私は2001年7月22日にU.S.A. Oregon州PortlandにあるJapanese Grace Bible Church(以下JGBC)にて受洗しました。私は幼稚園から大学まで、すべてキリスト教(含カトリック・プロテスタント)の学校に行っていました。ほとんど毎日のように賛美歌を歌い、聖書を読む機会も与えられていたにもかかわらず、私はクリスチャンになろうという気持ちは微塵も持っていませんでした。聖書は魔法使いか何かの物語のようなものだと感じていました。だから、昨年3月からPortlandに研修のために滞在していた私に、友だちがJGBCを教えてくれたときも、「私は、正直、宗教というのは弱い人たちの心の拠り所という偏見を持っているよ。」と話していました。それでも、キリスト教というものがなぜこれほど歴史が長く、クリスチャン人口が世界的に多いのはなぜだろう、という興味はありました。それを知りたいのと、週1回の日本語環境を求めるためとで、4月から毎週JGBCに通うようになりました。
宗教に対して偏見を持っていたとはいえ、アメリカに行く前までの私は、まさに「求道者」でした。どんなに優秀な成績を修めても、どんなに友だちがたくさんいても、恋人がいても、良い評価を得ても、私の心はいつも空しく、焦燥感にかられていました。これだけ恵まれているのに、私はなぜ満ち足りることがないのだろう、と自分を責めることもしばしばありました。東京の流れるような人混みの中で、「この中から私が一人消えても、世界は変わらないんだ」…と、宇宙空間に投げ込まれたような孤独感を感じ、自信喪失に陥ることもありました。私は、絶対的で永久不変なるものを求めていました。そんな私がJGBCに通うようになったというのは偶然ではなく、神のご計画だったのでしょう。
5月、イースターの日に朗読劇に参加しました。そこで私に「“罪”とはなんだろう?」という疑問がわいてきました。「イエス様が私たちの罪のために死んでくださったということはどういうことなのだろう?」…ちょうどその頃、日本にいた恋人との関係がギクシャクし始めました。自分が慣れない環境にいることと、相手が見えないという状況の中で、ストレスがたまる一方でした。どうにかして彼をつなぎとめたい、と焦っていました。
そんなある日、説教の中で牧師さんが「神になりかわることが、罪である」とおっしゃったのです。その言葉に、私は大変な衝撃を受けました。雷に打たれたようなショックでもあり、神に初めて語りかけられた驚きでもありました。…「そうか、私は今まで神になりかわろうとしていたのだ。だから苦しいのだ。」…その日から、牧師さんや姉妹にイエス・キリストのあがないとは何か、神の愛とは何か、と一生懸命話を求めるようになりました。そして6月中旬に受洗の決意をし、7月22日に受洗しました。結果的に恋人を失うことになりましたが、そのかわりに私は永遠の命を得ることができたのです。感謝します。私の証はここで終わりません。神は生きておられ、常に働きかけてくださいます。
アメリカにいた後半期、私はうつ病にかかってしまいました。クリスチャンになったのになぜ気持ちがこれほど落ち込んでしまうの?どうして体が動かないの?何がいけないの?毎日布団の中で悶々としながら苦しみました。そうするうちに、私の心は神から離れていきました。次第に、どうやって死ぬか、どこで死ぬか、そんな考えばかりが私の心を占めるようになりました。そしてある朝、これ以上苦しむのはイヤだと思った私は、フラッと入ったガレージの中で見つけた一本のひもで、首を吊りました。痛い、苦しい、もうすぐ死ねる…。そのうち私は、気絶していたようです。突然気がついた時には無我夢中でひもを首から取り外して、部屋を飛び出し、バスルームにいました。口の中は血だらけでした。首にはくっきりとひものあとが残っていました。今思うと、あのとき、私は神に起こされたのだと思います。自分を殺そうとした私の大きな罪を、神は赦されました。首の傷跡もすっかりなくなりました。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(第2コリント5章17節)
そのあとはJGBCの牧師夫妻の家でしばらく一緒に暮らさせていただいたあと、予定より早く日本に帰ってきました。11月に一度、ある方の紹介で大和カルバリーチャペルに行きましたが、その頃の私にとって、御言葉も何もかもがその場しのぎのなぐさめにしか思えず、誰の言葉も受け入れずにいました。日曜日も教会に行かないまま日は過ぎていきました。そんな私に、JGBCの兄弟姉妹や、クリスチャンでない友だちからも、便りがたくさん届きました。特にJGBCの人たちは御言葉をいちいち教えてきました。そして日曜日に教会に行かないことに対して罪悪感が出てきた1月のある日曜日、「もう一度、教会に行ってみよう」という気持ちになって教会に行きました。その時の説教は、「マイナスは必ずプラスになる」というものでした。そしてある御言葉をその時に思い出しました。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
ローマ人への手紙8章28節
このとき、神が私に触れてくださったのだと思います。イエス様がずっと私と一緒に歩いて下さっていたのだ、すべてのことは益となるのだ、と、素直に耳を傾けることができました。平安を感じることができました。その日から毎週、教会に通うようになりました。
この後にも何度か神から離れそうになりましたが、その度に、私の側にイエス・キリストがうざいぐらい近くにいることを思い知らされました。もはや、私は信仰なしには生きていけないとの思いが強くなるばかりです。
この大和カルバリーチャペルでは素晴らしい信仰の友がたくさん与えられました。そしていつも励まされています。いつも覚えてお祈りして下さるみなさんに感謝します。私の信仰生活を応援してくれている家族に感謝します。まだ導かれていない家族の一人一人が導かれるよう、お祈り下さい。また、名古屋に住むおじいちゃんがガンであることが最近判明しました。どうかおじいちゃんと親戚のみんなが、神の愛に触れることができるよう、お祈り下さい。最後に、私も、私自身が証となれるよう、これからの霊的な成長をお祈り下さい。
感謝してお祈りいたします。ありがとうございました。
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