Yamato Calvary Chapel
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私たちは聖書を重んじる福音的プロテスタント教会です。「明るく元気でのびのびと」をモットーとしています。
2024年 今年の聖句
私の生きている限りは必ず恵みとあわれみとが
          わたしを追かけてきます。
             (詩篇23篇6節)
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大和カルバリーチャペル
主任牧師:大川 従道・道子
〒242-0029
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TEL:046-200-1010
FAX:046-264-5207
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体験談(証し)
「MISSION POSSIBLE −人にはできないことも神にはできる−」

不動産会社(自営)、野口さん
タイトルからトム・クルーズ主演のアクション映画ミッション・インポシブルを連想された方もおられると思いますが、今回は私の内側に存在する5つの不可能なことが可能に変えられたことをお話ししたいと思います。

1.実は私はクリスチャンが大嫌いでした。子供の頃、未信者の祖父が書いたイエスキリストという子供向けの本から受けたイメージにより、クリスチャンというイメージを作り上げ、その後、思い込みで毛嫌いするようになりました。第一番目の不可能なこと。それはクリスチャンになるということです。(言い換えれば、神を信じることです。)                                   
小学生のころ、近所にアメリカ人が引っ越してきて、英語教室を開いてくださいました。幼少のころからアメリカに対する憧れと英語に興味をもっていたので、私も参加しました。部屋の壁には十字架が掲げられていました。このことが人生最初のキリスト教との出会いです。宣教師であられた英語の先生は、多くのキリスト教の印刷物を下さいましたが、子供ながらにそのことがいやになり何時しか行かなくなるようになりました。
高校一年生になったばかりのころ、再びアメリカ人による無料の英語サークルの話があり、早速申し込みました。頂いた三冊のテキストのうち一番厚いものは新約聖書でした。 再び、英語を媒介にキリスト教との出会いとなりました。そして、今度の先生は、小学生のころお世話になったあの宣教師の先生とは親しいとのこと。先生は、60歳台のGoodson ご夫妻でした。サークルの名はバイブルクラス。参加者は10人前後で私が最年少でした。私は大好きな英語を存分に試せる場を与えられ、欠かさず出席し続け、気がつくと二十歳になっていました。その間に先輩の人たちは次々に洗礼を受けていかれました。
バイブルクラスの洗礼第一号となられた先輩は、ある日曜日、私を教会に連れて行ってくださいました。そこは、大川従道先生の座間キリスト教会で、私は16歳でした。礼拝の後、先輩は私を紹介して下さり、私が自分の名前をお伝えすると、大川先生は今と変わらない笑顔で握手をもって歓迎してくださいました。一年以上も経って次にお訪ねしたとき、礼拝後に先生にご挨拶しました。私が「お久しぶりです。私をお覚えですか?」とお聞きすると、先生はにっこりと「ええ、野口和雄さんですよ」とやわらかく握手をして下さいました。一年以上も前に、しかもたった一回会っただけの人間の名前を瞬時にフルネームで呼んでくださるなんて・・しだいに驚きは感激に変わりました。「何かあったら、必ず大川先生に相談しよう」心に強く思いました。
20歳の誕生日の前日に母親が癌で他界しました。茫然自失の状態が何ヶ月も続きました。ある日ふと3年前の思いが心に戻り、無性に座間教会に行き大川先生にお会いしたくて何のアポもなく飛び込みました。 大川先生は、牧師室に招きいれてくださり、「僕も母親をなくしたばかりなんですよ。辛いよね」と目頭を赤くされました。「でも、人は必ず死んでも天国に行けるのですよ。」とお祈りしてくださいました。
少し気が落ち着いて帰宅した私ですが、お隣は子供の頃からよく遊んでもらったお兄さんのような人で、その人はある新興宗教の幹部だったのです。 母の死後も何かと面倒を見て下さり、いつしか、毎日のようにお邪魔するうちに一緒にお経を唱えるようになり、ついには入信の決心を求められるようになりました。父親に仏壇の購入の許可を求めましたが、父の強硬な反対のため、このことは保留となりました。
バイブルクラスには毎週出席していました。私は、バイブルクラスとその新興宗教の二股をかけるような、神を冒涜するような生活を続けておりました。クラスの中で受洗第3番目の方は、私より10才先輩で、素敵な奥様に恵まれて、奥様も程なく受洗されました。このご夫妻は私を本当の弟のように大切にして下さいました。何度も家庭に招いてくださり、私の悲しみを紛らわせて下さいました。そんなご夫妻ですが、一つだけ私に遠慮されていることを私は知っていました。キリスト教の話をしないことです。
そんな私に、23歳のクリスマスの夜、奇跡がもたらされました。市民コーラスの第九合唱団の公演のその日、ご夫妻は応援に駆けつけて下さいました。公演後、「クリスマスを一緒にお祝いしよう」と、もう夜遅くなっていましたが、ご自宅での食事に招いてくださり、ご夫妻は意を決したような口調で私に尋ねました。「和雄君、今日は特別にお祈りをしてもいいかい?」断る理由などあるはずがありません。ご主人が先ずお祈りを始め、奥様が続きました。すると、奥様は涙にむせび、必死とも思えるほど私のために声を震わせてお祈りして下さるのでした。私の中に巣食っていた氷のようなものが解けていくような感覚を忘れることはできません。帰宅すると、感激で涙が止まりませんでした。キリスト教は、単なる教えではない、愛そのものだ・・その愛が神様なんだ・・心の中に、言葉ではなくあたたかいものが入った瞬間でした。ご夫妻に洗礼を受けたい旨を伝え、ついに座間教会で大川先生から洗礼を授かったのは、2ヵ月後の昭和57年(1982年)2月27日でした。
洗礼の恵みを授かってからは、張り切って教会に通うようになりました。そのうちに礼拝・祈祷会や早天祈祷会だけでは物足りず、教会に入り浸るようになり、大川先生や伝道師の先生方に付きまとう生活へとなってゆきました。 そしてついに学校を辞め献身して神学校に入りたいと願い出ることとなりました。 大川先生は応援してくださり、神学校への道が開かれようとした時、父親からの断絶宣言を受けました。先生と話し合い、父親をつまずかせてはいけないとの判断から進路を再修正し、大川先生のご推薦で、クリスチャン実業家が経営する不動産会社に入社しました。また、大川先生のスタッフを勤める女性と結婚が許されました。

2.結婚後ほどなく、米国領グアム島に、ゴルフ場とリゾートマンション開発の駐在員として、約2年駐在することとなりました。このグアム島で、第2番目の夢のような出来事が起りました。第2番目の不可能。それは伝道師になれなかった罪悪感に対する解決です。そして、その解決によって私の人生の目的が与えられたのです。
グアム着任当時、自分には後ろめたさがありました。献身して神学校に入ることを大川先生はじめ教会員の皆さんに祝っていただいたにもかかわらず、結局、普通のサラリーマンになってしまったことへの罪悪感です。
着任して半年が過ぎた1987年の年明けに、大川先生から連絡が入りました。 4日ほどグアムに来られるというお話でした。 しかも、世界最大の教会を牧会する趙ヨンギ先生のセミナーが目的とのこと。先生のご滞在中の思い出は、私たち夫婦にとって生涯忘れられない宝物でありますが、その中の一日、私たちは趙先生に随行されてこられた純福音教会の長老様ご夫妻を島内観光へとご案内することを仰せ付かりました。その道中、長老様は実業家であられ、事業を神様に捧げ、事業の収益とご自身が趙先生に仕えることにより、伝道に献身しているとの証しを伺いました。お話の全てに天と地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。「ああっ! 献身にはそういう形もあるんだっ!! そして、そういう献身者は確かに絶対に必要だっ!!」 私を苦しめていた罪悪感が木っ端微塵に吹き飛んだ瞬間でした。それ以来、私には人生の明確な目的が与えられたのでした。

3.グアムから帰国後、暫くしてから不動産会社を退職しました。2年ほどして、クリスチャンの知人の兄弟が経営する商社の取引先でフィリッピン巨大財閥が計画するグアム島での大規模リゾート開発を手伝うという話が来ました。「神様はいよいよ、私のお祈りに答えを下さった!!」私は、グアムやマニラに何度も行かせていただき、約1年後に企画が取引先財閥の創始者に承認されました。しかし時は平成3年、バブル崩壊が顕著になり、もはや海外リゾートなどにうつつを抜かす場合ではない状況であることは明白でした。 私は決断し、商社の社長に進言しました。「事業は当分凍結しましょう」 後悔はありませんでした。実際その年を境に、日本経済は泥沼に陥りました。 「ああ、よかった、守られた」と胸を撫で下ろしましたが、現実は一年以上も掛かりっきりの仕事がパーです。しかし、その財閥の創始者の推薦の言葉もいただき、その商社に留まり、貿易の仕事をさせていただくこととなりました。
もともと、海外関連の仕事を志向しておりましたので、商社での仕事は面白く、毎年何回もマニラへ出張する機会が与えられました。現地では、準駐在員として、出張者が来る度に毎晩、深夜までお付き合いすることもしばしばでした。また、マニラを基点に周辺諸国への出張にも頻繁に出ていました。
ある日、台湾出張の朝、事務所を兼ねていたホテルで、前日から突然背中右側に走った激痛が治まらず、咳とともに鮮血を吐きました。病気とは全く無縁と過信していた私は、いまさら出張のキャンセルはできないと、空港に向かったのですが、時折、意識が揺らぐのが認識できました。フライトは2時間半、なんとかなる。飛びたってからいよいよ、痛みは高熱と痺れに発展して、入国書類はペンを握れず左手で書く状況になりました。台北空港では、ソウルから合流した上司が私の状況を見て顔色を変えました。台湾大学病院の救急センターに運び込まれました。レントゲン写真の右肺下三分の一が真っ白だったのです。
翌日、最大の激痛に襲われました。「大丈夫だ!頑張れっ!」気力を奮い立たせましたが、「この次は持たないかな・・」と、意識が有るうちに家内と大川先生に手紙を左手で書き、上司に託しました。(家内には、子供たちが小さいのにごめん。幸せに生きて下さい。天国にはゆっくり来てください。大川先生には、林長老様のようにお手伝いができなくて申し訳ありません。)と記しました。
台湾大学病院で召されてしまったのでは、家内が大変だろうと思い、上司に頼み帰国させていただきました。いよいよ自分はだめかな・・と思い始めた時から、鮮明に旧約聖書の中に記述されている「三人の勇者が暴君により高熱の炉の中に投げ込まれた時、燃え盛る炎の中には常に四人の影が見えていて(この四人目は神様が守っておられたとの意味ですが)、三人には害は及ばなかった」という箇所が繰り返し、繰り返し心の中に浮かび、この言葉に守られていたのでした。それは私に語りかけられるように明確に心の中に聞こえました。
最初に入院した国立病院の担当医は「よく、生きていましたね。」とおっしゃいました。病名は肺梗塞でした。「私の知っている患者は、発病してから一日で亡くなりました。それも、10円玉ほどの大きさの梗塞で。あなたのは、右肺三分の一です。」 更に、梗塞の原因となった血栓が右足に発見され、その病院では処置できないため、大和教会員のお医者様が勤務される聖路加国際病院に転院させていただくことになりました。検査をすると、何と、摘出すべき血栓の詰まった血管から血栓が消えてなくなっていました! このようにして通算2ヶ月間の入院は終りを告げ、命の危機は去りました。この出来事は全て計画されていたかのごとく、絶妙のタイミングで発病し、癒されたのです。それは、私はマニラで、自分の信仰に泥を塗る寸前の危機にあったのですが、あの急病により、回避されたのです。これが第三番目の不可能です。
実は、お恥ずかしいのですが、私は仕事で、頻繁に夜のネオン街に行くことがありました。それでも絶対染まらないように心がけていましたが、病気に見舞われるころは、たがが緩み始めていたのです。そこで、まだ未遂の間に神様はストップをかけて下さったわけなのです。そのころ、心に去来する誘惑の根は、自分の意志だけでは完全に取り除くことができない困難を覚えていましたが、このことで解決が与えられました。

4.元の生活に戻り2年が過ぎようとするある日、マニラに国際電話が入りました。社長からです。「大至急、明日にでも帰ってきてくれ。理由はそのとき話す。」 東京の事務所で、社長は切り出しました。「2ヶ月間だけ、君の保証を貸して欲しい。資金繰りにどうしても必要なんだ。君には絶対迷惑をかけないから頼む。」金融業者との契約日が迫っているようでした。 家内に話したところ、ご家族も知り合いの方でお世話になっているのだから、2ヶ月間協力しましょう。ということになりました。私の自宅は完全に担保に入り、利息も目を疑う条件です。ある貸金業者でした。程なくして、もう一件お願いしたいんだ。同じような業者でした。さらに、あと一件。約束の2ヶ月はとっくに過ぎていました。
1998年9月18日、悪夢の時がやってきました。「今日、手形は落ちない。債権者が押し寄せる前にみんな事務所から早く立ち退くように・・」と社長は立ち去りました。何がなんだか分からずに、その時、東京武道館で開催されていた伝道集会に行き、大川先生に報告しお祈りをしていただきました。
帰宅すると電報が届いていました。「明日中に、保証の全額を弁済すべし」 心に原子爆弾を投下されたような衝撃と動揺が走りました。金額はどうにもなる額ではなく、なす術もなく、明け方まで家内は泣き、私は茫然自失の状態でした。弁護士の見解は、家を取られ、高額な毎月の返済か、自己破産しかないです。と、きっぱりです。絶望に打ちひしがれながらも、必死に出口を求めていると最初の光が与えられました。75歳になる家内のお母さんと、その商社のOBの社長が半分ずつ、たちの悪い業者の分だけは都合してくださると。
結果的に、自己破産は拒否して、返済という いばらの道を選択しました。生活は一変し、家内は早朝から働くこととなり、壮絶な日々が始まりました。私も仕事を選びませんでした。わずかずつ、そして、着実に返済は進みました。三年経つ頃には、不動産の営業の仕事により収入が増えてきましたが、やはり、どうしても憎しみは消えません。消えないどころか、憎しみは炉の炎ように燃え上がりました。そして、また憎しむことに苦しみました。このころの私は、癌と間違えられるほど急速にやせ細り、憎しみで顔は老けて、体調もいつも優れませんでした。クリスチャンはありがたいですね。教会には決して休まず毎週礼拝に出席して、大川先生や副牧師先生にはいったいどれほどお祈りしていただいたでしょうか!!信徒の方も、長老様や何人かの事情を知っている方達が励まして下さいました。
ある日曜日の大川先生の説教の中で、「膨大な負債を王様の権限によって許された男が、人に貸したわずかな額の金を執拗に取り立てて、王様の許しを剥奪された」という話を通し、許すことは神様の御旨であり、祝福の源である、いう聖書のメッセージが妙に心に染みてきました。数日後、帰路の小田急線の車内で、突然、頭の中が真っ白になり涙が止め処もなく流れ始めましたのです。社長を許そう。そう思いました。翌日から、心の中でその社長の祝福を祈りました。一週間くらいすると、心から祈っている自分に気が付きました。本当は社長が一番苦しかったんだ、その分、前よりずっと健康で幸せになってください。そんな祈りです。そして、ほとんど毎日のようにあった耳鳴りや、吐き気、動悸も消えていました。あの悪夢から4年が経とうとするころです。そして、なんと、その出来事があった月から私は次々と良いお客様に出会うことが出来、年末にはその年の最高売上、年間最優秀社員賞を受賞することとなったのです。このことがきっかけで、優秀な仲間達があたえられ、独立することができました。その中の一人が今の私のパートナーです。
独立後、大川先生の東京伝道計画が持ち上がり、礼拝場所探しのお手伝いにも大きな祝福がありました。 その開所式にあたり、家内は「社長さんにもお知らせして、教会の恵みに加わっていただくよう連絡して」と私に言いました。言いようのない、平安が私たちを包みました。そこで、二人で決めました。東京プロテスタント教会に私たちの許しの魂をお捧げしましょう!!」と。倒産の日、9月18日、その社長と再会して握手しました。あの悪夢からちょうど5年後のことでした。こうして神様は、4つ目の不可能を可能として下さいました。「人を許すこと」です。 最も不可能なことでした。

5.そして、この出来事からもう一つボーナスをいただきました。私の会社は、言わば、神様が株主で、祝福が資本ですから、株式会社であっても、“神式会社” であります。そして、第5番目の不可能は、人を愛することです。私は家内と娘達を愛しています。大川先生はじめ教会の方々、仲間たち、好きな人たちを愛することは当たり前です。問題は、全く人間関係がなく、むしろ、ちょっと敬遠したいような人に、見返りを求めず、ご奉仕をすることはできるかという意味で、不可能と申し上げました。
しかし、人には出来ないことも神には出来る。神はそのひとり子をこの世に賜った。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである と、イエス・キリストはその命を人の救いのために捧げられたのです。それでは、救われた私は、何を捧げていけばよいのか?それが、私の献身のテーマ=ビジネスをお捧げし、牧師、伝道師の先生方にお仕えして、先生方のお働きにより人々が救われる、そのことが結果的に人を愛することになると確信できたのです。私はあの当時のまま献身者であり、献身の形態がビジネスなのです。

以上、5つの不可能は、私自身では何一つ変えることのできなかった魂の変化です。三つ子の魂百までのことわざではないですが、生まれ持った我というものは、簡単に変わるものではありません。だからこそ、神様はマイナスとしか思えない出来事にメッセージを託し、神のミッションを担うには不可欠な“魂の変化”を可能とし、そのことを土台に、与えられたミッション、(人生でビジネスを通し神を証して、教会に仕えてゆく)この使命を遂行させていただくという大きなプラスに変えられることを信じております。
今回、お証しの備えを通して、人生を再確認できました。まさに、ここまでの人生の中間決算です。その結果、私はこれまで2つの人生を同時に生きてきたことを発見しました。現実の人生と、信仰の人生です。中間決算書の成績はと申しますと、現実部門=赤字、信仰部門=黒字であります。面白いことは、信仰が黒字で大いに恵まれることになった理由は、現実の混迷と失敗による赤字があったからこそ、それらを通して信仰が育ち、形成された ということです!!さあ、私の人生もいよいよ下半期のスタートです。今度は、信仰部門により、現実部門がしっかり黒字になり、そのことにより与えられた人生の使命達成(MISSION POSSIBLE)を証してゆく所存です。人には出来ないことも、神には出来る であります。 ハレルヤ!! 感謝いたします!

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