私は母親がクリスチャンで生まれたときから母に連れられて教会に通い、幼稚園も教会付属で大変恵まれた子供時代を過ごしました。
しかし、中学生になった頃から、たまに教会に行くという生活になり、やがて全く教会との繋がりが無くなりました。その時から人生が狂ってきました。
洗礼を受ける前の私は、まさしく自己実現一直線で、自分の将来を期待し、見果てぬ夢を描く、そういう人生でした。興味を持ったもの、没頭できることを追及し続けていました。もちろん勉強も頑張り、自分でやれる限りの事は全てやりました。が、何一つ実らず、ついに数年前あることを思い立ちました。それは、日本を出て外国に行けば、何かが変わるかもしれないと思い、芸術の都パリに留学しました。そこでは、華々しい芸術と文化、日本人とは異なる感覚や表現を持った外国人との交流等、確かに吸収することは大いにあり、私hの好奇心は刺激されて視野は広がり、教養面での満足感は得ることができました。それ今でもすばらしい経験だと思います。しかしながら、異国の地でたった一人で自分と向き合った時、それまでの外からの刺激や満足では満たされない、どうしようもない孤独と不安が自分の中にあるということに気がつきました。それは、たとえ日本から離れようととも、地の果てに行こうとも逃れられないという絶望感でした。 というより、パリ滞在中にそれまでごまかし続けた問題がごまかしきれない所まで来たのでした。人生の目的は何か、生と死、等が一気に押し寄せ、その拭いきれない極度の不安の中で始めて聖書を本気で開きました。その時から私は神様を求め始めました。パリに1年滞在した後、帰国してから更に逆カルチャーショックという、留学から帰ってきてから日本の社会に対応できなくなるという現象があるのですが、私ももれなく日本に違和感を覚え、また、一方では死の恐怖に怯えながらもこのままでは生きていけない、死ぬしかない、今日死ぬか、明日死ぬかの瀬戸際に立たされました。
その苦しみの極限までいったとき、神様が私にじかに「恐れるな。私はあなたとともにいる」と触れてくださいました。言いようのない平安に包まれて、イエス様が私たちの身代わりに十字架に掛かって下さったことが実感としてわかりました。そしてイエス様が命懸けで私を愛して下さり、復活されて今日も私を強めてくださっている事もです。
それらが洗礼を受けるに至った道のりです。死ぬしかないと思っていた孤独で絶望的な人生から救われたことが、本当に感謝です。そして現在、念願というべき美術の学びを許されたことは救われるまでの私の中では諦めていた事だったので主の憐れみにより美術を学ばせていただける幸いをかみしめてる次第です。
また何よりも、大和カルバリーチャペルに導かれて礼拝に出席させて頂ける幸いと学生会に所属させていただいているときは本当に私にとって奇跡であり、喜びであり、感謝です。
大変長くなってしまいましたが、最後に小崎先生をはじめ学生の皆さんに祈っていただいていること、また今回証しさせて頂けたことに感謝します。
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