私の左腕には暗闇を歩いていた時の名残があります。何か網のような模様が、うっすらと傷痕としてあります。これは不注意や偶発的な事故で出来たものではありません。これらは私が、自分で切り刻んだ傷です。私は自虐的に生きる癖があったのです。
私はクリスチャンの家族の中で育ちましたが、長い間本当の神様の愛に触れることが出来ずに過ごしていました。思春期には、自分が誰かに愛されている訳が無いと思い込み、自分には価値が無い、自分は醜い、汚い、と自分が憎くて仕方ありませんでした。厳しい父との折り合いも悪く、両親に反発し、いつも心の中で家族を呪っていました。
中学生の頃、私は腕にニードルで彫りを入れるようになりました。自分に対する憎しみが、そこに現れていたと思います。高校生になってもそれは続いていました。退廃的な雰囲気が濃くなっていきました。自分が何故生きているのかが分からず、生きることが苦しくて仕方ありませんでした。
しかし、私はイエス様の愛に出会いました。兄の奉仕する教会の夏のキャンプを通して神様の御手が,他の誰でもない私の為に働いて下さる事を知ったのです。 自分は「生きている」のではなく、 「生かされている」。私は神様に愛されているという事を心で感じました。十字架の愛は、他の誰かの為ではなく、私自身を救う私への愛だということを知った時、自分を憎む事が神様の愛を裏切る事だと気付かされました。不完全で、弱い私をそのまま愛してくださる神様は、完璧になってから来なさいとは言わないのです。私がどんなに神様が遠くても、手を差し伸べて「私の所に来なさい」とおっしゃって下さいます。傷だらけで、暗く沈んだ目をしていたとしても、それでも「来なさい」とみもとに抱き寄せて下さいました。自傷行為という行いでイエス様を悲しませることはもうしない、と私は心に決めました。そして今に至るまで度々その誘惑に囁き掛けられる事はありますが、イエス様の十字架を思うと、とてもそんなことは出来ません。「あなたが尊いから、私は十字架で死んだんだよ。あなたを愛しているんだよ」と、私は自分に否定的になっている時にいつも語りかけてくださいます。
私が自分の腕の傷を見るとき、イエス様の背中の傷を思います。鞭打たれ、皮が裂けて痛々しい身体のイエス様。私の代わりに痛みを受けてくださったイエス様の愛を思い、与えられた身体を、今は大事にしています。
なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。
しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。
エレミヤ書30章15〜17節 -新改訳-
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