ところが、主が言われた。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
コリント人への第2の手紙 12章19・20節
「…わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。」
使徒行伝 4章20節
家族がクリスチャンという環境に育ち、幼い頃から教会に通っていた。10歳で洗礼を受けた。「クリスマスは何の日か知っていますか?」とか「イエスキリストが十字架についた理由を知っていますか?」という問いに答えるのはすでに小学生の頃から造作もないことだった。 しかし、「あなたは、イエスキリストと個人的な関係をもっていますか?」という問いに、「イエス」と答えられるようになったその時、オレの人生に初めて聖書のメッセージが届き、全てが、変わった。
自分の幼年期の体験はあまり深く覚えていない。断片的にいくつかの記憶だけが残っている。耳に焼き付いているのは、深夜、母が枕元で歌ってくれた「イエス様がいちばん」という子供用の賛美歌。 子供の頃、もっとも恐れていたのは父親。→(注)父と目が合う度に何か怒られるのではないかとおびえ、飛んでくる罵声と平手打ちと、蹴りと、締め上げ……、にただ泣き声をあげる毎日。そのストレスは、様々なところで現れる。
夜中になると(寝たまま)あちこちを歩き回り、わけもなくうなされ、泣き声を上げる。そんなことが、ほんの小さな時だけではなく、7歳か8歳になる頃まで続いていた。母はそんな自分を見つけ出し、賛美歌を歌って、眠りにつかせてくれた。
幼稚園に行くと、気に入らない子をかたっぱしから殴って言うことを聞かせ、ガキ大将のようになってふんぞりかえる。当時は同い年の子の中で体が一番大きかったこともあり、何をするにもわがもの顔のやりたい放題だった。そしてそのわがままに、やがて自分自身が追い込まれていく。
小学校3年生で、長崎に引っ越した時、慣れない土地柄であったこともあり、「都会から来た生意気なやつ」ということで、イジメにあった。「お前の泣いた顔を見たことがない」という理由で腹を殴られ、「不潔だから近寄るな」と言って誰からも相手にされない時もあった。中学校に上がるまでに、どうしたら相手のご機嫌を取れるか、ということを徹底的に考えるようになる。同時に、秀でた能力を持っていれば、誰からもバカにされないということを学んだ。学力を自分の武器にした。良い成績を取って、それを偉ぶるそぶりさえ見せなければ、たいてい誰からも認められることが分かった。懸命に勉強し、有名な私立高校に進学。そのなかで更に上位で在り続けようとするのはひどいプレッシャーだった。勉強するのは元々好きだったけれど、テスト前には、何度も逃げ出したくてたまらず、テストが出来ない夢を何度も見た。成績は順調だった。
中学に入って以来、一度もイジメを受けたことはなかった。しかし、自分の緊張と不安は、いつまでも拭えることはなかった。「強くなければ認められない」周囲の目をいつも気にし、それをむしろ避けるように行動しつづけた。集団の中には入らず、一人で気ままにいることを選ぶ。「信頼できる誰かがほしい」と叫びながら、自分からは誰も信頼せず、誰にも近づこうとはしない。恋もした。お互いに「期待」という名の無数の傷をつけた。いつも人と自分を比較しては苦しんでいた。全てに懐疑的で暗い自分がいやだった。人生の意味を、多くの若者のご多分にもれず、考えた。でも結局、考えるのをやめた。答えのない問いにふけり込み、哲学者を気取る真似をするのもゴメンだった。
高校時代は陸上部で長距離を走った。大会に出て入賞したり、いい記録を出したりするのも楽しかったけれど、一番好きなのは、朝夕のジョギングだった。人のそれほどいない、静かな場所を淡々と走るのが好きだった。過ぎ去っていく風景を眺めながら、いつも自分で自分を励ました。「今目の前にある、できることを、全力でやるしかないんだ。だから、がんばれ。」
初めて大和カルバリーチャペルに来たのは、高校3年の秋、陸上部を引退する前後の頃。初めて聞いた大川先生のメッセージに、本気で、涙が出た。大和教会の人たちは、学生会の人も含めて、強くても弱くても受け入れてくれる優しさがあるのを感じた。けれども、自分の中にある孤独感、人の目を気にする心の壁は、まだそこにそびえ立っていた。ただ、学生ワーシップや水曜夜の祈祷会で賛美したり、祈っている時、何か大きな喜びの中に包まれたような安堵感と、感動を覚えた。その感動が忘れられなくて、次第に足しげく教会に通うようになった。
そして、2001年8月15日。学生会キャンプの日。この日の夜に起こったことは、一生忘れられない。 小崎先生と倉知先生が一緒に祈って下さった。 初めて聖霊様に触れられる体験をした。自分の中の、何かが変わってしまった。いや正確には、自分の中に、自分と共にいてくださる方がいるのを発見した。そしてその時初めて、イエス様を自分自身の「主」として受け入れることが出来た。イエス様が自分のために十字架につき、死んで、よみがえってくださったこと、そしてそれによって今の自分があること。 それまで「信じる」と口では言いながらどこか半信半疑で、不安定だった自分の思いに大きな楔がかかり、はっきりと固定された。神様は、いる。それもどこか遠くではなく、私たちのすぐ側にいてくださる方。それが、自然に理解できるようになった。 全てが、自分にとって、理屈から真実へと変わった。その経験は、決して一過性のものではなかった。次の日から、イエス様が、いつも自分とともにいてくださることを感じることが出来た。その愛によって、自分が変えられていく。
完全な愛は恐れをとり除く。(ヨハネ第1の手紙4章18節)
オレもキリストの愛によって、心の壁が、破られた。ありのままの自分を愛してくださる方の懐に戻り、平安を得る。どんな困難や、不安なことがあっても、帰る場所がある。キリストは2000年前の歴史上の人物ではなく、今、この時、オレとともにいて下さる方。 人の目を恐れ続けていた自分は過去のものになり、新たな自分が姿を見せ始める。
あれから1年余。楽しいことや辛いことがたくさんあった。でもキリストは真実な方で、『全てのマイナスをプラスに』変えてくださった。オレ自身は以前と変わらない、弱い存在。でも、全てが違う。この方の御心をより知り、この方と共に、この方のために、生きていきたい。.......Because
I just love Jesus. この方の愛に出会い、その愛の中で生きていく内に、自分自身の中にも大きな可能性が眠っていることに気づき始める。神様が、より大きなビジョンを与えてくださる。そのことを期待して、楽しみでたまらない。
ハレルヤ!! こんな長い証を最後まで読んでくださった皆さんに、神様の豊かな祝福がありますように、そしてまだイエス様の愛を自分の身近に感じられていない人がいたならば、イエス様の本物の愛に出会う奇蹟を体験出来るように、心からお祈りします。
好きな賛美歌、アメイジング・グレイス。
(注)父は現在とても優しい人なので、今の父しか知らない人は、昔の話をしても誰も信じません。
(笑)
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