祈ってくれました。「彼らは何をやっているか、わからずにいるからです。」という、ね。あれは、もしイエス様が途中でお止めになって、「天のお父様、彼らをゆるさないでください、お願いします。彼らはもうどうしようもない罪人ですから、ゆるさないでください。」と言ったら、人類はどうなっているでしょうかねえ。キリスト教の中心は、"ゆるし"のメッセージであります。

 エルビス・プレスリーの「夕べの祈り」の中に、「あなたに打ちあけた罪(神様に打ちあけた罪)と、あなたにも隠した秘密の罪とを、どうかゆるして下さい。」神様に隠したって、親に隠しても、まあ友達に隠しても、夫婦隠し合ってもバレないこともあるかもしれませんけれど、神様に隠して、どこが…もうバレバレでございましょう。
 曽野綾子さんは、「この言葉の意味は、自分が気づかない時、相手を(神様を)傷つけてきた罪のことでしょう。いずれにせよ、「神様、私の告白した罪をゆるしてください。隠しちゃった罪も、どうぞゆるして下さい。」という(この辺から重要でありますから、よく聞いてください。テレビを観ておられる人達も)。

 キリスト教の結婚観の中に、「エペソ人への手紙」の5章に、こういうお言葉がありますねえ。「夫たる者よ、自分の体のように、妻を愛しなさい。」というね(結婚式で読まれるところですねえ。エペソ書の5章でありますが)、そして「妻たる者よ、夫に従いなさい。敬いなさい。」というね。その最期のところ、読んでみますよ。5章の31節。

 「『それゆえに、人は父(と)母(と)を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。』この奥義(ミステリー)は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。」(新約聖書・エペソ人への手紙5章31節〜33節・口語訳)

 恵泉女学院の大学に、大塚という教授がおられました。(私は時々ここでご披露しますが)お年を召されたので名誉教授になっていらっしゃいますが、その方の『老いについて』という文章の中に、ジョン・バニエが紹介されております(これはカトリック教会の方で、私の尊敬する主の器であります)。大塚教授はこう言いました。「『ほんとうの人間とは、このような人』と思えます。ほんとうの人間とは、自分を空しくして、他人を愛する人であります。自己中心性とは無縁の人です。ほんとうの文化人であり、第1級の国際人で、ノーベル賞に値する平和主義者です。」
 で、この人がね、こう言うんですよ、ジョン・バニエがね、「2人の人間の心が深く交わるということの素晴らしい神秘を1度も経験しないまま、人生を過ごしてしまう人がおられる。それらの方々の人間関係は、片方が片方をうちのめす(支配してしまう)か、あるいは無視するかというレベルの関係である。」ということを述べております。ポール・トゥルニエもヘンリー・ナウエンも、心の奥底で人間が交わりを持つことの必要を説いてまいりました。現代における人間回復は、そこにあると思います(もう少し聞いてください)。

 「それゆえに、人間は父と母とを離れて、ふたりの者が一体となるべきである。」という意味は、まず第1に、(結婚式で言われるように)これは心と体が1つになる(一体になる)という結婚生活(夫婦生活)をまず第1に表します。
 
 第2は、もっと深い。なぜ?奥義と書かれているから。結婚生活が素晴らしくても、途中で愛する者が死ぬことがありますが、じゃあその"一体となる"という交わりは、切れちまうか─ジョン・バニエは、独身でしょう、彼は。カトリックの人でいらっしゃいますでしょう。神父様達はそうでしょう、経験したことがない世界でしょう。けれど、「2つの人格が深いところで交わる」という、この神秘を1度も経験しないで、夫婦の間がどんなに交わりが深いように見えても、現実、深い交わりをすることのないまま過ごしちゃった人、途中で死んじゃった、亡くなっちゃったらもうおしまいかというと、人間の存在は永遠でありますから、肉体がこの地上から離れたと致しましても、永遠に交わることができる。
 じゃあ、若い子供達はこの深い奥義や神秘を体験することができないのか?また、結婚なさらなかった、独身主義で過ごしなさった人達は、この深い世界がわからないまま過ごしてしまう─そんなことはない。人と人との交わり、親子の関係、兄弟の関係、お友達との関係、人格と人格との交わり、その深いところにおける交わりがまことに神秘であって、その経験というものを損なうような人生を過ごしてはいけない。
 どうしたら神様との交わり、人との交わりをすることができるか。親子との交わりを継続、夫婦との交わりを継続することができるか。そこには、100%、100%"ゆるしの世界"があり、100%、100%"相手を受け入れる"ということがあって、弱さや欠けを補って余りあるキリストの愛がある時に、その深い神秘の世界、人間しか味わうことのできない世界を体験することができるであろう。
 「ローマ人への手紙」の8章の中で「勝ち得て余りあり」ということでありますが、その38節にこう書かれています。

 「わたし(偉大なパウロ)は確信する。死も生も、天使も支配者も(死んだとしても)、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(新約聖書・ローマ人への手紙8章38節〜39節・口語訳)

 リビング・バイブルでは、「地獄の全勢力を結集しても、神様の愛から遠ざけることはできません。」という。

 今日私達はこの教会に、たくさんの方が鎌倉からお見えになっておられて、礼拝に来てくださったのであります。1年前(12月7日)に松井薫さんという、若くて美しい女性が天に召されていきました。カトリックの方ですから、我々は"召天(しょうてん:天に召される)"と言いますが、カトリックの方は"帰天(きてん:天に帰る)"と言います(いずれにせよ、素晴らしい言葉であります)。お母様がお手紙をくれました。小・中・高と成績抜群、トップで卒業された。お友達も手紙を下さいました。ほんとうに優等生でした。大学に行って、そして結婚されました。ご主人(お医者様でいらっしゃいますが)、3人のお子さんが残されました。お友達も、この1年間はどんなにおつらいことであったであろうかと思います。
 「昨年の12月の7日にみんなに親しまれながら、帰天(召天)致しました。常に心のやさしい、気配りのきく、みなに慕われた存在でありました。人の悪口は一切なく、心豊かでした。(こういう方が天に召されていきました。残念でたまらないと思いますが、お母様)私はそれから数日後、車の中で不思議な想いを致しました。突然、まばゆい程の美しい光が、強く車中いっぱいにさし込み、びっくり呆然としました。きっと亡き娘からの『ママ、ここよ』とのメッセージとありがたく、そのやさしさに感泣しております。」 

 3つのことを申し上げます。
 1つは、松井薫さんという、若くして亡くなられたこのお方、イエス様に愛されて、天に召されていきました。このお方は、「薬のいらない、手術のいらない、痛みのない天国で、安らかである、平安である」ということをどうぞ知っていただきたい、理解していただきたいということが、第1であります。「死の壁を超えるもの」は、ここにあります。クリスマスのメッセージであります。

 2番目。誰でも天国に行けるのではありません。どうぞ、主イエス・キリストを罪からの救い主として、人生の主として心の中心にお迎えし、できる限り早く洗礼をお受けになって、やがて私達の天国において、この愛する者とお会いすることのできる準備をして欲しい。

 第3番目。本日のメッセージにありましたように、天と地とに離れたと致しましても、交わりの神秘を体験なさってください。交わりの神秘、神秘主義というのは、非常に危険な姿勢でありますから、バイブル(聖書)を通して、バランスの取れた神秘の交わりの世界、神との交わり、人との交わりを是非なさって欲しいと、そう願ってやみません。

 お話をお終いにしたい。私、2人孫がいまして、今日は下の方の孫を、さきほど私が抱っこしたばかりでございます。楽しい時でありますが、先週は愛知県の瀬戸から、長男の方の娘(初孫の方)が見えました。しばらく過ごして、新幹線で帰ります。忙しいので、長津田まで送りました。長津田でお別れする時に、ちょっと抱っこして、お祈りして、そして父親に渡そうとしましたら、心愛(ここあ)ちゃんが、「グランパから離れたくない!」と言って、ぎゃあぎゃあ、オーオー、泣いたのでございますよ!(笑い)1歳2ヶ月で、もう牧会的な配慮をしているかと思うと…(笑い)今も泣いているかっていうと、そうではありません、ケロッとしていると思いますよ、ねえ。

 私達は日曜日、神様を礼拝して交わって、そして「バイバイ」ですか?寂しい話でありますねえ。私達は、いつも主との不思議な神秘の交わりを継続するのであります。互いに愛し合う、神様をまず愛し合う、神様を心から愛するということ。自分を愛するということ。自分を愛するように隣人を愛すること。互いに愛し合いなさい。イエス様に顔を向けたら、それができますよ。これが、私があなたがたに残していく戒めです。心をつくして、精神を(思いを)つくし、すべてをつくして心から神を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、この地上にイエス様が来てくださった目的を「互いに愛し合う、生きる為である」というこの世界を知って、歩んでいきたいと思います。イエス様を信じ、心から愛する者は、大きな声でアーメンと言いましょう。アーメン。

 お祈りを致します。恵み深い天のお父様、主の麗しい御名を崇めます。あなたが近づいてくださったから、私達はイエス様を信じるようになりました。イエス様を信じることを通して、私達は永遠の交わり(この地上では、ほんとうにこの不思議な交わりを経験しないまま過ごしてしまうことがたくさんあります)、イエス様の愛を知るために100%、7度を70倍、無限大に人をゆるす、愛す、受けいれるということ無しに、この交わりの神秘を体験することはできないでありましょう。
 どうぞ神様、イエス様のみこころを心として人生を過ごせるように、助け導いて下さい。深い世界を理解できるように、聖霊様、私達に油注いでください。主イエス様のお名前によってお祈りを捧げます。アーメン。

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